大椹峠道 【廃径】
大椹峠については分かっていることが極端に少ない。そもそも峠が実在したのか、在ったとしたらどこなのか、全てが謎に包まれている。享保九年(西暦一七二四年)の信府統記には現在の甲武信岳の梓山称として大椹峠の名が現れる[1]。往時は山向こうへ峰越しする稜線一帯を峠と呼ぶことは普通だったので、信府統記の大椹峠が正確どの地点を通ってどこへと越す峠であったかは、記述からは分からない。川上村誌によれば、「大椹峠は毛木場東沢を登って、甲武信岳と三宝山との中間の弛みの地点の峠」とされ、峠を越えると真ノ沢で、道はそこからさらに股ノ沢に通じ、股ノ沢金山への物資が、さらに真ノ沢から伐り出した木材が、この峠を利用して運ばれたとされる[2]。民俗学者の飯野も根拠を示さずそこを大椹峠としているが[3]、恐らく川上村氏の記述を引いたのであろう。ただしこの表現には矛盾があり、甲武信と三宝の鞍部に達するのは西沢を詰めた場合で、東沢を詰めるた場合は三宝と武信白岩の鞍部に達する。股ノ沢や真ノ沢に超えるのに適するのは三宝・武信白岩鞍部であり、標高も甲武信・三宝鞍部より約二二〇米低い。真ノ沢林道の開通は明治四十二年とされ[4]、従ってその開通前は、十文字峠以南で梓山から入川源流に乗越す地点として、三宝・武信白岩の二一七〇米圏鞍部が最適であったと思われ、ここが大椹峠と推測される。説明の矛盾は、個々のピークの位置や名称が不確かだった江戸時代の伝承に従ったためであろう。
大正二年の初版地形図[5]には、東沢を詰め、国境手前の二〇〇〇米付近で沢を離れ三宝山に登る道が記入されている。この二〇〇〇米付近の地点から国境までは緩く登ってすぐ到達できるので、初版地形図の道を通って国境の二一七〇米圏鞍部に達するのが、大椹峠道の有力候補と考えられる。大正十年に栃本からの十文字越で道に迷った柏源一郎が下りついた千曲川源流の一地点に通っていた道[6]が、位置的には大椹道であった可能性がある。そこには人が住む作業小屋があったという。地形図の道は昭和四年の要部修正[7]で抹消されたことから、その頃には廃れていたものと思われる。しかし東沢沿いに何らかのルートが存在していた可能性は非常に高い。
それというのも、昭和二十年前後の東沢には、少なくとも橋台が残る松茸沢出合(一六七〇米圏)までは手押しの森林軌道が作設され[8]、奥地にかけて盛んに伐採が行われていたからである。千古斧斤を入れぬ様に見える十文字峠から武信白岩ののも昭和二十年代に伐採されてカラマツ植林地になり[9]、施行実施計画図[9]には、東沢左岸を経て松茸沢左岸尾根を十文字峠付近へ登る歩道が示されている。また、数年前に東沢を遡行した際、少なくとも二〇五〇米付近まで、多数の切株や作業道の断片が見られた。その辺りまでの択伐を行い、ナメ状の沢を使って伐木を流送していたものと想像される。開発により道の様子はすっかり変わったと思われ、現在辿ることのできる大椹峠道は、数十年前の伐採当時の車道や作業道の名残であると考えられる。
● 毛木場~一七七〇米圏右岸支沢出合
毛木場から松茸沢出合土場跡までは、開発で古道が消滅した現在、幾つかの行き方がある。①西沢左岸の車道を辿り東沢出合(大山祇神社前)から遡行、②基本的に軌道跡を辿る(東沢橋梁跡から炭焼窯跡上までは作業道でショートカット)、③西沢左岸の車道を辿り東沢出合(大山祇神社前)で渡渉して②の軌道跡に移る、のどれかを使えば良い。「千曲川東沢・三宝沢軌道跡」の詳細については、別頁を参照されたい。
土場跡から、間伐なのか風水害によるものなのか、倒木で足の踏み場もない河岸を根気よく進んだ。優に幅五十米はある倒木だらけの広河原に道があったとしても、到底判別できなかった。それでも右岸を進むと倒木が少ない地点で何か道のような痕跡を感じた。一六九〇米圏二俣手前でカラマツ植林が終わり、道は左岸に渡る雰囲気があったので従った。奥秩父らしいしっとりした森の中のゆったりとした流れになり、痕跡は左岸になお続いているようだ。古い何らかの石組みが右岸に見え、さらに一七五〇米圏に小さな石組みの敷地があった。軌道の関係か、はたまた土場的なものであったのか、見当がつかなかった。少なくともその奥で次第に谷が狭まり、二次林的な開発の伐採が少なくなったので、この付近が全山伐採の末端であったようだ。
適当に河原の歩きやすいところを拾いつつ、断続的でおぼろげな踏跡を数分も行くと、山が迫ってきた。そこに静寂を破るように、突然右手から見事な一五米スラブ滝が落ちていた。ここが一七七〇米圏右岸支沢の出合で、スラブ滝が東沢本流で、左手に本流のように続くのが右岸支沢である。
● 一七七〇米圏右岸支沢出合~大椹峠
道はいったん左の支沢に入り、数十米先で戻る様に右に入る踏跡に取り付いた。広葉樹はすぐシャクナゲヤブになり、細い踏跡に従い潜るように進んだ。ナメの続く東沢の流れを右に見る頃、ヤブの勢いが強まり踏跡はあるかなしかになった。尾根と沢の間の痕跡を、シャクナゲと格闘して進むこと数分、密ヤブを抜け、多少隙いたシャクナゲ帯になった。気配程度の微妙な踏跡が、相変わらず右岸の山腹に延々と踏まれていた。
一八五〇米辺りから針葉樹林帯に入り、岩の根を絡んでうまく登った。そこそこ歩きやすい踏跡は一八七〇米辺りでいったん水平になり、一八八〇米辺りから、沢の右岸に沿って付かず離れず進んだ。薄く不明瞭だが、古道に慣れた人なら快適に歩け、沢沿いと知っていれば外すこともない。所々に古い切株が見られることから、数十年前の択伐時の伐採道の残骸なのだろう。涼しく快適な沢沿いの登高が続き、一九二〇米圏で左岸に支沢を迎えた。依然として切株が多かった。辺りは苔むした美しい黒木の森であった。
五段二〇米滝を巻いた少し上の一九六〇米付近で岩壁が迫り、左岸に渡る雰囲気だった。都合よく岩が配置され、ほんの十センチ程度の隙間を水が流れる部分で渡った。左岸は択伐ながらもしっかり伐採された様子で、多数の切株と作業道の痕跡とが多く、ルートが分かり難くなったので、とにかく沢から離れぬよう注意して進んだ。流れにピッタリ寄り添う、緑のきれいな苔を踏み分けた相当明瞭な踏跡になると、二〇三〇米圏の変則三股であった。右股はすぐ先で左右に別れ、左股はまっすぐ国境の方へ向かっていた。大椹峠道は、左股に沿って続いていた。
まず左右両股の中間尾根に見える、かなり明瞭に苔を踏み分けた道に取り付いた。苔むした森の道はすぐ尾根筋を外れ、左股に沿って明瞭に続いた。道は水平になり、一度沢に下り右岸に渡った。踏跡はシャクナゲが点在する針葉樹林の中、右岸の高い位置を沢と並行にどんどん登り、やがて稜線が分かるようになってきた。沢沿いの苔を踏み分ける部分と違い、森を行く道は薄く細かったが安定して続き、原生林を一本調子に緩登した。沢音が消えると、国境は近い。三宝山と武信白岩の鞍部の百米ほど北寄りの、中途半端な位置で国境の登山道に出た。すぐ下の二一八〇米圏に小屋が立ちそうな大きな平地を見た。先の変則三股付近から道が突然明瞭になったのが不思議だったが、ひょっとするとここに伐採小屋が建てられ、作業員が今来た道を下って現場に向かっていたため、この区間だけ道が良かったのでは、などと想像してみた。その僅か下方、大岩の下の狭苦しい所が、大椹峠と想定した真の最低鞍部であった。
[1]鈴木重武・三井弘篤編「信府統記巻之四 佐久郡」(『信府統記』吟天社、第一巻、三八~四一頁)、明治十七年。(註:復刻版。初版は享保九年(西暦一七二四年)、松本藩。)
[2]川上村誌刊行会『川上村誌 民族編』、昭和六十一年、二六六~二七四頁付近。
[3]飯野頼治『山村と峠道』エンタプライズ社、平成ニ年、「十文字峠」六〇~八〇頁。
[4]小野幸『マウンテンガイドブックシリーズ19奥秩父』朋文堂、昭和三十一年、「山小屋と山村」三二~三四頁。
[5]陸地測量部『五万分一地形図 金峰山』(明治四十三年測図)、大正二年。
[6]柏源一郎『山谷の放浪者』、大正十二年、「十文字峠より金峰山を越えて」一七四~二五八頁。
[7]陸地測量部『五万分一地形図 金峰山』(昭和四年要修)、昭和七年。
[8]竹内昭「梓山林用軌道」(『トワイライトゾーンMANUAL7』ネコパブリッシング、一七一~一七三頁)、平成十年。
[9]中部森林管理局東信森林管理署『千曲川上流森林計画区第4次国有林野施業実施計画図』、平成二十五年、川上森林事務所(第9葉)。