赤安田代 【藪径・雪径】

 福島県会津地方の山中には、幾多の湿原が点在する。有名な尾瀬沼や尾瀬ヶ原は、群馬県との県境にあり半分近くが福島側にある。尾瀬の東の山中にも多数の中小湿原が連なっていて、距離的に近く中小のなかでは規模も大きいのが「赤安田代」と呼ばれる湿原である。尾瀬沼付近から東に連なる県境尾根上、尾瀬沼の長蔵小屋の東約4.5kmの赤安山の北斜面にあり、長径約600mに及ぶ。一般には登山道のない湿原とされ、赤安田代を水源とするトヤマ沢(実川支流の赤安沢の支流)を遡行するか、環境庁指定の尾瀬沼黒岩山線という登山道が通じる県境尾根からヤブ漕ぎで達するとされる。この歩道は元々は東京大林区署が設置した「奥鬼怒歩道」と呼ばれる国有林の管理歩道で、登山者の間では現在も「奥鬼怒林道」と呼ばれるものだ。

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実川歩道([6]を改修、
赤:尾瀬沼黒岩山線、二重線:
実川林道、破線:実川歩道)

 だが、七入から赤安田代の真ん中を横切って赤安山山頂付近に達する「道」が形式上は現在も存在することは余り知られていない。この道は、昭和三十年代後半に再敷設された実川(ミカワ)歩道と呼ばれる山口営林署の伐採道で、赤安田代には伐採小屋や索道中継点が設けられていた。会津森林管理署南会津支署の管轄下となった現在、図面上に存在するが一切手入れをされず放置され、実質的に利用できる状態ではないと推測される。実川歩道と言えば、かつては実川から支流の赤倉沢に入って孫兵衛山に登り引馬峠へと続く巡視道と知られ、少なくとも大正九年までに開通していた古い道が思い起こされる[5]。昭和三十三年の営林署管内図[4]でも確認できるこの実川歩道は初代の道で、現在図上に示される道とは位置がかなり異なっている。恐らく昭和三十年代の伐採事業に伴い、施行位置に近い赤安沢側の現経路に付け直されたと思われる。現在の経路は、実川右岸の車道(実川林道)から渡河して、第二次大戦前の開拓地矢櫃平に渡る。矢櫃平を抜け、入(イリ)ヒヨドリと呼ばれる実川が狭くなったところで右岸に戻るがすぐ渡り返し、赤安小沢の右岸尾根に取り付く。やがて赤安小沢を左岸に渡り、赤安田代の伐採小屋のところでトヤマ沢に出合う。赤安田代の中央をまっすぐ突っ切り田代南岸の索道中継地に至ると、電光型を交えつつ赤安山西肩の一九六〇米圏へと登りあげ、鬼怒沼歩道に合する。しかしこの公式の歩道以外にも、全山で敢行された伐採の必要に応じ、実際には多数の作業道が存在していたことは疑いない。

 昭和三十年代を中心に、山口営林署による大規模な伐採事業が檜枝岐川支流の各山域で源流の稜線直下まで実施されていた。山深くの隅々まで作業道、伐採小屋、搬出用の索道が設置され、択伐が行われた。群馬側でも沼田営林署による中ノ岐川伐採が進行し、県境稜線の両側から伐り進められた。時を同じくして昭和三十四年、赤安沢の西隣、黒溶沢から小淵沢経と県境を越える電源開発の只見幹線が開通した。まさに開発ラッシュの時代であった。矢櫃平近くの実川には集材所と飯場があり、往来が盛んだったという[1]。昭和三十六年の奥鬼怒林道では、赤安山西の一八七八鞍部は切り開かれて展望が良く、あたかも峠道であるかのように福島側と群馬側からの伐採道が通じていたという[2]。また只見幹線から小淵沢田代にかけてがちょうど伐採中で、一、二軒の造林小屋があった。昭和四十二年に赤安沢の東隣の硫黄沢を遡行した明大隊も作業道、マーキング、作業小屋跡など伐採の痕跡が色濃く残ることを報じており[3]、山域全体で伐採が行われていたことが分かる。稜線の歩道を歩く登山者は数多くあっても、実川に注目した登山者は記録を見る限り、大正期のパイオニア沼井を別格とすれば、昭和四十年代の明治大学ワンダーフォーゲル部が初めてであろう。釣人の入山はあったが、彼らの足跡はイワナが釣れる下流~中流に限られていた。昭和末期以後、遡行者の入山が盛んになってきたが、その頃にはもう実川歩道は廃道化し利用できなくなっていたと思われる。

 伐採が行われた年代は、まだヒノキやスギなどに転換する拡大造林の普及前であったと見え、幸いなことに伐採跡は天然更新として放置された。つまり目ぼしい木を切り尽くした後、自然の再生力に任せる方針であった訳である。しかし積雪が多く寒冷なこの地では森林の回復には百年単位の時間が必要と思われ、現在この山域で見られる笹原の多くは伐採跡地であって、笹ヤブに埋もれた作業道もしくは索道跡の切り開き、伐採作業のワイヤーを時々見かける。

 ここに記すのは、赤安田代への時間的な最短経路である尾瀬沼黒岩山歩道からの作業道を利用した、恐らく最も効率的なルートの記録である。前段で述べた実川歩道の歩行記録ではないことにご留意いただきたい。

●アプローチ(赤安山西の一八七八鞍部まで)

 赤安田代の入口までは東京電力の作業道が利用できる。二本の経路があり時間的には同程度だが、どちらも距離が長い。大清水から奥鬼怒林道を小淵沢橋まで入り、橋の西詰からの小淵沢の右岸に沿う支線車道か、東詰から出る送電線巡視歩道の何れかを使って県境尾根の尾瀬沼黒岩山線に上がる。何れも道自体は手入れされているが、東京電力管理の道のため道標類は一切なく、分岐、脇道、突然曲がる道の付き方など、一般登山道以上の注意を要する。支線車道途中から作業歩道に入るコースは歩道入口に小さなテープがあるのみで、また送電線の近くを行く巡視道は複雑な道の付き方と多数の分岐のため本道を外れぬよう気を使う。支線車道経由のコースが尾瀬沼黒岩山線側に出合う地点から、しばらく東に緩く登ると尾根を送電線が横切っていて、只見幹線竣工記念碑がある。支線車道経由コースの分岐には「小淵沢経由大清水」の落ちた道標があり、送電線コースは記念碑が分岐になっている。なお歩行時間だけ見れば沼山峠から入った方が多少近いが、大部分の入山者にとって沼山峠入りは交通が非常に不便である。

 尾瀬沼黒岩山線は、訪問日現在では立派に借り払われていて歩きやすかった。県境尾根の群馬側に付いた道はなお東へ緩く登り、袴腰山の北で尾根を乗越し福島側に下り初めた。ひとしきり下ってから一旦緩み、もうひと下りすると一八七八最低鞍部であった。昭和期の伐採のため明るく開けた笹原の一本の木にピンクテープが巻かれていて、他の目印は特になかった。赤安沢を下降して赤安田代へ向かう場合はここから下る。なお少し東に登った一八九二米に赤安清水の表示があり、北に下れば赤安沢支沢の源頭で水を得ることができる。

 

⌚ฺ  大清水-(40分)-小淵沢橋-(1時間40分)-尾瀬沼黒岩山線の大清水分岐表示 -(10分)-記念碑-(40分)-1878最低鞍部 [2025.10.17]

   または小淵沢橋←(送電線巡視道経由 ※1時間15分)-記念碑 ※下り歩行時間

 

●一八七八鞍部~赤安田代

 鞍部から尾瀬沼黒岩山線をなお辿り、軽く登って赤安清水の表示を過ぎ、さらに約七〇米ほど登った一九六五米辺りで北にトラバースする痕跡が、位置的には実川歩道の痕跡の可能性が考えられる。実際それを認識することは難しいが、尾瀬沼黒岩山線が一九七一米で赤安山西肩から北西に出る尾根を乗越す地点から、この北西尾根に乗れば良い。北西尾根は、微かな痕跡や薄ヤブもしくはヤブのない部分が断続的に存在していて、一部で発生するチマキザサのヤブを突破しながらそれらを完全にうまく繋げば、大きなヤブ漕ぎなしで赤安田代に達することができる。時々見られる歩かれたらしい痕跡は、かつての作業道なのか、薄ヤブ部分を拾って歩いた登山者の踏跡なのか不明だが、実用上はこの尾根をルートとして便利に使うことができる。実際はこのルートを逆方向(登り)で使ったが、ここでは田代に向かう道順で記した。

 尾瀬沼黒岩山線の一九六五米付近から疎らな笹ヤブをトラバースし北西尾根に乗った。初めの百米ほどは尾根の南西に緩斜面の森林が広がるため、下生えの弱い森林内を歩いた。尾根はそこから傾斜は緩いがやや狭く明瞭になり、針葉樹とチマキザサの混成する尾根になると、密生し

たササの抵抗で歩き難くなった。チシマザサ(ネマガリダケ)と異なり押せば動くのはよいが、多少尾根筋を外してでも少しでも薄い部分を見つけて歩かないと一向に速度が上がらないほどだった。日当たりの悪い北西斜面側に若干ヤブの薄い通路を見つけることもあった。ササに埋もれたワイヤーでかつての伐採を伺い知った。

 一九四四米から尾根が広がり北向きになった。すると南東からの日当たりの影響が解消し、とたんにヤブの勢いが弱まった。北向き斜面を選べば、歩きやすい部分は容易に見つかった。この尾根は次第に北向きに向きを変え田代の西を下っていくが、一九一二米で尾根が再び北西向きになる辺りから、早めに尾根筋を右に外れ北に下り始めた。北斜面の針葉樹林に入ると、下生えのない部分やササの非常に少ない部分が点々と続いており、境界部のヤブを突破しながらそれらを渡り歩くことで、ほぼストレスなくルーティングすることができた。時々踏跡か歩いた痕跡のように見える部分があったが、連続しなかった。仮に伐採時に道であったとしても数十年が経過しており、道の流失やササの繁茂、倒木で断続的になってしまったと思われた。

 一八一五米で森林の密度が低下し疎林になった。しっかり日が差すためだろう、とたんにササが背丈を越すようになった。幸いにも多数あった倒木に沿って進んだり、伐採道の痕跡なのか獣道なのか踏跡のようなササの隙間を使って、多少遠回りでもまとまった大木の影で日当たりが悪くササの弱い部分を通るなど、要領よく進めば大きなヤブ漕ぎはしないで済んだ。この辺りではもう湿原が見えているが、単純に突進して深い笹原に突入しない様に左の尾根地形に沿って回り込むのがコツである。一七九〇米で尾根が北東に向きを変え、珍しく落葉樹の森になった。伐採跡の二次林のようだ。尾根筋を保ちつつササを避けながら踏跡的な部分を丹念に辿って少しずつ高度を下げ、尾根が湿原から三米ほどの高さになったところで湿原のレベルに下った。ここは東西に長い田代の北西端になり、特に道的なものは残っていなかったが、湿原の縁に沿って通れば湿原北側の森林の影響でヤブが薄く、軽いヤブコギ通れるのである。不思議なことに湿原ではあるがすっかり森林に覆われていて、水浸しの森を、倒木や僅かのヤブを有り難く使ったり、水の溜まりの少ない部分を踏んで通過した。

 ぬかるんだ森を数分歩くと、待望の赤安田代の西端に飛び出した。秋のこの季節、田代は何も無い一面の黄色いカーペットであった。田代を一周回ってみた。芝生のようで水は全く見えないが、歩くとスポンジのように下層が浸み込んだ水であるのが分かった。広大な田代はどこを歩いても単調かつ一様であった。森林図で伐採小屋があったとされる北側の森林を少し探ったが小屋跡は分からなかった。帰路の時間を考えると、長さ数百米に渡る広い田代の全体を調べる時間はなかったためである。田代の中央を北西から南東に横切る軽くひと跨ぎするほど小さな水流は、赤安山から来るトヤマ沢の源流であった。田代の縁の森林沿いはどこも、田代に着く直前に通過した水浸しの森になっていた。森林が乾きを抑えるため、草原状の田代中心部よりも湿潤になるのであろう。田代の様子はどこまでも変わりなく東端に達したあと、南縁を通って一周するまで、基本的に変わらなかった。違いと言えば、赤安山からの水が流れ込む分、南縁の方が多少湿潤度が高かったくらいである。戻って来ると何か大きな動物が来ていた。遠くから見た感じ雄鹿のようであった。近づくと笹の中に去っていった。一周するのにかかった時間は、正味十五分ほどであった。

 

⌚ฺ  1878最低鞍部← (10分)-尾瀬沼黒岩山歩道出合(赤安山西肩付近)← (55分)-赤安田代西端 [2025.10.17] ※逆方向時間

 

 

【参考】

 一八七八最低鞍部から赤安沢を下り、赤安田代へトラバースするルートを行きに試してみた。赤安沢一帯は完全に伐採され、跡地が激しい笹ヤブだったので、今思えば完全に失敗であった。参考のため簡単に記しておく。最低鞍部から赤安沢を下った。一八四五米二股までは沢を順調に下るも、次第に笹ヤブが激化して水線を覆い不快な下りになったので、右岸山腹の森林に逃げて東にトラバース後、薄めの笹ヤブを赤安沢一八〇五米二股に急下した。田代に出るにはこれ以上高度を下げられずトラバースを試みるも、ネマガリダケの激しいヤブに全く前進できず、やむを得ずいったん一八一五米までネマガリの束をこじ開けて高度を上げ、森林中の薄ヤブをトラバースした。これを幾度か繰り返し北斜面に回り込むと、普通に漕げる程度のチマキザサのヤブになった。十数分のヤブ漕ぎでようやく赤安田代が樹間に姿を見せたが、田代直前の丈を遥かに越す笹に手を焼き、湿原に達するまでなお十数分を要した。最後の笹ヤブは左の樹林帯から捲いた方が良かったことを帰り道に知った。最低鞍部から赤安田代西端まで、正味で約一時間四十分を要した。

 

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道標がない1878最低鞍部
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行きは赤安沢を下ってみた
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源頭は歩きやすかった
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沢に笹が被ってきて右の森に逃げた
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小窪を幾つも渡る
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登りやすい窪では高度を回復
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ヤブまみれの樹間に田代が垣間見えた
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森林内に広がる水浸しの湿原
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秋の赤安田代は一面のカーペット
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トヤマ沢源頭を渡るとき見た赤安山
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湿原から流出するトヤマ沢
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湿原南縁の森林帯
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帰りは踏跡的な部分を拾って登った
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道でないかも知れぬが歩ける部分あり
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歩ける場所を探して繋げば道と同じ
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上部の細い尾根はそこそこの笹ヤブ
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笹に埋もれた伐採ケーブル
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広く切り開いた尾瀬沼黒岩山歩道に出た

[1]瀬畑雄三「渓語り : 源流域での毛鉤釣り秘話」冬樹社、昭和六十一年、「山椒魚と惣十さん」一三六~一四五頁。
[2]山旅会編『尾瀬・日光 アルパインガイド10』山と渓谷社、昭和三十八年、金子武司「奥鬼怒から尾瀬へ 鬼怒沼湿原を通って」六五~七二頁 。

[3]明治大学体育会ワンダーフォーゲル部「第12回リーダー養成」(「ワンダーフォルゲル』二三号、一八~三一頁、昭和四十三年。

[4] 前橋営林局『山口営林署管内下図』、昭和三十三年。

[5] 沼井鐵太郎「黒岩山を探る」(『山岳』一六年三号、二八九~三〇五頁)、大正十年。

[6] 関東森林管理局会津森林管理署南会津支所檜枝岐担当区『会津森林計画区 森林計画図・基本図 1048林班 会津266』、令和三年。