弥次ノ平林道 page 1 【廃径】

 弥次ノ平林道は、上信国境の弥次ノ平を越えて北相木の白岩と南相木の三川を結ぶ古道である。現在未開通ながらもかなり建設が進んだ、車道の「白岩三川林道」の前身で、昭和の前半まで使われていたようだ。

【林道の名称】
 初めに林道の名称について述べて置かなければならない。正式な林道名は営林署内部でしか知られていないものなので、ほとんどの場合、登山者が知る名称は、道標から読み取ったものや地元の人から聞いたものである。そのため、登山家によって多少の食い違いが生じたり、間違いを含むものであったりする。
 御座山付近の林道について報告したのは、大島亮吉(大正十五年の報告)、原全教(昭和五年の山行)、勝見勝(恐らく昭和六年頃の山行)の三名である。続く登山家の語る林道名は、時間の順序からして、彼らの情報から知ったものと思われる。大島は次のように、正確に記している。
「クマノアナの沢より数町下に於て御座山林道は左に更に一林道を分岐す。是れ弥次平(ヤジダイラ)林道と称せらるるものなり。両林道の分岐点には左の如く記したる標杭ありたり。即ち「字御座山巡視起点 右御座山林道ヲ経て山口坂上方面 左丸岩及び弥次平林道を経て南相木村栗生三川方面」と記され、…」[1]
 つまり道標の表記によれば、クマノアナ(相木川の一三九〇米圏二股)から御座山北東の一九三〇米圏鞍部を越し宇陀ノ沢を下新井へ下るのが「御座山林道」、弥次ノ平方面へ登るのが「丸岩及び弥次平林道」である。大島がクマノアナから左に分かれる道を初めて弥次ノ平林道と呼び、以後この名で通っているので、このサイトでもクマノアナから先を弥次ノ平林道と呼ぶことにする。
 では営林署の道標で併記された丸岩林道と弥次ノ平林道は、どういう関係にあるのだろうか。原は三国境林道(三川に沿いに遡る林道)との分岐の道標で、弥次ノ平方面は「丸岩林道に合し、栗尾・白岩方面」と記されていたという[2]。とすると、三川から弥次ノ平までが、丸岩林道ではなく、弥次ノ平林道ということになろう。そして丸岩林道に移って栗生と白岩に達する訳である。丸岩林道について原は、平頂を過ぎると間もなく「左から栗生経由の丸岩林道が合して来る」[3]としている。往時の弥次ノ平は諸文献から分かるように一九七〇米圏の平頂であり、現在道標が設置されている鞍部ではない。その平頂の山頂を過ぎて北行しすぐのあたり、つまり約一九五〇米の鞍部で、栗生からの丸岩林道に出合うのである。丸岩林道の栗生側の経路は資料がなく全く分からないが、栗生から弥次ノ平まで無駄なく無理なく行くためには、初め栗生川を遡り、栗生沢・魚止沢中間尾根を登って弥次ノ平下の約一九五〇米の鞍部を越え、北相木川に下るのであろう。勝見勝も、丸岩林道を北相木川から登って、弥次ノ平を越え、丸岩沢に入って栗生に向かう道としているので[4]、間違いないだろう。なお勝見は、弥次ノ平から三川への林道を、弥次ノ平林道ではなく三川林道と呼んでいる。勝見はどういう意味だろうか、丸岩林道(大正五年)、本久保林道(昭和三年)の年号の注釈を入れている。御座山林道(本久保林道)をすでに大正年間に大島が通行していることから開通年ではないと思われ、しかし本人の通行年とすると、丸岩林道を勝見が八歳のときに通行したことになり、これもおかしい。気になるのは、丸岩林道と御座山林道の分岐点である。大島は「クマノアナの沢より数町下(註:数百米、すなわち焼笹窪付近)」とし、原はドウリン平の上(註:ほぼ熊ノ穴窪出合付近)としている。大石真人も原と同見解をさらに詳しく、御座山林道は熊ノ穴を過ぎてから折り返すように窪に入ると述べている[5]。大島が通ったときと、原が通った時以降との差は歴然である。当時、炭焼窯跡や木馬道が見られたことから盛んに開発が行われていたと思われ、後に通った春日俊吉も、弥次ノ平林道は木材出しの林道だと述べている[6]。従って、開発に伴い、御座山林道が付け替えられた可能性も考えられる。大島が通った初期の御座山林道は焼笹窪付近で分岐していたが、昭和三年に熊ノ穴窪出合付近での分岐する新経路に変更されたのかも知れない。

【往時の通行記録】
 ここではとりあえず弥次ノ平林道を三川から弥次ノ平を経て北相木川の木次原・白岩方面に下る林道として、記録上の過去の通行者を見てみよう。大正年間に初めての通行したのは大島亮吉で、白岩から熊ノ穴窪までを歩いて御座山林道に入っている[1]。全コースを通したのは、昭和五年の正月の雪道を歩いた原全教である[3]。三川から入って弥次ノ平を越え、長者原までを一日で越えた。勝見勝も、正確な年月は不明だが昭和初期に歩いている。随筆文のため詳細が全く省略され詳しいことは分からぬが、昭和六年頃、木次原から熊ノ穴窪までの林道を歩いている。その後御座山林道で御座山、国境稜線を弥次ノ平まで行き、丸岩林道で栗生へ下ったようだ[4]。春日俊吉も恐らく昭和十年代に、三川からヌクイノ窪の詰まり(一六六二独標付近)までと、弥次ノ平東の一七九一鞍部から弥次ノ平、木次原を歩いている[6]。同時期、村田健蔵も御座山からの下山時、熊ノ穴から木次原を通行した[7]。昭和二十一年に歩いた大石真人は、大戦中すっかり荒廃した林道を、ヤブを分けつつ北相木から熊ノ穴窪まで歩いている[5]。分岐で見た弥次ノ平林道は、分かれたのに気が付かぬほど荒れていたという。昭和三十六年発表の高島紀一の解説にも、往時と変わらぬ車道化前の相木川沿いの熊ノ穴窪までの様子が描き出されている[8]。そこで分岐する弥次ノ平林道の細道も、相変わらずだったようだ。御座山北東の一九三〇米圏鞍部に至る御座山林道の様子も描かれた、貴重な資料だ。他にも、昭和三、四十年代の北相木から御座山へのコースとして御座山林道が紹介され、その一環として熊ノ穴窪までを通った記録は見られるが、弥次ノ平林道を辿って弥次ノ平に達した記録、さらに三川へと抜けた記録となると非常に少ない。昭和三十七年の明治大学ワンダーフォーゲル部の記録では、弥次ノ平が四辻とされている[9]。つまり丸岩林道から弥次ノ平林道と御座山への国境踏跡が分岐する鞍部のことであろう。原全教は一九九一独標(最新地形図では一九七〇圏)の平頂を弥次ノ平としていたが、明大は百八十米北西の丸岩林道が登り着く約一九五〇米の鞍部を弥次ノ平としたのである。後日彼らは、立木に地名標を打ち付けた。現存するのは一九七〇年五月三日のもので、七年前には日付や地名がまだ読み取れたが、今年見た時には一部の文字が錆びて読めなくなっていた。彼らは弥次ノ平林道を木次原へと下ったが、積雪のため道の様子は記されていない。昭和四十年の長沢和俊氏による興味深い記録がある[10]。長沢氏は三川から弥次ノ平林道を辿るも、当時の三川の奥は伐採と植林による大変貌を遂げた直後であり、原全教が認めた三国境林道との分岐(その時点では車道からの取り付き)が不明瞭になっていたのであろう、それを見つけることができず、後日木次原から弥次ノ平に達している。弥次ノ窪に沿う道は途絶えがちで、何度も見失ったという。

【開発の時代】
 どの林道も森林開発の影響を逃れることはできないものだが、こと弥次ノ平林道は伐採と車道開設に翻弄されてきた道と言えよう。相木川は熊ノ穴窪までが、昭和二十年代の早い時期に伐採されカラマツ植林に置き換えられた[11]。しかし伐採の手が奥地に及んだのは意外と遅く、昭和四十年代のことである。三川では昭和四十五年前後にヌクイノ窪が伐採され、車道(白岩三川林道)が御座山・弥次ノ平間の南北相木村界に達し、栗生川の右岸も伐採されると五十二年までにカラマツの人工林となった[11,12]。さらに丸岩窪に支線車道が入って伐採が行われ、昭和五十八年には、カラマツ植林が弥次ノ平直下にまで及んだ。これにより、ヌクイノ窪から弥次ノ平の少し下までの古道が失われ、一部作業道として残った可能性もあるが、少なからぬ部分が車道化したのである。一方相木川の方でも、北側からも進められた車道(白岩三川林道)の工事が昭和六十一年までにツギノスの下にまで達し[13]、弥次ノ窪も中ほどまで伐採された。平成三年に植林されたカラマツ[11]がもうかなり育ってきている。更に残念なことに、平成十年前後(平成八年~十二年の間)にヌクイノ窪が埋め立てられたことである。地理的条件と時期からして、御巣鷹山トンネルの残土捨て場にされたことは疑いない。従って、今でも現在弥次ノ平林道が残っている可能性がある、自然林でありかつ車道のない部分は、大黒沢の二百米ほど下に入る小窪(旧三国境林道分岐)からヌクイノ窪に出合うまで、ヌクイノ窪本窪を離れてからヌクイノ頭(一六六二独標付近)まで、弥次ノ平東の国境上一七九一独標から弥次ノ平を経て弥次ノ窪中程のカラマツ植林上端、の三つの短い区間のみである。

  【経路の推定】
 前段に述べた様に、山林開発により古道のかなりの部分が失われ、現在そのまま通行できる部分は極めて限られている。ここでは車道や作業道に置き換わった部分も含め、今辿れる経路を改めて整理し、推定してみたい。木次原からの舗装道路は、長者ケ原のレクリエーション施設を通過し、猪ノ子沢の支線林道を分けると、一三九一独標から国有林に入って未舗装になる。その少し先の広場は原全教の頃から土場だった所で、今も実質的な国有林の入口としてゲートがあるので、ここに車を止める。すぐ先で焼笹窪を渡ると大きな右カーブがあり、古道はここから相木川の左岸に沿って真っすぐ進んでいたようだ。現在も一部で痕跡が残っているようだが、基本的には車道(白岩三川林道)をそのまま進んだほうが良い。右に木杣沢林道(むしろこの方が車道の本線に見える)を分けなお進むと、熊ノ穴窪、前ツギ窪と渡るたびに支線車道を分岐する。次の弥次ノ窪でも支線車道を出すので、それに入ると、約二百米先に土場があり行き止まる。現時点では、ここが実質的な弥次ノ平林道の入口である。
 地形図では林道は弥次ノ窪を左右に渡り返しながら弥次ノ平まで登っている。原全教の紀行との多少の矛盾については、実際に登りながら検証したい。いったん上信国境に出て御座山へ小さな踏跡を分けた後、南に緩く登って国境が東に直角に曲がる一九七〇米圏の平頂が弥次ノ平である(明大ワンゲルの地名標は位置が間違っているので注意)。ここから東進して一七九一独標まで下り、南に山腹を絡んで一六六二独標近くに向かうのだが、この区間はほぼ車道化されている。特に平成二十九年に、丸岩窪右岸に作業車道網が作設されており、目的地に繋がる正しい車道を選ぶのが容易ならぬ一帯である。一六六二独標付近から三川流域のヌクイノ窪に下り、カラマツ植林を抜けて土捨場に差し掛かると、途中から昭和初期の古い地形図通りの道が復活する。その道も再び植林に入ると曖昧になり、そのまま三川(最近の地形図では「南相木川」と書かれている)の車道に出る。ここから三川集落までは、綺麗な舗装道になっている。

[1]大島亮吉「小倉山」(『山岳』二〇巻一号)、一七三~一七七頁、大正十五年。
[2]原全教『多摩・秩父・大菩薩』朋文堂、昭和十六年、三八四~三九九頁。
[3]原全教「新雪の弥次ノ平と御座山」(『山小屋』五号)、三二~三七頁、昭和七年。
[4]勝見勝「南信彷徨」(『山小屋』五六号)、一~二〇頁、昭和十一年。
[5]大石眞人「佐久の幽巒」(『山と渓谷』一〇三号、六二~六七頁)、昭和二十二年。
[6]春日俊吉『奥秩父の山の旅』登山とスキー社、昭和十七年、「馬越峠・石仏山・大門峠」二六八~二七七頁。
[7]村田健蔵「諏訪山と御座山」(『ハイキング』九二号、四三~四五頁)、昭和十五年。
[8]高島紀一「御座山 人跡まれな領域」(『岳人』一六一号、六二~六五頁)、昭和三十六年。
[9]明治大学体育会ワンダーフォーゲル部『西上州 関東の秘境』明治大学体育会ワンダーフォーゲル部、昭和三十七年、「一班」二一~二八、「七班」七五~八〇。
[10]長沢和俊「弥次ノ平への旅立ち」(『山の本』四二号、一六~二〇頁)、平成十四年。
[11]中部森林管理局東信森林管理署『千曲川上流森林計画区第4次国有林野施業実施計画図』、平成二十五年、第8葉。
[12]国土地理院『空中写真(八ヶ岳)CCB7610(1976/11/01)』、昭和五十一年、C20-14。
[13]国土地理院『空中写真(蓼科)CB865Z (1986/10/20)』、昭和六十一年、C3-13。
[14]北相木村誌刊行委員会『北相木村誌』北相木村、昭和四十四年、三八八~三八九頁付近。
[15]J・C・C(ジャパン・キャムプ・クラブ)編、原全教・佐藤野里路・吉田卯吉校訂『大秩父山岳図』J・C・C、昭和八年。(復刻版「奥秩父」(木耳社)の付録図と同じ)