引馬峠道 page 1 【廃径】
昔読んだ本に、引馬(ヒキバ)峠越えは当時の檜枝岐から東京への最短経路だと書いてあった。有名な檜枝岐にはまだ一度も行ったことがない。それなら車でではなく、登山がてら古道を歩いて引馬峠を越え檜枝岐に行ってみようと思った。しかしネットで軽く調べてみると、少なくともネット上には古道を歩いた記録がないことが分かった。古道の道筋は古い五万分の一地形図に載っていて、大縮尺なので細かいところは分からなくてもおよそは分かる。見つけた限り全ての記録は、独自のルートで物理的に引馬峠を越えたというものであり、古道を歩いたものではなかった。しかし尾根筋を歩いた方の記録から、断片的に古道らしいものが残っていることを知った。こうなると道探しから始まるわけで、一日で越せる確証を持つことができなかった。だがのんびりしていると、既に車道化されている会津側の下部が冬季閉鎖になってしまう。そこで早速舟岐川林道へ車を走らせ、会津側から峠道を登ってみた。結局、初めての檜枝岐入りは車になってしまった。
この初回の檜枝岐入りまで、そんな田舎でも渋滞があることを知らなかった。考えてみれば一本道の国道が追越禁止なので、遅い車が一台いると行列になるのは当然なのだ。鬼怒川から舘岩まで延々とゆっくり走ったため、初回訪問では歩き始めが朝九時頃になってしまい、当日中に車へ戻ることを考えると時間が足りず、引馬峠まで行き着けなかった。だがおよそ古道を辿ることが出き、ちゃんと早朝から歩けば峠を越せる感触は得られた。
二回目は早発ちして舟岐川を朝七時前に歩き始めた。初回は通行止めだった舟岐川林道が通行可能になっていたので、林道終点まであと少しの檜枝岐から九・七粁地点まで車を入れることができた。徒歩だとしても朝四時半頃檜枝岐を出れば、同じ行程で行けたはずだ。引馬峠を越えて十一時頃にはホーロク平手前に達したので、そのまま川俣へ降りることも可能だったが、夕刻川俣温泉へ降りてしまうと翌日一日掛かりで車を回収しに行くことになってしまう。それがいやで、ホーロク平下から川俣温泉までの区間を残したまま、来た道を戻った。三回目は逆に、川俣温泉を朝七時前に出て午後二時には引馬峠に着いたので、下ろうと思えば容易に舟岐川から檜枝岐へ出られたが、やはり車の回収問題で諦め、帰路を鬼怒川の黒沢に取った。
古道を通っての峠越えはやろうと思えば可能と分かったが、結局車が足かせになり往復行程となった。バスで行けば可能とも思えるが、さらに宿の問題もある。昔の旅人は弁当を持って早朝川俣温泉を出発し、夜も更けて檜枝岐に到着していたが、現在川俣温泉、檜枝岐ともすっかり観光地になってしまい、宿泊は予約が必須で早朝深夜の出入りも受付、食事などの対応上難しそうだ。山中で不要なはずの幕営一式を持っての峠越えをする気もなく、結局往復形態とならざるを得なかったのは残念だった。
【檜枝岐への通路】
峠道は、隔離された山村・檜枝岐の住民の外部と交流のため設けられたものである。だから峠道のことを知るため、まず檜枝岐について少し触れておきたい。檜枝岐については、周囲の山村とは異なる言葉、風習、姓名、外見などにより、平家の落人の末裔であると事実であるかのごとく語られているが、これは憶測に過ぎない。ただ憶測というのは、確固たる証拠がないまま語ることであり、決して嘘という意味ではない。非常に多くの傍証があるのでその可能性は十分考えられるが、間違いない証拠がないうちに、決まったことのように言うのは早計ではと言うだけである。一説によれば、追手を逃れるため平家の者と分かる証拠を全て抹消したとも言われており、そうなると証明することは難しいだろう。
村史は、昔「奥州 会津 小屋ノ原村」という原始的な山村があり、八世紀頃そこに藤原常衡、大友師門、熊谷勘解由の三人が来訪し村を開いたと伝えている[1]。十二世紀頃には上州から尾瀬を経由して会津にいたる沼田街道が確立し、沼田や若松との馬による輸送が可能になったことで村もある程度発展した。一般庶民は全て徒歩で移動していた江戸時代、山間の僻地であることは特段不利にはならず、物資の面では都市部と変わらぬ生活だったという[1]。檜枝岐はむしろ、文明開化後の交通発達の恩恵を受けられず、明治以降に近代化から取り残されることで山間の僻地になったのである。中世以降は馬が通る沼田街道が整備されたため、引馬峠は栗山・日光・今市との交易目的に限って歩道としてわずかに使われる程度であったようだ。
明治三十二年、磐越線が会津若松に入り、昭和九年にはその支線が田島、同二十八年には滝ノ原(現在の会津高原尾瀬口駅)に達したが、それでもまだ日光方面へは、特に雪で交通が遮断される冬期は引馬峠越えで歩いた方が便利であった。昭和三十八年になると、それまで徒歩で雪道を歩いて配達に通っていた内川にある大川郵便局の冬期の郵便が雪上車に変わった。これに住民が便乗することで初めて村民の冬期の足が確保され[1]、陸の孤島が解消された。
【馬が通わぬ「引馬峠」─ 峠道の変遷】
今や古道、いや廃道となった引馬峠道は、意外にもさほど歴史ある道ではないようだ。中世か、少なくとも江戸時代に栗山を通じて日光や遠く江戸とも交流があったことは間違いないが、それは必ずしも現在の引馬峠を使ったものではなかった可能性がある。栗山と結ぶ峠道については、鬼怒川奥地に身を隠した平家一族の一部が檜枝岐に逃れ物資交換や交流のため馬が行き来した[2]、平家の落人説のある栗山とは落人同士引馬峠で結ばれていた[3]などの伝承がある。個別の説の真偽はもちろん、どのような道筋でどの峠を越えていたなどの詳細は不確かだが、少なくとも江戸時代には人背による物資の運搬、また明治時代には徒歩での交通路として引馬峠が使われていたことを示す多数の証拠がある。江戸時代には資源保護と警備上の両面から山林の利用が厳しく制限され、各村の裏山を除いて一般人の立入りは原則禁止されていた。しかし檜枝岐村民は、姓名を有し刀剣を蔵していたことからも知れるように特別な地位にあったらしく、自由に山林を利用し、板材・小羽板等を江戸城に納めていた[1]。また防衛上も、幕府直轄領(ただし虫食い的に会津藩預かりの期間もあった)の檜枝岐から日光神領の川俣へと越す道は、ともに幕府管轄下であるためお咎めなく通過できたと思われる。
小瀬平三平坂より上州方絵図[11]の引馬峠付近を改変
|
萬治四年(一六六一)の村絵図には、馬坂沢(江戸時代には現在の戸安沢が本流の馬坂川とされていた)を越えて山向へ通ずる道が描かれている[4]。現在の馬坂峠を越える川俣檜枝岐林道と同じ道筋である。馬坂川はその名から馬が越えていたことが示唆される。トヤス沢右岸の戸安では近世に駄馬が飼育されていた時期がある[1]。また馬坂峠を越えた栃木側の沢の名も同名の馬坂沢である。かつて檜枝岐への通路であったという川俣の古老の話や[5]、かつて峠のすぐ栃木側には川俣のサンショウウオ猟の小屋があったことから[6]、川俣側から馬坂峠への道もあったらしいことが分かる。この経路の川俣側、今は一部が湖底に沈んでいる馬坂沢および無砂谷一帯は、伝承では平家落武者一族の隠遁地であったとされ、初版地形図では馬坂沢右岸から無砂谷出合付近にかけ不自然に広大な荒地が広がっている[7]。荷役などに要する馬が多数飼われているので牧草地であったのか、また平家の落人が拓いたと伝えられる蕎麦畑であったのかも知れない[33]。現在無砂谷と呼ばれる沢も、明治時代の地図には武者谷と記入されていたし[8,9]、川俣にも武者谷の名で伝わっていた[2]。明治時代の字名「ムサ谷山」に陸地測量部が無砂谷出合付近の左岸の三角点一四〇三・六を「無砂谷」と名付けたことから[10]、「無砂」に変わったものと推測される。当時は漢字名がないか不明な地名に適当な漢字を宛てることはよく行われていた。明治時代に役所が字名を定めるための聞き取りをした時、担当官が「ムシャ」を「ムサ」と聞いて「ムサ谷山」とし、陸地測量部は「ムサ」に宛てるべき適当な漢字として、測量当時谷に砂が無かったのを見て「無砂」としたのかも知れない。これら多くの断片的な事柄は、どれも証拠と呼べるものではないにせよ、平家の落武者同士、檜枝岐と川俣の間を馬坂峠を越えて交流していたことを想像させるものである。
農商務省図 Nikko[9]の引馬峠付近を改変
|
慶応二年(一八六六)の「小瀬平三平坂より上州方絵図」になると、点線で描かれた馬坂川の道の他、黒沢本谷(現在の舟岐川本流)と越ノ沢の間を登り、国境を越えて錆沢と思われる辺りに下る道が実線で描かれている[11]。絵図なので正確な道の位置は分からないが、会津側は舟岐川から越ノ沢もしくは黒沢付近を登るので旧版地形図の引馬峠道と比較的近く、一方川俣への下り方は違っていた可能性がある。明治二十一年(一八八八)になると、農商務省の測量によりこの地域としては初めて等高線が引かれた二十万分の一地形図が刊行された[9]。それまでの絵図に比べると、どの谷、どの尾根を道が通るかまで判別できる精度があり、その図では引馬峠の標高が一八六〇米とされた(その後の陸地測量部の測量で一八九五・六米とされた)。不正確ながら引馬峠の標高が初めてこの図で明らかになった。標高が示されたということは測量がなされた証拠であり、この地形図は一定の信頼性が担保されていると考えられる。図が示す道は会津側では現在の廃道と同じだが、野州側はホーロク平(一八九六独標)の北を捲き、平五郎山の尾根を越えて錆沢に下り鬼怒川に達している。現在知られる古道とは明らかに違う下り方である。檜枝岐の古老も、昔は平五郎山から南西の尾根を下り錆沢の二股の下へ降りて下る道だったと語っているので[12]、詳しい道筋は確認できないが、引馬峠道は明治の初め頃は錆沢に下っていたらしい。
ところが明治四十五年測量の陸地測量部による五万分一地形図には[13]、平五郎山付近でそれとは異なる道が掲載された。平五郎山を経て楡ノ木沢を下り今は湖底に沈んだ川俣集落へ下る道である。明治三十八年の白井光太郎の通行時、川俣と引馬峠の間に二軒の小屋があり、奥の小屋は川俣の曲物職人の鳥屋場を兼ねた小屋で[15,16]、手前の小屋は川俣の老婆の鳥屋であった[16]。そこで行われていたツグミ猟は秋の猟期一ヶ月で半年分の生活費が稼げるとして[17]、明治以降加賀藩から各地に広がり、鬼怒川の山間部でも普及した。ツグミ猟は欧米の動物愛護の精神を受けて連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導で禁猟が法制化され、公式には以後行われなくなった。鳥屋場はツグミなど野鳥の通り道に設置するものだから、平坦なため鳥屋場として最適な平五郎山の尾根に捕鳥小屋が設けられ、川俣集落の住人が尾根道を足繁く通うようになったと推測される。そのため引馬峠道も、それまで使われていた錆沢経由から、よく踏めた鳥屋場道に変わったのでは、との仮説を立てることができる。一方川俣集落の住人が使った道とは別に、引馬峠、川俣温泉、西沢金山と繋いで日光へ抜ける交通路としての本来の峠道も存在も忘れてはならない。地形図には昭和六年の要部修正で追記された川俣温泉から登る道である[18]。温泉からの道は後から出来たわけではなく、明治三十年代の中村春二の通行記録とも一致するので[14]、少なくとも明治二十~三十年頃にはこの経路が成立していたと見られる。中村に続く登山記録も、全て川俣温泉から登るものである。いずれにせよ少なくとも明治三十五年には、現在古道と考えられている平五郎山の道が歩かれていたのは間違いない。すなわち檜枝岐から舟岐川を登り、大黒(オオグロ)沢に入って左岸山腹に取り付き、一八七六独標の北を捲いて支尾根に上がり、緩く登りながら引馬峠を越え、平五郎山までの長い尾根をそのまま搦んで進み、楡ノ木沢右岸の一一五〇米の高原を通って下ノ沢に急下し、鬼怒川の道が下ノ沢を渡る橋のところに下るものである。檜枝岐から引馬峠を超えてきた通行者の多くは、川俣温泉からさらに山王峠を越え中禅寺湖を経て、その道が整備される前は先の一一五〇米高原から楡ノ木沢沿いに下って野門を経て富士見峠を越え、いずれにせよ明治二十三年に開業した日本鉄道日光駅へ向かっていた。
一方会津側のサブルートとして越ノ沢道についても一考しておきたい。檜枝岐から川俣へ出るのに使っていた人がいる[6]、越ノ沢沿いに稜線に出る昔からの道があった[12]、などの話が伝わるからである。各地で境界となる山稜を越す沢が「越ノ沢」と呼ばれることが多く、沢名から推測するにある時期この沢から川俣へ越していた可能性が考えられる。何と言っても、旧版五万図の古道が大黒沢左岸を急登するのに対し、越ノ沢の道は比較的緩やかに国境に達することができ、ひょっとすると馬が登れた可能性も考えられ、その場合は平五郎山を通らずすぐ無砂谷へ下る道を取ったであろう。全くの憶測となるが、仮に越ノ沢から無砂谷への乗越が馬が通る古い引馬峠であったとすれば、沼田街道や会津街道の発達によりここを馬が越さなくなった後、より近道の人専用の峠として現在知られる引馬峠が開かれたと見ることもできる。昭和三十九年頃、山口営林署が越ノ沢伐採のため県境の帝釈山歩道に接続する歩道を整備した[40]。営林署の業務としては峠越えの必要はなく単に県境の稜線に出られるだけでよかったため、地形的に緩やかな越ノ沢に道を拓いたと推測される。もし過去に道があったとすれば、越ノ沢道が復活したことになる。大黒沢を登る旧版地形図の引馬峠道は、峠までにかなり急な登りの区間がある。だから大黒沢の道でなく、使いやすい越ノ沢の道を整備したものではなかろうか。この営林署の新道ができた当時、県境縦走の登山者が檜枝岐に下るには大黒沢道と越ノ沢道の二つの選択肢があったが、引馬峠から大黒沢を下る古道より新しい越ノ沢の方が歩きやすく、越ノ沢道は地形図にも収載されていた[19]。その分岐には道標が立っていたとのことだ[40]。しかし伐採が終わると、帝釈山歩道の衰退とともに、いつしか越ノ沢道は使われなくなってしまった。
昭和四、五十年前後になると、南北両側から引馬峠付近にまで伐採用の車道が延びてきた。福島側では舟岐川林道が年々延長され、四十八年には大黒沢、五十一年には引馬沢の、峠から直線で一・四粁の地点にまで[20]、栃木側では黒沢林道が昭和四十三年に黒沢の支沢である田代沢の、峠から直線で一・八粁の地点にまで到達した。その頃すでに引馬峠道が廃道化していたこともあり、舟岐川林道終点から引馬沢を遡行して引馬峠に至り黒沢林道終点へ下るルートが使われるようになったようだ[12]。最近のネット記録を見ても、この経路が引馬峠への通路として大部分の登山者に使われている。ただし引馬峠を越す登山者自体が少ないため、林道を利用するこのルートもバリエーションコースと言え、通ってみた限りでは歩いた痕跡はあっても、明らかな踏跡やマーキングは見当たらなかった。
【引馬峠の交易や通行】
引馬峠道は会津街道すなわち会津に通ずる一般通行路であり[10]、通行したのはごく普通の人々だった。江戸~明治末期まで、曲物や手桶を日光に出し川俣から塩や食料を入れるなどの交易に使われ、峠には交易小屋があり物々交換が行われていた[1,3,21]。荷物はすべて人背で担ぎ上げられていた。交易が行われたのは明治期までらしく、明治三十九年には峠にまだオウレン草採りの小屋があったが[22]、大正九年にはなくなっていた[16]。この他、檜枝岐の住民が明治期に栄えた川俣の西沢金山での出稼ぎ労働や、川俣温泉へ湯治に行くのにも使われた[23,24]。現在の檜枝岐温泉は昭和四十九年に掘削されたもので、当時は檜枝岐には良い温泉がなかったのである。昭和二十年以降にも、まだ今市に山菜や木工品を出すための通行があった[24]。昭和二十九年に檜枝岐に始めて季節運行のバスが入ったものの[1]、それに乗っても最寄り駅の会津田島まで七時間かかり[25]、さらに宇都宮まで国鉄を乗り継ぎ六時間以上かかったはずだから、川俣で一泊して日光か今市へ出るのと大して違わなかったので、まだ引馬峠を歩く人がいたのである。
春~秋は通行が多かったが冬の峠越えは大変で、少なくとも普通は周辺の他の峠より標高が高い引馬峠をわざわざ越すことはなかったと思われる。しかし檜枝岐の茅手(茅葺き職人)の出稼ぎでは、他の峠を回るより圧倒的に近い栗山から今市に掛けてが仕事先の場合、毎冬四回峠を越していた。出稼ぎは農閑期の仕事で、正月に一度帰郷するため、二往復で四度越す必要があった。茅手の出稼ぎは、天保八年(一八三七)に初めて文書に現れたことから、比較的新しいことのようだ。出稼ぎ先として最も近い川俣は、檜枝岐から出稼ぎに出るようになる前の時代に部落が家事で焼けて以来板葺きとなり仕事がないと伝えられている。そんな話が伝わるくらいなので、出稼ぎは江戸後期に始まったことなのかも知れない。
そのシーズン最初の檜枝岐出のときは初冬で積雪量がまだ少ないので良いが、年末の帰郷時の峠越えが一番大変だったという。握り飯は凍ってしまうので食べられず、峠越え前に川俣でばんだい餅を搗いて携行した。朝四時に棟梁が天候を見て可否を判断し好天の日に峠を越えるが、雪が深く十三~十六時間を要した。思わぬ吹雪に会い周囲が見えなくないとき、峠近くの平坦な地形では木が少なく鉈目も疎らで目印がないため特に迷いやすかった。やっと峠の小屋に避難したものの全員が凍傷にかかったこともあり、また峠まで登りつけず川俣へ引き返すこともあったという。例えば平野勘三郎氏は、昭和三十四年までは引馬峠を越えていたが、三十五年の豪雪で峠を越しきれず川俣に引き返し山王峠経由で帰郷、以後行きは引馬峠、大笹峠と越えて二日掛かりで今市まで歩いたが、雪深い時期の帰り道は山王峠・中山峠経由とした。バスや鉄道を利用するようになったのは昭和四十年代からであったという[21,23,26,27]。昭和三十年代には利用者が殆んどいなくなった峠道はヤブに埋もれつつあったが、雪に覆われる冬だからこそ何とか通れたこともあったのだろう。
【峠越えの記録】
歴史的にはこの道を登山者が通ったことは多くなく、檜枝岐へ徒歩でしか入れなかった大正から昭和初期に会津駒ヶ岳や尾瀬への登山口である檜枝岐へ入るためか、会津・下野国境縦走の登山道が整備されていた昭和三十年代の一時期、彼らが川俣や檜枝岐から縦走路に達するために通ったくらいのものであった。何れにしてもこの道を目的地への単なる通過地点として通った登山者達の関心は引馬峠にはなく、ただ単に通行したとの記録しか残していない。ましてや一般通行者が街道を歩いた記録をわざわざ詳細に残すことは殆どなかった。そのためかつて多数の通行があった割に、引馬峠越えのめぼしい記録は非常に少なくガイドブックにも滅多に登場しないが、それでも一応記録と呼べるものがあるので列挙してみたい。
成蹊学園の創立者である中村春二は、東京帝国大学在学中の明治三十年代前半に赤城山から尾瀬、檜枝岐へと徒歩旅行した帰りにこの峠を越えた[14]。都会人の中村にとっては、ただただ大変な苦行だったようだ。中村の記録には峠についてほとんど記載がなく、川俣温泉直前の高台にあった牧場の美しい景色だけが強調されている。川俣温泉で一泊したあと、翌日また山王峠を歩いて越え、ようやく日光駅に達した。明治三十八年、植物学者の白井光太郎が調査担当を命じられた檜枝岐方面に向かう道中を、日本山岳会機関誌の創刊直後の記事募集に際して依頼され寄稿した[15]。朝七時に川俣温泉を出発すると、麓から台地上まで広がる牧場を通り、栃平沢の水場から尾根上に上がると背丈を越すネマガリダケで、鳥屋場の小屋、さらに行くと曲物作り職人の小屋があり、ここで川俣温泉からの案内人を返しこの小屋の主に案内を引き継がせた。その先の引馬峠に小屋があり、大黒沢に下り舟岐川沿いに下って、夕方五時に檜枝岐に着いたとのことだ。明治三十九年の記録も植物学者のものである。片平重次は日光から引馬峠を越え、檜枝岐、尾瀬と標本採集に出かけた。川俣温泉を朝五時に出て、白井と同じように辿り、峠に出ると十人は泊まれる小屋があったという。峠を十時半に越え、檜枝岐には夕方四時半に到着した。標本採集しながらなので、白井より少し時間が掛かっている。大正三年に沼井鉄太郎は尾瀬と至仏山を訪れた帰り道、たんに檜枝岐からの帰京のため「鉄路に出る最も近路」として日光駅へ向おうと引馬峠を越えたので、殆んど解説はない[28]。沼井は同九年にも、実川からの黒岩山登山で檜枝岐に入る際、引馬峠を越えている[16]。この時の様子はもう少し詳しく書かれていて、川俣温泉を朝九時に出発、鳥屋場の小屋には三人が働いていて鳥を焼いてくれたこと、その先の小屋でも鳥屋をやっていたことや、引馬峠には営林署が拓いた実川歩道の道標があったことが記されている。午後三時過ぎに峠を出て、檜枝岐には八時四十分に到着した。またこの時期県境には一度営林署により道が開かれ[3]、それを通って引馬峠に行かれるようになったが、風倒木が頻発するこの山域ではすぐに通れなくなったようだ。大正九年の岡山俊雄の尾瀬行のときの通行についても、途中川俣で一泊し檜枝岐入りしたとしか書かれていない[29]。大正十二年に、後の毎日新聞論説委員長となる若き日の橘善守が峠越えをしたのも、単に自宅のあった檜枝岐から東京に出るためであった[24]。吉田喜久治は昭和五年のある朝、奥日光の三本松を発って西沢金山、川俣、そして引馬峠を越し、舟岐川で野宿して翌日檜枝岐着という変則的な行程で歩いた[30]。吉田は只見川右岸の袖沢から丸山岳に登るため、袖沢までの三ツ岩越えの案内人を檜枝岐で探すため引馬峠を越えたのだ。引馬峠には関心がなくただ通過しただけのようだ。
昭和十年頃には製品運搬での定期的な峠越えの話もある。当時檜枝岐で水桶製造をしていた星亀吉は、手作り作業で一定の数が貯まると荷を背負って川俣へ越し仲買人に売り渡していた[31]。しかし恐らく日常的に峠越えが歩かれたのは、この頃までであったろう。昭和十一年に檜枝岐に車道が開通するもまだ自動車は珍しかったが、十六年には村の商人が商品運搬用の車を導入するようになった[1]。この頃から、記録として残された峠越えはいったん見られなくなった。昭和二十八年のガイドブックでは、「引馬峠径は草で埋まり廃道」と記されている[32]。その頃でもまだ通行していた一般通行人は、知る限りでは雪でヤブが覆われる時期に峠を越していた茅葺き職人くらいなものであろう。
【昭和期に起きた様々な道の変化】
昭和三十年代、引馬峠の状況は一変し一時の賑わいを見せた。引馬峠道を始め周辺の歩道が再整備されたのである。昭和三十年前後は高度成長期の初端にあたり木材需要が飛躍的に増大、各地の営林署で精力的な歩道整備が始まった時期である。鈴木林治は帝釈山脈の山々を歩くに当たり、昭和三十二、三年に檜枝岐や川俣からの峠道を普通の登山道として歩いたというので[34]、この時までに峠道が再生されていたことになる。また峠道のホーロク平付近から錆沢に下る二ツ山林道も利用できると記している。さらに田代山から黒岩山まで福島・栃木県境を行く帝釈山歩道も三十四年に開通した。昭和三十三年の山口営林署の管内図では、舟岐川歩道として檜枝岐から引馬峠までの峠道が記入されている[35]。その結果、引馬峠から川俣まで三時間、檜枝岐まで五時間で下れるようになった[2,34]。明治時代の記録で登って下るのに約十時間だったので道の状態は往時と同程度に良かったと見られる。元来この辺りは風の通り道で風倒木の被害が大きい山域なのだが、三十四年九月二十六日の伊勢湾台風の被害は甚大で、せっかく整備した歩道は全て倒木で覆い尽くされてしまった。かつて引馬峠付近は幽玄とした森林に覆われていたと言うが、峠の北東側数百米四方の倒木帯が大きく拡大し[20,36]、今でも大木が無く明るく開けたままだ。尾根通しで風を受ける栃木側の峠道も「倍の時間が必要」と言われる状況だったが、会津側はたいした被害がなかったようだ[2]。事実、昭和三十五年に田代山、引馬峠、檜枝岐と歩いた房内幸成は、県境稜線の倒木は酷かったと報じたが引馬峠からの下りについては道荒れの記載がなかった[37]。昭和三十八年前後に帝釈山から来て引馬峠から檜枝岐に下った山岳画家辻まことは、悪路だった県境の悪路に対し引馬峠からの下りに差し掛かると「路はある」「心は軽くなった」とし、檜枝岐まで四時間で下ったことから、十分使える道だったようだ[38]。古人より所要時間が短いのは、この頃舟岐川林道の開削が進み恐らく行程の半分ほどは車道を歩けるようになっていたからだろう。昭和四十年頃、引馬峠の水場には丸太小屋があったという[39,40]。水準点から峠道を北西に百米ほど行ったところにある小流のところであろう。何の小屋かわからないが、この小屋の利用者により道が維持されていたのかも知れない。この小沢にはサンショウウオがいるので[15]、サンショウウオ漁の小屋であろうか。檜枝岐にとっては貴重な現金収入であり、観光客が入り始めていた当時は郷土料理としても珍重されたという。反対に栃木側の峠道の被害は酷く、三十九年に栃木側の引馬峠~ホーロク平付近にある二ツ山林道分岐までを歩いた明大ワンゲル隊は、本来四十五分とされるこの区間に四時間を要した[41,55]。峠を通った登山者たちは川俣方向の様子を見て、「クマザサと倒木であとかたもない」「見つからない」としている[38,39]。すでに捕鳥猟も禁止されてい鳥屋場通いもなくなり、尾根筋の平五郎山~引馬峠の区間は伊勢湾台風により消滅したとみられる。
一度整備した歩道がすっかり荒廃してしまったため、昭和三十九年に山口営林署が管轄する帝釈山歩道(福島・栃木県境の道)を再整備するとともに、檜枝岐から県境へは引馬峠道の修理でなく檜枝岐まで四時間で下れる越ノ沢沿いの新道を作設した[39]。山口営林署は峠越えでなく伐採が目的なので、引馬峠方向へは峠道の再生でなく車道の舟岐川林道を伸延し、越ノ沢に歩道を設置したのである。この道は営林署が帝釈山歩道からの分岐に道標を設置し、しかも数年後に越ノ沢の途中まで伐採用の林道が延びてたいそう便利になった[42]。そのため地形図が示す歩道も、昭和四十七年測量の二万五千図では大黒沢からの引馬峠道が記入されていたが[43]、五十三年修正図では越ノ沢道に変わっていた[19]。一方大黒沢に下る本来の峠道は、昭和四十二年のガイドではしっかりした道とされたが[44]、同じガイドの五十六年版では廃道に近いとされ、その古道に変わり新たに開設された車道である舟岐川林道の終点から五十分とも紹介された[45]。少なくとも舟岐川林道は昭和五十年前後に舟岐川の奥地にまで侵入し[20]、この道を使って峠道の沿線の大黒沢左岸が酷く伐採された[20,47]。峠道が通っていた伐採地の急斜面は作業時は通行困難であったろうし、その後放置されて表土流失が進んだと思われ、現在は跡形もなく捌けている。その結果、引馬峠へ登るには古い峠道を辿るより車道終点から引馬沢を遡行する方が便利になったようだ。引馬峠にあったという小屋も、昭和四十四年には焼け落ちたような廃墟になっていて[54]、四十九年、五十七年の通行記録に記載がないので、その頃すでに無くなっていたのかも知れない[12,46]。
一方栃木側を管轄する今市営林署は、積極的に歩道を作らず谷沿いに車道を巡らせ索道で搬出する施策を取った。昭和四十年代、無砂谷はナガフセリ沢、楡ノ木沢は栃平沢、錆沢の本谷、黒沢は田代沢まで伐採用の林道が作設され、峠道のすぐ下まで伐採の手が伸び、尾根筋だけが辛うじて残された。楡ノ木沢流域はさらに酷いことに栃平沢一帯が皆伐されてしまい、まだ痕跡程度が残っていたはずの峠道は壊滅的な打撃を受けたと思われる。従って現在この一帯では、道の名残すら見つけることが難しくなっている。
さらに数十年が経った今、かつての夥しい倒木はしだいに朽ちて大きな障害でなくなりつつある。もちろん倒木は新たに発生しているので、ホーロク平から引馬峠にかけては今でも歩き難い。しかし倒木以上にチマキザサやチシマザサ(ネマガリダケ)のヤブは手強く、ササに埋もれた道の痕跡を探すのにかなりの手間を要する。森林部分も倒木や下生えにより峠道が曖昧になって経路の特定に労し、正道がどこかわからなくなっている部分も少なくない。だから単なる旧道ルートによる峠越えを目指すなら、峠道の位置にこだわらず自ら通りやすい部分を判断して適当に進むほうが早い。そうすればヤブ山に慣れた方なら現在でも峠越えは容易である。だが実用的に峠を越す理由がなくなった昭和前期以来、無雪期の峠を越えた記録はみられない。昭和中期の茅手の峠越えも、また昭和五十七年の橋本太郎の峠越えも[12]、道があってもなくても通れる積雪期の記録である。福島、栃木の一方から峠まで登った記録は、最近でも時々見られるが、拝見すると多くは峠道とは関係なく福島側は舟岐川林道の終点、栃木側は黒沢林道の終点から引馬峠に達したというもので、峠道の記録ではなかった。しかし福島側の峠道の記録は皆無だが、栃木側では旧道を歩く趣旨ではないが平五郎山の尾根を歩いた平成二十七年(二〇一五)にjaian37氏の川俣温泉~引馬峠、平成三十年(二〇一八)にふみぃ氏の引馬峠~川俣温泉の記録が見つかった。これらの記録では結果的に旧道の一部を通っているので、峠道が何とか通行可能な多少の期待が持てた。
【経路の特定が必要な部分】
引馬峠道は陸地測量部の三角測量時に、三角点への到達経路としても使われた[10]。だから当然初版五万分の一地形図に収載されていて、図を見ればおおよその経路を知ることができる。ただし問題になるのは、当時の測量技術の限界から地形図の地形そのものに間違いが含まれているため、図上の経路そのものが不正確になっている部分である。特に大きな問題となる箇所は、川俣側では栃平沢から平五郎山への登り方、檜枝岐側では引馬峠から大黒沢への下り方であろう。
栃平沢は楡ノ木沢の支沢で一五一二独標の南に突き上げる沢である。昭和四十年代に谷全体が皆伐され、跡地にカラマツが植林されて下層が腰までの笹原になったため、道の痕跡が全く分からなくなった。初版地形図は地形が間違っているため道の付き方もあまり参考にならないが、昭和三十三年の要部修正で地形がかなり修正された[48]。伐採前のこの時代、もしまだ平五郎山の道が残っていたとすれば正しい道筋を示している可能性がある。資料からは確固たる道の付き方が分からず現地も笹に覆われて痕跡を容易に探し出せないため、今できるのは、多数残る伐採時の作業道を継ぎ合わせつつ笹を漕いで一五一二独標の尾根に出るくらいなものだ。尾根上は伐採時の痕跡であるのか薄く踏まれていて、一五三〇米辺りからは峠道の断続的な断片が見え始めた。
川俣温泉と川俣(楡ノ木沢)とから取付き、 栃平沢右岸尾根を登る道筋(大正六年) [18] |
川俣(楡ノ木沢)と牧場作業道とから取付き、 栃平沢を詰め上がる道筋(昭和三十三年) [48] |
実地確認した峠道の残骸(青線) 茶点線・橙線(実際に通行)は作業車道 [※] |
引馬峠から大黒沢までも、道の特定が大変困難だ。大黒(オオグロ)沢は舟岐川本流(黒沢)の一五九二米付近すなわち一六八四独標の東でで右岸に出合う大きな沢で、登山者の間ではなぜか「深沢」と呼ばれている。知る限りでは、登山界の重鎮で南会津に詳しい川崎隆章が昭和三十六年に深沢の名を使ったのが初めてで[2]、以後登山関係では深沢と呼ばれるようになったが、呼び名の根拠は不明であるため、ここでは地元や営林関係の呼称である大黒沢を使用した[6,47]。地元の発音では、ウーグロとなるようだ。初版地形図の地形は細部がかなり間違っていて、分かるのは、峠から引馬沢の右岸山腹を下り、一八六〇圏鞍部(最新の二万五千図では一八二〇圏)で尾根を越し、大黒沢左岸山腹を下り、大黒沢の二股と黒沢出合との中間に下るということだけだ。経路の大部分が山腹を下る道であり、地形が不正確となると具体的にどこをどう通っているか分からない。昭和二十七年の応急修正図で多少改修されるも大差なく[49]、ある程度正確な地形になるのは三十三年の要部修正図からである[48]。要修図であれば実地形との対応が可能であり、この経路が実際の道があった場所である可能性は十分にあるが、少し気になる点もある。まず「要部修正」とは図面内の特定部分を大きく変更する際の摘要だが、そのさい歩道の位置まで測量し直した可能性は低いと思われる。この要部修正では地形の精度向上に主眼が置かれていて、単に従来の地図から読み取った歩道を新図のそれらしい位置に転写しただけに過ぎない可能性がある。このような実測を伴わない地形図上の歩道位置の転写は珍しいことではない。仮にそうであれば、地形は正しく修正されても歩道位置は不正確なままである。またもう一点、現地を実際に歩いてみると要部修正図が示す歩道の位置は不自然と感じられたこともある。例えば引馬峠と一八八〇圏小峰(二万五千図では一八七六独標)との中間に横たわる平坦な尾根、図上の歩道はその西を捲いているが、ササが被さる斜面より黒木に覆われ倒木も少ない平らな尾根上の方が明らかに歩きやすいのである。また一八四〇圏鞍部から一八八〇圏小峰の北面は急な山腹の距離にして数百米のトラバースとなるが、道普請も行わない峠道に不安定な地形の長いトラバースがあったとは考え難く、多少のトラバースがあったとしても早くに大黒沢へ下り出していた可能性も考えられる。地形図では分からないが二万五千図の一八七六独標の東八十米に同程度のピークが有り、そこから北に出る小尾根には古い道型が残っていて、断定する材料はないがそれが峠道である可能性もある。そして大黒沢に下ってしまえば沢沿いは歩きやすく、容易に下ることができる。この区間についても推測に過ぎず、正しい経路を特定すべき確固たる情報はなかった。
大黒沢の出合と二股が異常に近い(大正六年) [18] |
大黒沢出合と二股が少し広がった(昭和二十七年) [49] |
国境稜線から出る尾根形状が正確になった (昭和三十三年) [48] |
実地確認した峠道(青線)・鬼怒沼林道(青点線)、 茶点線・橙線(実際に通行)は舟岐川林道跡 [※] |
これら二箇所の経路不明部分については、現地を歩いてみても確実に特定することはできなかった。記録ではその時実際に見た状況だけを記してある。
[1] 檜枝岐村「檜枝岐村史」、昭和四十五年、第一章 第三節「小屋ノ原村の起源」三一~三四、第五章 第一節「産業の沿革と現況」二一二~二三四、第五節「交通と通信」二八二~二九二頁。
[2] 川崎隆章『美しき尾瀬の旅』、昭和三十六年、「栗山郷の旅」一一〇~一一八、「帝釈山脈縦走」一四九~一五六頁。
[3] 川崎隆章編『尾瀬と桧枝岐』、昭和十八年、広瀬潔「尾瀬を紹介した人と文」三~二二、三田幸夫「越後銀山平より會津の山旅」一七八~一九一 、川崎隆章「檜枝岐の姓氏と家紋」五二〇~五二八、「檜枝岐各戸には刀剣を蔵せること」五二九~五三〇、平野才次郞「我村の商取引に就いて」五九八~五九九頁。
[4] 『村絵図』、萬治四年。
[5] 南会津山の会『いろりばた』、昭和四十七年、佐藤勉「馬坂沢と無砂谷」二四〇~二四五頁。
[6] 檜枝岐村民俗誌編さん委員会『檜枝岐村の暮らしと地名 檜枝岐文化財調査報告書 第 2 集』福島県檜枝岐村教育委員会、平成二十六年、「檜枝岐村の地名 舟岐川から馬坂峠、帝釈山」二六~二九頁。
[7] 陸地測量部『五万分一地形図 川治(明治四十五年測図)』、大正二年。
[8] 星野錫『日光 NIKKO(六万分之一)』、明治四十三年。
[9] 農商務省 地質調査所『日光図幅』、明治二十一年。
[10] 陸地測量部『点の記』、「無砂谷」、「平五郎」、「腕蔵」、明治四十一年。
[11] 『小瀬平三平坂より上州方絵図』、慶応二年。
[12] 橋本太郎『奥鬼怒山地 : 明神ケ岳研究』、昭和五十九年、「帝釈山脈山系誌」一一〇~一一七、「引馬峠を越えて平五郎山へ」一五〇~一六一頁。
[13] 陸地測量部『五万分一地形図 燧岳(明治四十五年測図)』、大正二年。
[14] 中村枯林『旅ころも』、明治四十年、「両毛山楽探検記」五四~八二頁。
[15] 白井光太郎「日光より南会津への山越」(『山岳』一年二号、八五~九五頁)、明治三十九年。
[16] 沼井鐵太郎「黒岩山を探る」(『山岳』一六年三号、二八九~三〇五頁)、大正十年。
[17] 斎藤功・山本充「栃木県栗山村土呂部集落における生業の変遷と資源、利用の空間的変化 ─ブナ帯山村の一事例─」(『人文地理学期究』一六号、一二九~一四七頁)、平成四年。
[18] 陸地測量部『五万分一地形図 燧岳(昭和六年要部修正)』、昭和八年。
[19] 国土地理院『二万五千分一地形図 帝釈山(昭和五十三年修正)』、昭和五十五年。
[20] 国土地理院『空中写真(男体山)CKT763(1976/10/06)』、昭和五十一年、C10A-9。
[21] 菅野康二『会津の屋根職人 : 茅手出稼ぎを中心として(歴春ふくしま文庫 ; 34)』歴史春秋出版、「1南会津萱手の出稼ぎ(4)出稼ぎ経路」四九~八一頁、平成十三年。
[22] 片平重次「日光町より栗山桧枝岐を経て尾瀬沼に至るの記」(『博物之友』六巻三四号、二六一~二六六頁)、明治三十九年。
[23] 菅野康二「会津茅手出稼ぎの「組」について」(『福島地理論集』一九号、一~八頁)、昭和五十一年。
[24] 会津史学会編『会津の峠 下』歴史春秋社、昭和五十一年、酒井淳「引馬峠」一二三~一二五頁。
[25] 田辺和雄・平野長英・中西悟堂『マウンテンガイドブックシリーズ 第3 尾瀬』朋文堂、昭和二十八年、「尾瀬に入る路」三五~三八頁。
[26] 志村俊司編『山人の賦 III(第3巻)―桧枝岐・山に生きる』白日社、昭和六十三年、平野勘三郎「屋根屋・カヤ葺き職人」一六〇~二一六頁。
[27] 菅野康二「会津地方における草屋根葺き職人 (茅手) の出稼ぎ」(『人文地理』二九巻三号、二九五~三一二頁)、昭和五十二年。
[28] 沼井鐵太郎「尾瀬の事ども 附至仏山」(『山岳』一一年二号、二八一~二九一頁)、大正五年。
[29] 岡山俊雄「尾瀬沼へ」(『山岳』一九年一号、八一~一〇一頁)、大正十三年。
[30] 吉田喜久治『山が山であったころの山登りの話』木耳社、昭和五十四年、「袖沢・丸山岳・朝日岳 一九三〇」四七~一〇四頁。
[31] 星寛「尾瀬の山々に抱かれた曲輪製造」(『 はるかな尾瀬』六号、八頁)、平成二十年。
[32] 川崎隆章『登山地図帳 尾瀬と日光』山と渓谷社、昭和二十八年、「湯西川温泉、湯の花温泉、西根川温泉、檜枝岐村、尾瀬沼」八四~九〇頁。
[33] 綱島定治,・矢島市郎『日光国立公園』地人社、昭和十一年、「二十八 湯西川から川俣へ」一二八~一二九頁。
[34] 鈴木林治「帝釈山脈を行く」(『山と渓谷』二四六号、九一~九三頁)、昭和三十四年。
[35] 前橋営林局『山口営林署管内下図』、昭和三十三年。
[36] 国土地理院『空中写真(燧ヶ岳)米軍(1956/07/31)』、昭和三十一年、M1720-5。
[37] 房内幸成「田代山・帝釈山縦走」(『ハイカー』八〇号、八八~九〇頁)、昭和三十七年。
[38] 辻まこと『画文集 山の声』東京新聞出版局、昭和四十六年、「引馬峠」一七七~一九九頁。
[39] 山旅会編『アルパインガイド10 尾瀬・日光』山と渓谷社、昭和四十三年、 小瀬郁雄「帝釈山縦走」一七六~一八〇頁。
[40] 太田八千穂「晩秋の帝釈山脈」(『岳人』二一四号、一三四~一三五頁)、昭和四十年。
[41] 「六十年のあゆみ」編纂委員会編『六十年のあゆみ』明治大学体育会ワンダーフォーゲル部、「南会津におけるリーダー養成」一五九~一六三頁、平成九年。
[42] 市川学園山岳OB会「帝釈山脈北面の沢(2)」(『岳人』三一九号、二〇〇~二〇四頁)、昭和四十九年。
[43] 国土地理院『二万五千分一地形図 帝釈山(昭和四十七年測量)』、昭和四十九年。
[44] 西丸震哉『尾瀬 (ブルー・ガイドブックス) 』実業之日本社、昭和四十二年、「田代山─帝釈山─黒岩山」一二九頁。
[45] 西丸震哉『尾瀬 (ブルー・ガイドブックス) 』実業之日本社、昭和五十六年、「田代山─帝釈山─黒岩山」一二八頁。
[46] 川越はじめ「会津田代山から鬼怒沼」(『新ハイキング』二三六号、六〇~六三頁)、昭和五十年。
[47] 関東森林管理局会津森林管理署南会津支所檜枝岐担当区『会津森林計画区 第6次国有林野施行実施計画図』、令和三年、第28片の内第24片。
[48] 国土地理院『五万分一地形図 燧ヶ岳(昭和三十三年要部修正)』、昭和三十五年。
[49] 国土地理院『五万分一地形図 燧ヶ岳(昭和二十七年応急修正)』、昭和二十七年。
[54]群馬大学工学部ワンダーフォーゲル部「田代・帝釈から奥鬼怒へ」(『皇海』六号、三二~三五頁)、昭和四十五年。
[55]志村和久「リーダー養成」(『ワンダーフォーゲル』二〇号、五九~六五頁)、「記録」(同、七六~七七頁)、昭和四十年。
[※] 国土地理院二万五千分の一「川俣温泉」「帝釈山」を使用