奥千丈軌道(桜沢~大弛峠) page 1 【廃径】

 大弛峠は、今日では金峰山、国師岳への登山口として有名で、自家用車での快適なドライブやシーズン中の休日ならバスでも行かれるため、定期路線バスの終点杣口上からの約二十五粁の道のりを歩く登山者は稀である。この自動車道は、昭和初期の森林軌道を改良し、場所によっては並行する新しい道を拓いて作られたものである。そのうち最奥の桜沢から大弛峠にかけての区間は全て新造されたものであり、この道の開通前、特に昭和三十年代には、軌道が登山道としてよく歩かれていた。それが廃道となった今でも、古い軌道跡が比較的よく残されており、読図とルートファインディング次第では、何とか通行することができる。

 

 

【軌道の変遷】
 この森林軌道は、山梨県が県有林開発のために敷設したものである。車が通る現在の林道と同じ位置づけで、山林伐採の進捗に応じて、延長や縮小、支線の開設と廃止が行われた。林業では、県有林も民有林の一つと位置づけられているため、国有林のような公式資料が外部に開示されることがなく、軌道廃止後約六十年が経過した現在、当時の状況を知る資料は極めて少ない。断片的な情報から分かることは、起点、終点、路線網の全てが時代により異なり、一定の姿を取ることがなかったことである。
 初めに開設されたのは、杣口から琴川沿いに源流地帯まで行く杣口森林軌道で、開設は昭和元年とも、二年とも云われている[1,2]。大正十三年、記録に残る限りこの一帯への最初の登山者である吉沢一郎が琴川源流を登ったときに、柳平で「大変広い道を造って居る様だったが何の為かは解らなかった」とし、「道は琴川に沿って付けられてある相だ」と述べており[3]、建設中の軌道の道床を目にしたと思われる。以後の登山者は、線路を歩いたか乗車したかの違いはあれ、全て軌道の施設を利用して入山した。
 吉沢が歩いた直後、柳平の上、千貫岩の先で琴川を登る本線から分かれて、六本楢峠付近を越して荒川流域に入る奥千丈線が開設された。これが大弛峠へ通ずる路線である。峠越えといっても登って下るのではなく、峠まで急勾配で登った後、傾斜を緩めてさらに少しずつ登り荒川の河床に追い付かれるのを待つという、独特の路線設計であった。竹内は資料により昭和八年の開設とするが[2]、少しずつ伸延されていたと見られ、少なくとも昭和十四年までに軌道は桜沢を通過しアコウ沢を登るようになっていた[4]。当時のガイドブックは、杣口から金峰山に登る場合、アコウ沢まで軌道の線路を歩き、そこから東口参道で御室を経て登る道を紹介していた[5,6]。多少金銭に余裕ある登山者は、運賃を払って軌道に乗車していた。昭和十一年に吉沢らは、山仕事に入るトロッコを杣口でつかまえ、三人ずつ二台に分乗し、中継所で一度馬の休憩を入れつつ、楢平まで乗車した。杣口から金峰泉一円、楢平一円二〇銭、御室(御室入口の意味であり、実際はアコウ沢であろう)まで一円五〇銭であったと云う[7]。軌道は、朝、空の台車を馬に曳かせて登り、帰りは木材を積んで重力に任せて降りていた。それに便乗する形で、登山者や柳平集落の住人の資材運搬に利用されていた。特に杣口から楢平までは急勾配のため、滑ってブレーキが効かなくなる雨のときは危険で運行できなかったそうだ。
 昭和十五年には、軌道は今日の登山道が荒川へと下る御室小屋入口[8]、十八年までに大弛の下近くまで達していたようだ[9]。少なくとも同年までに塩山営林事務所の奥千丈事業所がその付近に設置され[10]、木馬道が大弛小屋直下にできていたというので[11]、軌道もその付近へ達していたと推測される。三十一年のガイドで、荒川の大弛取り付き点(二一六〇米付近)から荒川に沿って二十五分下った地点、すなわち軌道の最終地点まで完成していたことが分かる[12]。当初は無人だった大弛小屋に夏季には番人が入り、軌道終点から大弛小屋までの道が開設されたと見られ、補給路として使われていた。現在の「大弛峠」の名は、元々たんに「大弛」と呼ばれる小屋場であった地点が、車道開通に伴い「峠」と呼ばれるようになったものである。県有林では昭和二十年代から軌道を活用した効率的な伐採が進み、その結果伐る木がなくなってしまうため拡大造林(全山伐採し植樹を行う)に舵を切り始めた[10]。昭和二十八年には桜沢事務所が開設され[11]、伐採の主体は比較的造林が行いやすい下流側に移行した。少なくとも昭和三十二年には、一九五三米の小屋場から先は廃線となり線路が赤錆びて草が茂って歩き難かったという[13,14]。三十四年には、軌道はさらに手前の一八九五米の小屋にまで短縮された[15]。廃線となった軌道跡は登山道として使われていたが、同年八月の台風七号により、一九八五米付近の荒川本流を渡る橋梁が流失、付近の道床も消滅し、一帯の登山道が付け替えられた。軌道の最大延長時の終点付近や、その先右岸側の木馬道を辿っていた辺りも、台風ですっかり流失してし、登山者はその区間では河原を歩くようになった。
奥地の廃線と並行して、山麓側では輸送力アップのため軌道の車道への切り替えが進んだ。昭和三十六年に塩平から焼山峠を越えて柳平まで焼山林道が開通し[16]、三十九年頃までに桜沢までがトラック輸送に切り替えられた[17,18]。大弛ヘ向けてさらに車道の延長工事が進められたと見られ、車道が大弛峠に達する前には桜沢から四粁の地点に大弛入口の表示があったという[19]。距離的に見て、初版の二万五千分の一地形図にある車道の約二一〇〇米付近から荒川へ下る道のことと思われ[20]、当時そこまで完成していた車道から軌道跡の旧道に移っていたものと思われる。残された桜沢から一八九五米の小屋までの約三粁の区間も[17]、昭和四十四年十月の越峰林道(現在の川上牧丘線)の大弛峠への伸延と前後して役目を終えた。それと同時に治山事業として、荒川源流部の最大延長時の軌道終点に至る支線林道が開設され、それを利用して軌道終点付近の荒川本流に五基の谷止工(治山堰堤)が設置された。この工事により、軌道終点付近は第二堰堤の真下に埋もれ、大弛への登山道も荒川に沿う部分は大部分が消滅したようだ。
 この記事で軌道跡として歩いた桜沢から大弛下終点までの区間は、昭和三十~四十四年頃にかけて、次第に短縮され廃止された。その直後に始まった治山工事により軌道終点から大弛へ向かう荒川沿いは通行不能になり、谷止工の完成後は全く使われなくなり、廃道化して五十年以上が経過したと見られる。

【経路の特定】
 軌道跡に関しては、道床や軌条を中心に何らかの明確な痕跡が残っているので、洪水や崩壊による流失、ヤブの繁茂による寸断箇所を時間を掛けて丁寧に追っていけば、問題なく辿ることができる。昭和三十年代の様々なガイドブックにも記載されているが、歩いた実体験から記載すればポイントは次のようになる。桜沢小屋跡から暫くは車道の下敷きになっているため、軌道跡が始まるのは小屋跡から約三百五十米の地点である。どんどん高度を上げる車道に次第に差を付けられ、上、下アコウ沢の合流の少し上で両沢を渡り、一八一五米で上アコウ沢右岸尾根を回る。直後の大崩壊を踏跡で高巻く。小崩壊を幾つか過ぎると、一八五〇米の御室小屋分岐である。そこから七百米弱の間は一般登山道なので歩きやすいが、アコウ平の駐車スペースへの道を分けると悪路に戻る。ヤブや小崩壊で荒れた軌道跡は、すぐに一つ目の、暫く行ってから小屋跡の残る二つ目のヘアピンカーブで、迫ってくる荒川に合わせて高度を上げる。さらに少し進むと「アザミ平」の古道標があり、直後の軌道流失部は川を歩く。なお軌道は廃止後も登山道として使われていたが、登山道は左岸の流失部を避けて右岸に渡っていた。軌道はそのまま一九八五米で、渡河点を迎える。右岸に渡っても百米ほど道床が流失しており、位置の特定に苦労する。軌道は右岸山腹をV字型に折り返し登り、そのまま山腹で高度を上げる。軌道が流失して跡形もない顕著な急流の小窪を何とか渡ると、すぐ第一の堰堤(約二〇六〇米)がある。軌道は堰堤縁の右岸を通過していたようだが、その付近は工事で完全に破壊されている。二〇六五米で左岸に渡り返し、すぐ急なカーブで高度を上げる。その直後の二〇七二米が最後に線路の残骸が見られる地点である。軌道跡は、左岸ガレ窪からの土砂、第二の堰堤工事と次々に大きな地形変化を伴う撹乱要因が続き、埋没して消滅しているが、地形的には再び河に近づく様に見え、ガイドブックの付図では再び右岸に渡って少し登った現在の第二堰堤(約二〇九〇米)付近で終わっていたようだ[21]。
 軌道終点から大弛への川沿いの旧道は、後に建設された数基の堰堤工事、水害、崩壊地からの押し出しなどで荒廃し大部分が消滅している。最後の第五の堰堤を越えた二一五二米が、筒井が著したガイド[21]の一八五頁図で「広い河原」とされた部分で、八米滝を架ける荒川本流を離れ右岸山腹に取り付く。この辺りはかつて山落しされた伐木を流すの始点だったようだ。少し登って、「白い大きな石の転っている涸沢」(二一六五米付近の右岸出合支沢)を渡り、二、三の丸木橋を渡りながら山腹をトラバース、指導標のある草地から深い森林の中を急登すると、道が緩んで左に搦み出し[14]、丸太を組んだ橋を二、三ヵ所渡って[17]、大弛小屋裏手の水場の辺りに出ていた[12,13]。旧道は、現在の大弛峠でなく小屋に通じていたので、現在の車道を越え、さらに少し国師岳方向に登ってから水平になって小屋へと向かっていた。

 

[1]安藤愛次・小島俊郎「土壌の性質と林木の成長(3) シラベの35年生林」(『日本林学会誌』三九巻四号、一三六~一三八頁)、昭和三十二年。
[2]竹内昭「杣口・奥千丈林用軌道」(『トワイライトゾーンMANUAL7』ネコパブリッシング、一六四~一七〇頁)、平成十年。
[3]吉沢一郎「琴川を遡りて奥千丈岳へ」(『山岳』二〇号一巻、一八五~一九二頁)、大正十五年。
[4]小野幸「奥秩父の南部」(『日本山岳会会報 山』八四号、三~四頁)、昭和十四年。
[5]原全教『秩父山塊』三省堂、昭和十五年、「金峯山(三)」八三~八四頁。
[6]原全教『奥秩父』朋文堂、昭和十七年、「東口」四四四~四五三頁。
[7]吉沢一郎「奥千丈迷路行」(『登山とスキー』九巻一〇号、一三~一八頁)、昭和十三年。
[8]北村峯夫「奥秩父の山々」(『山と高原』二九号、七~一三頁)、昭和十六年。
[9]矢島俊和「秩父主脈とその附近」(『山と高原』四九号、二五~二七頁)、昭和十八年。

[10]青垣山の会『山梨県県有林造林:その背景と記録』、平成二十四年、有井金弥「拡大造林との出会い」五四~五五頁、高山巌「奥千丈事業地の森林整備の方向」六一~六二頁。
[11]小野幸「秩父の寸景」(『日本山岳会会報 山』一六六号、六~七頁)、昭和二十八年。
[12]小野幸『マウンテンガイドブックシリーズ19 奥秩父』朋文堂、昭和三十一年、「石楠花新道より国師岳」六八~六九頁。
[13]芳賀正太郎「国師岳天狗尾根」(『新ハイキング』四五号、五六~五八頁)、昭和三十二年。
[14]山と渓谷社編『奥秩父の山と谷 登山地図帳』山と渓谷社、昭和三十三年、橋爪宗利「杣口から国師岳へ」一八三~一八五頁。
[15]北村武彦「金峰山集中登山」(『山と高原』二七六号、二四~二七頁)、昭和三十四年。
[16]山口源吾「関東山地における高距縁辺集落」(『歴史地理学紀要』一〇号、一九一~二一八頁)、昭和四十三年。
[17]山と渓谷社編『奥秩父 アルパインガイド15』山と渓谷社、昭和四十年、河合敬子「国師岳Ⅰ─琴川コース─」一三八~一四〇頁。
[18]西裕之『特撰森林鉄道情景』、講談社、平成二十六年、「杣口森林軌道」七八~八〇、「山梨県林務部の軌道」八一頁。
[19]芳賀正太郎編『奥秩父・大菩薩連邦 アルパインガイド35』山と渓谷社、昭和四十八年、「琴川から国師岳」一一四~一一五頁。
[20]国土地理院『二万五千分一地形図 金峰山』(昭和四十八年測量)、昭和五十一年。
[21]山と渓谷社編『奥秩父 アルパインガイド15』山と渓谷社、昭和三十六年、筒井日出夫「杣口から国師岳へ」一八三~一八六頁。