古道をできるだけ正確に辿った 金峰山表参道 1 【仕事径】
金峰古道については、遺された資料の少なさから、未だに一部の事実しか明らかになっておらず、不明な点が多い。だが数少ない既知の文献については、研究し尽くすされ、多くの論文や成書が発表されている。総論的な解説はそれらの文献に譲るものとし、ここでは今回の古道歩きに直接関係する幾つかの知見のみを整理しておきたい。
古道歩きで関心が持たれるのは、第一にどの道を金峰古道歩きの対象とすべきなのか、第二にその道の正確な位置はどこだったのか、である。第一の点に関しては、歴史的な変遷や、同時期における複数の経路が存在する問題、第二の点に関しては、今日と同じ高精度の地形図がなかった時代の道の位置がどのように推定されるかの問題、といえる。
※便宜上、仕事道に分類しました古道の状態は、一般ハイキングコースから廃道に近い部分まで、区間により様々です。熟達登山者のレベルであれば、全区間に渡り危険はないと思います。古道を歩くよう努めた結果、歩測で26.5kmの全長のうち、約四分の三で歩くことができました。古道の上に車道が敷かれたり、完全に消滅して分からなくなったして、やむを得ず車道を通ったのは、5.6km(21.3%)、舗装車道に限ると4.1km(15.5%)でした。
【どの道が金峰古道なのか】
まず第一の点、すなわちここで歩く対象とする金峰古道をどの道とすべきか、について整理したい。従来、金峰古道の解釈は、金科玉条のごとく、文化十一年(一八一四)出版の甲斐国志[1,2]を基礎としてきた。金峰参道について記した修験道が盛んだった中世の現存する文書が皆無であるため、やむを得ず聞書中心の国志に頼らざるを得なかったためであろう。しかし近年の、各地に遺された古文書調査や遺跡発掘の成果により、次第に中世修験道の姿が浮かび上がりつつある。弘仁七年(八一六)もしくは仁寿元年(八五一)とされる金峰山の開山後、五丈岩下の本宮への参路が次第に開拓された。甲州側からは杣口、西保、万力、塚原、吉沢、亀沢、穂坂、浅尾、江草の九筋、信州側からは黒森口(信州峠を越しいったん甲州の黒森に入る)、川端下口が使われた。最初に開かれたのは、仁寿元年(八五一)創設の杣口金桜神社から入る琴川口と伝えられる[3]。当時の甲斐は、甲府より東の現在の笛吹市に中心が有り、利便性の高い琴川口が拓かれたと考えられる。この琴川口は現在と異なり、第一期の杣口金桜神社を起点とする峯伝いの経路だったと考えられている。さらに、より厳しい修行のため完全に峰伝いで金峰山へ至る万力金桜神社を起点とする万力口、信仰の拡大に伴い西方から入山しやすい御岳金桜神社を起点とする吉沢口等の南口の諸参路が開かれ、この三筋を軸に脇道が加わり、九筋になったようだ。山本義孝の研究では、南口は吉沢から上道を経て、黒富士、チョキ、八幡山を越えて金峰山に向かう峰通しの経路が正道であり、東口も同様に杣口から、大烏山、国師岳、鉄山を越えて行くの行者道であるとしている。国志が記す御嶽道は、一般信者が金峰詣でに使う里道であり、行者が修行する本来の金峰古道ではないと説えている[3]。このように、当初行者の修行が中心だった金峰山行は、中世以降一般信者の参詣が急増し、甲斐国の中心甲府から御岳金桜神社を経て黒平の山村へ入り、そこから山道で金峰を目指すルートが定番になった[4]。これが、現在一般に伝えられる金峰古道である。確かに行者道こそが真の古道と考えられるが、その存在自体まだ証拠が不十分で実態が不明であるため、ここでは甲斐国志に記された一般信者向けの吉沢からの参道を、歩くべき対象の古道としたい。
しかし更に詳しく見ると、歴史的には南口のルートも様々な変遷があった。国志編纂の時点で、国志に記録された中世の道は山麓部分が既に使われておらず、参道の起点である一ノ鳥居は所在不明になっていた。当時歩かれていたのは、「下道(外道)」と呼ばれる新しいルートであった。その下道も江戸後期には「御岳新道」に取って代わられた。幸いなことに、近年の発掘調査で一ノ鳥居の位置が明らかになったので、ここでは開山以来の一ノ鳥居で始まる「上道」からのルートを辿ることにした。また大正、昭和期の開発による古道の破壊の影響も無視できない。道中の御岳、黒平の各村やその周囲では、幅員四、五米の自動車道建設により、場所によっては昭和期の道ですら辛うじて痕跡を追う程になっている。よってやむを得ずこれらの部分では、漸く車が通行できた昭和期の粗末な車道を古道として追った。国志の簡略な記述で特定しきれない道の詳細な位置については、明治~昭和期の登山記録等を参考にした。特に高野鷹蔵[5]や萩野音松[6]の明治時代の道の様子が分かる貴重な文献や、昭和初期の道を詳細に記録した原全教の著書[7]は大変参考になった。
【金峰古道の詳細な道筋】
次に第二の点、すなわち文献から推定される金峰古道の正確な位置について、整理しておきたい。道の痕跡がようやく分かる程度の古道歩きにおいては、道の位置の厳密な特定が欠かせないからである。改めて確認すると、いまここで金峰古道としたのは、一ノ鳥居から上道を通り、八王子峠、御岳、根子坂(猫坂)、黒平、龍ノ平、水晶峠、御室(オムロ)小屋を経て五丈岩下の本宮(奥宮)へと登る道である。
出発点の一ノ鳥居は、甲斐市吉沢(キッサワ)地内の亀沢川出合に近い東端、横田で出土したという。厳密な出土位置を示す資料を入手できなかったが、甲斐市の県道一〇一号を山梨県農政部水産技術センター先の鳥居坂下で吉沢方面に右折し約五百八十米地点の道路脇右側田んぼがその場所だとの、地元の方の話がある。一ノ鳥居前の段丘崖は向かって右が高いので、左斜めに登れば約二〇米上の段丘端に乗って御霊平に達し、御霊若宮を見て尾根伝いに八王子峠へ向かう。御領棚田からの経路は、明治四十三年測図を原図とした昭和二十七年刊行までの地形図の道が、細部の間違いはあるものの、現在痕跡を確認できる限りにおけるおよそ正しい古道の道筋である。この旧版地形図が示す道はかなり正確で、個々の小峰を越したり捲いたりする部分まで、根本的な地形図の歪みを含みおけば正しく表現されている。昭和後期以降の地形図の歩道は、恐らく踏査が甘いためと想像するが、大間違いはないものの細部がしばしば違っている。尾根伝いの鎌倉時代の上道は経路を特定する術もないが、この尾根は所々が畑地跡や植林地になっているので、比較的明瞭な尾根道が残っており、それを古道と見做して追うことが出来る。そこまで尾根を辿ってきた古道だが、七三二独標を恩賜林界沿いに右捲きする。山間に点在する北仙開拓の人家の一つが古道脇にあり、そこで獅子平から来る旧敷島町の自然観察路に出合う。自然観察路は現在一般に歩かれるハイキングコースで、インターネット上で国土地理院が提供する地理院地図に示される経路である。この先、このハイキングコースを「古道」とする見方があるようだが、完全に一致するのは一部区間だけである。古道とハイキングコースは数百米の間一致していて、七八二米小峰を右捲きする。尾根を左に乗越した少し先で古道は自然観察路と分かれ、数十米の距離をおいて平行して進む。八三九独標北西鞍部の太刀抜岩分岐で両者が一瞬出合い、さらに江戸期に歩かれた吉沢からの下道(外道)が合流する。ちなみに外道は大部分が車道化され昔の道が消えてしまったが、この合流直下の九十九折れ部分にはまだ古道の道型が残っている。九八六独標付近の少し先まで、古道は稜線に絡んで登る。そこで水平に山腹を捲いてきた自然観察路を合わせ、また暫くの間両道は一致する。萬霊塔のある旧羅漢寺分岐を見て八王子峠へ登る。峠へと左斜に登っていく道筋は、地理院地図にも正しく示されている。八王子権現(現在は、ロープウェイパノラマ台駅前の八雲神社)の石段下を通過し、車道に出る。このあたりが八王子峠と考えられる。八王子権現から八王子坂にかけての古道は、車道化と植林でほぼ消えてしまった。正確な経路は不明だが、現在の車道と極端には違わなかったようだ。ただ御岳下沢への下りの、御岳霊園手前の短い部分にだけ、旧版地形図が示す古道が残っている。御岳町内は、古道と厳密に一致するか分からないが、現在の車道を辿って金桜神社の三ノ鳥居脇を通過する。
御岳沢沿いの古道は、町を抜けた後、堰堤を高捲きする辺りで消滅しているが、概ね現在の車道と同じと考えられ、車道終点の御岳町の水道施設まで遡る。高芝までは、旧版地形図が示す滝尾坂越えの道が古道である。大縮尺のため違いが分かり難いが、昭和後期の地形図にある御岳沢右岸に沿う道は新道である。すなわち水道施設から高芝までは二本の道が並行して存在する。およそ地形図通りに根子坂(猫坂)を越え、月見沢支沢の下りで車道の御岳林道を横切る。御岳林道開通後の地形図では旧道が消去されているが、車道開通後しばらくの間は、近道として旧道も使われていた。ただし旧道は本沢出合付近の険しい箇所を二つの高い橋を架けて渡っているので、旧道と言っても近代に入って作られた道であろうが、これを古道と考えるしかない。燕岩から古道の上に敷かれた車道を辿り、大平川の手前でまた車道と分かれる。古道は川へ下っては登り返して小尾根を越え、高屋沢沿いに下黒平へ下る。寒沢付近の古道は消えているので車道の白雲橋を渡り下黒平に入る。今も歩道として使われる村落の中を抜ける古道は、大山祇神社下の少彦名命を祀る石碑脇から小窪の右岸を登り、やがて車道の御岳林道に沿って直下を行くようになる。黒平小跡で車道と重なり、そのまま車道で上黒平を通過し、黒戸奈神社先の集落北端にある甲府市森林事務所付近に達する。古道はこの付近で山腹に取り付いていたようだが、折り返して登る御岳林道に切り崩されており、断片状に残る残骸を繋いで登る。仏坂の登りで一度車道を離れるが、鳥居峠頂上手前の車道合流点付近で切り崩され消えている。少し先の鳥居峠の切通を車道で越える。付近一帯の古道は旧版地形図の道とのズレがあるが、図上に示された地形の歪みのためである。峠の先で古道はまた車道を離れて少し下を行くようになり、カクシ窪を渡った先で再び車道に吸収される。車道の龍ノ平橋で精進川を渡るとすぐ、龍ノ平の森林浴広場手前に古い石祠と道標がある。
龍ノ平から山道に入ると、物見三角点(一七〇九・七米)先の作業車道に崩された箇所を除いて、車道の影響がないため古道がよく残っている。右に左にと尾根に絡んで登る荒れた道が古道である。相変わらず旧版図の地形に対する道の位置の描写は正確だが、深山では図そのものの地形歪みが大きくなるため、その分を割り引いて見る必要がある。しばらく尾根の右をトラバースしてきた古道が、国志で物見石とされる物見三角点の直前で、尾根を左に越えて大捲きを始める地点が国志にある「楢嶺」であろう。国志では嶺の字を「トウゲ」と読ませている。古道はしばらく尾根の西を捲き続けた後、尾根の右に移ってすぐ御小屋沢を渡る。物見三角点を捲き終わった直後からしばらく、古道は作業用車道に潰されているようだ。御小屋沢直前で車道を離れて沢を渡った先、さきほど通った作業用車道に再会する地点に造林記念碑がある。車道を横切り、旧版図の通り御小屋沢左岸の山腹を登って白平三角点下を通過する。この先しばらく、唐松峠、水晶峠、刈合平の辺りは、資料の少なさと記述の曖昧さ、地形の複雑さのため、古道の位置の確定が難しい。国志では、楢嶺(トウゲ)付近に物見石があり、その先、御小屋沢、姥子祠と七ノ鳥居があり、続いて唐松嶺(トウゲ)があるとするので、唐松峠は御小屋沢と御子ノ沢の間の乗越を指すものと考えられる。この付近の詳細図を初めて示した原全教は、本文で正しく唐松峠の位置を述べたにもかかわらず、惜しいことに付図では誤って御小屋沢手前の一六九二独標付近とした。そのためか、後続のガイドも唐松峠の位置を誤って説明したものが散見される。また『六ノ鳥居があったと国志が言う唐松峠は、現在判別できない』[7]と述べたのも、七ノ鳥居の誤記であろう。唐松峠を越え、御子ノ沢に達する。唐松峠や御子ノ沢を刈合平とする見解も有り、それについては後述する。御子ノ沢を渡った参道は右俣に絡んで黒木の中を登り、水晶峠で小さな尾根を越す。その少し下、かつて尻垂沢を荒川へ下る旧道が分岐していた一九〇五米地点に、水晶峠の私設表示板が取り付けてある。多くの古文献から一九二二米付近の峠状が水晶峠であることは疑いなく、なぜここに表示板があるのか不思議である。荒川への支道が記入されていた旧版地形図では、その道の破線と重なってしまうため図上に「水晶峠」の文字を書き入れる余地がなく、やむを得ずずれた位置に「水晶峠」と記入されていたので、それを見て位置を誤解したためであろうか。荒廃が酷い御室川右岸では、御室小屋跡まで新しいピンクテープが古道を無視して取り付けられていたので、今古道の道筋を辿る人は皆無であろう。古道はいまやうっすら道型が残る程度のものでしかないが、「盗掘防止」表示が乱打された一帯から小窪を真っ直ぐ御室川に出合うまで下り、続いて刈合平まで右岸の樹間を縫って遡っている。昭和期までは刈合平で杣口からの東参道を合わせていたが、今日の東参道は刈合平に寄らずに御室川を遡るよう変わっている。後述のように、刈合平の位置については異説がある。道は原全教が賽ノ河原と呼んだ小さな白い薙を渡って、御室川の伏流した左俣に入り、川伝いに御室小屋まで行く。河原から左岸に上がったところが御室小屋である。
御室小屋から金峰山にかけては、迷うことのない一本道であり、一般登山道でもある。ただし標高が高く、山自体が峻険なので、身体能力に自信がない方は慎重に考えた方が良いかも知れない。初めはトサカの鎖場など岩稜帯を登り、勝手明神の祠からは樹林帯の登り、最後は岩勝ちでやや不明瞭な山稜を尾根伝いに登る。五丈岩の本宮跡の道標で賑やかな山頂の一角に出る。かつて岩の南側の平地には約二・五米四方の本宮と、約五・五米四方の拝殿があったとされる[8]。現在は小祠と石灯籠があるのみで、裏側(山頂側)には鳥居が建っている。五丈岩の約百米北東付近が山頂のようだが、三角点も表示板の位置も最高点ではなく、正確な山頂の位置は不明である。
[1]松平定能(編)・小野泉(校)『甲斐国志 巻之七』温故堂(再版)、「巻之二十 山川部第一」一~五頁、明治十六年(初版は文化十一年(一八一四)、甲府勤番)。
[2]松平定能(編)・小野泉(校)『甲斐国志 巻之十五』温故堂(再版)、「巻之六十三 神社部第九」八~十三頁、明治十六年(初版は文化十一年(一八一四)、甲府勤番)。
[3]山本義孝「深山田遺跡と中世修験道」(『深山田遺跡』明野村教育委員会、付録)、平成十四年。
[4]櫛原功一「第4節 山梨県の山岳信仰遺跡 4 甲府盆地北東部の山岳信仰遺跡」(『山梨県山岳信仰遺跡詳細分布調査報告書』山梨県教育委員会、一五一~一五八頁)、平成二十四年。
[5]高野鷹蔵「秋の金峰山」(『山岳』二巻一号、四一~六〇頁)、明治四十年。
[6]荻野音松「甲州國司嶽紀行」(『山岳』二巻二号、一七~三七頁)、明治四十年。
[7]原全教『奥秩父・続編』朋文堂、昭和十年、「荒川の山と谷 下流」三一九~三三〇、「金峰参道」三三〇~三五四、「清川と小森川の峠歩き」五三二~五四〇頁。
[8]山梨県立図書館編『甲斐国 社記・寺記 第一巻 神社編』山梨県立図書館、昭和四十二年(初版は慶応四年(一八六八)、甲州寺社総轄職編)、「窪八幡 御嶽山」一~二七頁。