奥武蔵スキー場
その昔、わずか数年ほどの短期間存在した幻のスキー場の実態に迫ります。
概要
奥武蔵スキー場推定位置図この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図 画像)及び数値地図25000(地図画像)を使用した。(承認番号 令元情使、 第199号) |
昭和初期の短期間、奥武蔵にスキー場があった。西武鉄道(当時は武蔵野鉄道)が開発した最初のスキー場で、後に系列内で開発した、昭和三十一年の万座、三十四年の狭山(人工)、三十六年の苗場スキー場の布石となった元祖のスキー場である。その約十年前に秩父スキー倶楽部が高篠スキー場を開設し、一米以上の積雪があったというが、その後植林されて狭まり、使えなくなっていたらしい。それをまた武蔵野鉄道が切り開いて、ゲレンデとして整備したという。開業は昭和八年十二月で、十二月末から三月末まで営業していた。
当時既に全国の主要スキー場が開業していたが、お金も暇もない多くの一般市民には高嶺の花であったと思われ、とにかくスキーをしてみたい人にとっては有難い存在だったと見える。一九八〇~九〇年代のスキーブームにおける、カムイみさか、ふじてん、軽井沢などの人工スキー場のような、手軽に行ける初心者向けスキー場の様な立ち位置だったのではないだろうか。
交通
当時電車の終点であった吾野駅からバスに乗り、終点の大蔵平まで行く(二十分、五十銭)。大蔵平は現在の正丸駅の僅かに下で、当時大型車両が入れる最奥の地点であった。そこから刈場坂(カバサカ)峠までの四粁を四十~六十分掛けて徒歩で登った。ハイキングコースとして整備されてはいたが、峠の手前はなかなかの登りだったという。スキー用具を持っての登りは、今より体力があった当時の人にとっても楽ではなく、村の子供が小遣い稼ぎで一台十銭で運んでいた。それでも池袋から三時間でスキー場に着き、鉄道の割引きっぷを使えば一円九十銭で行くことが出来たので、日帰りスキー場として人気を博した。鉄道では、池袋-吾野を一時間二十分で結ぶ特別列車を計画していたとのことだ。秩父からも、鉄道からバスに乗り継ぎ芦ヶ久保から行く方法があったが、丸山まで一時間半の登りと大変だった。
施設
第二ゲレンデ[1] |
はるばる登ってきた刈場坂(カバサカ)峠には、武蔵野鉄道が建設した洒落た二階建ての第一ヒュッテがあった。その場所は、現在の車道の西側の雑木林の中だったようだ。収容人員百人のヒュッテは夏期のハイカー用の山小屋およびレストハウス兼用で、宿泊は三十銭、食事は朝食十五銭、昼食・夕食は二十銭であった。お菓子やサイダーなども購入できた。ここがスキー場の入口に当たるスキーセンターであった。また広告によれば貸しスキーやスクールもあったという。
第一ヒュッテから北斜面を百米ほど下ったところに、第一ゲレンデがあった。北向きの斜面は雪質が良く、斜面は変化に飛んでいたが、整備されていたのは初心者用スロープだけだった。上越や信州のスキー場に比べ積雪が少ないので、斜面は立木を除きヤブを払い、石を除けるなどの整備が必要だったのだ。そのためスキーヤーからは、急斜面も整備して滑れるようにして欲しいとの声があった。峠から一番近く雪質も良いここがメインゲレンデで、ゲレンデ下部の恐らく標高690M付近には、グリコ株式会社(現在の江崎グリコ)の資金提供でヒュッテが開かれた。降雪後の休日には多くの客で賑わっていたらしい。
第三ゲレンデへ向かうツアーコース[5] |
第二ゲレンデは、峠から五分ほど西に行った斜面にあった。こちらは高麗川源頭の牛立久保にあった平凡単調なスロープで、南西向きのため雪が悪く規模も小さかった。オフシーズンには、虚空蔵峠~刈場坂峠のハイキングコースがゲレンデを横切っていた。
(2018.3.11追記 この記事を読まれた奥武蔵研究者の方から、第三ゲレンデの位置が違うのではとのご指摘を頂きました。文献を再精査し、また追加資料を参考にした結果、推定位置を丸山山頂北西250M付近の車道脇にある埼玉県民の森駐車場上斜面に訂正いたしました。)
第三ゲレンデはかなり遠い位置にあり、行くこと自体が約四粁の山岳スキーツアーで、そのためのコースが新設された。このコースは車道開設で破壊された部分もあるが、現在も登山道として残っている。第一ゲレンデから尾根伝いに北上し三十分で大野峠、更に二十分進んだ丸山の先の北斜面がスロープだった。つまり天気の良い日に、ヒュッテの立つ峠からさらに小一時間掛けて行くような場所だったのである。位置を正確に示す証拠が見つけられなかったが、基盤地図情報の一米間隔等高線の詳細地形図、清水武甲による詳細なゲレンデ説明、昭和二十一年の積雪期の航空写真から、丸山山頂直下から北西に続く、長さ約百五十米、標高差約六十米の小斜面と推測した。ここは一年遅れで追加開業したゲレンデで、広々して傾斜が緩く初級者向きだが、規模はさほどではなかったという。ただ北西向きで標高も高いため、一番雪持ちのよいゲレンデとされた。秩父スキー倶楽部のヒュッテがあり、冬は開放されているので利用できた。
雰囲気
秩父側の第三ゲレンデ登山口付近、背景は武甲山[3] |
開業直後の二月には千人が来場した日があり、昼の食堂の混雑も酷かった。原全教は、「特に年頃の娘たちが盛装してゴム長をはき、高鳴る胸をふところ手で一そうふくらませ、スキー場の周囲に緒列して矯笑さんざめいたさまは、正に空前絶後の歴史的光景であった。」と語っている。
(2018.8.18追記 この記事を読まれた奥武蔵研究者の方からの情報により文献を参照し追記)また件のグリコ寄贈のヒュッテのオープンイベントに当時の人気女優・水の江瀧子を招聘し、三千人の若者が集ったという。
奥武蔵は多雪地帯ではないため、降雪状況に大きく左右された。昭和九年は二十年来の少雪で十分滑れず、斜面の整備を念入りにして欲しいとの声が出た。当時は各スキー場の積雪量がラジオで報じられていたので、それも参考にしつつ、東京の降雪状況を見計らって出かけていた様だ。降雪直後には大賑わいを見せた。
スキーヤーからは、スキー場までの徒歩が長く、ゲレンデは狭く簡単過ぎる、との意見が多かった。切株や石の除去が不完全など、ゲレンデ整備手入れに対する不満も聞かれた。
第一ゲレンデ(推定)[14] | 第一ヒュッテ[15] |
ある利用者のレポート
大雪の四・五日後、朝五時に支度を始め、池袋を七時に発ち、バスに乗り換え大蔵平に着くと、百人余りのスキーヤーが一斉にスキー場へと登り出した。麓の旅荘に立ち寄って時間を費やしてしまい、結局十二時半に、馴染みのおじさんがいる刈場坂峠のヒュッテに着いた。第一ゲレンデに行くと、休憩所前では今朝着いた大勢が盛んに昇降を繰り返していた。
混雑に臆して、午後二時頃、第三ゲレンデに向かうと、二条のシュプールがあるだけで誰もいない。偶々途中で出会ったスキーヤーと同行するが、大野峠付近で同行者は時間がなく引き返すと言うので、一緒に峠まで戻った。第一ゲレンデで三十分滑るが飽きてきて、ゲレンデを外れて東にブナ峠までの稜線を滑ってみたりした。
刈場坂峠のヒュッテに戻り、宿泊した。日中の混雑と裏腹に、宿泊者は自分を含め四名だけだった。翌朝、浅間山の噴煙まで見える晴天の中、朝八時に四名揃って第三ゲレンデへ向かった。しかし好天なのでゲレンデへ行くのは止め、丸山山頂を目指した。四人は思い思いに山頂での時間を過ごした。昼にヒュッテに戻り、温かい大根の煮付け、野趣満々の香の物の昼食を美味しく頂いた。
その後
スキー場がいつまで使われたか確かな情報を得ていないが、少なくとも昭和十~十一年シーズンにはまだ滑れたという。しかし付近を通るハイキングコースの記録や案内記事を見ると、第二・第三ゲレンデは昭和十三、四年までに閉鎖となり、昭和十六年の二つの記事ではスキー場に全く触れられていないことから、その時点では第一ゲレンデも閉鎖されていたことが示唆される。
何故それほど短期間で閉鎖されたのだろうか。開業中から既に雪不足が問題になっていたが、奥武蔵研究家の大畠達司氏も著書でそのように推測している。下表は、秩父市内の月間最深積雪量の推移である。市内より数百米高い山頂付近は若干積雪量が多かったかも知れないが、安心して滑れるのは市内で三十センチ以上の積雪が観測された場合であろう。市内で二十センチ程度でも、ゲレンデでは多少不便だが滑るには滑れたかも知れない。そう考えた場合、まともに滑れたのは昭和十~十一年シーズンだけであり、前後の年は一回滑れたかどうか、十二~十三年シーズンは恐らく全く滑れなかったのではないか。これでは開店休業である。
ちなみに大雪のため秩父に自衛隊が除雪出動した平成二十五~二十六年シーズンの二月の最深積雪は九十八センチだったが、昔の秩父ではうまくするとその半分程度は積もっていたことになる。だからスキー場開設を考えたのも分からなくはないが、それでも毎年確実に積もるわけではなかったのである。
その後、第二次大戦の参戦に伴いスキーどころではなくなったことは間違いない。戦局が進むにつれ、スキー場はどこも資材供給、食料調達の場、疎開先となったという。また第一ゲレンデは大戦後、開拓地として使われたようだ。牛立久保の第二ゲレンデだけは、昭和三十年代まで積雪時にシュプールが見られたという。夏の山小屋としても使われた第一ヒュッテもスキー場閉鎖と前後して営業停止となり、しばらくは管理人夫妻の住宅として使われていたが、昭和二十年代に取り壊されたようだ。終戦後の高度経済成長で国民がある程度豊かになると、もうスキーヤーの目は雪国の本格的なスキー場に向けられるようになり、奥武蔵スキー場はすっかり忘れられた。
シーズン | 12月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 |
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昭和 1-2年 | 40 | ||||
昭和 2-3年 | 58 | ||||
昭和 3-4年 | |||||
昭和 4-5年 | |||||
昭和 5-6年 | 28 | ||||
昭和 6-7年 | |||||
昭和 7-8年 | 17 | ||||
昭和 8-9年 | |||||
昭和 9-10年 | 16 | ||||
昭和 10-11年 | 32 | 42 | |||
昭和 11-12年 | 14 | ||||
昭和 12-13年 | 6 | ||||
昭和 13-14年 | 35 | ||||
昭和 14-15年 | 6 | ||||
昭和 15-16年 | |||||
昭和 16-17年 | 14 | ||||
平成 25-26年(参考:記録的大雪の年) | 98 | 7 |
現在は、かつてスキー場があったとは想像すらできないほど、気候も変化している。気象統計を見ると、当時と現在とでは秩父市の最低気温が約四度上昇し、降雪時の積雪も三十五センチくらいはあったのが今は二十センチくらいしか積もらない。雪は少ないほど急速に溶けるので、多少の雪が降ってもすぐ溶けるようになった。これでは、たとえスキー場を復活しようにも全く不可能である。
スキー場の跡地には、今でもある種の痕跡がある。二万五千分の一植生図「正丸峠」を見ると、付近の大部分がスギ・ヒノキ・サワラ植林であるのに対し、第一ゲレンデ、第三ゲレンデ跡地はクリ・コナラ群落、第二ゲレンデ跡地はフクオウソウ-ミズナラ群落になっている。その区域が、伐採やヤブの刈り払いを受けたにせよ、植林されず天然のまま放置された結果であることを示唆している。平成十九年六月、青葉の美しい時、第一ゲレンデがあった部分を歩いてみた。くねくねとうねって登る車道をゆっくり歩くと、なぜか細めの広葉樹ばかりがまるで植林したかのようにきれいに並んでいたのが思い起こされる。恐らくスキー場が使われなくなった後に自然再生したものであろう。
※大畠達司氏が『或る峠の物語』という研究書を著し、奥武蔵を愛する山人の立場から仲間の記録したスキー場や周辺の記事を集成し、独自の情報や解析を加えながら纏めておられます。参考文献の関連箇所を一字一句漏れなく引用していることから、小サイトより深い資料にご関心の方にお薦めします。(私家本(絶版)、埼玉県立熊谷図書館に蔵書)
【参考文献】(発行順)
[1]塩見聖平「奥武蔵スキー場印象記」(『登山とスキー』五巻一号、三二~三三頁)、昭和九年一月。
[2]朋文堂『東京附近山の旅』、昭和九年五月、伊藤喜久「正丸峠より高山不動へ」四三三~四三五「刈場坂峠より高山不動へ」四三五~四三七「刈場坂峠より丸山へ」四三七~四三八頁。
[3]清水武甲「秩父のスキー場」(『ハイキング』三〇号、四四~四五頁)、昭和九年十二月。
[4]今井喜美子・小野崎良三・佐藤野里路・石井敏雄ほか「奥武蔵スキー場と冬のハイキング座談会」(『登山とスキー』六巻一号、一四九~一五一頁)、昭和十年一月。
[5]青木美代「冬の奥武蔵に遊ぶ」(『山小屋』五九号、七八~八二頁)、昭和十一年十二月。
[6]清水野岳士「奥武蔵の峠を稼いで大霧山へ」(『ハイキング』七五号、四三~四五頁)、昭和十三年九月。
[7]伊藤藜三「刈場坂峠より堂平・笠山ヘ」(『山と高原』二号、四三~四四頁)、昭和十四年六月。
[8]高田政春「丸山」(『山と高原』二五号、三九~四〇頁)、昭和十六年五月。
[9]森野草「初冬の奥武蔵高原と丸山」(『山と高原』三二号、四八~四九頁)、昭和十六年十二月。
[10]建設省地理調査所『米軍撮影空中写真(1946/2/13)』、昭和二十一年、M44-A-5LT-6(オルソ化して使用)。
[11]原全教「奥武蔵概説」(『山と高原』六一号、一六~一七頁)、昭和二十二年六月。
[12]国土地理院『基盤地図情報 数値標高モデル(5mメッシュ、航空レーザー測量)H24C0471』、平成二十四年度作業。
[13]春日俊吉「正丸峠の履歴書」(『奥武蔵』四号、頁数不明)、昭和二十五年四月。
[14]武蔵野鉄道広告(『ハイキング』ニ〇号、頁数不明)、昭和九年ニ月。
[15]武蔵野鉄道広告(『ハイキング』ニ九号、頁数不明)、昭和九年十一月。
[16]武蔵野鉄道広告(『ハイキング』三〇号、頁数不明)、昭和九年十ニ月。
[17]武蔵野鉄道広告(『ハイキング』号数不明、頁数不明)、昭和九年(月不明)。
[18]大畠達司『或る峠の物語』、平成十年、四頁、「第二章 刈場坂峠スキー場とヒュッテ」一三~三八頁。