古道をできるだけ正確に辿った 金峰山表参道 4 【仕事径】
● 金桜神社下三ノ鳥居~根子坂(猫坂)上
猫坂・下黒平付近 クリックで拡大表示 (出典:国土地理院 基盤地図情報 5m標高) |
甲斐国志の当時と変わらず、鳥居の東から御岳沢を左岸に渡り、集落内の細く急な車道を登り始めた。対岸の川沿いに元禄十一年(一六九八)の三界万霊塔を見た[16]。もともと川の中の石の上にあったというが、河川の改修で岸に移ったらしい。前方に大堰堤が現れると車道は大高巻きで越え、そのまま川の一〇米ほど上の植林中を進んだ。昭和三十七年の空中写真では[28]、現在の車道と同じ位置に道があり、現在植林になっている道の川側は畑地になっている。さらに急流で水害の恐れがある御岳沢近くに参道を付ける可能性は低いと思われるので、古くから道の位置は、堰堤高捲き箇所以外は現在の車道と同じだったと推測される。十分ほど歩いて右岸に渡り返したところが車道終点で、対岸は御岳町の水道施設である。車道の左側、御岳沢の右岸に入る小窪の出合近くのヤブやゴミに紛れて、損壊した幾つもの墓石があった。寛延四年(一七五二)、享和元年(一八〇一)などの文字が辛うじて読み取れた。いずれも金峰参詣で御岳が賑わっていた頃のものである。中では新しい方の墓石には、文久元年(一八六二)、明治十三年と刻まれ、「先祖代々神霊」とあるので、遠方に越したか絶家した住人のものであろう。
ここから暫くは、古道がよく残った区間である。入口に、「この先、危険箇所多数の為一般の通行を禁止します。」と甲府市道路河川課の割と新しい看板とバリケードがあった。この看板はある意味紛らわしく、この先江戸時代以前からの古道と後に拓かれた古い市道とが並走する部分があり、危険箇所が生じた古い市道の通行を一般市民が通行しないよう管理者である甲府市が禁じているということと思われた。かつて馬背で荷を運んだという古道は牛馬道仕様(約一・八米幅)で歩きやすく、深い落葉を蹴るように分けながらどんどん進んだ。並走する電柱は、この奥の小屋への電力供給用のものらしい。
百米強を進んだ辺りで、そのまま御岳沢の右岸高みを直進する甲府市道らしき山道と、折返して高度を上げる道との分岐が現れた。どちらも、山仕事などで僅かに歩かれる程度に見えたが、幅があり道型が確りした折返し登る道の方が古道である。文献にある瀧尾坂と呼ばれる峠越えがこの登りに当たり、比較的新しいものでは、昭和四十年に山村民俗の会の舞田一夫が越えた記録がある[18]。明治期に通った高野鷹蔵は地元の案内人に「滝ノ尾坂」と聞いたが[5]、一方高畑は国志が「滝尾坂」と記すのを承知の上ここをブナ坂と呼んだので[20]、当時の地元ではその呼び方があったのかも知れない。滝尾とは滝の辺りに落ちる尾根という意味であり、古道は急流となる御岳沢の滝場を避け、そこを態々大きく高捲いていた。倒木や落石で多少荒れ気味だったが、広く明瞭な道がヒノキ植林に続いた。かつて柵があったらしい木杭跡を見て、大きな九十九折れで高度を上げると、明るい雑木林になった。相当年季が入った補強材を渡ると、峠の頂上、瀧尾坂上である。このさき北側が全て植林であるのに対し、南は明るく開けていた。道の左にある大きな石祠が、国志に言う瀧尾ノ社のようだ。原全教が「四の鳥居の礎石」とした石は、ただの石のようも見えたが、見方によってはそう見えるのかも知れない。
植林を少し下ると、古道らしく石垣で普請した所があったが、崩れた土砂で少し細くなっていた。道の左側に置かれた粗末な墓石か小石碑に、明和、安永のような文字が辛うじて読み取れた。それぞれ一七六四~一七七二、一七七二~一七八一年と、二百数十年前のものである。緩い下りを進むと、沢沿いに登ってきた植林中の微かな踏跡を右から合わせ、すぐに小沢に掛かる山中に不似合いな鋼製の橋梁を渡った。この辺りが高芝で、昭和初期頃まで一軒の家があったところだ[7]。左から合する江草口の古道[1]は、微かに山道の気配を感じるほどでしかなかった。
ここでいったん歩みを止めて、御岳沢沿いの甲府市道らしき山道について触れておきたい。水道施設がある車道終点を過ぎてすぐの分岐を沢沿いに行くのが、高芝の橋の直前で合流した道である。市の立看板にある「危険」表示は一般市民やハイカー向けのもので、確かにどなたにでもお勧めできるものではない。熟達した登山者であれば登山路として十分通行できる程度の道である。沢沿いのこの道ができた時期や経緯は不明だが、大変な労力を掛け岩壁を穿って作られた人工的な短絡路である。黒平まで車道がなかった頃、瀧尾坂を登らずとも沢沿いに通れる歩道として拓かれた道のようだ。黒平の藤原一郎氏のお話では、既に子供の頃にはあった道で、人は沢沿いの短絡路を、荷を積んだ馬は旧来の瀧尾坂を通っていたという。氏は昭和三十年代後半まで使われていたとしているので、三十八年の野猿谷林道開通までは断崖を通るこの道が使われていたようだ。以前から開通していた御岳林道は遠回りなので、案内記事もこの道を勧めていた[29]。昭和四年に御岳から猫坂を登った原全教は、瀧尾坂の道のみを解説しており[7,30]、それ以前の記録にも出てこないことから、昭和の初期に掘削されたものかも知れない。険しい沢の右岸高みの植林を登る歩道は、初めは古道より歩きやすく、登山道としては十分歩けるレベルだった。左の暗い植林中に墓石が見えた。倒れているものを含め四基あり、薄くなった文字に目を凝らすと、寛政九(一七九七)、文化七(一八一〇)、天保六(一八三五)などと読み取れた。高度を上げる道の右下に、遠目に見て七、八米ほどの不動滝が姿を表した。滝の足元には剣と小祠があり、右岸斜面に建物があった。原全教の聞書きや藤原氏の話によれば、籠堂ではないかとのことだ。至近にある先の墓石との関係は分からない。また、御嶽講の参拝者が御祓滝と呼ばれるこの滝で身を清めた後、金桜神社に参拝していたとの説もある[40]。この歩道に沿う電柱はその建物へ続いていたが、そこへ行く道は別に沢沿いについているらしかった。歩道は崖のような沢の右岸高くを、トラバースしながら少しずつ高度を上げた。小窪を鋼製の橋で渡ると、左上へ登る小道が分かれた。左側の木に、真っ茶色に錆びて殆んど読めない登山者用の道標が打ち付けられていた。落葉で滑りやすい崖の道を足元に注意しながら歩いていたので、三上浩文氏の指摘がなければ気づかなかっただろう[31]。一時的に下ったりして難所を避けながら、切り立った岩壁を掘削した険しい道は、うっかりすると転落の恐れがあり、誰にでも通行をお勧めできるものではなかった。歩道はさらに高度を上げたが、次の滝を過ぎると一気に高度を上げた御岳沢に追いつかれ、鼻を回ってすぐ木橋で左岸に渡った。橋は腐敗して使えないため甲府市のバリケードが置かれていたが、もはや小沢となった御岳沢を容易に渡渉した。植林に入り、すぐ二連の鋼製の橋で右岸に渡り返すと、道型が消えた。よく見ると道が流された形跡があったので、沢の増水や植林で消えてしまったのだろう。ほぼ平坦な暗い植林地を、朧気な道の痕跡を繋ぎながら進んだ。古い赤テープに交じり新しいピンクテープも有り、古道の瀧尾坂よりこの近道の方が使われているようだ。植林中で瀧尾坂から下ってきた古道がいつの間にか曖昧に合流すると、そのすぐ先が、高芝の鋼製の橋である。
古道に戻って、高芝から先に歩を進める。道は沢からやや離れた右岸の植林と雑木林の境界に沿って明瞭に付いていた。植林越しに見下ろす緩やかな御岳沢の様子から、かつて雑木林だった頃の美しい風景が想像された。暫く緩登すると石積みの長い堰堤のような構造物が現れ、その上を通る道は二つの鋼製の橋を架けて御岳沢を左岸に渡った。この部分の沢幅が広く湿地帯のようになっているため、大掛かりな橋になったようだ。木材など重い荷を積んだ馬を引くには、確りした橋が必要だったのだろう。橋台の幅は牛馬道規格なのに橋が狭い歩道用なのは、橋の架け換えの時点ではもう歩行者しか通らなくなっていたためと思われる。前方に古道を横切る猫坂林道の擁壁が見えてくると、御岳沢の左岸をなおも遡る道を左に見送り、猫坂に沿う支流の右岸を林道下まで進んだ。擁壁に設置された古びた鋼製階段を登り、未舗装の車道を横切った。
車道付近でやや曖昧になった古道は、倒木や伸びてきた灌木で荒れていたが、支沢の右岸に確実に続いていた。時々見るピンクテープは、古道と似て非なるルートに付いていたので、営林作業や登山などの目的で猫坂を登るためにつけられた目印のようだ。実際、荒れた古道を歩くより、ピンクテープ沿いに植林地を縫って登る方が歩きやすく、かつ早いだろう。車道から約百三十米の辺りで、沢の増水時に削られたためか道が完全に消えていた。すぐ回復した道型はその約五十米先で、水涸れした沢の左岸に渡る。渡沢部の荒廃が酷いので、一見そこから沢筋を辿るように見えてしまう。作業時の廃物が散らばる酷く荒廃した伐採跡地を、辛うじて残る道型を判別しながら通過した。植林中の平板な斜面の登りなので、やや抉れた古道の道型が降水時の水路になっているらしく、今歩いている場所が古道なのか水流跡なのか迷う状態だった。水流跡なら直線的に落ちるはずなので、途切れず規則的に蛇行して登るその溝が古道であることは疑いないものの、時々現れる明らかな道型を見るたび安心した。枯枝や落葉が詰まって歩き難いこと極まりなかった。それがピンクテープの新経路が歩かれる理由であろう。前方が覆い被さる壁のようになる一一〇〇米付近で、本当の涸窪と古道が幾度か連続して交差する箇所があり、実に紛らわしかった。古道は壁状地形に右にトラバースしながら取り付き、倒木混じりだが明瞭な道型で三度の折返しを入れて急登した。古来、「根子坂」と呼ばれた猫坂は全般にダラダラの登りだが、このような木の根を掴みたくなるような急斜面に因んだ名であるのかも知れない。やがて傾斜が緩くなり猫坂の上に立った。峠状のこの地は相変わらず暗黒の植林内だったが、意外と広々としていた。左には甲斐国志に記された立派な根子坂ノ社の石祠が、右には造林記念碑と山火防止の看板があった。五ノ鳥居の沓石もそのまま残っていた。石祠は再建されたためか部分的に新調されており、一帯は植林や伐木の人工的空間になり、すぐ下には車道が通るこの場所は、今や風情のかけらもない場所になっていた。
● 根子坂(猫坂)上~下黒平
猫坂上の峠状は、かつて有名だった金峰山の眺めが失われてしまった植林地の広い緩斜面だった。高野が明治四十年に記した秋の紀行には、「(註:昇仙峡付近の紅葉は)黒平の紅葉には及ぶべくもあらず、根子坂から見渡す限り、目の及ぶ限り、黄に、紅に、樺に、其間を彩るは常盤木の緑、高山是れ錦とや云ふべけん」「右を見ても、左を見ても、後を返へり見ても、木は紅に、黄に、空は藍色に」と、この上ない紅葉の美しさについて筆を余す所なく記されている[5]。支尾根の右に沿って北斜面を緩く下ると、約百米で植林を抜けて、左に折れながら急に下り始めた。下り出しで右から合わせる薄い植林用の踏跡は、右下を通る御岳林道から来るものだ。道の左側の足元に、三上氏の報告通り[31]、頭の欠けた三、四〇センチ程度の小さな馬頭観音が置かれていた。折り返しながら、灌木とヤブに覆われ礫が転がる雑木林の悪路を下った。偶に見る赤い小杭でここが道であると確認された。四〇米ほど下で御岳林道を横断した。古道は法面に削られ消滅していたので、転げ落ちるようにその崖を下った。いったん古道を離れれば、下りやすい箇所を探してより安全に車道に降りることも可能だ。
車道の下に続く道型は、車道建設で激しく傷んでいるうえ、ヤブや廃棄されたゴミで分かり難い状態だった。古道は涸沢沿いに下るようになり、道を示す赤杭は続いたが、道型は消えてしまった。豪雨時の濁流に押し流されてしまったようだ。地形的には涸沢の左岸に道があったと思われたが、ゴミと土砂に埋もれて明らかな痕跡は認められなかった。右岸斜面に何かの敷地だったと思われる石積みを見て下ると、一〇四二米二股で左岸に移る雰囲気があるも、道の雰囲気はいっそう曖昧になった。なるほど直下に堰堤があり、しかも左岸が岩壁になっていた。この状況では堰堤を右捲きで下るしかないため、道が一旦途切れていたのである。昭和三十七年の空中写真を見れば、二股付近で道が左岸に移っていることが確認できる[28]。堰堤下で、左岸に微かな道の痕跡を見ると、赤杭とピンクテープが現れた。しかし道路やその水抜工施工に伴う斜面崩壊も有り、本来の道型はほぼ破壊されていた。別の堰堤が現れ、左上を通過した。植林地に入り、間伐木とヤブの中のあるかなしかの作業踏跡を下った。本来道があったかも知れない部分も植林されていて、古道を感じさせる道型は残っていなかった。涸沢が微流になる頃、月見沢の本沢との合流が目前に迫った。少し道型的な雰囲気を感じると、道は下ってきた支沢の右岸へ渡った。ヤブの中に損壊した橋台の石積みがあり、橋の残骸か分からぬが丸太が二本引っかかっていた。右岸に渡ると、植林作業用の車道跡が来ていたが、それとは別に、支沢沿いの茨混じりの荒地にうっすらと古道の痕跡が続いていた。道は四、五十米先でV字型に折り返して下り、月見沢右岸の崖上で急に右折し、橋を架けて左岸の燕岩直下に渡る形跡が見られた。昭和四十年に舞田が渡った木橋[18]は跡形もなく、右岸側の橋台の一部だけが残っていた。左岸側は沢に沿う新しい車道の擁壁のため、橋台はもちろん、古道自体も車道の下敷きになってしまったらしかった。適当な場所から月見沢に下り左岸に渡渉したが、目前のコンクリートの擁壁を登ることができず、約百米下流でようやく車道に上がれる場所を見つけた。燕岩の所で沢を渡る本来の古道を歩いていれば見れたはずの燕岩は、車道を少し上がって見てきた。鱗状に岩に切れ込みが入った、つまり複数の方向に柱状節理が走った岩壁で、黒平付近ではよく見られるものだが、これだけ規模が大きいものは珍しい。なお燕岩付近の古道の痕跡は、初版地形図の道と一致し、荷車が通行できるよう大きな橋台を作って橋を架けたものであることから、古道と行っても近代のものと考えられる。
車道に上がった地点から数十米ほど行った辺りは、一ツ屋、一軒家などと呼ばれる廃村である。文献に頻出するズサ平は、この辺りのことかも知れない。文字通り一世帯のみが暮らしていた場所で、昭和四十年の舞田の訪問時にはまだ家屋があったというが[18]、今や斜面に拓いた畑地や作業道の跡が残るだけである。そのため確りした道型が随所に残っていたが、それらは全て荒川支流の崖に阻まれて行き止まっていて、黒平へと続く道は地形的に現在の車道の位置にしか拓き得ないので、古道は現在の車道の位置にあったと思われた。それは空中写真でも確認された[28]。黒平へ向かう車道は、続けざまに二つの小尾根を回るが、いずれも小尾根の先端をきっちり回らず、切通で短絡していた。二箇所ともそこを丹念に回っていた古道の痕跡が残っていた。しかし一世代前の車道時代のガードレールが残っていたりして、必ずしも古道らしい雰囲気ではなかった。二つ目の小尾根を回った後、古道は大平川を下って渡り登り返すのだが、車道下の高さ数米の擁壁のため、残念なことにシュリンゲかロープを使わないと古道へ降りられなくなっていた。このポイントは、道具を使って降りるか、擁壁下へ下れる場所を探して回り込むかしかなく、一般にはおすすめできない。擁壁下から急斜面の比較的明瞭な道型が沢へと斜めに下っていた。渡河点付近の古道は両岸とも不明瞭だが、堰堤上で沢を渡ると、古道は右岸と対称形の坂道で左岸を斜めに登っていた。昭和初期には炭酸泉が湧くことで有名なシヨン沢(栃ノ木沢)を渡っていくことが知られるも[41]、今やどの沢か特定することができない。おそらくこの沢か一つ手前の小沢のいずれかであろう。沢を渡った所の二体の石像は、無縁仏だと聞いた。道は一度折り返して九八六米の峠状で支尾根を越えて高屋沢に入り、すぐに渡った。直上のフェンスで囲われた敷地はマウントピア黒平の駐車場である。古道は高屋沢の左岸を行くらしかったが、左上の車道造成と植林とで道型は一部を除いて消滅しており、植林地を適当に進み、寒沢川の手前でマウントピア黒平入口を通ってくる現在の車道(御岳林道)に上がった。寒沢川を白雲橋で渡ると、昇仙峡から来る野猿谷林道にT字路で突き当たった。
※大平川右岸で御岳林道から離れる地点は、車道擁壁のため車道と古道との移行困難。
● 下黒平白雲橋~龍ノ平
上黒平付近 クリックで拡大表示 (出典:国土地理院 基盤地図情報 5m標高) |
白雲橋のT字路から車道の法面を登って集落へと続く簡易舗装の細い急な歩道を登ると、手作りの動物除けの柵が設置してあった。慎重に枝木を一つずつ外し、何とか越えたら丁寧に元に戻した。身体能力と注意力とを要する作業なので、柵を壊さず元通りに戻すことができないなら、集落の方に迷惑になるので通るべきではない。坂の上には、長閑で美しい下黒平の村落が点在していた。狭い農道ほどの歩道脇の畑に並ぶ古びた地蔵は、絵に書いたような山村の風景だった。緩く登った村の上端には庄屋のような大きな民家があり、村を見下ろすように少名彦命を祀った小社が置かれていた。
村の出口もまた、今度は鋼製の鹿柵で塞いであったが、網の破れを潜って通過した。コンクリで溝状に固められた石堂沢を右岸に渡り、植林をうねうねと蛇行して登った。作業道として使われていると見え、歩きやすかった。三、四〇米の高度を稼ぐと、のらりくらりした緩い登りになり、道型が不鮮明になった。遠回りして上がって来た車道(御岳林道)が急接近し、古道は少し切り崩されていた。道の痕跡や踏跡を繋いで進むと、緩い窪状で道が消滅し捜索を要した。時々見るピンクテープが目印になった。その先、下黒平、上黒平を隔てる峠の部分は、かつて植林関係か何かの作業場になっていたらしく、古道は消滅し、人為的な造成工事で地形が変わっていたので通過に手間取った。まず造成地の下側の段差を乗り越え、作業用車道を横断、茅の茂った平坦な作業場跡を横切ると、トタンの資材置き場とプレハブ小屋が建っていた。この一帯は造成により古道が完全に消えていた。
プレハブ脇を通る御岳林道のカーブミラーの近くから古道の抉れた道型が回復したが、ヤブとゴミに埋もれ倒木が詰まって、通行が物理的に大変な状態だった。突破不能な深い茨を含むヤブの部分は下捲きした。その先ヒノキ植林に辛うじて古道の道型が残っていたが、酷く荒れて崩れた箇所もあった。また車道が近づいてきて、道型が不明になるとともに茨ヤブが酷くなったので、無理やり車道に移った。その地点、車道は前方の小窪に橋を渡していたが、その小窪を埋め立てた左側の敷地が昭和五十三年に廃校となった黒平小跡である。塀と正門、「想い出」の碑だけを残して更地になっていた。この辺りから上黒平の集落に差し掛かり、古道はほぼ車道と化しているようだった。下り出す直前に、道祖神が並んでいて、金峰山を背に集落を一望する場所があった。
上黒平の古い家並みを通り過ぎた。村落中央の道が鉤型に曲がる所に、古い道祖神や祈念塔が置かれていた。小さな村の向こう端に、民俗芸能の能三番で知られる黒戸奈神社の凛々しい姿を見た。黒平の村名は、社名の黒戸奈が転じたものとされる[8]。右には甲府市民専用のレジャー施設いこいの里があり、その先、乙女高原を越えて塩平に抜ける荒川林道を右に分岐すると、甲府市有林の上黒平森林事務所が立っている。
仏坂下部の古道の推定位置 (出典:陸地測量部 五万分一地形図「塩山」[26](左)、国土地理院 基盤地図情報 5m標高(右)) |
古道はここから荒川の悪場を避け、仏坂を登って鳥居峠を越えるが、仏坂の下部は御岳林道に串刺しにされ、造成により著しい影響を受けていた。旧版地形図が示す古道は、初め森林事務所から北へ向かって支沢を遡り、コレイ坂の峠道と分かれて仏坂へ向かう支窪に入っている。しかし元の地形が不明になるほどの人工的な造成が行われているため、かなり注意深く古道の痕跡を求める必要があった。まず森林事務所の整地して道型も見えない敷地を通り抜け、一度目の車道交差となる。小沢右岸の草むらに道型を見つけて追うと、数十米先でプツリと途絶えた。木橋でもかけて沢を渡っていたのであろう。注意深く沢を渡り、目の前の車道擁壁をよじ登った。二度目の車道交差である。反対側の傾斜に、ちょうど長い山側の法面が終わったところの小さな踏跡に取り付いた。茨の中にすぐ古道の道型らしきを見るも、造成か道路建設の残土かで埋まって消えてしまった。地形的にはほぼ真っすぐ登るはずだが、それに沿って登るべき仏坂の窪地形そのものが埋め立てられ分からなくなっていた。再度立ちはだかる車道の擁壁は高くて登れず、左から捲いて車道の上に上がった。ここが三度目の車道交差である。山側に仏坂の窪状地形と左岸の古道の道型を見て、それに入った。窪状も古道も石や枝で荒れていたが、通ることは可能だった。古道は右岸に渡り少し登ると、また車道の高い擁壁に突き当たった。右岸側の踏跡で車道に上がり、四度目の車道交差である。ここでようやく一度車道を離れることができた。奥に「第六回甲府市水源林まつり記念育樹」の標柱が見え、そのまま窪状右岸の廃作業道に入った。この辺りから植林になり、古道は作業道として使われていたようだ。倒木を跨いで植林地に入り、一時は歩きやすかったが、蛇籠が積まれた地点で途切れてしまった。その先は車道建設時の土砂に埋もれ道型が消えているので、谷の右岸に沿って車道まで適当に登った。昭和五十一年のガイドでは、この辺りに道標あり仏坂の近道を示していたという[32]。車道はすぐに鳥居峠を越えた。かつて六ノ鳥居があったという鳥居峠は、ただの車道の切り通しになっていた。
古道は、峠の数十米先を右に入る植林作業車道になっているようだった。だがそれを百数十米も行くと、作業車道は明らかに古道の道筋を外れて右にカーブを切り出した。左の植林中に道型を少し探すと、夥しい間伐材で埋もれながら続く道型が確認できたので、それを追った。伐採時の作業道との見分けが難しかったが、現在の車道下に平行する道型が古道と思われた。堰堤が連続するカクシ窪を渡る地点は道型が完全に消えていた。左岸植林の斜面で作業道的な踏跡が現れたが、古道は頭上の車道造成で消滅した可能性が考えられた。鼻を回って精進川右岸に入る辺りから、古道かも知れない道型が分かるようになり、川沿いに間伐で荒れた植林地を緩く登った。次第に車道の高さに近づき、カクシ窪出合から直線距離にして約四百米の地点で古道は車道に吸収された。暫く車道歩きを余儀なくされた。右に注意しながら歩いていると、時々古道らしい道型が現れたが、ヤブを分けて辿ってみてもすぐまた車道に吸収され、続けて歩ける部分はなかった。やがて車道は龍ノ平橋で精進川を左岸に渡り、急に左にカーブを切りながら軽く登った。古道の渡河点は、地形的に長坂沢の出合近くだった可能性があるが、その痕跡は見られず分からなかった。カーブ先に石祠と道標があり、金峰参道はここで御岳林道を離れて山中に入る。前方の平地は龍ノ平で、甲府市森林浴広場の施設が遠目に見えた。金峰登山のためここまで車で来た場合、この先の御岳林道は一般車が入れないため、ここが登山口となる。
[28]国土地理院『空中写真(甲府)MCB6210X(1962/05/14)』、昭和四十七年、C4-11。
[29]北村武彦「金峰山集中登山」(『山と高原』二七六号、二四~二七頁)、昭和三十四年。
[30]原全教『奥秩父回帰』河出書房新社、昭和五十三年、「金峰山附近」一八七~一八九頁。
[31]三上浩文「猫坂」(『やぶ山をこよなく愛する登山ガイド 三ちゃんの山日誌』)、http://mtgd3chan.blogspot.com/2016/12/blog-post_4.html、平成二十八年。
[32]実業之日本社編『東京付近の山』実業之日本社、昭和五十一年、「川端下から金峰山」一二〇~一二三頁。
[40]山本松州・吉田岳雲編『甲州御嶽観光案内』芳文堂、大正七年、「御祓滝」五九頁。
[41]小野幸「最近の秩父山小屋のことども -2-」(『登山とスキー』八巻四号、一六~一九頁)、昭和十二年。