国師街道(信州往還) page 3 【廃径】
● 荒川渡河点~朝日峠
原全教の時代は、荒川沿いの小径を歩いたようだが、途中に堰堤が出来、また川の流れも変わった可能性がある現在、川沿いの道は存在しないと思われる。そこでここでは、渡河点から峠の登り口までは現存する植林作業道を辿ることにした。渡河直後の道は荒れた河原の踏跡程度だったが、数十米先でシラベの見事な植林地に入るとしっかりした作業道になった。植林ながらも数十年以上経つとみられるシラベの美林で、雰囲気は良かった。道は河畔から一段上がった右岸に付いていた。川の左岸に大崩壊を遠目に見ると、踏跡があやふやになり、右岸の崖を乗り越えるべく急に二〇米ほど高度を上げた。その先の人工林とは思えないほど美しい緑の絨毯となった苔の森を抜け、小さな流れを二つ渡った。二〇三〇米辺りから川幅が狭まり川沿いの道となったため、岩や倒木で歩き難く、また道も分かり難くなってきた。山腹が通れず靴を濡らすギリギリの水辺を通る箇所もあった。二〇三八米で右岸に出合う支沢は七十米も上流で谷に入ってから、荒川に合流せず十~二十米間隔で並流してくる変わった流れ方で、道は二流の間のヤブっぽい荒地のやや支流側を登っていた。原が「流れが二つに分れた間の平を少し伝うようになる」[5]とした部分に当たるのかもしれない。左の山腹を見上げると、道床が崩落して十数米に渡って宙を走る軌道の線路が見えた。地形図では並走する支沢が荒川に注ぐように見えている二〇五二米で支沢はやっと山に向かい初めた。ここが朝日峠の登り口であった。目前の堰堤を高捲くために道は支沢の左岸を急登した。この支沢の左岸近くと思われる、古い記録でも不確かとされる峠の登り口の判断に苦しむだろうとの予想に反し、堰堤高捲きの踏跡により強制的に登り始めることになったのは幸運だった。約二〇六〇米にある堰堤の右袖まで一〇米ほど登ると、ちょうど軌道跡が袖すれすれかやや埋まるくらいの位置を通過しており、ひしゃげた線路の残骸が半ば土砂に埋もれ顔を覗かせていた。
支沢左岸の踏跡は軌道跡の上方に続いていて、数米ほど上の山腹に堰堤工事の遺物らしい錆びた動力機を見た。他にも金属やプラスチックのゴミがヤブに散らばり目障りだった。さらにやや登った二〇七〇米付近は、自然地形か造成したものか解らないが、苔むしたシラベ植林が美しいちょっとした平地になっていた。この先朝日峠までは、静かな原生林の一本調子の登りである。道も地形も不鮮明で進行方向が分かり難く、薄く断続的で幾つにもバラけた痕跡を丁寧に追いかけて登った。しかし下りに取った場合は、踏跡を捉え続けることはとても難しいだろう。幸い倒木は、ところどころの激しい部分以外はさほど酷くはなかった。二一二〇米付近で整然と並ぶ真っ直ぐな木々の太さや間隔、曲がり方がバラバラになり、ダケカンバが混じってきたので、植林を抜けたようだった。微かな踏跡ではあるが、下生えがなく歩きやすかった。小刻みな電光型もなく、ただ登る踏跡のなか時々斜めに横切る痕跡は、ただの獣道か、旧道の痕跡か判断がつかなかった。ときには多少踏めた感じになったり曖昧になったり、その繰り返しであった。二一八〇米付近で元々顕著でなかった尾根形状が完全に消滅すると、地形特徴のない原生林の斜面をただ真っ直ぐ登るようになった。相変わらず踏まれていると思えば消滅する、断続的で不安定な痕跡だった。どこをどう歩いているのか見当がつかず、半信半疑のままその痕跡を見逃さないよう喰らいついていった。道というより、たまたま木や倒木の少ない歩きやすい部分を繋いで歩いてる感じすらしていた。新たな倒木のたびそうした踏跡ができるためか、複数の断続的な痕跡が並走していた。二三〇〇米辺りで現れる小尾根的な地形に取り付くも、道を歩く感じはなく荒れた原生林に感じた痕跡や雰囲気を頼りにただ上へと登ってる感じだった。明滅する断片的な痕跡があり、電光型の一部かも知れない斜めに登る短い形跡が現れては消えた。
二三六五米付近で小尾根上の倒木が激しくなり、跡地を埋めてヤブのように繁茂する細い若木と相俟って、真っ直ぐ登るのが容易ではなくなった。どれが正しいか分からないが、右に逃げる幾つもの痕跡があった。回り込みつつ二三八〇米まで登ると倒木地帯終わったが、右にずれるように斜めに登るようになった。それまでと同様な断続的で曖昧な痕跡が続いていたので、登り方は変わったがそのルートで正しいように思えた。倒木が終わってから五、六分で左上に見えてきた国境稜線に、見た目に明らかな凹みではないが僅かに弛んでいるのが見えた。余りに小さな弛みなので初めてきた時はそう思えなかったが、そこが朝日峠である。右斜めへの痕跡が弱まり、曖昧な多数の痕跡が真上を目指すようになった。標高にしてほんの十数米登ると、巨大なケルンが積み上げられた二四二一米の朝日峠であった。道標は国師街道を無視して金峰山と大弛峠だけを指し、朝日峠はただの通過点になっていた。
⌚ฺ 荒川渡河点-(25分)-二〇五二米朝日峠登り口-(1分)-堰堤右袖の軌道跡-(1時間)-朝日峠 [2021.9.30, 2022.9.17]
● 朝日峠~大薙沢一九九六米道標
「国師街道の経路推定」の項で述べたように、本来の経路を正確に推定することは出来なかった。ここでは営林署図[23]が示す道筋を地図上に落とし歩いたものが、伐採と倒木で荒廃し明らかな道型が連続することはなかったもの、無歩道地としては概ね歩きやすかったことから、街道跡としてそれをここに記すことにした。また参考に現在の歩道についても付記しておく。
朝日峠の信州側は明確な道は見えないが、たいしたヤブがなく倒木も簡単に跨げるものだけで、ぼんやりした踏跡で下り始めた。数十米進んだ立木にある最初の標識と国有林歩道の道標となる赤ペンキを見る。現在の歩道はやや左寄り、今下る旧道はやや右寄りに並行して下り始めている。旧道といっても道の雰囲気ないしは断片かもしれない不明瞭な踏み分けがあるだけで、道と言えるようなものではなかった。倒木が激しくなってきて痕跡も寸断され分散し、どこが道か不明になってきた。それでも傾斜があるので、下り方向なら先を俯瞰して何となく方向を定めることができた。二三八〇米あたりで倒木帯を抜け伐採後の二次林に入った。左寄りに一直線に下る木の疎らな帯のような地帯が出てくるが、それは伐採当時の搬出ケーブル跡であり道ではない。伐採跡地にヤブのように乱雑に自然発生したシラベ林は、道の痕跡もなく、さらに倒木がまた増えてきて下ることすら難渋するようになった。旧道はほぼ真っすぐ下っていたと思われるので、これといった目標もないまま単に直下を目指し、不成績のヤブ的な植林を漕ぎ下った。一時、地形図に載らない小さなガレ窪が右に沿う様になった。そこまで成長していないが小さな水流跡が現れたりすると、それも利用してとにかく下を目指した。二次林帯を下り始めて三十分以上経ち嫌になってこた頃、作業林道跡にポッと飛び出した。一米ほどの白い樹脂杭が傾いて立ち、何かの目印にと横浜市保存飲料缶の空缶が掛けてあった。昭和五十六年発売の製品なのでそれ以後の設置と思うが、当時はまだもう少し道が分かる状態でここを通過していたのだろうか。
この作業林道は川上牧丘林道の二一一二独標から来るものだが、周囲の木の成長により今では人が通るにも場所によっては掻き分けていくほどになっていた。調べてみると作業林道の東側はすぐ三、四十米先が終点になっていて、また西側約百米には現在の巡視道の登り口があった。林道周辺は密生したシャクナゲと低いシラベの身動きがとれないほどの激しいヤブで、林道終点から先へ行ったり林道から下ったりする一切の痕跡が見つけられなかった。周辺を網羅的に探索した結果、林道終点の北東約七十米の位置に漸く道の続きらしい比較的明瞭な踏跡を見つけることが出来た。伐採はこの林道周辺の上側に限られていたため、下方の自然林では踏跡がまだ残っていたのであろう。見つけた道の続きの位置と「横浜市保存飲料缶」の位置はやや繋がりが悪い感があるのは、作業林道の開通に合わせて林道終点に出るよう道筋が変わったためかも知れない。結局、作業林道終点から踏跡回復点までの僅か七十米ほどの道なき道を、倒木と低いシャクナゲを越えて行くしかなかった。すぐ向こうに見える場所まで数分を掛けて進んだ。
踏跡に出たのは二一六五米の地点であった。高山性の天然林の気持ちいい森を、多少不鮮明だが分かるには分かる程度の道を辿って下り、すぐに川上牧丘林道の二一二〇米の地点に出た。ただし車道の両脇はヤブ化しているので、車道からこの道を認識することは出来ない。再び下方の密ヤブに飛び込むが、あいにくヘアピンカーブですぐ下にも車道があるので、ヤブ的で雰囲気の悪い細木の二次林が待ち受けていた。そこを痕跡に従って下り、また密ヤブを突破してヘアピン下側の車道に出た。二一〇五米の地点であった。横断してすぐまた車道下のヤブに飛び込むと、約十米先で踏跡が現れた。ある程度踏まれた小径で、見下ろすと幾つかに分かれた踏跡が苔の森を一直線に谷へと降りていた。一筋の明瞭な道ではないので登ったきた場合は迷うかもしれないが、方向的には単純に上下に真っ直ぐ行くだけである。この一帯は信州側で自然が手つかずに残る随一の美しい森林だ。谷までの中間の二〇五〇米辺りで踏跡が右にトラバース気味になり戸惑ったが、次第に左に見え始めてきた微小窪地形に沿って真っ直ぐ下ると、また曖昧な痕跡が回復してきた。これといって尾根や谷がない特徴の乏しい斜面なので、道の位置が今ひとつ安定しない感じがあった。
二〇二五米辺りで大薙沢に近づくと倒木が増加、歩くに支障はないが踏跡の乱れが拡大し正道の判断が付かなくなった。何度か歩いたが、結論としては大薙沢の両岸とも踏跡があり、適当な箇所で最終的に左岸を行く現在の巡視道に移ればよい。営林署の森林基本図では林班界が大薙沢を離れる二〇一五米で左岸に渡るようになっているが[23]、ここでは取り敢えず原全教の頃と同じと推測される、右岸をさらに下る道筋を取ってみる。沢沿いは地形的には歩きやすく、不鮮明な踏跡を拾いながら苔の森を下り、一九九七米で大薙沢の小さな流れを左岸に渡った。ちょうど右岸が急になり左岸が開けてきて、踏跡の感じでそこを渡ると感じられる場所だ。右岸に目立たないがよく見ると「保安林」の看板が落ちていた。左岸側の流れの脇に一九九六米のちょっとした開けた場所があり、「沢左岸を行く」とした古い表示板が落ちていた。今下ってきた旧道が廃道となった後、左岸の巡視道を行く前提で作られた表示である。
⌚ฺ 朝日峠-(40分)-作業林道終点付近-(10分)-川上牧丘林道二一二〇米-(2分)-川上牧丘林道二一〇五米-(15分)-大薙沢一九九六米道標 [2022.9.17]
【巡視道を降りる場合】
不鮮明な旧道の代わりに、曲がりなりにも整備された営林用巡視道を通る場合についても記しておく。このルートは、営林署の赤スプレー、要所ごとの表示が整備されているが、それでも道の荒廃が進んでいるため、現時点ではバリエーションルート相当と言える。地形的にも判断が難しいため、地図さえあれば何とでもできる方以外には、お勧めはできない。
朝日峠から数十米北行したところに、立木の幹に赤スプレーが吹き付けられ、図説入の表示板が設置されていた。なかなか分かりにくい道だが、とにかくこれを忠実に辿って植林地を抜けていけば良いのである。道はあまり明瞭でなく、赤スプレーを探しながら下り始める。しばらくで倒木を避ける赤矢印を見るが、多数の倒木のうちここだけ回避する誘導があるのは、まだここしか倒木がなかった相当古い時代の印のようだ。途中に「廃道コース」との表示を見たので、一連の表示板は営林署正規のものでなく登山者が付けたもののようだ。道はあるにはあるが常に不明瞭で、時々立木の幹にあるほぼ消えかかった薄い赤色のスプレーを目を凝らして探しながら、適当に森を下る感じにすら思えてくる。二三三〇米付近でしばらく索道跡のダケカンバ帯に入りワイヤーを見るあたり、多少歩きやすくなる。使い切ったスプレー缶が落ちているのを見る。道を示す表示板も変わらず時々現れ、稀にテープが巻かれた箇所もあった。伐採跡の細い二次林になってほぼ直線的に下るとまたスプレー缶が落ちていて、「9709」とあるのは一九九七年を意味するのだろうか、二十数年前のマーキングとすれば納得がいく。不鮮明な踏跡は時々分かれもするが、赤スプレーと看板さえ見失わなければ心配はない。そのこうするうち二一六〇米で突然作業林道に飛び出した。登ってきた場合はヤブ奥の一つ目の表示板が目印になるが、気づき難い。訪問時点ではその先の作業車道が大きな倒木で塞がれていて、またピンクテープが取り付けられていたので、これらがきっかけとなり気づくこともできそうだ。
作業車道の両側は低木が成長してヤブのようになり、掻き分けながら林道を約二百米緩く下る。途中右手のヤブの奥に、廃小屋の屋根や建材、陶器か碍子の破片を見た。伐採当時の拠点だったようだ。二一四五米の急カーブで作業林道は川上牧丘林道を目指して向きを変えるが、ここにも川上牧丘林道、廃作業林道、巡視道のややこしい位置関係を図示したシリーズ物の表示板が落ちていたが、汚損して読み取り難くなっていた。もしそのまま廃作業林道を数分下れば、川上牧丘林道の二一一二米ヘアピンカーブに出ることができる。この廃林道のカーブから谷へ急下する道かも分からぬ切り拓きは、伐採時の索道跡である。巡視道はこれを使って涸れた大薙沢に下り、左岸の作業道に繋げている。多少踏まれた痕跡を辿ると、テープやスプレーに誘導されて二一二五米で大薙沢左岸道に合流する。
あとは単純に大薙沢左岸の多少不鮮明な踏跡を赤スプレーに注意しながら下るだけである。ときどき巻かれたテープや白プラ杭が見られ、作業道らしい雰囲気が出てくる。二〇七〇米付近左側の五四林班ち小班は、伐採全盛期に植物群落保護林として保残されたきれいな森で、その名残であるのかテープを巻いた木や白プラ杭が幾つもあり、多くの木にナンバープレートが打たれていた。大薙沢右岸にあるピンクテープと白プラ杭は、恐らく川上牧丘林道から来る調査用の踏跡を示すものであろう。今では曖昧になっているが、これを使えば二一一二独標のカープからここまで五分で下って来れる。沢からやや高い位置に付いた多少不明瞭な左岸道を赤スプレーを目印に下る途中、沢には小さな水流が見え始める。道が短い区間だが幼樹のヤブを潜ると、直後に小さく開けた場所がある。ここが旧道分岐と推測される一九九六米の「沢左岸を行く」表示地点である。
⌚ฺ 朝日峠-(←40分)-作業林道二一六〇米付近-(←7分)-作業林道二一四五米カーブ-(←3分)-大薙沢左岸道に合流-(←20分)-大薙沢一九九六米道標 [2022.9.11, 2022.9.17](実際に通行した登り方向の時間を表示)
● 大薙沢一九九六米道標~東股沢一六七〇米の橋
実は一九九六米の大薙沢左岸小広場からほんの四、五十米のところに、東股沢の伐採林道終点がある。しかしそこまでの僅かな区間は、ヤブと荒廃で道の痕跡がほぼ消滅し、消えかかった二、三の小さなスプレー痕以外に目印がないという、現時点では最難関の区間になっている。小広場から下り気味に左へ向かうとすぐガレた水流痕に出るのでそれを少し下り、とらえどころのはっきりしない左にヤブに突っ込んで、重要な目標となる二、三米の幼樹ヤブのやや高い木に打ち付けられた表示板を探した。「朝日峠、廻目平、(大薙沢経由)」としてあるが、現状ヤブの中に設置されていて指す方向に全く道はない。この表示板は登ってきた時見える向きに付いていて、その日の朝見たのであることを知っていた。そしてここが東股沢伐採林道の終点であり、深いヤブをしっかり確認すると、大薙沢左岸の高い位置を一直線に下る痕跡を見つけることができる。登りでここに来た場合は、一帯はすっかりヤブ化していて表示の指す方向は猛烈なヤブとなるが、方向として間違っている訳ではなく、ヤブを越えるとガレた水流痕となり、小さなスプレー痕を唯一の手掛かりとして小広場に抜けるのである。
この伐採林道終点から林道跡を下るが、あまりのヤブの酷さにすぐ脇の森を適当に歩いた方が良いかと思うほどだった。この車道は旧歩道の上に敷かれたらしく、しばらくこれを歩かざるを得なかったが、一九六七米で偶然と思うが林道跡のヤブが薄くなり、数米右の歩道に移ることができる。登ってきた場合は赤スプレーの指示があるが下りは特に指示がない。現れた歩道はよくある廃道同様の何とか使える程度の道で、数十米も行くとスプレーの表示によって左折し、林道跡に戻された。この区間だけ古い道が車道と重複せず残ったのであろう。そこには左からガレ沢が来ていて、しばらく林道跡とガレ沢が一体化した空間を真っ直ぐ下った。いつまでもそのまま行ってはダメだろうと注意しつつ進むと、窪に入って数十米で消えそうな車道跡が左に入っていくのが見えた。ここは一九三五米の地点で、最新の地形図に示される林道の終点である。地形図とはうらはらにこの地点でも林道は完全な廃道で、流失したり山に一体化したりと道として使用できる状態ではない。その十数米先、ガレ沢に僅かな水が見え始めた辺りの左に木の高い位置に打ち付けられた道標を見て、歩道に復帰した。登ってきた時はここからガレ窪を進んでいいのか迷うところだが、窪に沿う赤スプレーを見ればそれと分かる。すぐに遺棄された酒瓶と一斗缶を見て、なお踏跡を数十米下ると、理想的な休場があった。場所は一九〇五米変則三股上の一九二五米の高台で、静かな森の中に緩やかな小川が流れ、それが滝となって三股の右股に落ちていた。小さな踏跡で尾根の先端のような急斜面を下ると、一九〇五米変則三股に降り立った。地形図にある二本の沢の他、ちょうどそこに滝となって落ち込んでくる先程の小川を合わせて三股となる。
ここもまたヤブの中に道が消え戸惑うところだが、ヤブか河原を適当に三十米ほど行くと一度林道跡のような箇所に出た。荒廃しほぼ失われた林道の断片をここで横切り、踏跡は大薙沢左岸の森の高みを下っていた。一八八〇米辺りで左の山腹が急に低くなり、左から来た小沢が大薙沢と同じ谷を並行して流れるようになった。落ち着いた森は伐採跡らしい荒廃した幼樹のヤブになるので、痕跡を繋ぎつつその小沢左岸のヤブの薄い方に逃げた。
小沢を渡る辺りから踏跡がまた見えるようになった。小沢に沿って行く一八七〇米付近の平らなところで、廃トタンの破片、廃タイヤ、廃ワイヤを見た。小沢の左岸、大薙沢と小沢の低い中間尾根のどちらも踏まれていてどちらが道とも言えなかったが、一八五五米辺りから車道跡と認識できる道型が見え出し、この再び現れた伐採林道跡で小沢の左岸を下った。並走してきた小沢が大薙沢へ合流してすぐ、一八四〇米に堰堤を見た。その先の崩壊で林道が消えたが、容易に越えると一旦回復した。
崩壊の数十米先、一八二一米で林道跡が突然直角に左折した。合理的に歩くなら林道を捨て大薙沢左岸の踏跡を行くほうが早いが、ここは原全教が示した旧道の道筋を辿ることとする。なお大薙沢左岸踏跡は、踏跡不明瞭ながらヤブはなく地形的にも歩きやすいうえマーキングもあるので、伐採作業道として使われていたのかも知れない。特に古道にこだわりがないなら、むしろそちらをお勧めしたい。林道跡を約五十米行くと二二一八独標の方から来る激しくガレて伏流した沢に出て、林道は流失していた。右岸に多少残る林道断片を追うとピンクのマーキングがあるが、これはガレ沢奥の伐採地へ続くもので、国師街道とは関係ない。微流のガレ沢を約五十米進むと、土管が落ちている地点で左岸に渡っていた。それに取り付いてマーキングを見ながら約八十米ほど進むと、林道跡は沢に下って消滅していた。開設当時の林道はここでガレた伏流の沢、大薙沢、魚留沢と続けて渡って川上牧丘林道に合流していたことは、廃道化したこの林道を未だに掲載している現在の地形図を見れば分かる。マーキングはその旧林道沿いに川上牧丘林道へと続くので追ってはいけない。峠道は林道を離れなお下るが、今歩いている伏流の沢は伐採地でもあり両岸とも自由に歩け、道の位置は特定困難であった。取り敢えずそのまま伏流の沢の左岸の踏跡を下り、一七七〇米あたりの大薙沢への合流点に至った。伏流のためどこで合流しているかははっきりしなかった。なお一八二一米の林道が直角に曲がった地点から大薙沢左岸沿いに営林用作業踏跡で近道してきた場合はここで峠道に出合い、道としてはその方が早いし歩きやすい。
ここから一七四五米付近の旧道の橋があった地点までは、堰堤をかわすため旧道を離れて歩かざるを得ない。本来の道はこのまま旧道の橋まで大薙沢の左岸を辿るのだが、行ってみると一七六〇米の堰堤が左岸の崖に直接接続していて下れなくなっていた。そこでここから大薙沢、魚留沢の二流とその分流らしい二、三の小流を、全体で幅約六十米の谷の左岸まで立て続けに渡った。当日の水量は飛石をうまく使えばギリギリ靴を濡らさず渡れるほどであった。堰堤右岸脇に「平成14年度東股沢谷止」の銘板があり、そこからピンクテープの踏跡が登っていた。踏跡は二〇米上を通る川上牧丘林道の一七八〇米付近、かつての臼田営林署川上製品事業所のところから降りてくるものである。この先、右からヤキウ沢が近づくと谷はいよいよ広く、百米前後の幅になった。作業車道跡や何かの敷地らしい跡などが散見され、どこでも歩けそうな平坦な植林地に幾筋も踏跡が付いていた。大きな谷の中でヤキウ沢もどこで合流するか迷うようにしばらく並走し、一七一二米付近で急に並走をやめ東股沢に合流していた。適当な踏跡を見つけて進むと、右からワゴノ沢が入ってくるが、一六九三米の堰堤上の堆積で沢が埋まり平原状になったそこに流入しているので、洪水のように水浸しとなった一角で合流点が不明のまま何気なく合流していた。すぐ前方に見えてくる車道が川上牧丘林道で、一六九一米で合流した。合流点には「金峰山国有林」の大看板と、昭和三十四年ガイドで「新しいきれいな」と評された臼田営林署小屋跡の大きな更地がある[15]。車道を少し下った一六七〇米に東股沢の橋があり、道は左岸に渡り舗装道路となって川端下へ続いている。
⌚ฺ 大薙沢一九九六米道標-(25分)-一九〇五米変則三股-(35分)-一七六〇米堰堤-(20分)-川上牧丘林道一六九一米-(2分)-東股沢の橋 [2022.9.11]
【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)
- 荒川の2060m堰堤右岸で、奥千丈軌道跡と交差。この地点へは川上牧丘林道からも廃林道と踏跡により到達可能。
- 朝日峠で、奥秩父主脈縦走路と交差
- 2170m付近で、川上牧丘林道2112mから来る廃林道と交差。この地点へは同林道2265mから来る不明瞭な踏跡でも到達可能。
- 2120m付近で、川上牧丘林道と交差
- 2105m付近で、川上牧丘林道と交差
- 1800m付近で、川上牧丘林道1790m付近から来る廃林道と交差
- 1760m堰堤右岸で、臼田営林署川上製品事業所跡(川上牧丘林道1790m付近)から来る作業道が合流