山とスキー(山とスキー社)

 

 「山とスキー」は、昭和19年7月1日から昭和20年4月1日まで発刊された雑誌である。編集部が自身を「山岳雑誌」と名乗っているし、頭に「山」とつく誌名と発刊経緯とから一応山岳雑誌に含めるが、記事の半分以上は適地・占領地の山岳研究と国民の錬成とで占められた従軍山岳雑誌で、本来の山岳記事は後部に付録程度に添えられるのみであった。また「山とスキー」誌は、第二次大戦中に休刊した「山と渓谷」誌の、実質的な戦時増刊号であったとも言える。
 なお、一般に「山とスキー」誌と言えば昭和初期に北大・山とスキーの会が刊行したものを指すが、それとは全く関係ない。また言うまでもなく、近年、山と渓谷社が別冊付録?として配布している「山とスキー」とも無関係である。
 

 【北大・山とスキーの会の「山とスキー」】

 「山とスキー」という誌名は、以前北大の名門山岳会「山とスキーの会」によって発行されていた雑誌と同一である。「山とスキーの会」の創立は大正十年、まだ国内に山岳部や山岳会が少なかった時代に遡り、主として北海道の山岳を舞台に、日本の冬期登山界、スキー界をリードし、範とされた先鋭的な集団で、著名な登山家では大島亮吉を輩出している。その会誌は、学生が発行する同好会誌の域を越える充実した内容・編集を誇り、30銭(号により変動あり)で販売され、定期購読も可能だった。山岳界で一定の信頼が置かれ、秩父宮殿下も愛読していたという。

 

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元祖「山とスキー」誌に対する申し開き[5]

 北大・山とスキーの会の「山とスキー」は、第一年第一号が大正10年6月7日に発刊され、昭和5年8月6日の第九十九・百号(合併号でかつ最終号)までの99冊が送り出された。山とスキーの会は、山派とスキー派の志向性の違いが次第に拡大し、終に山岳部が独立することになったが、それでも「山とスキー」誌を護ることでは一致していた。編集作業は山派を中心に行なっていたが、山岳部に移籍する山口健児が就いていた編集者の役目を、七十四号(昭和2年8月1日発行)では会に残るスキー派の井出英二に移管した。しかし以後も、分離した山岳部も原稿を出し続け、「山とスキー」誌の発行は続いた。
 一方昭和3年6月から、山岳部により独自に「北大山岳部々報」の刊行も開始され、山岳部、山とスキーの会(後のスキー部)の統合誌を出す意味が薄れていった。最後の方は惰性と社会的責任により、義務的に発行されていたという。もはや、学生の労働奉仕に頼って出版社レベルでの雑誌の刊行を続けるのは、費用・労力の両面で限界であった。また社会的にも、先鋭的なスキー技術の普及と冬山開拓(特に北海道)が一巡し、一般誌・会報が続々と登場してきたことで、役目を終えていた。そこで百号もって終刊とし、山とスキーの会は昭和5年10月1日から、スキー専用誌「山と雪」を創刊した。
 北大山とスキーの会が刊行した「山とスキー」は、これから述べる山とスキー社の「山とスキー」とは何ら関係がなかった。この誌名の重複については、創刊号では全く説明がなく、第二号の巻末に「謹告」として、『同誌名は二〇年前北大山とスキーの會より常時権威ある山とスキーの研究誌として刊行され、(中略)本邦唯一の山岳雑誌の創刊をみるに至り、山岳とスキーの最高指針たらしむる為、同誌名を借用することにした。』と言い訳がましく説明されており、山とスキーの会の創立者の一人である加納一郎の承諾を得たと述べている。後述の様に、「山とスキー」誌は大変慌ただしく創刊されたと思われ、北大・山とスキーの会の了承なしに発刊されたのかも知れない。関係者の指摘を受け、後付で会に説明し了承を取り付けたうえ、第二号に上記の「謹告」を入れたものと推測される。

 【創刊の経緯】

 創刊の経緯が興味深い。昭和19年7月に発行された創刊号の編集後記によれば、緊迫した時局を鑑み「山と渓谷」「山と高原」「錬成旅行」の三誌が自治統合し、唯一の山岳雑誌として発足したとされる。
 一方、19年3月の大戦前最終号である「山と渓谷」84号の巻末には、「本誌は幸い、本邦嚆矢の山岳雑誌たることと、十五年間の伝統に依り、残存山岳雑誌の母胎誌に指名されたので同業誌「錬成旅行」を即時買収、「山と高原」を統合の上愈々次号第八十五号より新発足することになった。」とあり、また65ページには「事務所移転御通知」として、「今回山岳雑誌統合に依り、次号より本誌は月刊となりますので業務拡張の為左記に移転いたしました。」として、神田区鍛冶町三ノ六の本社新住所が掲載されている。
 しかし実際に85号が出たのは大戦後の昭和21年1月であるし、統合誌は「山とスキー」という別の誌名となって、月刊ではなく隔月刊で、しかも住所は移転せず山と渓谷本社と同じ住所・発行者で、株式会社山とスキー社から発行された。さらに創刊号の発行は、「山と渓谷」の大戦前最終号から四ヶ月が経過した後のことであった。この様に、多くの矛盾と混乱を孕みつつ、「山とスキー」は創刊された。「山と渓谷」の休刊から「山とスキー」の創刊まで四ヶ月を要したのは、実質的に同じ雑誌とは言え、新会社を組織し、各方面への調整を行うための相応の準備期間が必要だったからであろう。
 この様に「山とスキー」誌は、「山と渓谷」84号(S19・3)と85号(S21・1)の間に発行された、戦時増刊号のような位置づけとも言える。つまり「山と渓谷」誌は、実質的に、戦時に6巻の非公式増刊号が刊行されたことになる。「山とスキー」誌は実質的に「山と渓谷」を受け継いだものであったため、吉澤一郎の「アラスカの山」、山田奈良雄の「近畿の山」、牧田満政の「岳人辞典」、永田一脩の「山の絵」などの連載記事は「山と渓谷」から継続し、「ろばた」、「豆手帖」等の小コーナーもそのままだった。
 ではもう一つの代表的な山岳誌「山と高原」はどう終わったのか。こちらは休刊直前の60号では通常号の約四倍に増頁し、用意周到で重厚な「終刊のことば」を載せたことから、休刊を覚悟し、周到な準備のもと、真の最終号としての体裁を整えたように見える。つまり統制経済下、三誌統合とは名ばかりで、当局の指導に伴い「山と渓谷」以外の山岳誌の発行が停止されたというのが実態と見られる。

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「山と渓谷」84号(戦前最終号)と「山とスキー」1号の奥付はほぼ同一。「山とスキー」誌は実質的に「山と渓谷」の戦時増刊号と言える。[3,4]

 【刊行期間中の戦況悪化】

 創刊号(昭和19年7月1日、56ページ)の辞にある通り、当時の時局は極めて緊迫していた。6月のマリアナ沖海戦で日本は航空戦力の主力を失って雌雄が大方決し、もはや敗戦は時間の問題であった。第2号(昭和19年9月1日、40ページ)が発刊されるも、10月のレイテ沖海戦で日本海軍がほぼ壊滅、制海・制空権を失ったことで、米軍の破竹の進撃が始まった。第3号(昭和19年11月1日、36ページ)が発刊されたが、同月24日には東京が初の空爆を受けた。
 以後断続的に空襲が続いて戦局はいよいよ逼迫し、東京では空爆の頻度が増加、全国レベルでも米軍は1月に南方領土、2月に硫黄島、3月に沖縄への侵攻を開始した。硫黄島戦、沖縄戦で日本陸軍の激しい抵抗を受けて米軍は多少の足踏みを見せたが、本土上陸はカウントダウンと見られた。3月10日には史上空前規模の東京大空襲が行われ、ついに芝区田村町6-4の山とスキー社は焼失した。都民は辛くも焼け残った地域すら明日は焼け野原になるであろうと考えるようになった。山とスキー社は大森区山王2-1-871に移転するも、今度は強制疎開で退去を余儀なくされ、山王2-1-877にある「家」(民家か何かか?)に再移転した。しかしこれも、大田区に甚大な被害をもたらした4月15日の城南大空襲で失い、社品から住宅までの全てが灰に帰した。社主の川崎吉蔵は、恐らく取材帳やメモなど身の回りの最低限を抱えて逃げ延びたようだ。「原稿は勿論、発送用封筒からペン一本に至る迄失った我々は劫火の中を奮然と頑張り通した苦闘の連続は、思い出しても感慨無量である。」と後述している。
 しかしそのような中にも関わらず、第4号(昭和20年1月1日、40ページ)、第5号(昭和20年3月1日、40ページ)が発刊された。もはや発行日は予定より遅れていたらしく、編集部の回想によると、4月15日以後の配本だったようだ。第5号では、カラーだった表紙や広告が全て白黒になった。当時、出版取次は国策会社の日本出版配給一社になっており、その方針で一部例外を除き白黒印刷しか認められなくなったのである。
 隔月の発行日で発行されていた「山とスキー」だったが、第5号から1ヶ月後の日付で第6号(昭和20年4月1日、40ページ)が発刊された。これが最終号となったため、「秩父三峰と御嶽(上)」(中島利一郎)のように、明らかに続くであろう記事は、尻切れトンボで終わった。第6号が実際に刊行されたのは、終戦後であったという。出版統制が解除され、前継誌の「山と渓谷」が復刊したことで、「山とスキー」誌は自ずと役目を終えることになった。

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戦災で第5号(左上)、第6号(左下)と続けて移転の社告が出た。昭和20年4月に刊行された第6号(右)を最後に、戦後の「山と渓谷」の復刊により自然消滅。[6,7]

 【記事の特徴】

 「行軍登山錬成雑誌」という物々しいサブタイトルの割には、内容は山と渓谷そのものであり、連載記事もそのまま受け継いでいる。一応、社告にて「皇国の興廃をこの一戦にかくる重大時局下…」、あとがきでも「緊迫した時局は愈々一億国民総決起して火の玉となり、敵米英に体当たりをすべく…」などと軍政への協力を示し、「戦争と登山」、「冬期集団行軍の方法」の様な記事を冒頭に掲載してはいるが、形式的な印象だ。ただ物資の不足は深刻だったようで、定期発行の困難さや部数減・ページ減を詫び、新規申し込みを断ると共に回覧を推奨している。戦況に望みがあった頃発刊された第2号までは、登山案内、記録、投書、山岳会動向などが掲載され、ほぼ普通の登山誌の様相であった。ただ表現的には、「初夏の低山に鍛ふ」、「精錬向の温泉」、「現場調査」など、堅苦しい表現が散りばめられている。しかし日本の劣勢が明確になった第3、4号では、「山岳生活とガダルカナルの戦陣生活」「山と信仰」の様に戦地の紹介や硬い記事が中心になった。また、食料不足、交通の制限が、登山に影響するようになりつつあったことが、あとがきから伺える。ところが空爆下の混乱期に企画ないしは刊行された第5・6号では、戦時記事もあるが、「雪の上信国境縦走」「鹿沢の山々」「高原浅春」など、一般記事が復活している。想像するに、帝都は混乱を極め、もはや当局の睨みが効かなくなっていたのではなかろうか。


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山とスキー第5号・6号表紙[6,7]

 ご感心ある方は、蔵書のある図書館等で参照されたい。横浜市立中央図書館(1-4号)、三康図書館(2-4号)に蔵書があり、誰でも利用できる。利用条件を満たせば、学習院大学図書館(1-3号)でも閲覧可能。終戦近くで刊行された5号・6号は蔵書館が極めて少なく、私は運良く古書として購入できた。5号・6号を確実に蔵書しているのは、北大山岳部の「北大山岳館」(1-6号)のみ(利用資格不明)。また、目録がないため不確かだが、岡山県・湯原温泉ミュージアム内の「野口冬人記念資料室」、大分県の「林の中の小さな図書館」などに蔵書があるかも知れない。というのも、これらに蔵書を寄贈した故・野口冬人氏が自著「冬人庵書房」に全号保有していたことを記しているからである。野口氏は同著に「山とスキー」誌を要領よく解説している。真似るつもりはなかったが、同じ対象について述べたためか、結果的に同じ様なことを書いていると、改めて読み直して思った。野口氏の記述と重複がある点、なにとぞご了承いただきたい。

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山と渓谷84号(S19・3)の連載記事は「山とスキー」第1号(S19・7)に受け継がれている。山の絵・探検家列伝・岳人辞典などの企画もの、近畿の山・九州の山・アラスカの山などのシリーズもの、ろばた・岳人往来・譲りたしなどの小コーナー、これら全てが継続している。[3,4]

 

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【参考文献】(発行順)

 

[1]広田戸七郎「廃刊と解散の言葉」(『山とスキー』九十九・百号、二〇~二六頁)、昭和五年。
[2]北海道大学体育会山岳部『北大山岳部五十周年記念誌』、昭和十六年、山口健児「山岳部創立の頃の回想」二〇~二九頁。
[3]目次・奥付(『山と渓谷』八四号、目次・九一頁)、昭和十九年三月。
[4]目次・奥付(『山とスキー』一号、目次・五六頁)、昭和十九年七月。
[5]「謹告」(『山とスキー』二号、四〇頁)、昭和十九年九月。
[6]表紙・「事務所移転」(『山とスキー』五号、表一・一四頁)、昭和二十年三月。
[7]表紙・奥付・「社告」(『山とスキー』六号、表一・二三・四〇頁)、昭和二十年四月。
[8]編集部「編輯室」(『山と渓谷』八五号、三七頁)、昭和二十一年一月。