千曲川本流東沢
三宝山は甲武信岳周辺の最高峰で、地元の梓山から見ると近い位置にある山でもある。明治時代測量の地形図でも、山仕事に使ったものであろう、最短距離の東沢を登る道が示されている。しかし西沢沿いに登山道が出来、伐採が行われ、また甲武信岳が有名になると、東沢は存在すら忘れられたかのようである。15Mほどの大滝奥の、ナメと原生林がどこまでも続く流れは、森と水に親しむ遡行に最適だ。
● 東沢出合~1650M圏沢屈曲点
毛木平から甲武信岳に向かう千曲川西沢の道を取り、大山祇神社の地点で東沢に入る。水量の多い植林地の沢を、倒木・間伐で荒れているが黄テープのマーキングがある右岸道で進んだ。1600M圏の右岸に広幅の大きな岩壁がある。仕方なく左岸に渡ると、道の続きがあった。左岸が岩で阻まれると、今度は丸太橋があって(2013年7月現在流失)右岸に渡り返し、直後にまた左岸に戻る。すぐに苔むした石室(炭焼窯跡と思われる)が見つかる。この間、数分間の距離だ。
道はマーキングに従い左岸山腹に移るので、平流の美しい沢を進む。右岸から崩落した岩石と倒木が沢を埋めている地点で、沢は大きく右に屈曲し、小さなゴルジュとなって滝を掛けながら奥に続いている。
●1650M圏沢屈曲点~1770M圏右岸支沢出合
2M、続いて釜を持つ3M滝のミニゴルジュを難なく通過し、再び河原が開ける。左岸廃林道が降りてきて右岸のカラマツ植林地に渡っているが、今や橋桁しか残っていない。ここまでは特に見所はなく、作業道を使った方が良いだろう。踏跡があるようなないような植林地の広い右岸の河原を行くが、間伐や枝打ち材が散乱し、非常に歩き難い。この辺もまだ遡行らしい感じはない。
●1770M圏右岸支沢出合~三宝山
1770M圏右岸支沢の出合に、東沢は15Mスラブ滝で流れ込んでいる。唯一の登路は、右岸支沢に少し入り、シャクナゲヤブの中間尾根を越えて滝上に降りるルートで、踏跡がある。降り立った地点の直後に、30M多段スラブ滝が控えている。落差は大きいが尻込みするほどの角度はなく、数段に分かれている上、適度にバンドが走っているので、快適にスラブ上の流れを登っていく。最上段のみ念のため左のヤブから巻いた。
息付くまもなく、水平長300Mはあろうかという、長大ナメ滝を迎える。表面が滑らかに磨かれた見事なナメが、時折、倒木や礫崩に妨げられるものの、いつ果てるともなく連続する。地形図から算出した平均斜度は約17度、通過に約20分を要した。水流の真ん中を果敢に攻めて、どんどん登っていく。
千曲川本流東沢遡行図 (クリックで拡大) |
右から小さな涸窪を二本合わせ、その度に少し左に曲がる。小さな水流を右から合わせ、また左に少し曲がる。さらに次の小窪が右から合わさるところに、堰堤状の2M滝があり、ようやく長いナメも一旦終止符を打つ。ただしこの先もナメ的な様相はまだまだ続く。
次に、5段20Mスラブ滝が現れる。1、2段目は左側を登り、3段目との間の段を右に行ったが、スラブ状を勢い良く流れる水流に躊躇して戻り、3段目を左から巻き気味に上がったあと、4段目との境を右に渡り、4段目の途中から左に移り、左から5段目を登った。このとき右岸に巻道らしからぬ踏跡を見たが、沢沿いに古い切株が点在することからして、東大演習林図(1931年)記載の、東沢沿いに三宝山へと登る古道かと思われる。
続く3段10Mも同様のスラブ滝で、シャワーで中央突破も楽しいかと思ったが、水はなかなか冷たく水量も多い。特に直瀑の2段目はシャワークライムというより、修行クライムだ。溜まらず直撃を右にかわしながら登り、3段目からシャワーに復帰した。
前方の稜線が徐々に下がってきて、沢の傾斜も多少緩くなる。スラブ状のナメ滝をいくつか通過し、7M3段スラブ滝を抜ける。
急に水流が平坦になり、源流の様相を迎え、原生林と苔の緑が美しい、2030M圏の変則三俣に到達する。厳密には1:1の二俣なのだが、右俣がすぐに分岐し地形図では三俣にも見える。右岸遥か上方に大岩が迫り出した左俣は緩やかに登っており、一方右俣は急傾斜で三宝山に突き上げている。先の踏跡の続きだろうか、左岸から登ってきた古道らしい踏跡が、中俣と左俣の中間尾根を登っている。古道で一気に山頂へ出るのも一興だが、道の状態が定かでない。ここは地形的に本沢にあたる左俣を取り、さらに進むこととする。
原生林の中、緩傾斜の小川のような流れが、倒木を縫って流れていく。沢の中ほどの直径10M以上はありそうな苔むした巨岩が目を引く。
沢が右に曲がると2100M圏二俣で、細い流れがさらに僅かな1:1の微流に分岐する。左俣を取れば、すぐ武信国境縦走路に出て十文字峠から下山できるが、今回三宝山まで詰めるため右俣を取る。ちっぽけな流れの上に倒木が覆い重なり、沢筋を辿るのさえ容易でない。
徐々に傾斜が強まり、2200M圏二俣となる。微流がさらに1:3に分かれ、右の本流を取るが、もう水汲みが精一杯の流量だ。谷が礫で埋まった場所があり、遡行価値無しと判断し、2230M圏でいよいよ詰めの原生林に足を踏み入れた。
三宝山の山頂までは、顕著な尾根も谷もない、のっぺりした一面の原生林を、ただただ登っていく。土を見ることは稀で、地上の殆どが腐食した倒木や苔に覆われている。それらは落とし穴のようで、腐食が進んだ部分で踏み抜くこともしばしばだ。原生林のまさにジャングルと格闘するうちに、幻覚に襲われるようになる。いつまでも三宝山に着かないのでは、そもそもいま自分はどこを歩いているのか、いや今夢の中で森を彷徨っているのでは、と。頭を空っぽにして、真っ直ぐと機械的に歩みを進めていく。
気がつくと、傾斜が緩んできた。原生林の中に、ぽつぽつと稜線上によくある潅木が見られるようになってきた。そして左手に何かの溝を発見する。武信国境の登山道のようだ。それを3分辿ると、ハイカーの楽しげな団欒が繰り広げられる三宝山山頂にひょっこりと飛び出した。
[1]安藤愛次・小島俊郎「土壌の性質と林木の成長(3) シラベの35年生林」(『日本林学会誌』三九巻四号、一三六~一三八頁)、昭和三十二年。
[2]竹内昭「杣口・奥千丈林用軌道」(『トワイライトゾーンMANUAL7』ネコパブリッシング、一六四~一七〇頁)、平成十年。
[3]吉沢一郎「琴川を遡りて奥千丈岳へ」(『山岳』二〇号一巻、一八五~一九二頁)、大正十五年。
[4]小野幸「奥秩父の南部」(『日本山岳会会報 山』八四号、三~四頁)、昭和十四年。
[5]原全教『秩父山塊』三省堂、昭和十五年、「金峯山(三)」八三~八四頁。
[6]原全教『奥秩父』朋文堂、昭和十七年、「東口」四四四~四五三頁。
[7]吉沢一郎「奥千丈迷路行」(『登山とスキー』九巻一〇号、一三~一八頁)、昭和十三年。
[8]北村峯夫「奥秩父の山々」(『山と高原』二九号、七~一三頁)、昭和十六年。
[9]青垣山の会『山梨県県有林造林:その背景と記録』、平成二十四年、有井金弥「拡大造林との出会い」五四~五五頁、高山巌「奥千丈事業地の森林整備の方向」六一~六二頁。
[10]小野幸「秩父の寸景」(『日本山岳会会報 山』一六六号、六~七頁)、昭和二十八年。
[11]小野幸『マウンテンガイドブックシリーズ19 奥秩父』朋文堂、昭和三十一年、「石楠花新道より国師岳」六八~六九頁。
[12]芳賀正太郎「国師岳天狗尾根」(『新ハイキング』四五号、五六~五八頁)、昭和三十二年。
[13]山と渓谷社編『奥秩父の山と谷 登山地図帳』山と渓谷社、昭和三十三年、橋爪宗利「杣口から国師岳へ」一八三~一八五頁。
[14]北村武彦「金峰山集中登山」(『山と高原』二七六号、二四~二七頁)、昭和三十四年。
[15]山口源吾「関東山地における高距縁辺集落」(『歴史地理学紀要』一〇号、一九一~二一八頁)、昭和四十三年。
[16]山と渓谷社編『奥秩父 アルパインガイド15』山と渓谷社、昭和四十年、河合敬子「国師岳Ⅰ─琴川コース─」一三八~一四〇頁。
[17]西裕之『特撰森林鉄道情景』、講談社、平成二十六年、「杣口森林軌道」七八~八〇、「山梨県林務部の軌道」八一頁。
[18]芳賀正太郎編『奥秩父・大菩薩連邦 アルパインガイド35』山と渓谷社、昭和四十八年、「琴川から国師岳」一一四~一一五頁。
[19]国土地理院『二万五千分一地形図 金峰山』(昭和四十八年測量)、昭和五十一年。
[20]山と渓谷社編『奥秩父 アルパインガイド15』山と渓谷社、昭和三十六年、筒井日出夫「杣口から国師岳へ」一八三~一八六頁。