古道をできるだけ正確に辿った 金峰山表参道 3 【仕事径】
● 吉沢一ノ鳥居跡~太刀抜岩分岐(上道経由)
吉沢付近(上道・外道) クリックで拡大表示 (出典:国土地理院 基盤地図情報 5m標高) |
発掘された一ノ鳥居は現在、至近の公有地である敷島総合公園に移設されているが、一ノ鳥居の本来の位置である、甲斐市吉沢(キッサワ)地内の田んぼを出発点とした。鳥居跡には基石が残されているとのことだが[16]、付近には石が多数あり認識できなかった。古は荒川の御霊ノ渡しを渡ってきたであろう、付近の民家から来る田んぼの畦道(舗装道)は、すぐ吉沢へ至る荒川右岸車道にT字路で突き当たっていた。目前はヤブに覆われた荒川の段丘崖である。古道は、直登するにはきついこの斜面を斜めに登っていたと見られる。茨に気をつけてヤブに入ると、左上に登る微妙に踏まれた部分があった。笹や灌木を分けてそれを約百米も進むと、一ノ鳥居のあった田んぼのレベルから二〇米ほど上の段丘の端に乗った。段丘上は耕地になのだが、登り着いたその畑地は、目前に建設中の広域農道に遮断され耕作放棄状態だった。折り返すよう右折して上がると、すぐに御霊若宮の小祠があった。明確な道型が残っていないこの区間、古道の道筋についての確実な根拠は得られなかったが、上り下りと一往復して地形や植生をよく観察した結果、このルートが一番もっともらしいと感じられた。途中で見た踏まれた痕跡が鎌倉時代の古道の残骸であるはずはないが、一ノ鳥居から御霊若宮付近にかけては、全て吉沢地区の耕地である。車道ができる前は、崖の上下の耕作地間の移動にその踏跡を使っていたのかも知れない。御霊若宮は金峰詣でが盛んだった頃は立派なお宮だったといい、現在は明治十年の小祠と欠けた狼の石像など数点の遺物だけが道端にひっそり置かれている[16]。付近は広域農道の建設ですっかり変わってしまったが、古い写真に写った風景から現在とほぼ同じ位置にあったと思われる。測ったようにきれいに道路脇に設置されていることや、写真とは微妙に配置が違っていたりするので、道路建設時に多少移動されたのかも知れない。
ここから約百米の間、古道は尾根上に建設された広域農道に潰されてしまったと見られ、それを辿った。左から別の車道が合流すると広域農道は尾根を外れて吉沢へと下り出す。見晴らしの良いその場所には「御領の棚田」の解説板があり、観光地として売り込み中のようだ。すぐ左で分かれて尾根を登る農道のような未舗装車道に入ると、すぐに鹿柵があった。それを抜けると未舗装車道は亀沢側へ去っていった。ここからいよいよ古道らしい部分が始まった。古道はピークを捲きつつ常に尾根上に付けられている。緩やかな広葉樹の尾根に、意外と立派なよい歩道が続いていた。道は手入れが良く、ピンクテープが点々と付いていて、予想していたうらぶれた古道とは逆に、麓の村々が下に見えてきて楽しいハイキング気分であった。しばらく歩いて気づいたのだが、かなり周到に倒木除去やピンクテーブの手入れがされていたので、地元の甲斐市などが、ハイキングコースとして紹介すべく整備を進めている最中だった可能性がある。KDDIの電波中継所を見ると、石垣で整地した畑地の跡が目につくようになった。古い地形図では、至るところで麓から尾根上まで畑地になっている。車社会になる前は、緩やかな丘のような地形のこの付近では、日当たりの良い尾根上が格好の耕作地だったのだろう。亀沢川沿いの久保からの廃車道が、左後ろから上がってきて横切った。その車道はしばらく、尾根の右側を絡んで登っていたので、それほど遠くない昔に、その車道で行き来しながら尾根上で農作業が行われていたのだろう。その廃車道は再び尾根に乗り、そこで終わっていた。尾根上は多数の倒木で埋まっていたが、全て片付けられ歩きやすかった。五七八独標の平頂で急に直角に右折したが、テープの誘導が多く迷うことはなかった。植林が現れたり、また畑地跡になったり、自然林の場所もあった。尾根に起伏が出てくると、古道は明らかにそれを避けて捲くようになった。ピンクテープの整備した踏跡は、必ずしも古道の道型を意識せず歩きやすい部分を拓いてあったので、敢えて古道を通ろうとするとヤブや倒木をかき分ける必要があるときもあった。久保から別の廃車道が上がってきて、尾根上を少し南下していた。付近の畑地跡は恐らくこの道を使って手入れされていたのだろう。
地形図の金屋四等三角点は、地形的に際立った特徴がないヤブと倒木に覆われた小ピークで、辺りを軽く探ったが三角点は見つけられなかった。右がヒノキ植林のところで、古道はピークの右を捲いた。山の様子は、畑地の多い緩やかな地形から、植林が多い多少凹凸のある地形に変わり、古道は殆どのピークを捲くようになった。次に道が稜線の左に出る中途半端な地点で、突然道の整備が停止した。地形的にも森林管理的にも特徴のない点で整備停止となっていたのは、作業がまだ進行中のためであろうか。いくら正確に古道を歩くといえ、あまりにも倒木が酷くアスレチックのような状況になる箇所では、遠慮なくその部分を避けて通った。永く歩かれた古道は周囲より凹んでいるため、落葉が溜まって歩き難かった。単に早く楽に行くなら古道の道型を無視して適当に尾根を行くのが良いが、今回はあえて正確に古道を歩いた。小さな凹凸を幾度も繰り返す稜線を右へ左へと捲いて進むうち、やや大きな七三二独標が現れ、古道はその直前で右のヒノキ植林に沿って捲くようだった。植林による道型の破壊によるものか、かなり細く不明瞭になった。そしてそこから地籍調査のピンクテープが付くようになった。右が恩賜(オンシ)林で、境界杭が頻繁に打たれていた。恩賜林は明治四十四年の設立である。尾根や谷に沿わない捲道が恩賜林界であるということは、少なくとも明治四十四年の境界確定時にここに道があったことを意味する。人里離れた山中では江戸から明治にかけてほぼ変化がなかったはずであり、よって恩賜林界が古道の道筋である可能性が高く、その場合は境界標たる赤杭を追えば良いことになる。トラバース箇所は上から崩れてきた土砂のため道型が消えていることがままあるので、古道の有力な手がかりになる。捲き終わって尾根に戻ったところで境界杭が消えたのは、恩賜林の区域が後退し、この道が境界でなくなったためである。
右前方から車道上がってきて、路上に古い車が廃棄してあり、側には二棟の廃屋が見えた。そこを通り過ぎる辺りに表示板があり、獅子平からのハイキングコースである旧敷島町(現甲斐市)自然観察路があいまいに合流した。ここから少しの間、一般コースになるので急に道が良くなった。一時両側が恩賜林になるも、尾根の右捲き部分では恩賜林は右側だけになった。石垣や錆びた一斗缶は、開拓集落の名残であろう。尾根の左を捲くようになっても恩賜林の境界杭は道に沿っていた。
獅子平道を合わせて数百米も行くと小さなガレに突き当たり、そこを急に下る一般コースと分かれ、古道はガレを上巻きし、直進して緩く登リ出した。荒れ具合からすると廃道状態だが、廃道としては歩きやすかった。恩賜林の境界標が点在しているので道を失うことはなかった。しかし次第に道型が薄くなり、ついに右上から流入する土砂で消えてしまったので、伐採で荒れた窪の左岸山腹を見当をつけてトラバース気味に登った。稀に見る境界の赤杭も、間隔が長いので十分頼りになるとは言い難かった。荒れた緩斜面をデタラメに行く分には簡単だが、古道を外さないよう神経を集中して歩いた。前方に、下道に出合うはずの峠状地形が見えてくると、それを目標に登った。右から合流するのは、外道ノ原から迂回してすぐそこまで登っている車道から来る作業道で、現在は廃道に近いが、昭和六十二年にはこの道が外道のハイキングコースとして使われていたという[16]。そのすぐ先の峠状地点が、道標が賑やかに立ち並ぶ太刀抜岩の分岐で、向こうから登ってきた外道を合わせた。ここは獅子平、長潭橋・下道、太刀抜岩、パノラマ台・弥三郎岳への四辻を成しているが、一般登山道以外の道を含めると、さらに吉沢・上道、稜線の御岳旧道、外道ノ原からの作業道の三本が合わさる、七辻である。
● 吉沢桜橋~太刀抜岩分岐(下道経由)
下道(外道)は、太刀抜岩下の外道ノ原までが退屈な車道になってしまったので、多くのハイカーは長潭橋から入山して外道ノ原で外道に合流するようになった。だから近年は通して歩く人はほとんどいなかったようだが、最近甲斐市が吉沢町内に幾つか道標を立てたので、今後また通行者が増えるかも知れない。主に下道が歩かれた江戸時代、古来の一ノ鳥居は失われていて、当時の参拝者は吉沢橋で荒川を渡り、吉沢から入山していた。現在は甲府からのバス通りが桜橋で荒川を渡っており、そこを起点とした。橋を渡って、吉沢集落を山に向かって真っ直ぐ抜け、Z字に山腹に取り付いた。その二つ目の角で常説寺からの道を合わせ、農業用の細い車道で、吉沢川右岸のヤブっぽい雑木林を進んだ。最近立てた真新しい「日本遺産・御嶽古道」の表示が、迷いやすい村内作業道の分岐のたびに付いていた。小さな橋で吉沢川を左岸に渡ると、少し登って別の車道に合流した。この舗装道を延々と奥へと辿るのである。この舗装道が古道とは信じがたいが、明治二十一年測量の最古の地形図[9]でも現在の車道と同じ位置であることから、古道の上に敷かれた車道と考えられる。第二次大戦後の北仙開拓の集落が出来たことで整備されたという[16]。同じ資料に、御岳発電所建設に伴う鋼管輸送を担ったともあったが、御岳沢左岸にあった発電所関連の道路がこれだとは、地理的に納得できない。高町集落あたりの話と混同しているのではなかろうか。一方、この谷の右岸に荒廃しつつも確りした歩道跡が続き、その一部は恩賜林の境界とも一致することも確認した。どちらが古道であったか、今となっては判断しようがなかった。例の「日本遺産」の表示板を見て、鹿柵を抜けると開拓集落跡に入った。畑跡や道路跡のみが寂しく残っていた。右側が伐採され禿山になった辺りで農機具を見たので、一部はまだ耕作しているのかもしれない。背後の山が風避けとなった南向きの暖かい谷で、吹きさらしの麓より良い土地のように見えた。一箇所だけ作業場か資材置場で使われている敷地があり、飼犬に酷く吠えられた。植林が出てくると、谷が二俣になり、一軒の廃屋があった。この奥の広範囲に点在する人家が北仙開拓の廃村で、現在は地図からも抹消されている。すぐに、上道で見た尾根近くの廃屋へ向かう未舗装道が分かれた。車道が簡易舗装になった。そこから約三百米先が最終人家である。何棟かの建物があり、恐らく二世帯あるうちの一方は、住んでいるか分からないが作業場所などとしてまだ使われているように見えた。
簡易舗装が終わり、農業用の軽トラックがやっと通るくらいの細い未舗装の車道になった。相変わらず広く緩い谷を詰めると、前方が高さ二、三十米の急斜面になり、車道は左から折り返し登っていた。渋江長伯が外道坂と呼んだ急坂である[15]。車道造成で分岐点が潰れているが、溝状になった明らかな古道の道型がそこを直登していた。僅か五十米ほどの長さだが、下道で初めて見る古い道型である。古道は回り込んできた車道に吸収されてしまい、以後しばらく、再び車道に呑まれて痕跡は見られなかった。坂を登り切ると尾根状地形なって道標があり、長潭橋からのハイキングコースが合流した。
緩やかな尾根上は一面開拓時代の桑畑跡で、緩やかで平らな一帯だった。相変わらずの未舗装車道だが、道標やマーキングの整備が格段に良くなった。やがて山裾のだだっ広い野原のような場所に達した。ここが渋江が言う外道ノ原であろう。長らく耕作放棄された野原のような土地である。尾根の上へ登る作業車道が左に分かれるが、何しろ真っ平な荒地なのでその道を知らないと気づかないかも知れない。いま来ている車道も痕跡が薄くなりがちで、左に緩く曲がる部分に来ると、ハイキングコースのマーキングは古道を無視して直線的に進むようになっていた。誰が取り付けたものか古い未舗装車道を兼ねる古道の痕跡にもピンクテープが付いていたが、この付近は古道が恩賜林界になっているので、境界標を辿っていけば自然と古道を辿ることができる。いよいよ斜面が急になるところで開拓地が終わり、それと共に車道跡も終わった。古道はようやくそれらしい雰囲気になり、深い溝を刻みながら、斜め左にトラバースして登っていた。永年の倒木が積もって酷い荒れようだが、道型はまだ残っていた。右にカーブを切ると直進してきたハイキングコースを合わせて明瞭な道になり、電光型にどんどん登った。依然倒木は多いがマーキングが確りしているので心配なかった。この九十九折れの途中、七九〇米付近の道標で千田への古い道が分かれるが、倒木に埋もれて気付き難くなっていった。この辺りを三聲返しと推測するが、確かなことは分からない。登るに従い、後方の眺めが開けるのが楽しかった。渋江が「虫喰岩」と評した面白い穴の開いた岩も、二百年前とかわらず右上の岩壁に刻まれていた。倒木を潜りながら、約十回の折返しで六五米ほどの高さを登った峠状が太刀抜岩分岐であり、ここで上道と合流した。
● 太刀抜岩分岐~金桜神社下三ノ鳥居
八王子峠・御岳付近 クリックで拡大表示 (出典:国土地理院 基盤地図情報 5m標高) |
獅子平から来てパノラマ台へ水平に向かう自然観察路に入らず、引き続き古道を進んだ。道の区分としては廃道であろうが、約一米(三、四尺)という道幅は江戸時代に通行した渋江が報じたものと変わらず[15]、熟練した登山者であれば十分通行できるものであった。平坦で不明瞭な尾根上の地形のため古道は一時不明瞭になるが、まず少し尾根を辿り、次に尾根の左を緩い窪状で回り込み、西へ出る支尾根を越えたらトラバース気味に尾根に戻って乗越し、一段上の峠状(八五三米)に出た。この間、一部だが明らかな道型が残っていた。この辺りの旧道は数十年前まで使われていたらしく、廃道としては歩きやすかった。そこから溝状の古道は尾根に絡んで登るが、落葉や石が溜まって相当歩きにくく、ただ通るだけなら右の植林地を折り返し登るサブルートの方が楽で歩きやすい状態だった。八七二米で両者が合流、その先の九二九米峰の南を捲きながら次第に高度を上げた。荒れていても道型は明瞭で、時々恩賜林界を横切る地点では境界杭を見た。九一〇米まで高度を上げると、弥三郎岳直前まで道はほぼ水平になった。尾根を乗越して左に移る地点は、尾根上の倒木で曖昧になっていた。やや下り気味に小尾根二つを捲きながらトラバースすると、次の窪状ですぐ下を並走する自然観察路が目に入った。急な山腹を行く古道は土砂に埋もれて少しずつ不明になって消えてしまい、数米下の自然観察路に移ることを余儀なくされた。この辺りが自然観察路との合流点だが、明確な一地点ではないため、八王子峠から逆コースを下ってきた場合は、厳密に地形図を読んで分岐を判断することになろう。
古道と合流した自然観察路は流れ込んだ土砂で細くなっていたが、窪状地形を通過するとすぐ古道らしい、やや抉れた落ち着いた道になった。ここから暫くは、古道と自然観察路との重複区間である。俄然歩きやすくなったトラバース道を水平に飛ばすと、尾根に乗る直前の道標で白砂山への道を分けた。直後に尾根に乗った所に萬霊塔の破片があり、鞍掛岩が遠望された。旧羅漢寺への分岐である。文化六年(一八〇九)に通った渋江によると、萬霊塔から寺へ向かうと寺門があったという。寺には数人の僧がいたと云い、その一人に奇岩や架橋が連なる山内を案内させた。社記・寺記によると、慶安四年(一六五一)の火事で全焼したがその後再建され、幕府御役所からの高札を得たともしており、慶應四年(一八六八)に社記・寺記編集用の報告を上げている[24]。文化十一年(一八一四)編纂の国志もまた、寺が山中にあり、近隣三十村を托鉢に回っているとしている[25]。このように羅漢寺は少なくとも江戸末期近くまで確かに存続したとの記録があり、大正九年に昇仙峡の現在の位置に移されたとされる[16]。昭和初期に原全教が見たときには、現存の位置に亜鉛引鉄板葺の粗末なお堂と納屋があったというので[7]、その時点では実質的に廃寺であったのだろう。ウィキペディアの「慶安4年(1651年)3月の火災で焼失して廃寺(羅漢寺廃寺)となり現在地に移転したと考えられている」の記述は間違いで、十九世紀の諸文献を無視した誤った考えに基づいているようだ。八王子峠に向かって、御岳までで随一の一〇〇米近い登りとなった。道の整備はよく、九十九折れを入れて歩きやすかった。パノラマ台駅(ロープウェイ頂上)下を斜めに登り、八王子権現(八雲神社)の石段下に出た。今は裏参道のように見えるが、渋江が歩いたときはここが正面だったことが著書の挿絵で分かる[15]。吉沢・猪狩界の乗越しでもあるこの地点は金桜神社までの最高点でもあるので、ここが八王子峠と思われる。休日は観光客で賑やかな場所である。人工的に整地し拡張された山頂に新しい社殿が立つが、昔は石段上に見える鳥居の左側にあった。拝殿裏の大きな石祠は、多少移動したかもしれないが昔のままに違いない。現在の表参道右側には、付近から移設された宝暦十三年(一七六三)の道標があり、「左是よりみたけ社参道」と記してある。では右の道は何かといえば、八王子権現は麓の猪狩村の氏神であるため猪狩への道も古くからあり、恐らく道標はその分岐点に立っていたものと思われる。
八雲神社、下福沢分岐付近の古道の推定位置 (出典:陸地測量部 五万分一地形図「塩山」[26](左)、国土地理院 基盤地図情報 5m標高(右)) |
八王子峠の八雲神社へは御岳から車道が通じている。何度も訪れ歩いてみたが、特に八王子峠から御岳下沢右岸尾根の石祠の乗越までは、尾根上の緩やかな地形と、古道にほぼ重複する経路で拓かれた車道建設とにより、古道と断言できるほどの明確な道型は認められなかった。道であったかも知れない部分的な痕跡や、地形的に道があったと推測される箇所など、根拠の弱い推定を基に古道として歩いた部分も少なくなかった。明治四十三年測図の地形図は[26]、地形の歪みや間違いがあっても踏査が確りしていたためであろうか、道の描写は正確であり、歩く際の参考になった。八雲神社先の下福沢分岐から、山腹を強く削って拓かれた車道に対し、古道は掘削する必要がない尾根筋近くの緩やかな部分を通過していたと推測された。地形的に古道と推測される部分は、緩やかで大変歩きやすいものの、一部の植林作業道らしきを除いては、明らかな道型は残っていなかった。付近は植林地が多く、幾つもの作業用の歩道や車道が設置され、古道の判別を一層困難にしていた。車道が極小の突起を左右に捲きながらほぼ尾根上を行く部分は、古道を潰して車道が敷かれたとも想像され、やむを得ずそのまま車道を辿った。一帯で随一のピークである一〇一九米小峰(地形図では一〇三〇米圏)を車道を使って西から捲くと、前方が開けて右に緩い谷が広がり、右に古道らしい痕跡が分かれていた。この地点の右側の道路脇に、古い沓石が放置されていた。鳥獣保護区の看板があり、車道が左に曲がった後すぐ右に曲がる部分である。目測三十数センチ四方の石に約八センチ四方の穴が開いていた。江戸時代の神領南限に近い位置と考えられる位置で見たこの古い遺物は、江戸後期の新たな一ノ鳥居の沓石である可能性が考えられる。試しに右へ分かれる古道を辿ってみると、御岳沢の方向へとどんどん下っていた。また、下らずに尾根を右に絡んで捲くような形跡もあったが、途中で荒廃し、道の気配はほぼ消えてしまった。だが構わず捲き進むと、尾根の芯に戻った辺りの森林中で墓標を見た。沓石様の遺物から約二百米の位置である。文字は長年風雨に晒され掠れて読めなかったが、二引両紋が見て取れた。この家紋は多くの武家に採用されたため、家系を特定することはできない。ちなみにウィキペディアではこの紋を小田切の家紋とするが、その記事の著者が引いた原著で分かるように[27]、小田切の代表的な家紋とは考えられない。ただ小田切は、地元の甲斐市でよくある姓であり、御岳衆にも見られるものであるから、一概に否定はできず、小田切のものであるかも知れない。一方沓石様の遺物から明治期の地形図どおり尾根の左を捲いて来ると、この墓石のやや下を左捲きで通過する。そしてすぐ、車道はほんの一瞬尾根に乗る。沓石様の遺物からここまで、旧版地形図は尾根を左捲き、古道の断片的な道型では右捲きとなるが、どちらが実際の古道であるかは分からなかった。また尾根に乗った地点は、現在の甲府市御岳町の南限である。先の沓石様の遺物が、江戸時代に神域の南限に建っていた一ノ鳥居のものとすると、辻褄が合うという根拠である。複雑な地形のこの尾根で、二百米ばかりのズレが発生しても不思議ではない。
八王子坂付近の古道の推定位置 (出典:陸地測量部 五万分一地形図「塩山」[26](左)、国土地理院 基盤地図情報 5m標高(右)) |
御岳町界から、車道は再び尾根左の山腹をぐんぐん下ってやがて舗装道になるが、明治期の地形図が示す古道は尾根上かむしろ東側を進んでいる。実際に尾根上の古道があったと思われる辺りを歩くと、古道として申し分ない地形であったが、緩やかな尾根上もしくは東側のやや荒れた森には、多少踏まれた感はあれども明確な道の痕跡は残っていなかった。原全教が二ノ鳥居の沓石を見たとするのはこの辺りと思われるが[17]、二、三度歩いた程度では見つけられなかった。尾根は九三〇米付近の小さい平らな場所から、谷に向かって急に下り出していた。車道が舗装道になる地点のすぐ脇である。現在は灌木で展望が利かないが、江戸時代に渋江長伯が描いた二ノ鳥居付近の少し下から見た御岳の町の風景を見ると、水墨画のように強調された地形を割り引いてみれば、八王子坂を下る参道の様子からこの辺で描かれたと推測される[15]。渋江が記した九十九折の坂に該当する急な場所は他にないので、この標高差二十米ばかりの崖状の部分がそれであろうか。今ある車道東側の窪状地形の部分であり、ヤブの中の滑りやすい地形に道型的な雰囲気が見られた。周辺の斜面には他に歩かれた痕跡もなかったことから、古道はここを下っていたと思われる。今も登り難いほどよく滑る斜面なので、長年のうちに古道はすっかり洗い流されてしまったのかも知れない。谷は伐採跡の緩い灌木の斜面となった。作業道の痕跡らしきが多数あり古道と断じる根拠を見つけられず、古道だったかも知れない作業道の残骸を繋いで、緩く斜めに下った。やがて左上から下ってきた舗装車道に自然と吸収され、車道を少し下ると、そこが御岳下沢への乗越であった。山側の擁壁が途切れて左の支尾根を乗越せる地点なのですぐに分かった。原全教が「切通」とした所であろう[17]。ちょうど切り通した部分に非常に古い数段の小さな石段があり、祠が祀られていた。
古道がここで支尾根を越えて御岳へと下るのは、旧版地形図の通りである。一瞬山側へ下るとすぐ折り返して斜めに急下、だが回り込んで来た車道に呑まれて古道は消えてしまった。しかしその十数米先で、再び反対方向に向かう古道が車道から分かれたので、ちょうど折り返す部分が車道の下敷きになったようだ。ヤブっぽい荒れた道を下ると、最後は御岳霊園の造成により切り崩され、霊園内の作業道になり、折り返して再度車道に合流した。ここからは御岳集落内に入るので古道を探すことは困難である。車道を下って御岳下沢の橋を渡ると人家が見えてきた。昇仙峡から来る県道に出合う直前、一直線に並ぶ村の家屋の奥に聳える金桜神社を見通す場所があり、御嶽千軒と言われた江戸時代の賑わいが忍ばれた。しかし明治五年の修験禁止令で、金峰山と金桜神社は大きな打撃を受けたことは間違いなかろう。明治期には参拝者や観光客相手に細々と営業する僅か数軒の宿を残すだけになったという。明治末期の写真には、門前町の入口に当たるこの場所に立つ栄華を伝える古い鳥居が写っている(図3)。観光客の車に追い越されながら広い県道を緩く登った金桜神社入口に、堂々たる大鳥居があった。門前町の終わりに高さ十米余りの三ノ鳥居があったというので、恐らく真新しいこの鳥居がそれに相当するものであろう。神社は二六六段の石段を上がった上にあるが、見ているとこれを登る参拝客は稀で、社殿脇まで車で乗り付ける人が多いようだった。
[24]山梨県立図書館編『甲斐国 社記・寺記 第三巻 寺院編 二』山梨県立図書館、昭和四十一年(初版は慶応四年(一八六八)、甲州寺社総轄職編)、「巨摩郡吉沢村 羅漢寺」二〇七~二〇八頁。
[25]松平定能(編)・小野泉(校)『甲斐国志 巻之十九』温故堂(再版)、「巻之八十一 仏寺部第九」八~十三頁、明治十六年(初版は文化十一年(一八一四)、甲府勤番)。
[26]陸地測量部『五万分一地形図 鹽山』(明治四十三年測量)、大正二年。
[27]太田亮『姓氏家系大辞典 第一巻』姓氏家系大辞典刊行会、昭和十一年、「小田切」九七一~九七三頁。