会所越(通称コレイ峠)page 1 【廃径】

 会所(カイショ)とは、上州神流川支流中ノ沢の中之沢から南佐久の三川(ミカワ)へと越す峠の名であり、途中、茶屋ノ平道で弥次ノ平林道を北へ下れば栗生にも通じている。不正確ながらもおおよその道筋が地形図に示されており、中之沢集落から品塩山、ブンキガ小屋ノ頭の西を絡み、扇平付近で釜ヶ沢を渡って中ノ沢・釜ヶ沢中間尾根に取り付き、石仏ノ頭(一九一六・〇米、三角点「会所」)と扇平峰(一八四七独標)の間の一六九〇米圏鞍部付近で上信国旗を越え、茶屋ノ平で三川・栗生川中間尾根に乗り、そこから一気にヌクイノ窪を下って大黒沢に合し、三川に沿って奥三川を経て三川集落まで下っている。この道はかつては馬が通った道だったという。

 

【創成期の峠道】
 古来上州上野村は、信州・佐久との交流が盛んだった。上野村から鬼石までの神流川は「川丈十三里四十八橋」と言われ[1]、増水などで橋が一つでも破損すると荷車が通行不能となるので、米を中心に佐久への依存が強かった。そもそも西毛や秩父は台地のため利水不良により米作が盛んでなく、甲州や佐久から米を購入していたので、上野村はその通り道になっていたのである[2,3,4]。この交易は第二次大戦前まで続き[3]、中でも中心的な役割を担った十石峠では、多い日で十石(約一・五トン)以上の米が馬背で担ぎ越され[1,2]、白井の米市場に集められた後、近郷に留まらず秩父にまで出荷されていた[53]。この十石峠道が神流川を離れる白井の奥、さらに川沿いに数粁遡ったどんづまりの中之沢に、川中島の戦い(永禄四年〈西暦一五六一年〉)の後、武田勢の一部が住み着いたという[5]。神流川流域を治めていた小幡氏は当時武田の配下にあったので、武田領の佐久と交流が盛んになったことであろう。中之沢では、武田信玄の時代にこの道を使って信州から国境を越えて米を上州へ運んだ[6]と言われ、中之沢に居を構えた一族への物資供給のため、峠道が拓かれたとの憶測ができるかも知れない。
 徳川の治世下、江戸幕府は寛永八年(西暦一六三一年)に白井関を設け、上信間の通行は関所を通過する十石峠、栂峠の道に制限された。さらに正徳四年(西暦一七一四)に御林が設定され、原則的に一般市民の立入りが禁止されたが、交渉の末、山稼で生活する村民の嘆願が聞き入れられ、地元民には御林における一定の生産活動が許可された[7]。地元民の領内通行に限ってとは言え、峠道は引き続き通行が許容され、辛うじて維持されたものと推測される。天保年間(西暦一八三〇~一八四四年)から信州から馬背で米等を輸送していたとの話[6]があるので、国境を中之沢、三川の双方の住民の取引場所として定め、この峠道が使用されたのであろう。峠が「会所」の名で呼ばれるようになったのも、その関係と思われる。また、御林は幕府の命より御用木として伐採されることがあった。明治四十二年の高崎小林区署の「富岡事業区施行按説明書」によれば、宝暦年間(西暦一七五一~一七六四年)、安政年間(西暦一八五四~一八六〇年)に本谷国有林相当地域で大掛かりな伐採があったとの古老の話があるとされ[8]、 また文政年間(西暦一八一八~一八三〇年)に中ノ沢上流で伐り出しが行われたとの口承があり、清水日向沢・石仏沢出合の少し下に御林奉行が山泊に使用した検分小屋と呼ばれる岩穴があった[9]。従って梓山からの秩父奥地の伐採現場への仕送り[10]同様、作業員の生活物資の輸送路として峠道が活用された可能性が考えられる。
 公式な峠道ではなかった会所越は、江戸時代の文書や絵図には全く現れない。一見会所越に見える道は、作図精度が低いため紛らわしく見えるが、全て栂峠道である。しかし明治期に入っても各種図上に会所越えの道は認められず[11]、明治十一年の南佐久郡村誌[12]にも会所越えの道についての記述がない。白井関が廃止された明治二年以降、峠越えを禁ずる理由はなく、村役人も把握していない知る人ぞ知る道であったと思われる。
 しかし峠道は確かに存在していたようだ。原全教が、三川で逗留の便に預かった家のご隠居井上酋吉氏(昭和五年)、近郷に名を馳せた中之沢の猟師仲沢喜六氏(昭和八年)から得た情報[13,14]によれば、明治十三年頃まで信州から馬背で米を背負い越していたという。後に明大ワンダーフォーゲル部の原喜啓も、恐らく中之沢の仲沢祐十郎氏から、明治十四年頃まで馬による米の輸送が行われていたと聞いている[6]。かつて三川源流のヌクイノ窪には往来に利用した小屋があり[9]、さらに恐らく会所の峠上と思われるが会所小屋という小屋があったという[15]。明治三十七年の陸地測量部の記録によれば、中之沢からブンキガ小屋ノ頭の近くを通って会所へ通ずる道があった[15]といい、また三川から会所を経て浜平へ至る道があった[16]ともいう。この記録では上州側の道が中ノ沢、浜平の何れに向かっていたかが不確かだが、釜ヶ沢右岸が中之沢の稼山である[17,18]ことからして、道は基本的に中之沢へ通じていたのであろう。浜平への道があったとすれば、井戸沢を経て品塩山の南で峠道に接続する国有林巡視道[19]のことかも知れない。

【地形図への収載】
 峠道は大正元年測図(同三年刊行)の初刊行の地形図[20]に収載され、世に存在が知れるようになった。大正二年に高畑棟材は、神流川源流近くの三岐で中之沢から信州へ二本の道(発蔵寺峠※と会所)があると聞いた[21]ので、当時まだ地元では峠道の存在が意識されていたようだ。しかし高畑は同十年の再訪時、浜平の宿で峠道の荒廃を耳にし[22]、同十五年に大島亮吉が上栗生を訪れた時も、通行者がなく痕跡もないほどと聞いている[23]。これには、大正十二年、中之沢から北相木へとブドウ峠を越える良い道ができたこと[23]も関係したであろう。また当時、付近には営林署が拓いたと思しき御座山林道(熊穴沢出合~うだの沢~下新井)、弥次ノ平林道(弥次ノ平~丸岩窪~ヌクイノ窪~三川)、丸岩林道(木次原~熊穴沢出合~弥次ノ平~一平沢~丸岩窪出合~栗生)、三国境林道(サブイノ沢出合上~所並ノ頭~梓山)、などがあった[9,23,24]。三川からサブイノ沢出合を経て、ヌクイノ窪を登って弥次ノ平分岐(一六六二独標)に至るまでの間、峠道は弥次ノ平林道に組み込まれていたと見られ、その区間だけは踏まれていたようだ。なお原全教の著書では、沢又ノ窪とサブイノ窪を取り違えて逆にしているので、参照する場合は注意されたい。昭和五年、原全教が三川で聞いたには、信州側は会所までがようやく通行でき上州側は跡形もない状態[13]、また昭和八年に中之沢で聞いたには、中之沢~釜ヶ沢渡沢点までは辛うじて明滅しているが、尾根に取り付いて会所に至る板小屋日向の部分が、たまに猟師が通るくらいで笹に覆われ不明になっていたという。昭和十年代中頃に三川に入った春日俊吉も、宿の老主人に「さァ、歩けるかねえ。荒れてるで。」との言葉を受けている[25]。
 このように特に上州側の荒廃が酷かったため、登山家による実際の通行記録は信州側のものしか見られない。昭和五年、原は三川から弥次ノ平林道を辿って茶屋ノ平先の会所分岐まで歩き、サブイノ沢出合上の三国境林道分岐から茶屋ノ平までを一時間二十分で登っている[18]。また春日は同じ道をさらに会所まで辿り、ヌクイノ窪から会所まで一時間半を要したというので、いずれにせよ道の状態はまずまずだったようだ。会所は目標物もないおよそ峠らしくない所で、春日は気づかず通過し、だいぶ上州側へ下ってしまい引き返したという。実地で見るとまさにその通りで、密林中であの地形を通過した場合、多くの山襞の一つにしか見えず、とても峠とは認識できないだろう。うっかり行き過ぎたということは、会所を越えて上州側へ足を踏み入れても同様の道が続いていたことを示しており、峠付近の高い部分では細道が続いていたが、板小屋日向(釜ヶ沢左岸尾根)を下る部分の笹の繁茂が酷かったことが窺える。この一帯は笹の衰退が進んだ現在でも、部分的にヤブの濃い箇所がある。
 昭和二十一年に木次原から相木川を詰めた大石眞人が、御座山林道、丸岩林道の衰退を報じた[24]ことからして、会所越えの峠道もまた、第二次大戦前後に一層衰退が進んだと見られる。

 

※ブドウ岳北側の一五六一独標の峠。相木側登り口の木次新田(木次原)に「発蔵寺」と呼ばれる寺跡らしき場所があり[24,26]、その名が相木側の窪の名と峠名に付せられている[9]。なお原全教は昭和五年の初回訪問後の著作で「半蔵寺」と表記していた[14]が、恐らく昭和十六年訪問時の情報に基づき、以後の著作では「ハッツォウジ」と変更した。原は漢字表記に確信が持てぬとき聞き取った現地の訛をそのまま表記する場合があり、この場合もそれと思われる。

【営林署の開発と明大隊の成果】
 高度成長期に掛けて、森林開発が活発になった。地形的に穏やかな三川流域はいち早く開発が行われ、臼田営林署は、昭和十九年度に「三川林道」(三川沿いの森林軌道の正式名称)の建設に着手した[27]。二十五年度には、軌道は三川中継土場から北ノ窪の先(現在の南相木ダム水没地)にまで達し[27,28,29,30]、伐採が進んだ[31]。三十年度の時点で、軌道は本線は延長四六九〇米となって三川本谷の一五五〇米圏に達し、北ノ窪にも一四二〇米の支線が延長され、昭和三十六年開通の車道[6]によって、事業は継続された。恐らくこの時期に、所並ノ頭下の三川源流や、舟留下の北ノ窪から会所、石仏ノ頭の下を通り茶屋ノ平に至る区間の、上信国境下を横に結ぶ林道(歩道)[30]が整備されたと見られ、昭和三十七年に明大ワンゲル部がその多くを踏破している[6]。同年、明大ワンゲルの三パーティーが集中登山で会所を目指し[6]、追って確認隊も派遣された[32]。上州側で中之沢~会所が通行可能と聞き会所越の計画を立てたが、実際には道はほぼ消滅していて、辛うじて建設省の雨量計を見て会所の位置を判定する有様だった。信州側では「最近では利用する人もなく、猟師が時たま狩りに行く時使う程度で、途中迄は道はあるが、コレエ峠附近になると道はなくなっているので、他の所と違って難渋する」と聞いており、弥次ノ平林道に組み込まれた区間(三川~一六六二独標)だけが辛うじて通行可能であったことが窺える。そのため集中登山そのものが実質的には偵察になってしまい、その情報を元に確認隊が派遣された。しかし彼らも馬道に近い経路を遮二無二歩いただけで、ヤブに埋もれた峠道を見つけることは出来なかった。
 その貴重な記録によると、中之沢から引矢倉沢に沿う部分には道があったが、現在と同じく、植林地の九〇〇米圏の辺りで途切れていた。一二〇四独標南鞍部を通過する馬道には気づかなかったようだが、当時の地形図の間違いで道がもっと下を通るようになっていたためかもしれない。なお、品塩山の南、一二九五独標のある支尾根が東へと出る地点の少し南(現在の地形図で一三〇〇米圏)で馬道が主尾根の東から西に移るようになっていた当時の地形図の間違いのため、「旧道は途中から西側に下っているのだが全くわからず」と記録しているが、実際には釜ヶ沢側の山腹を行く馬道はその地点を通っていなかった。ブンキガ小屋ノ頭から弓流か大松を釜ヶ沢へと下る途中でも馬道を横断したはずだが、全くそれに気づいていないようだった。現時点でも窪通過部周辺の道型は崩礫や流失で消えており、尤もな話である。釜ヶ沢一一五〇米圏二股の少し下方の右岸、扇平に雨露を凌ぐ程度の猟師小屋を見たが、ここでも道は見つからなかったという。沢を十五分遡って二股に達するも、大橋場[33]と呼ばれる馬道の渡沢点についての言及がなく、そこでも道は消えていたと見られる。彼らは釜ヶ沢上部(現存する「カマガ沢本流観察小屋」付近と推定)に十人ほど泊まれる老小屋を見たので、その付近まで出入りする人がいたと見られ、釜ヶ沢を遡行した別の班が沢沿いに明滅する道らしいものを見たことから、当時の里人はこの踏跡で沢沿いに入山していたのかも知れない。板小屋日向の登り、特に下部は笹ヤブが酷く、密ヤブのため尾根南面山腹をトラバース気味に登る馬道を捉えられなかったこともあってか、釜ヶ沢から会所まで数時間を要している。現在、ルートさえ知っていればここを一時間半強で登れることを思えば、想像を絶するアルバイトである。雨量計で会所の位置を確認したものの上信どちら側にも道は見つからず、大黒沢源頭を下って一六二〇米付近を水平に横切る臼田営林署の作業道[30]に入ったり、一七五四独標の東鞍部から当時始まっていた営林署の大黒沢伐採に伴う搬出用の木馬道を下ったりして、三川へ抜けている。会所から弥次ノ平分岐にかけては、相変わらずの酷いヤブで道は消滅していたと見られ、一六六二独標での弥次ノ平への分岐も消滅していたという。弥次ノ平林道に入ると、ヌクイノ窪を下って大黒沢右岸の営林署作業道を合わせ、大黒沢出合の二百米ほど下流に出合う右岸小沢の地点で完成したばかりの車道に降り、三川の村へ下り着いている。つまりこの時点では、ヌクイノ窪付近の林道はまだ生きていたことになる。

【峠道の再興と荒廃】
 昭和四十年代になると、峠の両側で本格的な伐採が始まった。大黒沢は四十年代後半を中心に皆伐され[31]、その頃には右岸の山腹に作業用の車道が開通していた[34]。国境下の源頭部は石仏ノ頭から会所にかけてが丸裸になり、峠道の茶屋ノ平~会所の区間は、全く使えない状態だったと思われる。営林上は、一〇〇~二〇〇米下の山腹を峠道と水平に付けられた作業道を使えばよいので、古い峠道は必要なくなったのだろう。一方釜ヶ沢では、四十二年にブドウ峠林道(車道)から分岐して中之沢林道(車道)の建設が始まった[8]。生産効率化のため、車道は沢ごとに通さず水平に支沢を結ぶ構造が望まれたため、岩の巣のような中ノ沢流域に長大な水平道を通すには、手の掛かる綿密な現地調査が必要とされた。建設開始以来三十七年を経た平成十六年、車道はようやく中ノ沢・釜ヶ沢流域を反時計回りに品塩山近くまで到達した。車道建設の進捗に合わせ、順次周辺の伐採が進められた。車道予定地の調査から伐採・植林までの一連の作業のため、古い峠道が再建されたものと思われる。それを示す直接証拠は無いが、幾つかの間接的な証拠がある。昭和五十三年の国有林図[19,30]を見ると、長野側には旧峠道の記入がないが、群馬側にはかつて峠道があったのとほぼ同じ位置に作業道が記入されているので、群馬側では峠道が作業道として使用されていたことが示唆される。実際にその作業道を歩いてみると道の仕様が明らかに一般の国有林作業道と異なっており、特に道型の保存が良い部分ではかつての馬道を髣髴とさせる広く緩い道が続いている。笹の密ヤブは道型を良く保存するので、刈り払いさえすれば道は十分使える状態だったと思われ、営林署はわざわざ作業道を新造するより、古道を活用する方針を採ったのであろう。昭和五十年、鈴野藤夫は大木ノ平(扇平)をかつての馬道の渡河点であると述べ、中之沢から扇平付近までの道を付図に示している[33]。
 その後中ノ沢左岸の車道は、昭和四十六年には清水日向沢(地形図では仲ノ沢本谷)[8]に達し、五十三年の国有林図では峠道が通る板小屋日向の尾根の先まで伸延され、尾根では既に伐採が始まっていた[29]。六十二年までに支線が釜ヶ沢右岸のブンキガ小屋ノ頭下にまで伸び[35]、釜ヶ沢の右岸も伐採された[29]。仮に昭和四十年代に峠道が再建されたのが事実としても、植林地が継続的にしっかり手入れされていた様子は訪問時には感じられなかった。五十五年に品塩山北の一二〇四独標南鞍部を通過した二木久夫は、当時繁茂していたヤブもあってか、鞍部を通過する峠道に気づかなかったようだ[36]。ましてや現在、既に五十年近くが経過しているので、地味の悪い急斜面でのカラマツ植林の根付きの悪さを考えれば、かなりの程度で道の荒廃や流失が進んでいることであろう。

【道筋の推定】
 峠道の経路を考えるに当たり、まず地形図に示された道筋を確認しておきたい。比較的明瞭だったヌクイノ窪を登る部分はほぼ地形図通りだが、登り着いた一六六二独標から上州にかけての大部分が不確かである。地形図に見る道筋は改版により五回の変化が認められ、中でも車道開通等の外的要因とは関係なしに、明らかな理由もなく昭和三十七、四十八年の二度に渡り道の位置が変更されていることに注目したい。順を追って見ていこう。
 初期の経路は大正元年測図(同三年刊行)~昭和二十七年応急修正(同年刊行)の五万分一地形図「十石峠」にあるもので、道筋を比較的良く再現していた。測図当時は、約三十年前まで馬が通っていた位なので、道を良く知る村人がおり、道もまだ何とか歩ける程度だったためかも知れない。ただ一ヶ所、品塩山の南で一三三〇米圏峰を東から巻くようになっているが、この点は間違いと思われ、現地の地形を見れば、あり得ない経路であることが理解できるだろう。わざわざ一度稜線を乗越し、岩場と崖が続く一三三〇米圏峰の北から北東に掛けて急登してまで馬道を通す理由が全く見当たらず、技術的にも困難なことだ。
 地形細部の誤りが多かった初回測量の地形図は、恐らく航空測量の成果であろう、昭和三十七年修正(同四十一年刊行)、四十四年資料修正(四十五年刊行)で地形がより正確になった。峠道の経路も、実際の馬道らしき痕跡にある程度近い位置に変わり、一三三〇米圏峰を東巻きする図上の誤った経路は、殆んど無駄な上り下りの無い西巻きに修正された。不思議なのは廃道化して約八十年が経過した時点で、道の位置がより正確になったことである。高崎営林署が中ノ沢流域の開発を視野に入れていた時期と重なるので、先行して古い峠道の再建が行われ、それに伴い正しい経路が明らかになった可能性もある。なお三十七年の修正時に会所の一七〇五米独立標高点が廃止され、四十四年の修正では三川に沿う部分(大黒沢出合の約二百米下流まで)が新造された車道に置き換えられた。
 次の変化は昭和四十八年測量(五十一年刊行)の二万五千分の一地形図「浜平」の時に発生した。この変化は峠道に関しては全くの改悪であり、地形表現がより精緻化したにも関わらず、道は多少だがおかしな位置にずらされてしまった。地形図が示す道筋は、品塩山からブンキガ小屋ノ頭に掛けて崖混じりの尾根直下をトラバースし、続いて釜ヶ沢へと不規則で無駄な上下を交えつつ下り、板小屋日向の尾根筋近くを登り、会所を越えると石仏ノ頭の山頂下まで巻きながら登り、茶屋ノ平へと下っている。釜ヶ沢渡沢点と会所の位置だけは極めて正確であり、厳密な鞍部ではなくほんの僅か石仏ノ頭側に登った緩い斜面にある峠道の通過点が正確に描き出されている。この状況では、尾根乗越と渡沢点のみを確認して、道自体の実査なしに図上に適当な破線を描いた疑いを拭いきれない。この道筋は最新の地形図にも踏襲されているので、廃道となって存在しない道が、しかもかつて存在したのとは違う位置に記入されるという、二重の間違いである。平成二十六年調整の図では、ヌクイノ窪が埋め立てられ車道が付け替えられた部分が改修された。
 ところで道の位置を知る手掛かりとしては、精度の良い昭和三十七年修正の地形図の他、昭和五十三年の国有林図[19,29]が利用できる。浜平から井戸沢を登り、品塩山を経て一三三〇米圏峰の南で峠道に合するブンキガ小屋ノ頭付近までは、峠道ではなく単なる国有林作業道を示しているので参考にならないが、その先、特に板小屋日向を登る部分は峠道がかなり正確に描き出されている。石仏ノ頭の南を巻く部分では道が消滅しているが、茶屋ノ平の少し下から再び道が現れることが分かる。つまり昭和三十七年修正の地形図と昭和五十三年を眺めれば、経路を一定範囲まで絞り込む事ができるのである。

【峠の呼び名について】

 次に峠の名称についての考察を行いたい。前述の様に明治十三年頃まで会所を越えて馬で荷を運んでいたと口承されるが、道に関する当時の公式な記録は見当たらない。同十一年の郡村誌の南相木村の章に、上州への無等道路があり小海村境の川又から白井の村境まで五里とされている[12]が、これは栂峠越の相木道のことであろう。江戸時代に、米が馬背で広瀬から南相木、北相木を経て栂峠越えで運ばれていた[4,37]と云うので、明治初期にも大して変わりなかったと思われるからである。当時の道路には一等、二等、三等の等級があり、佐久甲州街道(現在の国道一四一号)がやっと三等とされ、他の地方道はすべて無等とされていた[12]。明治十年頃、三川から上州への道路計画が頓挫した[12]とされ、ましてや馬道は少なくとも村役場に峠道として認識されるほどのものではなかったと見られる。
 大正二年に神流川源流の村人からこの峠道の存在を聞いた高畑棟材は、同十年に再訪し更なる情報収集を試みたが、人によりまちまちで統一した見解が得られなかった[22]。この時、会所の名称について調査したかは定かでないが、少なくとも確固たる情報は得ていないと見え、信府統記[38]の「これい峠峰通国境十石峠ヨリ辰巳ノ方」(註:コレイ峠は十石峠から上信国境を尾根伝いに南東の方向)の記述と、富士見十三州図[39]が示す中之沢の南西に位置する「コレイ峠」の文字とから、一七〇五独標の名称がコレイ峠と推定したと見られる[22]。
 しかし江戸時代の地図の精度は内陸部では極めて低く、伊能図が海岸線と内陸の主要街道沿いを正しく示した以外は、どの絵図も地点間相互の距離と方角と不正確で、こと人跡稀な神流川源流域に関してはいい加減極まりないものだった。信府統記が記す十石峠の南東方向には実際には国境越えの峠は全く存在せず、南西三粁弱の位置に栂峠が存在するのみである。また富士見十三州図においては、楢原、浜平の位置や神流川を幾度となく渡り返すはずの十石峠街道の描き方もおかしいのだが、上信間の峠道についても、白井関から大日向へ越す十石峠街道と北相木へ越す相木道が、実際は峠近くの水ノ戸で分岐するのに図では白井村中で分岐し、三粁弱の至近距離にある十石峠と栂峠はかなりの距離を隔てて描かれ、紛らわしいことに峠から多少離れた位置に「十石峠」、「コレイ峠」(註:栂峠のこと、この異称が定着した理由は後述)と峠名が記入されている。
 水ノ戸で分かれた相木道は、栂峠を越えて一つは北相木の白岩へ下って甲州に通じ[39]、一つは山巓を通り、親沢、宿渡を経て佐久の東馬流に通じていた[54]。富士見図は峠越え直後に三河田(現在の三川)への道が分岐し、南相木の栗尾(現在の栗生)、和田を経て小海に達している。この南相木の部分は全く実際と違っており、川又近くの小さな乗越で南相木に入り、合羽坂を越えて広瀬に通じておりり[37,55]、純然たる山径を別とすれば、他に両村間の通路があるとすれば大鰭峠くらいなものだった[40]。小海(註:大正八年以前まで村役場があった小海村本村を指す)で北相木道と分かれた南相木への道は、実際には図の中山島(註:現在の中島のことか)で分かれて栗尾と三河田とに達し、幹線道路としては行き止まっている。図の不正確さを考慮すれば、信府統記や富士見十三州図が記す神流川~相木間の通路は、会所越えでなく栂峠越の相木道だと読める。

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富士見十三州図[38]の会所付近

 この見方、すなわち信府統記等の『古文書が記す「コレイ峠」は「栂峠」のことである』との説は、平成二十五年、地元富岡市の郷土史研究家S氏により発表されたものである(ホームページはNOOBOWSYSTEMS LAB.)。S氏は、江戸から明治初期の元禄十四(西暦一七〇一)~元治二年(西暦一八六五年)の八図[18,41-47]を総覧し、コレイ峠が現在の栂峠に相当することを指摘した。この新説は、会所周辺を占める源流域の御林、御巣鷹山[38]に立ち入らずとも相木への通行が可能であり、また複数の絵図に白井~相木が五里(約十九・六粁)と付記され、明治期の郡村誌の北相木村の記述[12]とも良く一致するので、極めて信憑性が高いものである。
 ここに言う相木は、絵図上に描かれた道筋、距離の整合性の両者からして北相木を指しており、郡村誌は、「古来峠」を越えて上野村に通じ、北相木~楢原を六里(二十三・六粁)としている。現在の地形図に古道の道筋を乗せて実測すると約二十三・五粁となるので、距離表現の精度は高い。北相木~白井の実測値は約二十一・〇粁(五・三五里)であり、江戸期の古地図の距離も概ね正しい事が確認される。北相木村は大正八年の馬車道の開通前は、下流の小海に出るにも山越えの細道しかなかったので、江戸末期から明治にかけて物資や産品を馬背で上州まで運ぶことがごく普通に行われていた[26]。下仁田の製紙工場の分工場まであったという。上州・上野村との頻繁な取引は、明治十九年の信越本線開通で佐久経由に置き換わり、峠道は急速に廃れた。これに伴い、馬を生産し荷役で収入を得るという村の産業構造も大きな影響を受けた[26]。
 高畑の誤った推論を受け一般に「コレイ峠」と認識されていた峠に対し、原全教は「会所」の名を示した。根拠は明記されていないが、前述の様に原は昭和五年に三川に逗留しており、その時に聞き取ったものと推測される。明治三十七年の陸地測量部の記録では「会所峠」とされ[16]、明治期に既に会所という呼称が存在していたことが確認される。「会所」とは一般に取引所、集会場を意味するが、佐久・山中領間の取引の記録や伝承では、信州人が例外なく米を馬背で上州まで担ぎ越しており、峠上での取引の話は聞かれない。江戸時代、御巣鷹山や御林見回りのため神流川源流に五ヶ所の番小屋を設け、頻繁に巡視が行われていたので、会所の小屋もまた巡視用の宿泊所であったと推測される[17]。原は昭和十年の著書付図[14]で会所の名を始めて世に知らしめたが、高畑の「コレイ峠」説も否定せずに併記した[18]。勝見勝も「会所平」と呼び[48]、三川で峠道の情報を得て登った春日も同じく「会所平」と記した[25]にも関わらず、低山山岳の第一人者だった高畑の影響力は絶大で、現在に至るまで、以後の殆んどの文献では「コレイ峠」とされてきた。他には昭和三十六年の南相木村誌[37]付図に、「クラミ峠」の呼称が見られるが、名の起源は不詳である。また「会所(平)」の聞き違えと思われる、「会社(平)」の名も一部に出現した。
 ところで「コレイ峠」とは、江戸から明治期に掛けては、現在の「栂峠」を指すものだった。その後生じた誤解により、「会所」が「コレイ峠」と呼ばれるようになった訳だが、本来の「コレイ峠」が「栂峠」に置き換わった経緯はどのようなものなのだろうか。江戸から明治初期に掛け、峠の両側に「栂」に関わる地名は皆無である。また昭和初期の文献では地蔵峠[18]、山中峠[18]、相木峠[23]の名もあったというので、いずれにせよ安定した名称が存在しなかったことが窺える。栂峠の名が初めて現われたのは大正四年の地形図[20]である。明治十一年の北相木村郡村誌では「古来峠」であったが、地形図刊行後は全ての山岳家の記述、地図等で、栂峠に変わった。地形図に収載される地名は地元自治体の提出資料に基づき設定される[49]ので、明治末年~大正初頭の辺りに地理的に近い北相木村役場が提出した資料に栂峠の名が記されていたためと推測される。北相木の地元では、峠の直前にある二本の大栂が栂峠の名の起こりとされており[4,50]、地形図測量の調査当時、広く通ずる明確な名を失っていた峠に対し、村役場が「栂峠」という付近の住民の俚称をそのまま申告したものと推測される。

【釜ヶ沢周辺の沢名】
 会所といい栂峠といい、上信国境の南端では地名が定まらない山や沢ばかりが多い。手元の登山地図[51]を開くと、弥次ノ平の位置に「会社平」(註:会所の位置と文字とを同時に間違えている)、ブンキガ小屋ノ頭に「又尾山」(註:三角点名「文屋」の誤植が広まった通称)と記入されている。地形図からそのまま転記したと思われる「品塩山」も、元はと言えば釜ヶ沢の左岸、朧萱沢から清水日向沢にかけての御巣鷹山の名[7]が、上野村を介して国土地理院に誤伝達されたためと思われ、顕著な峰を持たない井戸沢源頭のこの山は江戸期には「家倉」と呼ばれていた[22]。
 会所越えの峠道が、上州側では常に沿って進む釜ヶ沢と、その支流の名についても、同じ問題が避けられない。釜ヶ沢は、神流川の源流近くに流入する中ノ沢の大きな支流である。なお中ノ沢の「ノ」は上野村の行政文書では「之」と表記され、昭和六十年頃から地形図も「之」の字に変更されている。また国土地理院では旧来付近の三角点名や沢名に「仲ノ沢」の表記を用いており、今なお使用されている。現在釜ヶ沢(カマガ沢[52]、鎌ガ沢[33]とも)とされる沢の名は、従来、原全教が示した釜ノ沢[9]であった。なお原は以前の著書[14]の付図に「釜ヶ澤」の文字を入れたが、それが「釜ガ淵」の誤りであったことも同書より知れる。原は実際釜ヶ沢に足を踏み入れておらず、「精通者からの教による」[9]としているので、恐らく中ノ沢の中澤喜六氏の情報[14]に基づく記述であろう。国土地理院は従来この沢に名を与えていなかったが、昭和四十八年測量の地形図[52]で「カマガ沢」の名が付された。表記の揺れが余りにも大きいので、ここでは混乱を避けるため「釜ヶ沢」に呼称を統一した。
 釜ヶ沢支流の名については、一層の混乱が見られる。以下が、原全教[9]、鈴野藤夫[33]、高崎営林署[19]が与えた右岸に出合う支流名である。八七〇米圏─物引沢[19,33]、九三〇米圏─タル窪[33]・長岩沢[19]、九五〇米圏─物引沢[9]・大松沢[33]・イオドメ沢[19]、九六〇米圏─長岩窪[9]・オマチノ窪沢[19]、九七〇米圏─魚留窪[9]、一〇一〇米圏─弓流[9]・又尾沢[33]、一〇三〇米圏─大松[9]、一〇八〇米圏─タル窪[9]、一一〇〇米圏─岩棚向ウ窪[9]・広河原沢[33]。また原は九七〇米圏出合沢の上に魚留滝が、鈴野は九三〇米圏出合沢の上にヤマメ止滝があるとした。物引沢、長岩沢、魚留沢(イオドメ沢)、大松沢(オマチノ窪沢)の順に矛盾はないが、タル沢は原と鈴野で全く違っている。なお原のみは沢名を等高線のない手書きの図に示したが、作図精度が高く当時の地形図とほぼ一致するため、原が意図した沢の位置は正しく読み取れる。鈴野が示した、又尾山の名を借りた又尾沢の名は、そもそも又尾山の名が誤まりであるため怪しいものだ。いずれも聞きづての沢名を図に当てはめたらしい点では甲乙付け難いが、村人と山との結びつきが強かった最も古い時代に現地の精通者から聞き取ったと思われ、しかも記述の精度に定評がある原全教の説を元に、話を進めたい(前述の通り「釜ヶ沢」については例外的に通称を採用)。

 

[1]石渕保『上野村誌8 上野村の歴史』上野村、平成十七年、一六五頁付近。
[2]小林収「十石峠」(『千曲』一一九号、一一~一五頁)、平成十五年。
[3]柳沢賢次「峠から見た佐久と上州」(『千曲』一一九号、二七~二九頁)、平成十五年。
[4]安間清「長野県南佐久郡北相木村寸見」(『信濃(III期)』五巻一号、六七~七一頁)、昭和二十七年。
[53]海路書院『歴史の道調査報告書集成 12』、平成二十年、服部英雄・磯村幸男・伊藤正義編「十石街道 ─Ⅰ十石街道の概観 ─八、武州秩父地方との交流」二三四~二三九頁。
[5]群馬県教育委員会編『群馬県多野郡上野村の民俗』、昭和三十六年、池田秀夫「上野村南西部の民俗(二)」一二二頁付近。
[6]明治大学体育会ワンダーフォーゲル部『西上州 関東の秘境』明治大学体育会ワンダーフォーゲル部、昭和三十七年、鈴木要介「三・四年合同ワンデルングを終えて」一〇~一二、「三班」三七~四五、「七班」七五~八〇、「九班」八九~九六、「浜平部落」一三八~一三九、「中ノ沢部落」一四二、原喜啓「コレイ峠への道」一六四~一六六頁。
[7]佐藤孝之「上州山中領における御巣鷹山と山林政策の変遷(上)」(『徳川林政史研究書研究紀要』四二号、七一~九三頁)、平成二十年。
[8]高崎営林署史刊行委員会『高崎営林署史 創立一〇一年記念』、平成四年、一三~一六、一七九~一八〇頁、四七~五一頁付近。
[9]原全教『多摩・秩父・大菩薩』朋文堂、昭和十六年、「中ノ澤」三三〇~三三六、「相木側源流から御座山へ」三八四~三九九頁。
[10]川上村誌刊行会『川上村誌 通史編』、平成二十一年、「第三節 十文字峠と三国峠」四一五~四三六頁。
[11]長野県『南相木村全図』長野県、明治初期。
[12]長野県庶務課『郡村誌 南佐久郡 公文編冊 三』長野県庶務課、明治十一年、「南相木村」、「北相木村」、「海ノ口村」。
[13]原全教『奥秩父回帰』河出書房新社、昭和五十三年、「第三回の冬旅」一一五~一五四頁、「神流川街道を往く」一九三~二〇〇頁。
[14]原全教『奥秩父・続編』朋文堂、昭和十年、五頁付近、六二一~六二二頁、付図「御座山・神流川中ノ澤」。
[15]陸地測量部『点の記』、「文屋測點」、明治三十七年。
[16]陸地測量部『点の記』、「會所測點」、明治三十七年。
[17]中島明『群馬の林政史』みやま文庫、平成十六年、「木伐出絵巻」カラー口絵、「(一)山中領の御林と山稼ぎ復活訴訟」三~一三頁、「(二)山中領の御巣鷹山」一三~二二頁。
[18]石渕保『上野村誌8 上野村の歴史』上野村、平成十七年、巻頭。元図は上州甘樂郡山中領四ヶ所御林繪圖(正徳~享保年間と推定)。
[19]前橋営林局高崎営林署『利根地域施業計画区第3次高崎事業図』、昭和五十三年、高崎(第7片)。
[20]陸地測量部『五万分一地形図 十石峠』(大正元年測量)、大正四年。
[21]高畑棟材「晩春の神流川上流へ」(『山岳』一六巻三号、二二七~二四九頁)、大正十二年。
[22]高畑棟材『山を行く』朋文堂、昭和五年、「神流川雜藁」四八五~五〇六頁。
[23]大島亮吉「小倉山」(『山岳』二〇巻一号、一七三~一七七頁)、大正十五年。
[24]大石眞人「佐久の幽巒」(『山と渓谷』一〇三号、六二~六七頁)、昭和二十二年。
[25]春日俊吉『奥秩父の山の旅』登山とスキー社、昭和十七年、「序」二~三、「馬越峠・石仏山・大門峠」二六八~二七七頁。
[26]北相木村誌刊行委員会『北相木村誌』北相木村、昭和四十四年、四七~四九、二七〇~二七三、三八五~三九二頁付近。
[27]矢部三雄『近代化遺産 国有林森林鉄道全データ(中部編)』信濃毎日新聞社、平成二十七年、九〇~九一頁付近。
[28]長野営林局事業部作業課編『索道集』、昭和二十九年、「長野営林局索道事業の沿革及概要」五~八、大見雅夫「北の窪索道」一五〇~一五九頁。
[29]竹内昭「三川森林鉄道」(『トワイライトゾーンMANUAL7』ネコパブリッシング、一七三~一七四頁)、平成十年。
[30]長野営林局臼田営林署『千曲川上流地域施業計画区臼田事業区第3次樹立事業図』、昭和五十三年、第3葉(全6葉)。
[31]中部森林管理局東信森林管理署『千曲川上流森林計画区第4次国有林野施業実施計画図』、平成二十五年、川上森林事務所(第8葉)。
[32]明治大学体育会ワンダーフォーゲル部「六十年のあゆみ」編纂委員会 編『六十年のあゆみ』明治大学体育会ワンダーフォーゲル部、平成九年、四二八~四二九頁付近。
[33]鈴野藤夫『関東南部の渓流』つり人社、昭和五十年、「神流川」一三八~一四八頁。
[34]国土地理院『空中写真(塩山)CB7212Y(1972/10/07)』、昭和四十七年、C4-9。
[35]国土地理院『二万五千分一地形図 浜平』(昭和六十二年修正)、昭和六十三年。
[36]二木久夫『西上州の岩山藪山』現代旅行研究所、昭和五十六年、「叶後牢口の頭・品塩山・又尾山・ボンデン山・マムシ岳」一九三~二一二頁。
[37]南相木村誌編纂会『南相木村誌』南相木村誌刊行会、昭和三十六年、二〇九~二一二、二三二~二三三頁、付図。
[38]鈴木重武・三井弘篤編「信府統記巻之四 佐久郡」(『信府統記』吟天社、第一巻、三八~四一頁)、明治十七年。(註:復刻版。初版は享保九年(西暦一七二四年)、松本藩。)
[39]秋山永年『富士見十三州輿地之全図』衆星堂、天保十三年(西暦一八四二年)。
[54]長野県教育委員会『歴史の道調査報告書 4(佐久甲州街道)』、昭和五十五年、「佐久甲州道の概要」一~三頁。
[55]長野県教育委員会『歴史の道調査報告書 42(秩父道)』、平成七年、「佐久甲州道から秩父道に入る分岐点」(付図)、九頁。
[40]長野県『北相木村村絵図略系』長野県、明治前期。
[41]狩野良信『元禄信濃國絵圖』松代藩・松本藩・上田藩・飯山藩、元禄十四年(西暦一七〇一年)。
[42](不明)『関東七州大繪圖』、元禄年間と推定。
[43]池田東籬・森川保之『信濃國大繪圖』山城屋佐兵衞・吉野屋仁兵衞・高美屋甚左衛門、天保六年(西暦一八三五年)。
[44]明楽茂村『天保國絵圖 上野國』幕府勘定所、天保九年(西暦一八三八年)。
[45]村上吾雄『上野國輿地全圖』東都書林、天保十一年(西暦一八四〇年)。
[46]玄々堂緑山『銅鐫大日本国細図 上』菊亭、元治二年(西暦一八六五年)、上野國。
[47]酒井拾彦『改正銅鐫上野國全図』小林喜右衛門、明治十三年。
[48]中村謙『上信境の山々』朋文堂、昭和十三年、「神流川上流の山名について」二七二~二七五頁。
[49]池田稔「地名の標準化について」(『地質ニュース』三二五号、四八~五六頁)、昭和五十六年。
[50]道鏡山人「栂峠と鹽の澤峠」(『山と渓谷』五七号、一四七~一五〇頁)、昭和十四年。
[51]打田鍈一『西上州・妙義 山と高原地図15』昭文社、平成四年。
[52]国土地理院『二万五千分一地形図 浜平』(昭和四十八年測量)、昭和五十一年。