国師街道(信州往還) page 1 【廃径】

 信州往還と呼ばれる信濃国へ通ずる古道は長野県周辺の各地に幾つも知られるが、ここで取り上げるのは国師街道とも呼ばれる、西保(ニシブ)から川端下(カワハケ)へ抜ける、明治もしくは大正期まで使われた古道のことである。道路や鉄道の整備により忘れられる運命にある他の往還と同じく、この山越えの近道も今や径がどこを通っていたかすら不確かになってしまった。

 

【国師街道の歴史】

 現在の地名でいえば山梨県山梨市牧丘町西保中の周辺、かつての西保村は「信州裏道街道として今の佐久郡に通じ、且又金峯山の通路となり」とされ中世には要衝の地であった[1]。初期の金峰山参道とされる東口参道は幾つかの村から出た道が合わさって成り立っていたが、重要な径の一つが西保道である。西保からの東口参道は柳平で杣口の金櫻神社からの径を合わせ、苅合平で表口参道と合流して金峰に向かうものだが、この道はもう一つの顔を持っていた。途中石祠峠で分かれて北行し、朝日峠を越えて武田配下の信州・川端下金山に通ずる信州往還の役割である。甲府側から見ると西保は小さな二つの峠、太良ヶ峠、古峠の向こうにあるので、国師街道で山を越えてきて甲府の背後を突くのに絶好の位置にある。逆にその峠道を通れば、甲府から人目に付かず秩父往還へ抜けるのにも利用できた。そのため武田氏は、要衝の地を管理し甲府の守りを固めるため重臣を西保に配置し、御用地としたうえ関を設け、信州国境までの広大な山野を管理させた[1]。明治八年の西保村の成立時点における版図は、西保本村がある鼓川流域に留まらず、焼山峠を越えた琴川源流、さらに六本楢峠を越えた荒川源流の信州国境までが含まれていた[2]。すなわち西保は甲府の裏から信州国境までの長大な往還の全域を管理する役割を負っていたのである。

 十六世紀に武田氏により開発され、一時は「金彫共之小屋千軒余御座候」とされるほど繁栄した金山への道であるから[3]、当時の重要機密である金山の存在と共に、径の存在もまた文書や図面上に詳らかにされることはなかったようだ。武田氏による経営は永禄から慶長にかけての数十年程度で終わったため、甲府と信州の金山とを結ぶ長く険しい山道は、徳川時代になると利便性、国境管理のいずれの面からしても裏街道としての利用は行われなかったと考えられる。ただ、西保村の山林は琴川、荒川源流域の奥千丈御料地が入会地に指定されていたことから[4]、江戸時代、そして明治期の御料林への編入後も、信州国境までの全域が入会山として村民に利用されていたと見られる。

 もはや地元民が山仕事に通う道の一つとして人知れず存在した道に過ぎなかっただろうが、大正二年発行の地形図に収録されたことで一部の登山家に知れたようだ。記録にある中で初めて、大正十三年に川端下から国境まで登った田島勝太郎は「急坂ながら道はよく踏めている」とし、信州称で「甲州街道」と記した[99]。また原全教は信州にある武田の金鉱に至る重要な道と述べ[6]、小野幸は信州の側師が荒川源流に入る道だったと推測している[7]。信州側から購入した立木の伐採に入ることがあったことは、原も記している[6]。原はこの峠道や国境の峠には明確な名がなく、甲州側の村の古老は信州川端下へ行くので信州往還、峠を川端下峠、信州側では甲州街道と西保峠と呼んでいたという[8]。正式には無名であった峠に名を与えたのは春日俊吉で、それ以来「朝日峠」の名が広まった[9]。

 明治末期測量の初版地形図に収載された国師街道について、大正十一年に主稜縦走中に峠を通過した会田二郎は「東股と甲州側荒川鑛山へ下る道らしい道が国境線を十字に横切っていた」[10]、また三砂秀一は昭和三年の山行で「川端下から甲州へ越す道を横切り」[11]としたが、小野幸が昭和十三年に記した解説では「現在この峠には五つ六も指導標が建って居る。信州側への下りは良いとしても、西保へは殆ど廃道となって居る」とされ[12]、急速に廃れたことが窺える。小淵沢から建設が進められた小海線が昭和十年に川上村に達し、甲府と梓川が鉄路で結ばれると、甲斐と佐久を結ぶ幾つもの峠道は押し並べて衰退の途を辿ったのである。

 この径を辿った記録は、特に早くから衰退した甲州側では極めて少ない。全区間の記録は昭和初期に通った原全教のものが唯一[6]、他に同十一年にごく短区間を通った吉沢一郎の記録を見るのみである[13]。特に金峰東口参道と分かれる石祠峠から甲信国境の朝日峠までは当時すでに迷いやすくなっていて、原は「密林ばかりの実に難渋な小径」「迷路」などと称した[6,14]。一方信州側は臼田営林署の大薙林道の形で受け継がれ、大弛峠の開通までは登山者の利用もあったため昭和三、四十年代のガイドブックにも収載されていた[15-18]。しかし川上牧丘林道の開通により峠道としての役割は終わった。その後数十年を経た現在も微かに道の痕跡が残っている部分が多く、甲州側・信州側とも少なくとも伐採区域内では断片的に作業道として使われていたものと考えられる。

 

【極めて複雑な地形】

 秩父の多くの廃道と異なり、国師街道は明治四十三年測量の初版地形図に収載されているので、容易に経路を推定できると考えがちであるが、実際は全くそうでない。初版地形図には尾根や沢の位置のような基本的な地形すら間違いが散見することがよく知られているが、それに加え特異な地形によりさらなる地形の誤りが誘発され、航空測量で作成された最新地図との対応が難しいほどの大きな誤差が生じている。甲州側では恰も火山性のように見える奥千丈独特の極度に凹凸の多い地形のため、旧版図では正確な地形や道の位置が把握されていない。一方信州側は花崗岩質の金峰山麓を通過するため、砂山さながら手当たり次第に崩壊して極度に凹凸が少ない斜面に多数の細流や流痕が刻まれ、これも位置の把握を難しくしている。

 そのため甲州側では石祠峠から荒川までのただ山腹をトラバースする区間、信州側では朝日峠から車道に出合うワゴノ沢まで、道がどこをどう通っていたかが、細かい部分で全く分からない。特にトラバースが多い甲州側はかつてこの地域を通った登山家は等しく「迷路」と表現しているが、実際筆者が付近を様々に歩いた経験でも、まるで「凹凸の付いたスポンジのような地形」と感じられた。極めて多数の小丘と小沢が入り組み、あちこちに小湿原があり、何度歩いても迷ったものである。この地形図の誤りは、昭和四十二年の補測調査で修正された。しかしこの時点で川上牧丘林道が桜沢まで開通していたため、石祠峠から桜沢までの国師街道は削除され、桜沢の車道終点から桜沢沿いに入る作業歩道に続く形で、桜沢渡沢点から信州までだけが記載された[19]。それも大弛峠への車道開通を受け、車道を追記し歩道を削除した資料修正版が四年後に刊行されたため、僅か四年間だけ流通した貴重な幻の地形図となった。この四十二年補調図が、複雑な地形を呈する桜沢から荒川にかけての道筋をある程度正しく示した唯一の資料である。反対に信州側は、同じような沢が幾つも並走し合流する特徴の薄い地形に、元来の不安定な地質による道の流失、砂防工事による多数の堰堤、伐採による荒廃が加わり、甲州側以上に古い道が分からなくなっている。

 

【国師街道の経路推定】

 それでは、原と吉沢の紀行[6,13]、および明治四十三年測量図(塩山・金峯山)、昭和四十二年補調図(金峰山)の破線位置を参考にしながら、およその経路を推定してみよう。ここで推定するのは、金峰山の東口参道から分岐する石祠峠から信州側の舗装車道路末端である金峰山川東股沢の橋(一六七〇米付近)までの区間である。石祠峠は現在鶏冠山西林道が越える剣ガ峰西方の一八九〇米圏の峠で、峠の西側山腹に今も文化八年(一八一一)の石祠が置かれている。石祠峠から桜沢までの間は、原と吉沢による説明や付図があるので推定しやすい。峠から北へ緩く二分も下った辺りで桜沢へと大きく下る東口参道を分け、なおトラバース気味に下ると昭和初期には左に作業道を分ける道標があったという。右を取って約五百米行くと、広い窪状に小さな草地になり右岸に小屋があった。吉沢が「公徳小屋」と仮称した小屋で、今は跡地が土場的な広場になっている。小屋に掲げてあった「公徳」の額からそう呼んだものだ。石祠峠からここまでは、昭和中期の大伐採で作業用車道が張り巡らされてしまい、古道の痕跡はほぼ分からなくなっている。吉沢の付図を見れば分かるが、公徳小屋の窪は桜沢から剣ガ峰と二〇二三独標の鞍部へと突き上げる窪であろう。少し登ってまた水平になり、桜沢を一八九五米二股で渡る。原の記録に全く現れない桜沢左岸の軌道が昭和十一年の吉沢の記録に現れることから、奥千丈軌道の桜沢支線が昭和初期に建設されたことが伺い知れる。軌道建設とそこから伸びる新たな作業道とで付近の様子が激変したらしく、吉沢はここで迷い正道を失った。

 原の紀行と昭和四十二年図を参考にさらに図上の歩を進めると、桜沢右岸を斜めに登り、二つ目の小沢を渡る所で山道を右に分け、約五分登ると尾根を乗越す。原はこの乗越で金峰山が見えたという。樹木の繁り方は当時と違うかも知れないが、北西に金峰が見えたというので乗越すのは南西に伸びる支尾根であろう。この辺り、小沢の位置、尾根の地形とも複雑で情報だけからは乗越の位置を特定できず、実地でかなり歩き回り、道の痕跡の続き方、現地に残された県の林務環境事務所のものらしいテープ、古い炭焼窯跡などから乗越位置を確定した。現在の二万五千分の一地形図で一八九四独標の北北東約百七十米付近に一八九五米の補助曲線が入っている、その付近の一八九三米の広大な平坦地が乗越と思われる地点である。この平坦地は二万五千図上に認められず、最新の地形図ですら現地の地形を十分正確には表せていない。

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桜沢~荒川(昭和四十二年版五万分の一地形図「金峰山」、国土地理院)

 

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石祠峠~桜沢(左:明治四十三年版五万分の一地形図「金峰山」・「御岳昇仙峡」、
陸地測量部による、右:同区間の吉沢の付図[12])

 

 乗越から緩く下ってその後はトラバースとなり、三十分で下アコウ沢の草地を渡るとされる。下アコウ沢上流には地形図に載っていない多数の小湿原があるので、その一つを通過するのであろう。少し登ってからまたトラバースが続き、軽く下って上アコウ沢をかつて炭焼小屋があった地点で渡る。上アコウ沢にも昭和十年代に軌道が通ったが[20]、その少し前に歩いた原は軌道を見なかった。さらにひと登りで、原が通ったときには大きな小屋があり、その先の道が不明になったという。ここも二万五千分の一地形図で分からない微細な地形だが、現在の二万五千図の2050の数字のすぐ左、支尾根上の二〇二六米に大きな平地があるのでその辺りのことであろうか。原は、曖昧になった道がまた現れ、だいぶ進んでから大きな沢を渡るとした。地形図でもしばらくのトラバースの後、沢に急下している。現在の地形図で一九九〇米付近の荒川左岸に注ぐ無名の大きな支流(ここでは仮に無名沢と呼ぶ)のことであろう。道は無名沢に下り着く約百米手前で、奥千丈軌道本線の状況から見て昭和十年代の一時的な路線と推測される無名沢支線(これも仮の名称)を横切っていたが、原が歩いたのは敷設前の時点である。原が見た明治四十三年図では、道は「堤防のような向こうの尾根」と評した無名沢右岸尾根を越えるようになっているが、「対岸への小径の続きが判らない」とし踏跡を見つけて旧版図が示すように無理やり越えた。基盤地図情報が示す詳細地形を見ても、また現地で様子を見ても分かるように、壁のように立ちはだかる尾根をわざわざ登ってまた下る理由は到底考えられず、恐らく原は旧版図の径の誤りに引かれて、敢えて右岸尾根を乗り越えたと推測される。事実彼は、尾根の向こうの荒川に下ってみると右岸に小径があるのを見た。筆者が実際歩いて確認したところ、単純に無名沢出合近くの右岸尾根が低くなった部分で荒川に出るのが正しいと思われる。

 

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朝日峠~川端下(東信森林管理署基本図19[22])
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荒川~朝日峠(明治四十三年版五万分の一地形図「金峯山」、陸地測量部)

 

 道は二、三十分ほど荒川を遡る。原は左右に渡り返し分流の中洲を通る様子を書き残したが、昭和四十年代以降、大弛峠直下に多数の砂防ダムが出来るまで荒川は相当な暴れ川であった。一九八五米付近の奥千丈軌道の橋梁や無名沢支線の分岐点一帯の道床を跡形もなく押し流し、川の流れも変わってしまったようだ。この区間は、現在小さな流れになった荒川右岸に付いた県有林の作業道を通るしかない。次の問題はどこで道が荒川を離れて朝日峠へ登り出すかである。その地点は顕著な地形特徴がなく旧版地形図や原の紀行からは正確な位置を伺い知れないが、幸い昭和六年に荒川を下った渡邊三郞の詳細な記録がある[21]。渡邊は大弛峠からの小沢を下り、二一六〇米圏の左右両岸からの支沢出合、二一五〇米付近の右岸支沢出合、二一〇〇米圏の右岸支沢出合、二〇六〇米圏の左岸支沢出合を見て、二〇五〇米付近で国師街道を合わせた直後に右岸支沢を入れ、さらに二〇二〇米圏で右岸支沢に出合う様子を克明に記した。分岐は「川中の積み石がなくては到底それと判らない」ものであり、以前国師街道を下ったことがある同行者原全教の指摘で気が付いたようだ[15]。下ってきた原もまた、ここから荒川沿いに下る道が見つからなかったという。つまり登り出しは、ちょうど現在二〇五五米付近にある堰堤脇ということになる。

 朝日峠までの登りの道筋もまた、山腹の微細地形が入り組んでいてまた複雑である。登り口の堰堤が出来たのは昭和四十五年だが、それ以前は右岸側の袖にちょうど当たる辺りを昭和十五~三十年頃に使われた軌道跡が通っていた。ここで国師街道はその軌道跡を横切っていたはずだが、道床が堰堤の袖に潰されたため、現在は土中に埋まり一部が地上に突き出した線路の残骸を見るのみである。朝日峠までは、明治四十三年図の方が比較的正しい道を示している。何しろ昭和四十二年図の時点では道が消滅してから数十年が経過していたため、正しい道を表示しようがなかったものと思われる。明治の旧版図では、最初に取り付いた小尾根は二二〇〇米辺りで消えてしまい右の尾根に移り、その尾根も朝日峠の西へ上がってしまうため、峠のかなり下で見送って右の谷に入り峠まで詰め上げるようになっている。

 

 朝日峠から川端下への下りでは、特徴のない小尾根と小沢が幾度となく合わさりながら、いつの間にか東股沢の大きな流れになる。川に近い部分の道は出水で流されやすく、多数の治水堰堤が設置され、森林は激しく伐採され、枝分かれした林道が伸びている。このような中、峠道は必ずしも尾根上や沢沿いになく、通りやすい地形を選んでふらふらと下っている。そのため現在道の特定がかなり難しくなっている。昭和初期の道の経路をある程度具体的に述べた唯一の資料は、原の説明文である[6]。原は川端下から登る方向で記したのでそれに合わせ、今も車道化を免れ山道が残る東股沢の一六六七米の橋を起点に詳しく読み込んでみる。「木杭に『梓久保林道終点』としてある」とあるのは、国有林の道がそこで終わる国有林界を意味し、現在「金峰山国有林」の立派な看板が立つ地点である。「間もなく左から沢が来る」とある通り、直ちに左からワゴノ沢が入る。「地図で『東』と云う字あたり少し行くと製材所があり」とあるのは東股沢右岸の一七二二米付近で、今はただの森になっているが古い空中写真で何か大掛かりな施設があったことが分かる[29]。「臨時の沢の様なもの」とはヤキウ沢のことで、本来ここに入るものが当時の地形図では誤って上流に入る魚止沢に合流するようにされていたため原が正しく認識出来なかったのである。「木馬道の橋で右へ渡ると」「本流は右である」「右へ本流を渡ろうと」「右へ入って本流を渡り」と相当冗長な表現が続くが、一七四五米付近で東股沢を橋で左岸に渡る。この橋は現存しないが、森林管理局の最新の森林基本図においても数十年前の図と同様に記載されている[23]。営林上特に必要がなければ、古い道の位置が更新されないことは稀ではない。橋を渡ったところにあったという営林署宿舎は今はもうない。「一丁くらいで分岐」とは、一七五五米の魚留沢出合付近で梓久保林道が左に分かれていたことを示す。「この沢の水を三、四回渡り返して行く」とあるのは、一七六〇~一八〇〇米辺りで谷が広く傾斜が緩いため多数の小流が入り組んでいる部分を進む様子を表している。「右の方二千四百二十米の頭の下から来るらしい小沢の方へ入り」は、道が本流と並走するその支沢にいったん入ることを示していて、今は廃道となった伐採用車道も同じルートに付けられたことから、水害を受けぬよう敢えて本流を避けているのだろう。なおその小沢は古い五万図の精度の悪さのため誤認されていて、今の図に照らせば二二一八独標から来る小沢である。「二丁も行って鍼葉樹林の中で流れを渡り、右から突き出た小尾根を越え、薙の沢へ入る」も、その伐採用車道と全く同じである。「流れを渡り」は、この辺り小流を含めると幾つかあるが、沢らしい沢を明らかに渡った実感があるのは一九〇五米に出合う大きめの左岸支沢を渡る箇所であろうか。そこから「一寸行くと」は、約三百三十米先のしばらくぶりに大薙沢の流れに出合う部分と思われる。一九九五米の現在「沢左岸を行く」の古看板がある場所であろう。当時はそこにあった「小さな杭に『右山道、左国師道」」と書かれていて、「これを期として、漸く呪うべき伐採気分から逃れることができる」というので、伐採がここで終わり、「右山道」が伐採道であることが分かる。この右の山道こそが、付け替えられた結果、現時点で利用可能な峠道である。これが当時は伐採道であったことは、昭和三十四年のガイドブックでそれが「朽ちかけた木馬道」と記されたことでも知れる[15]。

 まず朝日峠から大薙沢までは、地形図では広い谷のようにも見えるが、実際は谷と認識できない平板な地形をひた下る。紀行やガイドブックでは、木の根で階段状になった樹林帯[15]、ジグザグ状の急傾斜[16]、急な斜面でコケのついた小石のゴロつく道[17]、 原生林の中の苔のついたゴーロ道[18]など、山の様子を記すのみで具体的な位置情報は明記されていない。地形図の類では、旧版五万分の一地形図は約二〇七〇米で大薙沢に出合うようになっているが、地形表現が大雑把すぎて道の位置を知るにはあまり役立たない。営林署の図面は、ときに情報更新に問題があるがある程度参考になる[23,24]。旧臼田営林署管内では、最新図面でも数十年前の川上牧丘林道がなかった時代の林道が道が表示されているようだ。五万分の位置地形図も、昭和四十二年の補調修正図は比較的精度が高い[19]。むしろ同四十八年測量の二万五千分の一図の方が歩道位置の精度が低い印象すらあるが[22]、ともかく大弛峠への林道やその支線林道の開通を反映している点では価値がある。そして現在の歩道位置を地形図に書き込んで比べてみると、興味深いことが分かった。歩道の位置が、年代とともに次第に少しずつ左(西)にずれて行っていた。そのため大薙沢を離れて朝日峠に登り始める地点の標高は、原全教が歩いた昭和初期は前述のように一九九五米と推測されたが、営林署図では二〇一五米、現在の道では二一二五米になり、その分遠回りになっている。朝日峠直下での林道工事や伐採の影響で、当初は朝日峠へ真っ直ぐ登っていた道がどんどん追いやられていったのかも知れない。昭和四十八年に伐採は標高二二〇〇~二三〇〇米にまで達し[25]、その数年前に開通した川上牧丘林道からの支線作業林道に繋がる現存の作業道が作設されたものと思われる。この支線林道は川上牧丘林道上の二一一二独標から分岐し、大薙沢左岸を二一二五米付近まで登り、地形図にない作業用の支線車道に接続し、さらにその途中から分岐する新しい巡視道で朝日峠に達することができる。伐採時に開設されたと見られるこの新道は今や廃道同然だが、伐採と倒木による激しい荒廃で旧道が消滅した区間の一部に対する迂回路として利用できる。その数年前から同時期にかけ朝日峠直下の伐採も進められたと見られ[26]、川上牧丘林道の建設や伐採作業により道の通行が困難になったための代替処置の意味もあったことであろう。実際ここまでは、曲がりなりにも道として連続して通れるのはこの迂回路だけである。

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朝日峠から大薙沢への下降路の変遷 (左から昭和30年代頃まで、40年頃、50年頃、現在)、左の二図は当時なかった林道を位置の目安として記入
道は、林道工事や伐採の影響で少しずつ左(西)に動いている
出典(左から):[23]、[19]、[22]、国土地理院地図空中写真閲覧サービス。[23]は発行年は新しいが車道工事前の道の位置を示していると見られる。

 大薙沢に出てから一九〇五米変則三股までは、かなり不明瞭かつあいまいな道だが、慣れた方なら複雑な地形をうまく誘導する営林署の古いマーキングを参考に歩くことができる。マーキングがここで終わるのは、付けた当時ここまで作業車道跡を歩けたためと推測するが、現在では歩行にすら使えぬほど消滅しているので、むしろここからの方が難しい。営林署の図面に歩道位置が示されているが[23,24]、幅五十米もある広い谷の中、地形図に載らない小さな流れ、複雑な分流、流路の変化などで多数の道の残骸や踏跡があり、道の位置が不明になっている。むしろここから下流は決まった道がなく河畔を適当に歩くといった趣が強いので、原の記録と実際に歩き回った感触から暫定的に道と判断した経路を記すことにする。しばらく大薙沢左岸のやや高い部分を下り、一八七五米付近で左岸支沢をその左岸に渡り、一八六〇米付近で廃車道跡に乗る。この廃車道は最新地形図に軽車道(幅員一・五~三米)として表示されているが、車道として認識できる部分のほうが少ないほど流失しており、ここでその車道跡の残骸に乗るのである。道なりに一八二〇米付近で左岸支沢の方に回り込んで渡り、しばらく左岸支沢の左岸を下る。本来左岸のまま通過する岩壁に続くように設置された一七六〇米の堰堤は、脇を下ることが出来ないため、手前で右岸に渡り通過する。営林署図にある本来の街道は一つ下の一七四五米付近の小堰堤辺りの橋で右岸に渡っていたという。また原全教が通った頃はワゴノ沢の少し上流で、橋の近くに製材工場や営林署小屋があったといい[6]、また三砂は根拠は定かでないが製材所を一七一四米としている[11]。右岸から近づいて本沢と同じ谷を並走するヤキウ沢の左岸に沿ってしばらく下り、また次に現れる無名小沢の左岸を下り、沢幅が百米近くに広がる辺りでワゴノ沢を渡ると、川上牧丘林道に出る。ちょうど国有林が終わる辺りである。

 全コースを通じ昭和四十八~五十年のガイドでは、軽く触れる程度で具体的な記述がなく[27,28]、歩く者がなかったか伐採後の荒廃で歩ける状況ではなかったと思われる。大弛峠の開通後、歩行者も林道利用が一般的となり、営林署の巡視道として僅かに使われるだけになったと思われる。

 

【山梨県の造林との関係】

 山梨県は、昭和三十二年に拡大造林の方針を打ち出して以来、奥千丈県有林でも直営により伐採と植林を強化し、四十三年にはピークを迎えた[30]。皆伐のあと単一樹種を植林する拡大造林は、山の様子を一変させてしまう。国師街道の沿線も、石祠峠から上アコウ沢近くまでの大部分が拡大造林の対象となり、多くがカラマツ、一部ではシラベが植林されたり天然更新が行われた。地形図の補測調査が実施された昭和四十二年は、まさに造林の最盛期である。昭和初期に既に不明瞭になりつつあった峠道の痕跡が現在でも辛うじて確認できるのは、この一時期作業道として使われていた可能性が考えられる。それ故か、補調図が示す造林地域内の道筋はなかなかの精度であった。

 道の状態や森林の管理状況から見て、国師街道が現在も作業道として重用されているようにはとても見えず、また連続した歩道として意識されているようには見えなかった。だが、ごく稀だが要所にピンクテープが見られるなど、つまみ食い的に国師街道の一部が県の作業道網の補助的な構成要素として、生かさず殺さず程度に辛うじて存続しているような印象を受けた。言うまでもなく、造林上重要な道は車道との連絡路や、管理対象の植林地への経路であり、それらに紛れて支線であるかのように潜む古道を見分けて辿るのは容易なことではない。

[1]山梨教育会『東山梨郡誌』山梨教育会東山梨支会、大正五年、八二四~八三七頁。
[2]帝室林野局 静岡支庁甲府出張所『御料地存否区別一覧図 甲府出張所附属図 集成』、明治初期。

[3]川上村教育委員会『梓久保金山遺跡B地点 発掘調査報告書』、「第2節 遺跡周辺の環境  1 遺跡の歴史的環境」四~八頁、平成二十年。

[4]帝室林野局 甲府支庁「分担区別御料地調」、明治末期。

[5]田島勝太郎『山行記』昭文堂、大正十五年、「金峰山と奧千丈嶽」六二~七九頁。

[6]原全教『奥秩父・続』朋文堂、昭和十年、「川端下峠みち」二九六~二九七、「東股から国師ヶ岳へ」四七七~四七九頁。

[7]小野幸「奥秩父の峠」(『山と渓谷』五一号、一〇二~一〇五頁)、昭和十三年。

[8]原全教『奥秩父』朋文堂、昭和十七年、「西保峠(川端下峠)」三三~三四頁。

[9]春日俊吉『奥秩父の山の旅』登山とスキー社、昭和十七年、「破不・甲武信・金峰山」一八一~二一〇、「金峰・国師岳日帰り行」二五四~二五八頁。

[10]中里直哉・會田次郎「中津川入り国師岳金峰山」(『リュックサック』増刊号、二四~三〇頁)、大正十三年。

[11]三砂秀一『くま笹』朋文堂、昭和十八年、「奥秩父縦走記」一七六~一九九頁。

[12]小野幸「秩父の峠」(『山と渓谷』五一号、一〇二~一〇五頁)、昭和十三年。

[13]吉沢一郎「琴川を遡りて奥千丈岳へ」(『登山とスキー』九巻一〇号、一三~一八頁)、昭和十三年。

[14]原全教『奥秩父』朋文堂、昭和八年、「秩父最高の峠」一〇一~一〇二頁。

[15]山と渓谷社 編「奥秩父の山と谷 登山地図帳」山と渓谷社、昭和三十四年、芦沢欣吾「川端下から朝日峠へ」二〇〇~二〇一頁。

[16]梶玲樹「ニューガイド1 奥秩父の山」朋文堂、昭和三十七年、「金峰山から国師岳・川端下へ」三六~三八頁。

[17]清水武甲 編「ブルー・ガイドブックス 22 奥秩父」実業之日本社、昭和三十八年、千島一兼「東股林道から金峰山へ」一四〇~一四四頁。

[18]山と渓谷社 編「アルパインガイド 15 奥秩父」山と渓谷社、昭和四十年、仲沢市夫「川端下から朝日峠へ」一五〇~一五二頁。

[19]国土地理院『五万分一地形図 金峰山』(昭和四十二年補調)、昭和四十四年。

[20]小野幸『奥秩父の山々』朋文堂、昭和十七年、九三頁。

[21]渡邊三郞「殘雪の荒川源流」(『東京市山岳部年報』一号、七八~八八頁)、昭和八年。

[22]国土地理院『二万五千分一地形図 金峰山』(昭和四十八年測量)、昭和五十一年。

[23]東信森林管理署『東信森林管理署基本図19(全44)』、令和元年。

[24]長野営林局臼田営林署『千曲川上流地域施業計画区臼田事業区第3次樹立事業図』、昭和五十三年、第4葉(全6葉)。

[25]大平重利   「亜高山帯における天然更新について」(『業務研究発表集(長野営林局)』一六号、六五~六九頁)、昭和五十九年。

[26]国土地理院『空中写真(塩山)CB7212Y(1972/10/14)』、昭和四十七年、C8-8。

[27]羽賀正太郎編『アルパインガイド35奥秩父・大菩薩連嶺』山と渓谷社、昭和四十八年、「川端下から国師岳」一一六頁。

[28]山梨登高会『奥秩父2 金峰山・甲武信岳・十文字峠・乾徳山 山と高原地図22』昭文社、昭和四十七年、中沢市夫「信濃川上から国師岳へ」二七~二八頁。

[29]建設省地理調査所『米軍撮影空中写真(1948/10/19)』、昭和二十三年、M1195-A-77。

[30]青垣山の会『山梨県県有林造林:その背景と記録』、平成二十四年、「県有林の歴史」一~二頁。