日崎越(敗退) 【藪径・雪径】
日崎越は藤原から尾瀬への古い通路である。楢俣川一帯は藤原の猟師の基本的な活動領域の一つで、狩小屋沢右岸の一〇五〇米付近[1]に昭和の中期まで残骸が残っていた「狩小屋」があった。文字通り、付近で活動する猟師の拠点となる掘っ立て小屋であった。日崎越はここから各方面に向かう猟師道の一つであったと想像される。猟師であるから会津や越後の遠方まで出かける必要はなく、せいぜい尾瀬ヶ原や尾瀬沼で漁労に行くのが関の山であったと思われる。そのためこの道は、会津檜枝岐から尾瀬沼を通り、三平峠から沼田に下る沼田街道(会津街道)が記された、江戸時代の絵図[2]にも現れない。
地形図においては、明治四十五年測量の最古の地形図[3]では、湯ノ小屋からの道は狩小屋で終わっていた。明治四十一年の陸地測量部の三角点設置時の記録[4]では、狩小屋から恐らくこの道を辿って猟小屋三角点に達している。「行難」と記録していることから、猟師が通る踏跡分け道程度であったと推測される。尾瀬から湯ノ小屋に通ずる通路としてこの道を拓いたのは、長蔵小屋の初代、平野長蔵とされる[5,6]。平野は明治二十二年に燧岳登山道を開削、以後尾瀬の整備に尽くした。いつのことかは分からぬが、尾瀬ヶ原と狩小屋を結ぶ日崎越の細道も整備した。昭和初期まである程度利用されたらしいが、湯ノ小屋側からの狩小屋沢道、尾瀬ヶ原側からのムジナ沢道の至仏山への二本の登山道が開かれると、通る人もいなくなったという[7]。
地形図では、湯ノ小屋から狩小屋までだった道が、昭和六年の要部修正図[8]で柳平へ越す日崎越の全経路が記入された。その破線記号は三十三年の第二回応急修正まで存在したが、三十五年の要部修正で湯の小屋から狩小屋までとなり、四十七年測量の二万五千図「至仏山」以降、図上の道は小楢俣沢にまで後退させられた。もっともこれは地図上の話であり、実際には狩小屋までの古道はしっかり残っていた[1]。図上で再び狩小屋沢への道が通ずるのは、昭和五十年代に楢俣ダム建設との抱合せで車道が建設されてからである。あと小楢俣川から洗ノ沢へ入る森林軌道が恐らく昭和二十年代にあったらしいが、詳しい資料を探していないので確かなことは分からない。
この道は昭和六年~三十二年までの短い間、湯ノ小屋から尾瀬ヶ原への道として地形図に収載されていた。登山書の付図でもおよそ同じ期間に収載されていた。僅かな踏跡が一定期間だけ正式な山道になったのには、理由がある。明治期に、山岳関係者と電力会社とがほぼ時を同じくして、尾瀬の特殊な自然や地形に目をつけた。登山道の整備と電源開発の準備とが並行して進んだのである。以前の尾瀬ヶ原には、水利権を持つ関東水電の測水小屋があるだけだったが、大正十五年、片品村により登山者用の小屋が開設されたことで、昭和初期には尾瀬ヶ原は一般登山の対象となった。当時から鳩待峠がメインルートではあったが、当時の登山者は、水上駅または湯檜曽駅から歩いて直接登れる湯ノ小屋・日崎越ルートも、少なくとも狩小屋沢登山道ができるまでの間は相応の人気を博した。
一方同じ時期、関東水電による国家的事業として尾瀬ヶ原のダム化事業が始まった[9]。この計画では只見川に流れる尾瀬ヶ原の水を堰き止め、導水トンネルにより楢俣川に流し、その落差を利用して発電するものであった。この計画は国家の電力不足を補うためある程度の無理を承知で進められたようにも見え、武田久吉は自然保護の観点のみならず、そもそも計画が物理的に困難であることを指摘している[10]。とまれ関東水電の計画は着々と進行し、昭和初期には狩小屋やこの道の周辺で盛んに測量が行われていたようだ。そのため狩小屋は、一時期作業員宿舎になっていたという[5]。昭和四年にこの道を通って尾瀬ヶ原に達した川崎精雄も、山中で測量を行う作業員への食料運搬係に出会っている[11]。自然保護の観点からの反対意見にもかかわらず、第二次大戦遂行の国家目標の元で遂行された。ただ恐らく戦争激化の影響と思われるが、幸いなことに計画は遅々として進まなかった。この問題が再燃するのは、大戦後の昭和二十三年、水利権が東京電力に移ってからの計画再開の時からである。それに伴い、東電は日崎越の道を調査用歩道として再整備したらしい[12]。しかしもうこの時点では登山道として忘れ去られていたようだ。昭和二十七年の東電調査隊は遡行で日崎越を歩道によらず遡行により敢行した[13]。当時は楢俣川の左岸道さえ酷く荒廃し危険になっており、沼田営林署の軌道に疲労困憊のすえ辛うじて辿り着いたというが、日崎越の歩道を使わなかったのは、調査のためあえて通行しなかったためかも知れない。調査歩道は、自然保護派との激しい攻防、さらには表日本・裏日本各県の水利の問題も絡んでダム建設が一筋縄では進められなくなり、昭和三十年に工事延期が決定された。昭和四十一年の尾瀬原ダム計画凍結を持って、ダム建設は事実上の中止となった。東電が最終的に水利権を放棄したのは平成八年のことである。
道の通行記録は少ない。昭和二年、武田久吉は[14]山ノ鼻から日崎越、狩小屋を通り湯ノ小屋に達した。七時半に出て、日崎越が八時五十分、その日のうちに湯ノ小屋に着いたようだ。尾瀬側の道は悪く、日崎越から猟小屋三角点(一三三八)までも昨秋刈払されていたものの、急斜面を捲く道自体が踏まれていないため、草鞋での歩行に苦労したという。昭和四年に狩小屋から尾瀬ヶ原に越した川崎精雄[11]は、狩小屋を七時に発ち、日崎越が正午、山ノ鼻が二時だった。狩小屋から一時間で達する三角点の先は道が悪かったという。武田と川崎が口を揃えて言うように、前深沢、中深沢、後深沢の右股、左股と次々と沢を渡るごとに、道は単純に横切らずしばらく沢を登るように付いているので、対岸の登り出しに都度迷ったという。前記のように登山道としては廃れたこの道も、尾瀬原ダムの建設中止が決定する昭和四十一年までは東電作業道として一応存続していたとも考えられ、四十年の群大工学部ワンダーフォーゲル部の記録に、山ノ鼻から柳平、日崎越、狩小屋沢を経て湯の小屋までのコースがさり気なく収録されている[15]。柳平に幕営した彼らは五時五十分に発ち、日崎越七時五分、狩小屋沢十三時三十五分、胴元の滝(湯ノ小屋下)十六時十分と、武田と大して変わらないペースで歩いている。このコースを主目的とするのでなく、柳平をベースとする夏合宿の偵察と荷揚げをした際の帰り道に通っているので、地元の彼らにとっては普通の道だったのであろうか。道は、山ノ鼻から柳平は外田代への通路としてよく踏まれており、日崎越の峠部は至仏から尾根を藪こぎで下ってきて「日崎越の道にぶつかる」ということから、容易に視認可能な状態と分かる。日崎沢源頭のガレ場を高捲くと、驚くべきことに道標があったそうだ。続け様に渡る沢のどれかで、間違えて上へ登る道に入ったといい、時間をロスしている。「崖の中腹を通り左に至仏への道を見送る」というのは、前深沢左岸をトラバースした後、猟小屋三角点の尾根道を見たということだろうか。
● 車道(楢俣林道)終点~立川鉱山道分岐
昭和六十年前後の車道(楢俣林道)は狩小屋沢・前深沢中間尾根の「猟小屋」三角点の少し下まで伸びていたが、先端部は長らく廃道となっていて、現在の終点は這摺沢出合の橋の約三百米下流である。崩落により途切れた地点がそのまま車道終点になっている。ならまた湖のキャンプ場分岐のゲートからちょうど八・〇粁の地点で、一時間半強の車道歩きである。
崩壊を踏跡で渡ると、いったん車道の道型は復活したが、もはや通る人も稀な草深い踏み分け道になっていた。真新しい国交省の水位観測所右に見て、トラックが通った時代のまま立派なコンクリの橋で楢俣本流を左岸に渡り、車道跡の踏跡に沿ってそのまま這摺沢の右岸を遡った。百余米先のヘアピンで折り返すと崩壊で車道の道型が消えたが、構わず進んで楢俣川の左岸に戻ると、再び車道跡の踏み分け道に戻った。水場に丁度よい二本目の支沢脇に、小広場の幕営好適地があった。
狩小屋沢出合が近づく頃、車道跡の荒れ方が激しくなってただの登山道同然になった。元々車道だったためそれまで極端なカーブもなく来た道が、突然森の中へと左折していた。ここが狩小屋沢を出合近くで渡って楢俣川の右岸を矢種沢出合付近まで行く鉱山道の分岐である。少なくとも狩小屋沢を渡る部分まで明瞭な道であることは、確認済である。
●立川鉱山道分岐~廃車道終点
左折する明瞭な鉱山道に対し、直進する車道跡はほぼ草木に埋もれて廃道化し、もはや道の体をなしていなかった。かつて車道だった更地は、植物にとっては畑のような、日当たりに恵まれた生育適地であったのだろう。若木が密生して歩き難いことこの上なかった。ひょっとすると車道跡脇のただの森を歩いた方が速いのではとすら感じた。ただ唯一の利点は、微かな車道跡の道型を外さぬ限り方向を考える必要はなく、気楽に歩けることであった。原始的なヤブの中に突然車道時代のウォーターガイド(ゴム板)が現れるのは、何だかシュールな感じであった。道型すら流失した区間がしばらく続くことがあったが、幸い少しして車道の痕跡が回復した。イド沢(左岸支沢)を渡ってすぐ、本来の日崎越は狩小屋沢を右岸に渡り、当時はそこに狩小屋があったという[1]。旧道はそこから右岸に沿って遡っていたというが、車道跡はまだしばらく左岸を進んでいた。狩小屋沢が近づくと、沢の流れに削られ車道跡が途切れていた。ボロボロに破壊された護岸工事の跡が痛々しかった。さらに車道跡をヤブ漕ぎで進むと、狩小屋沢を渡る橋があった。道がほぼ消えているのに橋だけが存在する、残念なパターンである。不要になった車道が自然に帰るのはある意味好ましいことだが、コンクリの橋だけは沢の中で異彩を放ち続けていた。
不思議なことに、狩小屋沢の右岸に渡ると、楢俣川左岸辺りの車道跡同様、道型が明瞭にわかるようになった。一定幅の開けた草地の中の踏跡を行くようになった。地形図の車道は少し辺で、図では右岸に渡ってすぐ二分するが、左に行く方の道は、一一五六独標までの部分は実在しない。車道跡の歩道は明瞭で、左岸の流れから少し離れた位置を遡り、大きなカーブで狩小屋沢右岸をなお遡る支線を地形図通りに右に分け、尾根に向かって西に緩く登りだした。このカーブで一時ヤブが強まるも、その後の道は車道の状態のまま綺麗に残っていた。振り返ると岳嵓(至仏山)が高かった。一一五六独標直下で狩小屋沢右岸尾根の向こうに周り、少し進むと大きな広場があった。ここが楢俣林道の本来の終点(楢俣林道跡終点)である。地形図でははっきりわからないが、尾根上の一一五〇米圏小鞍部である。なお、旧道の道筋も車道跡とだいたい同じ辺りを登っていたと推測されるが、詳しいことは分かっていない。
楢俣林道跡終点から、尾根の右側を絡んで支線車道跡がなおも続いていた。支線に入ると明らかに道の作りが雑で、かつ勾配がきつくなった。ヤブに覆われ道型すら失いがちだったが、支線車道跡はとにかく尾根の少し右下をほぼ直線で登っているので、その意味では分かりやすかった。歩道として歩くにも踏跡は途絶えがちで、歩き良いとは言えなかった。荒れた車道跡はどこが終点かすら明瞭ではなかったが、一二二〇米付近の微妙に小広くなった場所が終点のように感じられた。
●廃車道終点~一三四一米小鞍部
車道跡を離れ尾根に取り付くと、微かな踏跡はすぐに消え、眼を見張るようなヒノキの巨木が並ぶ荒れた尾根を登るようになった。少し上の一二三五米圏で支尾根が合わさる地点は、下りの時迷いやすい場所だった。古い青テープを数回見たが、数分後には見えなくなった。何のためのマーキングだったのだろうか。ヤブの中を注意すると時々数十年前のものと思しき大木の切株があった。時々尾根の上や側面に感じられる古道の気配が、日崎越であろう。尾根に聳えるヒノキ、クロベの大木の下には、次第にシャクナゲが目立つようになった。一二七、八〇米付近の痩せた急傾斜のシャクナゲヤブは手強く、左の危険な崩壊地を使って巻けば楽だがリスクがある。稜線に並ぶ大木はどれも個性的で、門のような太い木の根の間を潜って通ることもあった。択伐の切株はまだ続き、古い割に意外と綺麗な切り口を保っていた。厳しい気候のため腐敗の速度が遅いのだろう。
シャクナゲヤブを踏み分けて尾根を進んでいる時、葉の隙間から白い斑点が見えた。一瞬足を止めて覗き込むと、赤ちゃん鹿と目が合った。逃げることも泣くこともせず、僅かに首をひねるだけであった。この状態は恐らく出産直後であろう。ヤブの中で出産する習性とは言え、よりによって旧登山道の上で産むとは大した度胸である。もうヒトが歩かなくなって久しいのであろう。赤ちゃん鹿は、ヒトが触れると匂いで分別している親が子と認識できなくなるため、捨てられるという。横を通過しただけなので、無事だと良いが。ちなみに帰りに同じ所を通っても、もういなくなっていた。
尾根が緩んで、木々の隙間から、ならまた湖の水面が垣間見えた。尾根上に一瞬感じる道の気配は、恐らく古道のものであろう。この辺まで来ると切株も見えなくなり、尾根上にヒノキやモミの大木が立ち並ぶ太古の森が残っていた。緩い登りを続けて二つ目の微小な盛り上がりに、一三三八・二米の「猟小屋」(カリゴヤ)三角点があるはずなのだが、キョロキョロしながら歩いていても見つからなかった。昭和四年の秋、友人Kと共に登った[11]川崎精雄は、測量後年数が経っていなかったためか景色が良かったこの三角点を、ちょうど一年後に一人で通った[16]。昨年ここで写真を撮ったKは、北海道で遭難し、もういなかった。Kの熱い幻影を胸に共に湯ノ小屋まで下ると、同宿する一人の山人が居たという。これが、以後幾度も行動を共にする原全教との出会いである。こんなドラマを秘めた三角点を見てみたかったが、きっとヤブか倒木に埋もれてしまったのだろう。地形図では見えない次の小ピークは左を巻く道の痕跡が、明らかに見えた。巻き終わると一三四一米の小鞍部であった。
●支線車道跡終点~前深沢左岸山腹
日崎越はこの付近から尾根を離れて深沢の方にトラバースしていくことが、旧版地形図で分かる。旧図の精度はとても当てになるものではないが、少なくとも日崎越に関しては、幾つかの紀行や付図からも大方正しいことは分かっている。鞍部のほんの数米登った所で、日崎越は尾根の左に逸れているようだった。分岐と思しき地点の尾根上はヤブが深く、もはや道型としては認められなかった。ヤブや枝の張り出しを払いながら、潜るように水平に牛歩して行くうち、深笹を水平に行く痕跡が感じられるようになった。しかし道として使える代物ではなく、失わずに追い続けることもかなり難しかった。
実際に歩いたのは、狩小屋沢・前深沢中間尾根一四一五米付近から北西に出る支尾根の手前までである。道の状況から見て、これ以上追跡しても日帰りでは日崎峠まで到達できないと判断し、撤退を決めた。その後の道筋は、前深沢一三〇五米二股付近のゼンマイ小屋跡を通り、山腹をなぞるように緩登して中深沢を渡り、恐らく後深沢右股に出たら沢を少し登り、さらにトラバースを続けて、至仏山北の一六四六米鞍部の日崎峠を越して柳平に下っていると予測される。機会があれば、先を伸ばしてみたい。
[1]沢登り研究会「楢俣川狩小屋沢」「楢俣川前深沢」(『関東周辺の沢』白山書房、一一二~一一五頁)、昭和五十六年。
[2]『檜枝岐村絵図』、享和四年(西暦一八〇四年)。
[3]陸地測量部『五万分一地形図 藤原』(明治四十五年測量)、大正二年。
[4]陸地測量部『点の記 猟小屋』、明治四十一年。
[5]角田吉夫『上越国境』大村書店、昭和六年、四〇~四一、一七五~一七六頁付近。
[6]山田栄次郎「狩小舎より至仏、尾瀬、奥日光」(『岳(三越体育会山岳部報)』四号、一~一五頁)、昭和八年。
[7]日本登高会編『上越の山』三省堂、昭和十二年、二七九~二八〇頁付近。
[8]陸地測量部『五万分一地形図 藤原』(昭和六年要部修正)、昭和八年。
[9]国分理(編)『電源只見川開発史』福島県土木部砂防電力課、昭和三十五年。
[10]武田久吉「電力管理案と尾瀬ヶ原問題」(『電力国家管理案に対する真正批判』千葉県電気協会、二八~三二頁)、昭和十三年。
[11]川崎精雄『雪山・藪山』茗渓堂、昭和四十四年、一三九~一四八頁付近。
[12]川崎隆章「尾瀬から至仏山越え宝川へ」(『藤原風土記 第五版』宝川温泉汪泉閣、一二八~一三〇頁)、昭和六十年。
[13](著者無記名)「尾瀬奥利根未開発電源地帯調査紀行」(『東京電力株式会社社報』一四号、七六~八〇頁)、昭和二十七年。
[14]武田久吉『尾瀬と鬼怒沼』梓書房、昭和五年、「春の尾瀬」二一七~二九二頁。
[15]群馬大学工学部ワンダーフォーゲル部「柳平、外田代、日崎越え」、「合宿実施 Aコース」、「定着中の行動」(『皇海』二号、一七~一八、一八~二〇、二二~二八頁)、昭和四十一年。
[16]川崎精雄『山を見る日』茗渓堂、昭和五十二年、一七六頁付近。