和名倉軌道跡・柿原林材道 page 1 【廃径】

 昭和二十~三十年代、和名倉山中腹の一三五〇米付近に和名倉軌道(仮称)と呼ばれる、営林用の手押し軌道があった。またその終点から、和名倉山の東肩を越え、惣小屋谷支沢源頭に位置する柿原林材のものと思われる二軒の作業小屋(以下、柿原林材小屋)へ続く柿原林材道(仮称)があったと見られる。
 昭和初期まで深い原生林に覆われていた和名倉山は、昭和二十三年に国有林から外れると直ちに激しい伐採を受けた。同年、鉄道木材(株)により和名倉山の中腹に等高線に沿いに、軌道が敷設された[1]。山が深く大きいため、当時はまだ伐り出した木材の有効な搬出法がなかった。険しい大洞川沿いに車道を拓くのは容易でなく、後年多用された林業用の索道も当時の技術では長距離運転ができなかった。そこで中腹の等高線に沿って超緩勾配の軌道を敷設し、山の上部で伐り出した木材を索道を使って軌道まで下ろし、軌道を使って人力で、荒川沿いの軌道が達する二瀬の上部まで運んでいたのである。木材をそこで別の索道に積み替え、二瀬へ下ろしていた。長距離索道を運用できないため、わざわざ索道→軌道→索道→軌道と何度も積み替えていたのである。そのため和名倉山の伐採は、山頂付近から始まり次第に下へ移行するという特異な経過を辿ったのである。

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柿原林材道

 

 作業用軌道なので特に名称はなく、ここでは竹内に倣い「和名倉林用軌道」[1]と仮称した。軌道の町側の終点は、現在「反射板跡」と呼ばれる登尾ノ頭の東の山腹、約一三三〇米の地点で、そこから現在「造林小屋跡」と呼ばれる約一三六五米の地点までの軌道跡は、二瀬尾根登山道の一部となっている。一方軌道終点を明示する資料は全く見られず、竹内は「和名倉沢少し手前」との伝聞を報告[1]、また大滝村誌は総延長「二〇〇〇米以上」[2]としていることから、少なとも「造林小屋跡」の先まで伸びていたことを暗示している。航空写真で確認すると、昭和二十三年までに東大演習林界(一二二六独標の小尾根)[3]、二十六年中に二瀬尾根一六八四独標から東に出る小窪[4](約一三七五米)までの総延長約二六九〇米が開通したことが推測される。
 軌道が使われていた当時、伐木は惣小屋谷や曲沢上流から索道で終点もしくは「トロ飯場」(現在の「造林小屋跡」)と呼ばれる地点に集材されていたと見られる[1,2]。しかし索道技術の発達で十粁前後の長距離輸送が可能になると、索道は麓まで直接達するよう架け直され、軌道は昭和三十六、七年には使われなくなった[1]。
 和名倉沢の核心部を抜けた遡行者が、帰路短縮のため索道中継台(一六八四独標から南東に出る小尾根の末端と推定)付近から水平作業道に入り、そのまま軌道の道床を歩いて二瀬に向かった記録が、昭和二十七年[5]以降、幾度か報告されている。夕方トロ飯場脇を通過すると、人声がして夕餉の煙が立ち上っていたという。
 昭和四十年代以降の遡行記録の帰路に軌道が現れなくなったのは、伐採が終わって道が荒廃したためではなかろうか。実際著者が昭和五十三年にトロ飯場付近を通った時、深い笹に覆われ道型の判別すら困難なほどだった。この十年ほどで笹ヤブが消えたことで、トロ飯場~反射板跡の区間は一般コースになったようだ。

 トロ飯場(造林小屋跡)から先の軌道跡と、その先に続く柿原林材道は、ほぼ忘れられた存在になっている。水平に付けられた旧道床の道は、終点と推測する「二瀬尾根一六八四独標から東に出る小窪」までほぼ等高に続き、そこから歩道となって一六八四独標の南東尾根を越え、和名倉沢を一三八〇米圏二股で渡る。この辺からしばらくは、埼玉県森林図[6]に収載されている。少しの間、和名倉沢の右岸の高みを行き、次の小尾根を登って一四七五米付近からまた水平になり、舟小屋沢左岸尾根に達するとそれを登り始める。尻無尾根を乗越すと水平にトラバースを初め、仁田小屋尾根を越して、惣小屋谷一四二〇米圏左岸支沢の源頭の柿原林材小屋に下る。これが柿原林材道の推定ルートである。
 この道は、経路は勿論のこと、存在自体も推定したものに過ぎない。麻生市と呼ばれる惣小屋谷一四二〇米圏左岸支沢の源頭は、柿原林材が大滝村から立木(りゅうぼく)払い下げを受けた一帯である[2]。そこに二棟の作業小屋が有ったことは航空写真により知れる[7]。この小屋へ入る道筋を考えた時、真っ先に考えつくのが大洞川、惣小屋谷と水系に沿って入る経路である。しかし地図を見れば明らかだが、川に沿って大きく回り込むこのルートは距離的に極めて不利である上、険悪で知られるこの川筋を辿るのは大きな危険を伴う。また当時、大洞川を遡り、鷹ノ巣沢付近から左岸の仁田小屋尾根に取り付くルートも知られていた。だがこのルートもかなり大回りとなる上、増水時に大洞川が渡れなくなる恐れがあった。昭和十一年五月二十三日、和名倉山から仁田小屋尾根を下ったところ、増水した大洞川の橋が流失して渡れず引き返し、降りしきる雪の中、疲労困憊して唐松平(現在の松葉沢ノ頭)近くで落命した青山学院大の増野惟一氏の遭難事故[8]が、まだ記憶に新しかったに違いない。昭和二十年代の唐松平には、まだ慰霊の卒塔婆があったという[9]。
 唐松平にほど近い柿原林材小屋の開設に当たり、より安全確実な経路が検討されたのは当然のことだろう。開設は昭和三十年前後と思われるので、当時敷設済みの和名倉軌道終点から道を付ければ、最短かつ安全な経路と考えたに違いない。この和名倉山頂の東肩を越える経路は、上り下りの無駄が少なく二瀬からの距離も短いうえ、危険な渡河もない好ルートである。
 ただ何しろ道の存在自体が推測に過ぎず、明確な根拠が無いのが、この説の大きな問題点である。トロ飯場から和名倉沢一三八〇米圏二股までは、以前から歩いて道の存在を知っていた。和名倉沢一三八〇米圏二股から和名倉沢右岸山腹の一五九九独標の近くまでは、埼玉県森林図[6]に道が記入されている。しばらく情報が途切れた後、一五九九独標から尻無尾根、仁田小屋尾根を越え、柿原林材小屋までは、古い航空写真[7]により道の存在が知れる。しかしそれ以上の情報はなく、後は実地で歩いてみるしか無かった。

 

[1]竹内昭「和名倉林用軌道」(『トワイライトゾ~ンMANUAL10』ネコパブリッシング、二五四~二六〇頁)、平成十三年。
[2]大滝村誌資料調査委員会編『大滝村誌(上)』秩父市、平成ニ十三年、二五五~ニ五七、二七八頁付近。
[3]建設省地理調査所『米軍撮影空中写真(1948/10/19)』、昭和二十三年、M1195-A-71。
[4]建設省地理調査所『米軍撮影空中写真(1952/04/10)』、昭和二十七年、M4-10-2-80。
[5]森川佳枝「和名倉沢を遡る」(『新ハイキング』一六号、七五~七七頁)、昭和ニ十七年。
[6]埼玉県『森林基本図』O05、平成元年。
[7]埼玉県企画課『埼玉全県航空写真(昭和四十一年度)』、昭和四十一年、C10-14。
[8]青木定次「和名倉山遭難記」(『山小屋』五三号、六二~六三頁)、昭和十一年。
[9]田中新平「初夏の和名倉山」(『山と渓谷』一八一号、一六〇~一六六頁)、昭和二十九年。