西沢金山・奥鬼怒道(湯元~西沢金山~噴泉塔~手白沢) page 1 【廃径】

 むかし見た地形図に、高薙山の北を水平に捲いて奥日光と奥鬼怒を結ぶ道があった。その道は湯元温泉から刈込湖を掠め、西沢金山跡を通過し、高薙山の中腹に登っては湯沢噴泉塔に下り、再び手白山の肩まで登って手白沢に降りるという、何のための道か皆目分からぬ不思議な道である。特に真ん中に当たる西沢金山~湯沢噴泉塔の区間は、知る限り六十年以上に渡り記録が見られない。今回、色々と調べ、また実際に歩いてみて、少しだけその謎に迫ることができた。

【道の概要】
 西沢金山・奥鬼怒道(仮称)は、奥日光の湯元温泉から、蓼ノ湖の東岸を抜け、古峠を越え、刈込湖の西岸を掠め、金田峠を越えて西沢金山跡に下り、高薙山の中腹まで登ってしばらく水平に行った後、湯沢の噴泉塔近くに下り、再び手白山の肩まで大きく登り、手白沢へ下る道である。湯元から西沢金山へは三七〇米上って四五〇米下り、湯沢へは二五〇米上って二九〇米下り、手白沢へは三九〇米上って三二〇米下るという、実に無駄な経路を取っている。この道は、昭和に入った直後から約二十年、奥鬼怒への連絡道として頻用され、その後パッタリ往来が途絶えたようだ。忽然と現れ、消えていった道の成り立ちや性質については、明確な資料がほとんど見つからず、それを示唆する様々な資料から推測するしかなかった。諸文献から推測するに、この道は三本の全く異なる道を繋ぎ合わせたものと考えられた。
 湯元~西沢金山の区間は、開発準備中のまだ金鉱の搬出路すらなかった時期に、最も近い村である湯元温泉と山奥にある金山とを結ぶ連絡路として、最初に作られた道である。西沢金山~湯沢噴泉塔の区間は、金山の作業道であろう。杭木の伐り出し、噴泉塔上流域の探鉱などに使ったものと思われる。そして湯沢噴泉塔~手白沢の区間は、川俣から来る今市営林署の噴泉湯林道の一端と考えられる。この道が、水平に行くことなく、いちいち無駄に上り下りを繰り返すのは、目的の異なる三本の道だからであろう。
 一本の道としては不自然な道の付き方から異なる三本の道が合体したものとの仮説に対し、直接的な証拠は見つからないが、多くの状況証拠を見つけることができる。湯元と西沢金山の間には明治時代の金山創業時にすでに確りした道が出来ていた。金山の操業開始に伴い、必要な用材を周辺の国有林(現在は王子緑化社有林)から調達していた[1,2]。高薙山を捲く水平部分に搬出用の木馬道が設置されていた[3-6]ことから、この区間は明らかに用木調達用の作業道として拓かれたと考えられる。道は一転、湯沢へ急降下する。噴泉塔の発見当時はまだ道がなく[7]、明治三十七年の高薙山、四十一年の手白沢の三角点測量も、川俣から道なき道を入山していた[8]。大正元年測図の初版地形図にも道の記載はない。このように金山から湯沢までの部分は鉱山開発の開始後に出来たと思われる。初めて記録に現れるのは大正十三年[9]、すでに西沢金山から噴泉塔までは道があり、川俣から噴泉塔まで営林署の巡視道、噴泉塔林道も開通していたという。通常、営林署の歩道は行き止まらず巡回できるよう作設されるものであるから、噴泉塔から手白山の肩を越え手白沢へ抜ける部分も同時に作られたと考えられる。実際、この区間については昭和三年に一部を通行した記録がある[10]。大正末期にようやく西沢金山から先の部分が通れるようになった背景として、金山の休業が挙げられよう。操業停止日は定かでないが、大正十二年七月の郵便局廃止[11]の前後と推測される。西沢金山探鉱株式会社の鉱山範囲付図[12]によれば、事業範囲は事務所や鉱区がある西沢周辺から噴泉塔付近にまで及んでおり、採鉱中はこの区間は事業用地として立入禁止であったと想像される。噴泉塔の上流約百米の河原の広がった付近(湯沢渡渉点付近)に金、銀の鉱脈があることが以前から知られていて[7]、試掘のための道が用木切り出し道から分岐して作られたものと考えられる。その作業道が休鉱に伴い開放されたと見るのが自然であろう。奇しくも噴泉塔が天然記念物に指定されたのも、大正十三年三月のこと、これも一般に通行可能な道が出来たことと関係するのかもしれない。
 ちなみに奥鬼怒温泉郷は古くから知られた秘湯だったが、旅館の整備は、日光沢温泉の再興が大正十三年、八丁の湯、加仁湯、手白沢温泉の開業が、それぞれ昭和四年、九年、十一年と比較的新しい。当時、鬼怒川温泉か川治温泉から数十キロを歩く鬼怒川沿いの道は不便であり、湯元までバスで入りこの道を歩いて奥鬼怒に入るルートが良く使われたようだ。この道が奥鬼怒温泉郷の発展に貢献したことは疑いない。当時のガイドブックには、奥鬼怒に留まらず、尾瀬への入山コースとしてさえ紹介されている。幾つかのガイドが示す平均の所要時間は、西沢金山-(二時間)-湯沢渡渉点-(二時間)-手白沢といったところである。

【西沢金山】
 西沢金山と切っても切れぬ関係のこの道を知るには、複雑な歴史を持つ金山について少し知る必要がある。すでに江戸時代には採掘記録があるものの、その後伝説化していた金山だったが、明治二十六年、一攫千金を夢見る地元川俣の村民により再発見された。二十九年に小規模ながら鉱脈が見つかり、試験精錬や鉱石販売などの事業が始まった。当時の東京方面への交通は、もっぱら山越えの日光経由だったので、明治三十一年、まず登り勾配となる西沢金山~小松ヶ峯間が索道化された。鉱石は、そこからは畜力で輸送、馬返で電車に積んで日光へ搬出した。事業開始に先立って、山中に社屋や設備を整える必要があった。湯元~西沢金山の道は、明治二十六年の事業開始と前後して開通したようだ [13]。明治三十三年の文献に、湯元から金田峠越えの道があり、連絡員が鉱山との間を往復していたとの記述がある[1]。さらに、当時は一帯が国有林であり、木材払い下げを受け、薪炭用・建材として伐採していたともあることから、すでに西沢金山~湯沢噴泉塔間の作設が始まっていた可能性もある。民間への払い下げの結果、現在の国有林は当時より後退しているが、比較的金山に近い鬼45図根点付近の天然広葉樹林の林齢[14]から、例えば図根点付近は明治三十七年頃の伐採と推測される。当然、伐木搬出用の木馬道が存在していたはずであり、前述のようにこれが後日登山道化したと推測される。
 事業開始に伴い、三本松から光徳を通り、山王峠、小松峠を経て西沢金山に至る専用道路が建設された。日光から鉱山まで馬車が通じ[2]、交通が確保された。明治三十五年の台風で存続が危ぶまれるほどの大きな被害を出したが何とか持ちこたえ、三十九年、西沢金山探鉱株式会社として再出発、事業拡大に向け本格的に探鉱を開始した。しかし探鉱するにも費用が掛かるので、精錬せず原石のままでの鉱石販売を並行して行い、資金を確保した。明治四十二年に菖蒲ヶ浜発電所を開設(一二三馬力)、その電力を用いて精錬を開始し、事業は成功し始めた。厳しい山岳道路だった金山から白洲(オログラ山・山王帽子山鞍部)を索道に切り替え、そこから車で日光へと下ろすようになった[13]。操業中の鉱区は、金山の事務所近くで分かれる西沢本沢(右股)と湯沢(左股)およびそれらの支沢にあった。一方、噴泉塔のある鬼怒川支流の湯沢にも鉱脈があり[2]、西沢金山探鉱株式会社の資料付図によると、鉱山の範囲は、西沢左股の湯沢の右岸から噴泉塔のある同名の湯沢の左岸にまで及んでいた[12]。鉱山範囲に同名の湯沢が二つあり紛らわしく、ごく最近の文献[15]でもこのことに触れずにたんに、鉱区は「西沢と湯沢にまたがった範囲」、「湯沢に一鉱区」とあるが、鉱区のある湯沢は西沢左股の湯沢のことである[2,12]。その名の通り、西沢金山の鉱区内にも、温泉が湧くことが知られている。
 大正五年頃、金山は最盛期を迎えた。同年、郵便局が開設され、菖蒲ヶ浜発電所は設備更新により七〇〇馬力に増強、翌年、索道を電車が通じている安良沢(日光市内)にまで伸延、輸送力を大幅改善した。しかし鉱脈の枯渇に、金属の価格暴落が加わり、急速に経営が悪化、大正十一年頃には休坑に追い込まれた。閉山直後に通行した登山家武田久吉は、寂れた作業場と廃屋、板が腐った分教場などと、うらぶれた廃村の侘しさを伝えた[16]が、昭和七年に日光鉱業株式会社が、採鉱を再開した。再び賑わいを取り戻した鉱山町の様子を、事務所の主任が宿舎と食事を提供する暖かいもてなしを受け、人懐っこい子どもたちと楽しく交流したとして、通りがかった登山者が紀行に報告している[17]。だがそれも長くは続かず、十四年に事業が停止すると、二度と金山に火が灯ることはなかった。

【地形図の歪み】
 西沢金山・奥鬼怒道を語るに当たり、初めに旧版地形図の著しい歪みについて考えておかなければならない。航空測量が使われ始めた昭和三、四十年代以前の三角測量による地形図は、三角点の位置以外の位置の精度が低い。そのため各所で尾根や川の位置、長さが事実と大きく異なっており、特に山地では現地をよく知る営林署の経営図(等高線のない絵図のようなもの)の方が正確であるケースも散見される。

高薙山北面の地形表現(三角測量)出典:大日本帝國陸地測量部 五万分の一地形図「燧岳」
(大正二年発行)
同(空中三角測量)出典:国土地理院 五万分の一地形図「燧ヶ岳」
(昭和五十五年発行)

 西沢金山・奥鬼怒道の周辺では、三角点が置かれたオログラ山、高薙山、手白山の位置がほぼ正確であるのに対し、高薙山と手白山の間に位置する湯沢の上流部の地形が全くいい加減であることが、最新の地形図と比較すればよく分かる。三角点の間隙部分の地形もある程度の精度で表されるのが普通だが、高薙山と根名草山に挟まれた湯沢上流の地形は非常に複雑で、往時の技術では正確に把握することが出来なかったのであろう。湯沢右岸には、下流から見ると、伊勢沢(一一五五米圏出合)、笹倉沢(一二〇五米圏出合)、清水沢(一二一〇米圏出合)、カニ湯沢(一二八〇米圏出合)が次々と入っている。なお地形図の「笹倉沢」は誤りで、「清水沢」が正しい。正しい笹倉沢は、一つ下流側である。湯沢沿いの地形は、鬼怒川出合からカニ湯沢まではある程度正しく表現されている。尾根はと言えば、清水沢とカニ湯沢の間に落ちる高薙山北尾根以東の地形は概ね合っている。しかし、湯沢のカニ湯沢出合から上流、高薙山の北尾根の西斜面において、沢の位置、支尾根の位置が著しく歪んでいる。最新図に見える、高薙山北面から出て噴泉塔付近の湯沢右岸に入るV字型斜面(上両図中の緑V字)と、大岩沢、熊穴沢、唐松沢などの湯沢源流域の支沢群とに挟まれた大きな緩斜面(上右図中の緑楕円)、これが左図ではそっくり欠落、いやむしろV字型斜面と一体化している。そのため旧図の湯沢上流部はやけにゆったりとして余裕が出てしまい、すべてが間延びしている。結果として噴泉塔は必要以上に奥へ押しやられてしまい、噴泉塔のすぐ上で湯沢を渡る登山道も、渡沢点が相当上流に追い上げられている。旧図に示された道の位置を参照する際は、この歪みを割り引いて見る必要がある。
 なお、地形が正しくなった昭和三十五年以降の新図にも依然として道が示されていた。当時の道は既に廃道化していたと見られるが、四十八年版での削除まで、道は記載し続けられた。その噴泉塔や道の誤った位置情報(緯度経度情報)が、旧図から地形が正しくなった新図に受け継がれたようだ。結果として昭和五十年代以降に出版された地形図上の噴泉塔や道の位置は、歪みというよりむしろ出鱈目になってしまい、旧図以上に当てにならないものになった。異常に上流側に描かれた、事実と異なる新図の噴泉塔位置や手白山に上がる登山道の位置については、同時期の営林署の施行実施計画図には正確に示されていた[14]。地形図においては平成二十三年更新で、ようやく噴泉塔の位置が訂正された。

[1]斎藤精一「栃木県下野国塩屋郡栗山村大字川俣小字西沢金山一見余塵」(『日本鉱業会誌』一八八号、五二三~五二五頁)、明治三十三年。
[2]渡邉渡「希有ノ良鑛ヲ出セシ西澤金銀山」(『日本鉱業会誌』二四四号、四六三~四七八頁)、明治三十八年。
[3]佐藤傳藏「本邦温泉の地質學上の研究一斑 (其の三) 」(『地学雑誌』三六巻三号、一五七~一七三頁)、大正十三年。
[4]綱島定治・矢島市郎『日光国立公園』地人社、昭和十一年、「湯元から川俣温泉へ」一一五~一一六頁、「富次郎新道図」一一七頁、「噴泉塔と手白山」一一八~一二〇頁。
[5]武田久吉編『尾瀬と日光』朋文堂、昭和十六年、矢島市郎「尾瀬・日光登山案内」二三四~二七二頁。
[6]川崎隆章『尾瀬と南会津の山』三省堂、昭和十六年、「金田峠、西沢金山、手白沢温泉」三六~四一頁。
[7]渡邉渡「日光奥栗山ノ噴泉塔」(『日本鉱業会誌』二九四号、八六五~八七四頁)、明治四十二年。
[8]陸地測量部『点の記』、「高薙山」、明治三十七年、「手白沢」、明治四十一年。
[9]佐藤傳藏「本邦温泉の地質學上の研究一斑 (其の三) 」(『地学雑誌』三六巻三号、一五七~一七三頁)、大正十三年。
[10]小川貢『日光雑記』金星堂、昭和三年、「噴泉塔」一六八~一八〇頁。
[11]印刷局『官報』三二七九号、九八頁、大正十二年七月五日。
[12]梁木毅六編『西澤金山大觀』(西沢金山探鉱株式会社)、大正五年、「鉱区 一.位置、交通及気象」一~三頁、「鉱山範囲付図」八頁、「噴泉塔」一六八~一八〇頁、「西沢金山実測図」。
[13]杉田六一『日光湯本と其周囲』文川堂書店、大正十二年、「刈込湖、切込湖」五八~五九頁、「西沢金山」五九~六一頁。
[14]前橋営林局宇都宮営林署『鬼怒川・渡良瀬川森林計画区第2次施行管理計画図』、平成五年、第8片の内第5片。
[15]佐藤壽修『西沢金山の盛衰と足尾銅山・渡良瀬遊水地』随想舎、平成二十九年、「鉱区と鉱物資源」一〇九~一一〇頁。
[16]武田久吉『尾瀬と鬼怒沼』梓書房、昭和五年、「八 金田峠を越えて日光湯元へ」一九五~二〇一頁。
[17]松本浩「栗山旅情」(『ハイキング』九五号、七二~七六頁)、昭和十五年。