大黒道 【仕事径】
中津川からヒラ平(現在の大黒坑付近)へ通ずる大黒道(仮称)を辿ってみた。大黒道は、中津川と小神流川を隔てる八瀬(ヤセ)尾根を九七〇米付近で越えて短距離で結ぶ道、八六〇米付近で越えるが距離が長い道の二本があったようだ。
高所で越える道(ここでは「高い道」と呼ぶ)は、江戸時代(弘化4年(1847年)・嘉永5年(1852年)の図[1,2]にもそれらしきが見られる、中津坑、滝上坑近くを通る鉱山道である。中津川から桃ノ久保に沿って登り、山鳥窪上部を通過、ヒラ平に下っている。さらに小神流川を渡り、峠状を越えて雁掛沢出合へ下り、金山へ続いているのだが、昨今ニッチツ施設への侵入問題が深刻になっているようなので、その区間については述べないことにする。ヒラ平に下る部分は、昭和中期の鉱山図[3,4]を見ると、滝上坑のある小窪近辺の山腹を電光型に下っているが、現在の道は金山沢出合付近へ向かって真北に落ちる支尾根を下っている。鉱山のニッチツによる買収後、昭和15年頃から大黒坑での操業が活発になり、道が付け替えられた可能性がある。五万分の一地形図「三峯」では、昭和27年8月30日の応急修正版(主として米軍空撮図で確認された変更を反映)から中津川・金山への送電線(現在は廃止)が書き加えられており、現在の道はその送電線に沿う巡視路に置き換えられたとの推測もできる。かつて地形図でも中津川~山鳥峠近くまでが記載されていたが、現在は消されている。
一方、低所で越える道(ここでは「低い道」と呼ぶ)は、資料の上で初めて明らかになったものとしては、大正四年の初版の地形図「万場」である。精度の低さから地形図では経路がはっきりしないが、中津川から山鳥窪近くの小神流川右岸の鉱山までの区間は、鉱山地図[4]に掲載されているので詳しく知ることができる。また車道開通前の、原、坂本らの紀行を合わせ読むと、ある程度正確な位置が推定できる。原は、集落の下流側から急登したあと横手に約三百米回り、集落から十五分で八瀬尾根を越え、水平に窪を二つ渡り、金山沢を対岸に見てから急下する[5]、坂本は、八瀬尾根の右横を越し、中腹を絡んで小神流川右岸を進み、大黒鉱の手前で川に下って右岸に渡るとヒラ平で、金山と六助道との分岐であるとしている[6]。鉱山地図にある道からおよそ水平に進んで急下するというから、地形的に考えると、八五〇~九〇〇米辺りを進んで、「高い道」のうち廃送電線沿いの現在の経路に、真北に落ちる尾根上で合流するとみられる。
今回通ったのは、「高い道」である。本当は原や坂本が通った「低い道」を通ってみたかったが、「低い道」は中津川から山鳥窪近くの鉱山までは通れる可能性があるが、その先もし廃道化していた場合、距離が長いため格段に不利になるから、そのリスクを避けたのである。また「高い道」を平成十八年に通行した記録(「百年の森づくりの会」によるもの)が見られたこともある。
● 中津川~山鳥峠
道の入口がわからず、桃ノ久保右岸の植林踏跡に取り付き、約二〇米登った採鉱地跡らしきを左岸に渡り、踏跡で左岸尾根に乗り、金山神社の前に出た。一帯は地元の墓所も兼ねていて踏跡が入り組んでおり、再び窪にある廃物だらけの一段上の採鉱地跡に行き着いてしまい、適当に登って、潰れ小屋のやや上で尾根に乗り直した。後で知ったのだが、この間正道は常に桃ノ久保左岸尾根の東を絡むように付いており、まずバス道路にある中津川キャンプ場への分岐の三、四十米東から取り付きくのが正しいようだった。
十分ほど尾根に絡んで良い道を登った後、道はの左に逸れ始め、西隣の小尾根にほぼ乗る寸前に折り返し、やや曖昧になりつつ、鼻状地形近くで登ってきた小尾根に戻った。すぐ下に壊れた小祠があった。道は曖昧なまま平坦になったその尾根を少し登ると、右手の植林に入るもの、小尾根に絡んで斜めに登るもの、小尾根の左をトラバースするものに三分した。右上に斜登する踏跡を取とると、すぐ水平になり、両神から宗四郎にかけての上武国境の展望が素晴らしい山鳥峠に至った。読めない道標風があった。ここが何故山鳥峠と呼ばれるか分からないが、古来一帯は「山鳥久保」の字名であり、北東から上がってくる山鳥窪の名をとったのであろう。
● 山鳥峠~ヒラ平(大黒)
植林が終わって雑木林を緩く下るようになった。道型は辛うじて分かる程度になり、やがてほぼ道消えてしまった。短いヒノキ植林を通過するときは少し見えたが、自然林に入るとまた怪しくなった。それを何度か繰り返し、煙突的な形状の何かが置かれた尾根の切通を通過した。九七四独標の西鞍部である。やぐらのようなものも見えた。
ここが、転げ落ちるような急な下りの始まりであった。初めは桟橋や当て木のある山腹の下りだったが、すぐに真北に落ちる支尾根に乗った。大黒の作業場が上からよく見下ろせた。造林ワイヤーや電線などに掴まりながら、滑りやすい小尾根の急な尾根筋を下った。たまに折リ返したりするが、基本は尾根筋通りきっちり下っていた。所々折れ曲がる痕跡を見たことから、折り返し下る旧道が、尾根通しに下る急な新道に変わってきたのかもと想像した。一般道としては、あまりにも急だからである。
尾根が次第に緩み、踏跡が不明瞭になるころ、左下に車道のトンネル出口が見え、そちらに下る踏跡が見えた。これを辿って斜めに降り、二回折り返して大黒トンネル西口脇の駐車場やプレハブが立つ作業広場に降り立った。道はあるような無いような状態なので逆から来ると登り口が不明だが、保安林の看板が目印になろう。
昔の道は小神流川を渡った後、登り返していたのだが、今は車道の大黒橋を渡って軽く登れば、ニッチツの施設が立ち並ぶ大黒地区、すなわちヒラ平であった。最初の建屋から約二百米進んだ辺りの山腹に金山への旧道入口があり、それを折り返しながら百数十米辿ると金山道と六助道の分岐がある。これと言った目印もなく、またこれらの道は総じて自然に還りつつあるので、見つけにくいだろう。
なお、そこから始まる六助道(鉱山時代のもの)は六助道のサブルート2として別途報告のとおりである。また金山への旧道は、橋の崩落、沈殿池の埋立による寸断があり、登山技術がないと危険なうえ、ニッチツの作業場を通過さぜる得ないので推奨されない(私の場合、結果的に抜け道がなかったためやむを得ず作業場を通らせていただくことになった)。
[1]]富岡政治「近世中津川村における生業と林野利用:土地利用からみた生活領域」(『史苑』五一巻、二号、四一~八〇頁、)、平成三年。
[2]原田洋一郎「近世期における鉱山開発と中津川村」(『歴史地理学調査報告』第五号、八三~九八頁)、平成三年。
[3]赤沢敏行・北原奎司郎「秩父鉱山」(『日本鉱業会誌』、八三巻、九五六号、一八二二~一八二七頁)、昭和四十二年。
[4]黒沢和義『続 秩父鉱山』同時代社、平成二十九年、二八五~二八七頁。
[5]原全教『奥秩父・続編』朋文堂、昭和十年、一〇七、五九九~六〇〇頁付近。
[6]坂本朱「奥秩父西側尾根」(『山と渓谷』三四号、六八~七一頁)、昭和十年。