根利山古道(庚申七滝~砥沢) page 1 【廃径】一部は一般可
足尾の銀山平から六林班峠を越えて砥沢へ、さらに源公平、平滝などへ伸びる明治時代に拓かれ昭和十年代まで使われた林道(林業用の作業道)は、廃道の定番コースとしてよく知られている。私の所属する山岳会の大先輩、岡田敏夫氏が、昭和五、六十年代に歩いた六林班峠~砥沢の略図と道の様子を報告しておられるし[1]、銀山平~六林班峠も古い地形図に経路が記入されている。さらに増田宏氏は平成十六~七年に通行した貴重な記録を、研究書の中で発表しておられる[2]。増田氏は廃道後六十余年後に辛うじて通行可能だったとしていることから、約八十年後に当たる今でも何とか行けるのではと予想し、先輩方の歩みを真似てみることにした。
この道は、足尾銅山で用いる坑木を始めとする大量の建築・作業資材としての木材を供給するため、事業主の古河鉱業が足尾の裏山に当たる上州側の山深くに幾つもの町を建設し、大規模な伐採事業を展開したのに先立ち、必要なインフラ整備(町の開設、索道建設など)のため作設されたものである。そのうち銀山平と砥沢を結ぶ重要な経路(ここでは増田氏に倣い「根利山古道」と呼ぶ)を歩いてみた。
【古河鉱業の営林事業】
足尾銅山を経営した古河鉱業の伐採事業の概要については、多くの文献が出版されているので詳細は略するが、明治三十一年に赤城根村砥沢に根利林業所を開設、道を拓き、町を建設し、索道を架ける所から始まった。同三十四年に根利山国有林八六〇〇町歩(後年追加分含む)を借受け、泙川の私有林三三〇〇町歩を買収、足尾銅山用材の伐採事業が開始された。並行して銀山平から索道の開設を進め、同三十五年に権兵衛、三十七年に砥沢、三十八年に源公平、三十九年に平滝まで伸ばし、順次これらの町の学校、医療など生活インフラの整備を進めた[3]。更に支線を伸ばし順調に事業を拡大したが、昭和十三年に突如全山を引き払って撤退、十四年八月に残務整理を終えると砥沢の林業所も閉鎖された。
突然の撤退理由は明らかでない。ほとんどの資料が木を切り尽くしたためとしているが、根拠となる文献や資料が示されておらず、聞きかじった話の域を出ていないように思える。と言うのも、根利林業所は伐採地への精力的な植林を行っており、伐採開始から撤退までの三十四年間で、一般的な営林であれば間伐により用材が収穫できるし、あと十年も経てば再伐採の可能性があるからである。では、真の撤退理由は何であろうか。唯一の学術調査と言える、地元の足尾町文化財調査委員会の調査資料では、銅山の縮小、合理化により用材の需要が減少したから、としている。営林を知る者には、納得の行く理由である。根利山のような険しい山地では、搬出の手間を考えると伐り尽くすとは考えにくく、費用対効果を考え、経済的に見合うところだけ切ってお終いにするのが、営林の常識である。当時の情勢では、金さえ出せば用材は十分調達できた。銅山での需要も勢いがなくなったので、費用をかけて大規模に伐り出すより、必要な分だけ購入し、職員を当時人員の逼迫が激しかった鉱山に回そうと考えるのが、普通であろう。昭和十年代の足尾銅山は、国家からの要求にもかかわらず思うように生産が伸びず、人海戦術で何とか乗り切ろうとしていた苦しい時期だったのである。
古河鉱業撤退直後の、昭和十八年度立案の東京営林局沼田営林署の施行案説明書[4]および、同三十年頃の経営案説明書[5]から、古河鉱業の興味深い営林の実態が見えてくる。栗原川中~上流の植林時期については、明治二十九年以降とされている。沼田営林署による再伐採を受けた栗原川流域についてはそれ以前の資料がなく不明だが、現在見事な自然林となった中小屋峠から津室に掛けての二次林は、明治二十九年の伐採時の天然更新であることが、沼田事業図[6]からも読み取れる。明治三十一年の根利林業所設立の二年前から伐採が行われていたことになる。間違いではと思ったが、大間々事業図[7]にも、銀山平の奥、一の鳥居付近の庚申川両岸の明治二十五年の伐採を示唆する記載が見られた。根利林業所は、索道がなかった開設当初、木炭や薪を産出していたという[8]。この伐採が古河関係であることを示す証拠は見つかっておらず、あくまで推測に過ぎないが、本格的な伐採以前に、人力による林産物の生産を始めていた可能性が考えられる。なお貸地もしくは立木販売等により、地区内の伐採が完全に自由になったのは、明治三十四年からとされている[3]。
伐採地には、栗原川中、上流ではヒノキ、カラマツが植林され、カラマツは良好だが、ヒノキは適木・適地でなく概して不成績と、営林署は古河鉱業の造林の不備を断じている[4,5]。確かに今年(令和元年)見た津室の上の北斜面のヒノキ植林の生育状態は酷く、大正七年、すなわち百年前に植栽されたのにせいぜい三十数年生にしか見えない不成績ぶりである。栗原川上流のアカマツも同様に、不健全な林相を呈しているとされた。例えば、現在も泙川流域の丸山峠付近で見るアカマツは、植林というより雑木に混じって生えたただの自然木にしか見えない。この様な古河の失策も、沼田営林署の再伐採により、現在栗原川中、上流域では姿を消している。一方、栗原川の下流から中流にかけては、植林、天然更新とも生育が良かったといい、その片鱗は今でも円覚付近の素晴らしい二次林に見て取れる。
古河の造林技術の稚拙さに対し、索道技術が非常に優れていたことは、営林署も暗に認めている[4,5]。古河の技術は、明治時代とは言え世界最先端のものをベースにし、それを古河の技師がさらに改良したものであるから、当然だった。古河から栗原川の森林の返還を受けた営林署は、昭和二十年代になり本格的に事業開始を模索するも、円覚付近の断崖が障害となり、車道の栗原川林道建設は遅々として進展しないことを、説明書中に白状している。営林署の索道技術はまだ発展途上にあり、十粁に及ぶ長距離索道を通す技術が普及したのは、昭和三十年代後半以降のことである。古河が遺した二千三百ヘクタールの植林地に手が付けられず、指をくわえて見ているしかなかった。
銀山平から砥沢を経て追貝を結ぶ古河の道は、山林の返還を受け直ちに、営林署の歩道として設定された[4]。例えば古河鉱業が砥沢を去ったその年に、四〇七五米の砥沢林道(歩道、幅一・〇米)が設定されている。その区間は不明だが、距離と名称から見て、砥沢~六林班峠の部分と思われる。同様に、小森林道(距離四〇〇〇米、幅一・二米、追貝~小森か?)、円覚林道(距離七六六九米、幅〇・九米、小森~砥沢か?)が設定されたようだ。根利山古道と聞くと人知れず埋もれていた道のように聞こえるが、古河の後は営林署の作業道に引き継がれたのである。
困難を極めた栗原川林道の開設工事も、昭和四十年代にはようやく円覚付近の断崖を越え上流域に到達した。周囲の森林を伐採、植林しながら車道は伸延し、昭和五十五年頃には、伐採はついに六林班峠の直下に達した[6]。明治三十五年に古河の索道が伸びていた権兵衛原動所に営林署の伐採が到達するまで、八十年近くを要したのである。この頃には、古河の遺した古道の役目は車道に置き換えられ、その一部だけが車道から造林の作業場へ向かう連絡路として使われていたと見られる。その証拠に、例えば砥沢上の古道の傍らに、昭和五十五年の植栽を示す札が掲げられている。従って、植林が一段落したこの頃から、古道の使われない部分については劣化が進んだのではないだろうか。
古河撤退後の泙川流域は、栗原川とは異なる経過を辿った。山林は三陸木材工業に売却され、昭和二十六年から古河植林地の再伐採が始まった。三陸木材の伐採は特徴的で、第一にニグラ沢および平滝、津室の線から下流側に限られたこと、第二に全山を伐採せず虫食い的であったことである。つまり泙川の古河植林地のうち、下~中流域の中でも特に生育の良かった部分だけを選択的に伐採したことが窺える。広大な山林のうち伐採に適する面積が少なかったため、入山後僅か十三年で撤退することになったのであろう。平滝道の沿道では、延間峠~中小屋~中小屋峠のカラマツ植林が昭和三十一年、津室~丸山峠の中ほどで現れるカラマツ植林が同三十年の植栽、丸山峠南のミズナラの二次林が同三十七年の伐採、後津室沢源頭のカラマツ植林が同二十九年の植栽、後津室沢中流域が同三十七年の伐採である[6]。これらの事実からして、古河が拓いた平滝道は、三陸木材の作業道として引き継がれたことが示唆される。昭和四十年に沼田営林署の管理下に入るも、以後大掛かりな伐採は行われなかった。広大な所轄を抱える沼田営林署は、根利山では当初栗原川の開発に注力しており、泙川の三陸木材の植林が伐期に入る頃には、木材価格の低迷により経済的に合わなくなったためであろう。
【そもそも古道と言えるのか】
砥沢・津室・平滝の廃墟と索道施設跡に絡めて古道という表現を用いると、古河の撤退以後、顧みられることなく打ち捨てられていた道のように聞こえてしまうが、それは一面的な見方であろう。確かに一部には、一の鳥居~樺平のように全く使われなくなった区間、砥沢~八丁峠のように植林で荒廃したり、不動沢~延間峠のように車道建設で破壊されて、ほぼ消滅した区間もある。しかし、多くの部分は現役の作業道、山道として受け継がれている。
根利山古道(銀山平~砥沢)について言えば、銀山平~一の鳥居の庚申川左岸に付いた「桟道吊橋の数え切れぬ程の連続」する道[13,15,16]は、昭和四十年代の車道開通以後、完全に失われたと思われる。一の鳥居~樺平は古河の根利山撤退後、用途がなくなり廃道となった。昭和二十三年の記事で矢島市郎が「一寸壊れて居(お)ってやや苦しい」が、まだ銀山平から六林班峠、砥沢と通って追貝まで通行可能としていたが[17]、昭和二十九年の記事では、「一の鳥居で左は六林班峠への道、右は庚申山への道と分かれる。六林班峠への道は荒れて通行困難になってしまった。」とされ[16]、一部のガイドに触れられてはいたものの、次第に忘れられていったとみられる。地形的な危険度が高く、現在はもはや一般の通行は困難である。樺平~六林班峠は、荒廃が進んでいるが、一応今でも登山道の位置づけである。六林班峠~砥沢は、沼田営林署(現在は利根沼田森林管理署)の作業道であり、最新の施行実施計画図[9]にも記載された現役の作業道である。ただし昭和五十年代の植栽後はさほど使われておらず、荒廃しつつある。
平滝道(砥沢~平滝)については、栗原川流域の砥沢~延間峠と泙川流域の延間峠~平滝を分けて見る必要がある。栗原川のうち砥沢~八丁峠は、昭和五十年前後の植林地であり[10]、多くの作業踏跡がある。本来の古道は各所の崩壊で使えなくなり、営林署の作業道、根利山会の参拝道が別途開発されたようだ。従って厳密に古道の道を辿れば古道歩きとなるが、完全に消滅したため推定ルートで行く部分もある。八丁峠~不動沢、不動沢~延間峠も同時期の植林なのだが、前者が緩やかな地形のためか比較的古道が残っており、現役の作業道でもある[9]のに対し、後者は古道上に多くの車道(地形図に乗らない無数の作業車道を含む)が造成され、ほぼ消滅してしまった。一方泙川は古河の私有林であっため、第二次大戦前後の一時期を挟んで三陸木材工業に売却され、昭和二十年代後半から三十年代に掛けて再伐採が行われた。この間、営林目的で道が使用されていたと思われ、当時は通行が容易だったようだ。昭和四十年に国有林になると、実質的に目立った施業は行われず、道は荒廃が進んだようだ。当初は、小田倉沢、栗原川源流への釣客の通路となった模様だが、栗原川の車道が開通するとそれも無くなった。しかし散在する植林地の林分管理のためか、施行実施図[9]にはいろいろな作業道が収載されている。延間峠~中小屋~中小屋峠もその一つであり、現役の作業道である。ただし延間峠~中小屋が比較的歩きやすいのに対し、中小屋~中小屋峠は山林の荒廃でほぼ消滅状態である。中小屋峠~津室~丸山峠~平滝は国有林図には示されていないものの、三陸木材時代の道が、所々の消滅区間を含みつつも、辛うじて存続している。時にマーキングテープが見られるのは、さほど遠くない過去に歩かれていた証拠であろう。
【古道の位置】
前項までは根利山全般のことを含め記していたが、ここからは銀山平~砥沢間に限定しての記述なる。明治三十七年に銀山平に土場が開設され、砥沢への索道が架けられた。その索道建設のため拓かれたのが、銀山平~樺平~六林班峠~砥沢の牛馬道である。重い資材の運搬のため、銀山平から六林班峠までを橇に乗せて牛に引かせて運んだという[11]。この地域の初版の五万分の一地形図は明治四十年測図「足尾」および大正元年測図「男体山」である。地形図に示された銀山平から砥沢までの経路は、地形そのものの不正確さのため厳密ではないが、凡その道の付き方がよく示されている。だが国土地理院図の通例に漏れずこの道も廃道化後も長きに渡り地形図に収載されていたが、改版を経て道の位置がますます不正確になった。営林署管轄内の作業道となり、公式には既に存在しない道の位置は、正確に表しようがなかったということだろうか。
足尾側、特に一の鳥居から樺平にかけては、旧版地形図の地形および道の位置の精度が低いため、正確な道の様子が分からない。そこで実際歩いてみて、GPS記録、基盤地図情報から自作した千二百六十五分の一地形図(等高線一米間隔)、現地での地形観察を総合することで、厳密な地形と道の位置を特定した。GPSは地形や森林等の障害物があるとき位置の把握ができなくなるため、特に山岳地帯ではログを鵜呑みにすることが出来ないからである。歩いてみると、道は見事に一定の傾斜を保って作られていたが、図上に落として見ると約七度の傾斜が保たれていることが確認できた。一三一七独標北東鞍部を越えるため、そこだけやや急に登っている。樺平の先も同じ傾斜が続くが、樺平を過ぎて一つ目の小沢から境沢一五四〇米左岸出合支沢までは、緩くなっている。この様な道の付け方により樺平付近の緩斜面を直線的に通ることができ、距離を短くすると共に、保守に手が掛かる急斜面を減らしたと推測される。
足尾側峠道の傾斜(上:庚申七滝~樺平、下:樺平~六林班峠、カシミール3Dで作図) |
【過去の記録】
元来作業道・生活道であったこの古道が登山対象として記録に現れるのは、主として砥沢が廃村となった昭和十四年前後からである。もっとも初めての記録と言えば有名な木暮理太郎の大正八年の皇海山登山記録に含まれるもので、皇海山の下山時後、六林班事務所から銀山平までを通っているが、盛業だった伐採事業の中をただの通路として通っただけであり、注目するほどの記述はない[34]。東京鉄道局の案内冊子に一泊二日の健脚向けハイキングコースとして、小滝から追貝への六林班峠越えのコースが紹介された[12]。根利山古道部分のコースタイムを抜粋すると、銀山平-一時間一〇分-赤岩小屋-三時間二〇分?(印刷不明瞭)-救助小屋-一時間-六林班峠-一時間三〇分-砥沢、となっている。出版された記録としては、昭和十三年の重田盛男[13]、十五年の岩根常太郎[14]、十九年の長谷川末夫[15]のものがある。いずれもコースの詳しい説明は含まれていないが、一の鳥居上で通過する索道の赤岩中継所付近に赤岩小屋があったこと、樺平には二の鳥居があり庚申山への裏参道が通じていたこと、六林班峠の野州側には救助小屋、上州側には営林事務所があったこと、が分かる。残念ながら各人とも庚申山社務所(現庚申山荘)経由で登ったため、一の鳥居~樺平の峠道については報告していない。書籍として広く出版されたものではないが、同十五年の増田武豊の記録も参考になる[18]。一の鳥居から六林班峠への峠道について、「道は緩やかで歩き良く、庚申山中腹を巻き蜿蜒と続いている。根利林業所閉山後一年、鉄索は撤去されていたが、その跡地はところどころ望見され、静寂の台地に眠っている。」と記している。
岡田氏は、昭和五十~六十年代に掛け六林班峠~砥沢を何度か通っており、「道はかなり荒れているが、峠~砥沢間はどうやら歩くことができ、筆者は今でもよく利用している。」と述べている[1]。略図には道の付き方が詳しく示されており、峠から小さな折り返しを交えつつ六林沢(管轄営林署での呼称、登山者は「班」を加え六林班沢と呼ぶことが多い)の一五五八米二股の右股右岸へと斜めに入り、折り返して二股の中間尾根を下ると権兵衛原動所跡を通過、二股手前で左俣を渡りしばらく六林沢の右岸を下降、一四二〇右岸支沢出合上で左岸に渡り返しすぐ車道を横断、沢からやや離れた左岸の高い位置を下り、最後に崩壊地を上または下から巻くとすぐ砥沢に着くとしている。この原動所経由の道は、峠道のサブルートである。
平成六年の石井光造氏の記録[19]では、車道の砥沢橋から六林班峠までを二時間半で登っている。石井氏は余り厳密に旧道を辿っていないが、旧道はかなりの笹ヤブに覆われていたことが窺える。また廃道化した一五五八米二股左俣の右岸道の断片を見たといい、一部で完全に廃道化した峠道の残骸と思われる。平成十三年に砥沢から六林班峠に登った紀行を記した高桑信一氏[20]は、砥沢小屋~権兵衛が不明瞭としている。
増田宏氏の記録[2]は、比較的新しくかつ具体的である。増田氏は平成十六年に、一の鳥居~樺平を三時間、六林班峠まで一時間四十五分、砥沢まで二時間半で歩いている。庚申川左岸を行く部分について、「十数年前に辿った時よりも荒れており、急斜面の危険な横断が多くなってきている。悪場に固定されていた鉄線の大半は古くなって利用できない。」とし、平成元年前後からの十数年で補強の鉄線が傷み危険になっていることを報じている。赤岩停車場の先は、道が不明になり崩壊の先に続きを見つけたり、崩壊を高巻いたりして通過し、ナメ滝の支沢を渡ると樺平の一角に掛かり、庚申山荘からの道に合流、樺平から六林班峠までは整備された道だったとのことだ。砥沢への下りはヤブに覆われた道型が残り、初めは斜めに次には電光型に下り、方向を転じて権兵衛原動所跡を通過、笹深い道は一度右岸に渡り、左岸に渡り返すと、営林署の砥沢小屋の所で車道に出る。更に左岸を下るうち左岸尾根の山腹高く行く明瞭な道になり、崩壊地を下巻きでやり過ごすとすぐ砥沢に着いたという。
この増田氏の報告を受けてか、それ以後熱心な登山者による活発な古道探索活動がホームページやブログで報告され、登山者間で連鎖的に拡大しているようである。現在閲覧可能な報告のうち、「烏ケ森の住人『日光連山』ひとり山歩き」氏の報告は秀逸な記録である。氏は平成二十七年に六林班峠~砥沢を、厳密ではないが凡そ古道に沿って歩き、詳細な記録と付図を発表されている。一方足尾側については、現在一般登山道として使われていない庚申七滝(一の鳥居上)~樺平の区間の一部を歩いた、平成二十七年の二件のブログが見つかった(詳細を示さぬ理由は後述)。
[1]岡田敏夫『足尾山塊の沢』白山書房、昭和六十三年、九一、一〇九頁。
[2]増田宏『皇海山と足尾山塊』白山書房、平成二十五年、「根利山の古道」二三九~二四九頁。
[3]足尾町文化財調査委員会「足尾の産業遺跡③ 長大な砥沢索道(第11索道)」(『広報あしお』平成十四年三月号、一〇~一一頁)、平成十四年。
[4]東京営林局『昭和一八年度第四次検訂根利事業区施業案説明書 実行期間昭和二十年度~二十九年度』、昭和十八年。
[5]表紙欠損のため不明(前橋営林局沼田営林署『利根経営計画区第1次経営計画書』、昭和三十年頃 と推定)。
[6]前橋営林局沼田営林署『奥利根地域施行計画区 沼田事業図 第4次計画』、昭和五十五年度、追貝(A)(全14片中第6片)。
[7]前橋営林局大間々営林署『奥利根地域施行計画区 大間々事業図 第3次計画』、昭和五十三年度、(全7片中第7片)。
[8]沼田市史編さん委員会『沼田市史 通史編3』、平成十四年、伊藤駿監修「沼田市年表」 。
[9]利根沼田森林管理署『利根上流森林計画区第5次国有林野施行実施計画図』、平成二十七年、追貝(全11片の内第4片)。
[10]前橋営林局沼田営林署『奥利根地域施行計画区 沼田事業図 第4次計画』、昭和五十五年度、追貝(B)(全14片中第7片)。
[11]大東のぶゆき『やまびこ』三二一号、平成二十四年。
[12]東京鉄道局『鍛えよ銃後の秋:山野跋渉!』、昭和十~十五年頃、「六林班峠ハイキング」八~九頁。
[13]熊倉盛男「六林班峠から錫ヶ岳に登る」(『ハイキング』七三号、三一~三三頁)、昭和十三年。
[14]岩根常太郎「庚申山と六林班峠」(『ハイキング』九五号、七七~七九頁)、昭和十五年。
[15]長谷川末夫『汽車が好き、山は友だち』草思社、平成四年、「新婚旅行で日光へ、さらに足尾から庚申山探訪」三一三~三二四頁。
[16]栃木県観光課「足尾庚申山」(『山と高原』二一八号、一一~一二頁)、昭和二十九年。
[17]矢島市郎「奥日光全域の登山ガイド」(『山と渓谷』一一一号、五八~六三頁)、昭和二十三年。
[18]増田武豊・増田宏「足尾山塊・六林班峠への道」(桐生山野研究会会報『回峯』、創刊号)、昭和六十二年。内容は「袈裟丸山・皇海山と足尾山塊」http://akanekopn.web.fc2.com/kesamaru/lokulinpan.htmlにて閲覧可能。
[19]石井光造「六林班峠の廃道を歩く」(『岳人』五五二号、一六六~一六七頁)、平成五年。
[20]高桑信一「足尾山塊索道の径①」(『岳人』六五六、一三六~一四四頁)、平成十四年。
[34]木暮理太郎「皇海山紀行」(「山岳」一六巻三号、二〇~三四頁)、大正十二年。