西ノオツクエ(御築江/大机) 【廃径】
笛吹川上流の最奥に近い芹沢集落にある築江(ツクエ)神社の奥ノ院が西ノオツクエである。かつて芹沢から西ノオツクエへの参道を、毎年集落の代表が詣でていた。現在はもはや参道として機能は失われているが、その経路を歩いてみた。
西ノオツクエは、御築江、大机とも表記され、西沢源流の右岸高くに屹立する一八四〇米の顕著な岩峰である。さらにツクエ岩と記す文献もあり、地元で「オツクエさん」とも呼ばれいてる[4]。頂上に築江神社の奥ノ院があり、森林に覆われた西沢一帯を始め、飛龍から甲武信までを見渡す絶好の展望地とされる[1]。また東沢左岸の鶏冠山二一一五独標は東ノオツクエと呼ばれ、対をなす。築江神社の由緒は定かでなく、甲斐国志ではただ「机山権現」と名称のみが付記され[2]、江戸時代末期に記された甲斐国社記の築江神社の項でも、祭神は大山祇神、由緒は不詳、氏子拾三戸とされている[3]。大阪・四條畷に千年以上続く御机(ミツクエ)神社との直接の関係性も不確かである。ただ「机」とは非常に古い和語で、現代の机の原型のような台を指す言葉だったらしい。岩の形が机に似ているからそう呼ばれたのかも知れないが、岩の名の由来は明らかでない。築江神社は山の神である大山祇命を祭紙とし、奥宮は洞窟内に祀った祠であるという[11]。
大正十一年の書上の文献によれば、十五、六戸の代表各一名が連なって、毎年五月に残雪を踏んで奥ノ院へ参じていた[4]。原も、祭礼の際は賑わうと伝えている[1]。元々参道であったこの道はさらに、西沢奥の大南窪の鉱山開発のため大正十五年に京ノ沢小屋まで延長された[5]。京ノ沢を通る大嶽山参道は黒金山の山頂近くを越えて赤ノ浦に下るため登山者にとっては不便で、大した登りもなく下山できるこの参道が注目されたが、鉱山は思うような成果が上がらず短期間で廃鉱となったため、せっかく作った道は荒れ、登山者には僅かの間利用されただけだに終わった。
その後いつ頃まで芹沢集落による参拝が続いたか分からない。昭和八年に山梨県による森林軌道が開通し芹沢は塩山と結ばれたが[6]、少なくともこの地域では昭和三十年頃まで昔と何ら変わらぬ生活が行われていたことが、隣村広瀬の生活状況の報告から伺える[7]。だが一帯の山梨県有林の伐採方針が経済性を重視して択伐から皆伐に切り替わった昭和二十九年頃から、山林の伐採が加速した[8]。そして昭和五十年頃までにすっかり伐り尽くされ[9]、伐採地は植林に変わった。もう一つの大事業、広瀬ダムの着工も昭和四十四年である。参道は伐採事業のため通行困難になり、こうした開発を基盤とした社会生活の変化は集落の祭礼に変化を及ぼした可能性がある。昭和四十年代に新造された登山道の西沢新道の解説が、途中で交差する参道について全く触れていないことから[10]、昭和三十年代辺りに廃道になったのではと想像される。
西ノオツクエの奥ノ院参道はかなり古くに使われなくなったと思われ、道筋が判然としない。陸地測量部の地形図の道は、芹沢を詰めてハナドに上がり、引込(一七〇五独標西)から西に向かい、牛首から西沢不動の滝へ落ちる尾根の二〇〇〇米付近まで行って消えている。特に引込から二〇〇〇米付近に至る辺りが間違いであることは、書上や原が指摘するとおりである。書上は、「地図上の点線の路は実は二〇二八に達しないうちに尾根を捨てて大窪沢源頭の山腹をからみ、この尾根(註:現在の西沢新道の尾根)に上り着くと共に、尾根すじを上らず其儘尾根を越して、西沢に面した山腹の等高線に沿うて西の方へ走って行く。」と説明している[4]。地形図の間違いと共に、原や小野ら昭和初期の登山家の案内図は、長窪沢とオツクエの位置関係を間違えている。彼らは西沢遡行時に沢の位置を確認しているが、それが遥か高い位置にあるオツクエに対しどのような位置関係にあるか、地形図が不正確な当時は正しく判断できなかったものと思われる。しかも後述のように近くに「ニセオツクエ」と呼びたくなるような形の似た岩もあり、なおさら紛らわしかったのだろう。その他、芹沢集落からハナドまで沢沿いに詰め上げるようになっている旧版地形図の経路も、実際の地形を見れば不自然であることが分かる。沢をある程度辿った途中から歩きやすい尾根に取り付いていたと思われる。実際、芹沢左岸尾根の一二八〇米付近からハナドまでの間、古い道型らしきものが残っている。あいにくそれより下は完全に伐採されてヒノキが植林され、道型は全く消えている。ハナド付近は防火帯が設けられ、人工的な切り開きのため古道の痕跡すら見られない。一四六五独標南から伐採跡地に微かな踏跡が見え出すが、古道と同じものかは分からない。一五八九独標の南東鞍部に乾徳山林道からの一般登山道が上がってきて、引込まではそれを通るので道標も完備し歩きやすい。引込から西沢新道の尾根までは、皆伐と植林により参道は消えたようだ。参道の残骸か不明な造林時の踏跡を使って抜ける。参道が使われた当時、西沢新道はなかったので、参道と西沢新道が交わる地点は全く分からない。西沢新道の尾根から、原の言葉を借りれば、「小さな岩の名勝」(一八三一米岩峰の南鞍部)、「オツクエのクビ」(西ノオツクエの南鞍部)に至り、そこから西ノオツクエに登ったと考えられる。
● 芹沢~引込
この区間は、簡単なバリエーションコース程度で、所々に道標やマーキングがあるため、通行は容易である。芹沢集落内の道標を見て、集落内を突っ切る芹沢の右岸を折り返し登る作業林道に取り付いた。最初の道標を見て整備された道かと思ったが、この区間は分かりにくい仕事道程度であった。作業車道は、獣害防止柵を抜け、築江神社の下を通り、芹沢左岸の急勾配を登っていた。神社は荒れ気味で、辛うじて維持されているように見えた。数基の堰堤を折り返し登っては越え、車道は芹沢の一〇〇五米二股で終点となった。道標に従い左股右岸のやや不明瞭な作業道で植林を進むと、一〇九五米二股の道標指示に従い左岸山腹に取りついた。植林中を登るルートは踏まれた形跡が弱く、間伐木を並べたりテープを付けて誘導しているが、必ずしも地形に沿っていないため道型がなくルートに迷う箇所もあった。下りでは特に迷いやすいかも知れない。恩賜林の大きな境界石のある尾根に出て更に登ると、ヒノキ植林が雑木林に変わり、一二八〇米付近で古道らしい雰囲気の九十九折れて登る道型が現れた。この区間はかつての参道跡の候補といえる。辺りがカラマツ植林に変わり、一四一五米の傾斜が緩くなる辺りから防火帯が始まった。緩く波打つなだらかな尾根は歩きやすかったが、伐採地に設けられた広い防火帯には古い参道然としたしっかりした道型は見当たらず、ただ稜線上の防火帯を漫然と進んだ。
ハナドはでピークというほどではない尾根上の一点で、道標と標石がある。当て字とおぼしき点名は「花戸」と記され、いっぽう原全教は「鼻戸」の文字を当てた。北に続く平坦な尾根の末端なので、長く突き出した尾根の入口を意味する鼻戸がふさわしい感じがする。防火帯が終わると踏跡が不明瞭になって、そのまま一四六五独標の小さな南鞍部に下った。そこで乾徳山林道を横断した。この地点を勝手に「花戸尾根峠」と命名した表示版が設置してあった。
道標はそのまま林道を歩くよう指示していたが、参道を想定して尾根通しにカラマツ植林を歩いた。微かに踏まれている程度で道というほどの道はなかった。低い笹をどこでも自由に歩けるので不自由はなかったが、伐採により参道はおろか造林作業道すら見られなのは残念だった。痕跡は尾根のやや右を捲くように付いていたのでそれに従った。左下近くを並走している乾徳山林道が三度目に近づいた一五八九独標の南東鞍部に道標があり、林道から登山道が上がってきた。少し見てくると、林道から引込経由で黒金山に登る登山者の案内用に、林道にも道標が立っていた。そこから引込までの十数分は案内板やマーキングが多数あり、一般道として整備され歩きやすくなっていた。緩くひと登りすると一七〇五独標西鞍部の引込(ヒキコミ)である。標高約一六九九米の緩やかな笹原であった。ここもまた伐採と植林を受けていてカラマツが多く、膝上の笹原になっていた。
⌚ฺ 芹沢-(10分)-林道終点-(1時間5分)-ハナド-(10分)-乾徳山林道横断点-(25分)-一般登山道合流-(15分)-引込 [2023.4.14]
● 引込~西沢新道
引込からの参道は、大久保谷の源頭を等高線沿いに水平に進むはずである。しかしこの谷は昭和四十年頃に跡形もなく伐採され、森も道も完全に失われたようだ。現在見られる微かな水平踏跡は作業道跡かもしれないが、それを参道と解釈して行くしかなかった。実際、地形的な制約があるので、道の付き方として極端に違っていることはないと思われる。大久保谷源流部は所々に崖のような険しい地形があるため、引込から西沢新道の尾根の区間のうち初めの三分の二は、標高一七〇〇~一七五〇米の間をトラバースして行かざるを得ないのである。
引込からは、腰下の笹原に何の痕跡も見当たらず適当に歩き出すも、カラマツ植林から雑木林になると小さな踏跡が現れた。正確には、伐採跡の切株が点在するカラマツ植林と広葉樹二次林の混成林で、植生がある程度密であるため急斜面だが恐怖感はなかった。数分も行くと切残した針葉樹の一角に入り、伐採前の美林の風景が忍ばれた。小尾根を回るたびシャクナゲが煩かったが、シャクナゲは基本的に尾根上だけなので上下に弱点を見つけて突破した。弱い踏跡は明滅しながら、崖地を上下にうまくかわしつつ続いていた。この一帯は地形が険しいため伐採を免れたのかも知れない。二〇二一独標に突き上げる大久保谷本沢の源頭部の窪を三本続けて渡り、ザレを通過すると、激しいシャクナゲヤブを漕いで何とか黒木とシャクナゲの小尾根に出た。一七三五米の小尾根が少し緩んだ部分であった。
この小尾根から西沢新道の尾根にかけても、一面に低い笹のカラマツ植林が広がっている。ただこれまでと違って、急斜面ではあるが凹凸が少ないため、自由に経路を取ることができる。斜面には伐採・造林時の踏跡が多数あるので、どこでも歩けるがどこを歩けばよいか分からぬ状態だった。作業により参道の痕跡はすっかり消えているため、数回歩き回ったが、西ノオツクエの方向に向かうこれと言った連続する踏跡を見つけることは出来なかった。断片的な踏跡を繋いで目標の方向に向かうしかない。シャクナゲの小尾根から数分は広葉樹の二次林で、その先はずっとカラマツ植林である。そこを断片的な踏跡を拾いながら一定ペースで斜めに緩く登っていった。最後にまた広葉樹の二次林に戻り、踏跡に従い小さな電光型を登って、西沢新道の一八一五米に出た。黒木に覆われた尾根が一瞬開けた明るい場所で、本来T字型の道標が朽ちて逆イの字になっていた。もし西沢の軌道跡から西沢新道を登ってきたなら、一七九〇米付近に立つ古い「自然を大切にしましょう」看板の三分ほど上の地点である。
⌚ฺ 引込-(40分)-一七三五米で回る小尾根-(20分)-西沢新道一八一五米 [2023.4.14, 2023.5.20]
● 西沢新道~西ノオツクエ
参道はこの区間を完全に水平に行くと考えられる。二箇所の確実な通過点と、西沢新道一八一五米地点、この三点の標高がほぼ同じだからであり、しかもこの三点を結ぶ薄い踏跡が今も見られるので、それが参道跡と考えられる。確実な通過点とは、一つが途中にある一八三一岩峰の南鞍部、一つが西ノオツクエ南鞍部である。
西沢新道の尾根を過ぎると、西沢右岸支沢である長窪沢の流域である。長八ヶ窪とも呼ばれていたが、遡行の方は日本山岳大系に倣い行者谷と呼んでいる。国道から遠く搬出が大変な長窪沢は、昭和四十年代の索道を駆使した皆伐を免れたため、多数の切株が見られるものの天然の森が残っていた。微かな水平踏跡を辿ると、小尾根を過ぎ窪状の美しい苔の森になった。踏跡は分散したり明滅したりと不安定だが、水平に行けば良いのでさほど困難ではなかった。小尾根のたびシャクナゲヤブが繁茂するが、どこかしら抜け道があって、そこが踏まれていた。
一八一〇米の二股下で長窪沢を渡った。源流に近いため森と苔に覆われた雰囲気の良い小沢になっていて、一休みしたくなる場所だ。その先ですぐ、一八三一岩峰の南鞍部を通過した。西沢新道に紅葉台という多少展望の効く地点があるが、そこから西に見える見事な岩峰がこれである。一見西ノオツクエと似ていて、まるでニセオツクエである。ニセオツクエのすぐ北東に寄り添って一八〇二米の岩があるのも、西ノオツクエと瓜二つである。原全教はこれを「小さな岩の名勝」と呼んだ[1]。遠望した限りでは、高さ十数米の岩塔になっていて登攀は容易でなさそうだ。一帯は、巨岩と切株が目立つ倒木で荒れた森であった。
ニセオツクエの鞍部の先の岩稜は、身の幅もない細いテラスを伝ってうまく通過できた。道と言うには頼りない断続する踏跡は、参道のルートでもあったろうが、切株や二次林からして伐採道として使われたものであろう。次々と上から岩がせり出してくるが、やや高度を下げて通れば問題なかった。水流のある小窪渡り、古い崩壊跡らしい明るい疎林を通ると、西ノオツクエの南鞍部についた。そこが一八一三米なので、一八四〇米の西ノオツクエへは約三〇米の登りである。岩稜上にひときわ高くせり上がったその巨大な岩塊は、両側が切り立ち、登るとすれば正面から突破するか、もしくは左の稜線近くを捲くように進むのだろう。都合悪いことに西ノオツクエの手前に小さなコブがあるため、周囲が森であることも手伝って岩峰の本体は全く見えなかった。少なくともそのコブを越えて本体の直前まで進まないと、登攀経路が全く分からなかった。単独かつ無装備であったためルーティングのサポートが期待できず、登り始めてしまうと進退窮まる恐れもあるため、手前のコブの頂上直前まで登ったところで撤退した。原は「オツオエ(註:オツクエの誤植)の岩頭へ簡単に登る」とし[1]、書上は難易について全く触れず展望を詳しく解説していることから[4]、当時は容易に登れたと思われる。明瞭な踏跡や掴み跡があれば自ずとルートが知れるので、要領が分かれば登攀可能なのだろう。国師から飛龍まで大展望は未練であった。残念ながら登り口のところに石を積んで祭壇とし参拝した。
⌚ฺ 西沢新道一八一五米 -(15分)-ニセオツクエ-(15分)-西ノオツクエ 鞍部[2023.5.20]
[1]原全教『奥秩父・続』、昭和十年、「西沢右岸の小径」二三二~二三六頁。
[2]松平定能 編・小野泉 校『甲斐国志 第五五巻 神社部第一・第五六巻 神社部第二・第五七巻 神社部第三・第五八巻 神社部第四・第五九巻 神社部第五』温故堂、明治十五~十七年、「赤ノ浦権現」第五六巻一三頁。
[3]山梨県立図書館『甲斐国社記・寺記 第一巻』、昭和四十二年、一〇二八頁。
[4]書上喜太郎「西澤紀行」(『山岳』一七巻三号、二四二~二五〇頁)、大正十一年。
[5]高畑棟材『山を行く』、大正九年、「国師ヶ岳」三一五~三一八頁。
[6]西裕之『全国森林鉄道 未知なる"森"の軌道をもとめて』JTB、平成十三年、「三塩森林軌道」九二~九三頁。
[7]編集部「山の学校 その1 学校をめぐる自然・歴史・生産」(『新しい教室』九巻九号、一八~二三頁)、昭和二十九年。
[8]山梨県林業試験場『適地適木調査報告書1959年度調査値Ⅰ~Ⅴ』、昭和三十六年、「調査地Ⅰ 西沢」三~九頁。
[9]国土地理院『空中写真(甲武信ヶ岳)CCB7614(1976/10/22)』、昭和五十一年、C8A-21。
[10]清水武甲・半藤和巳『奥秩父の山と谷 BLUE GUIDE BOOKS 205』実業之日本社、昭和四十八年、「笛吹川西沢渓谷探勝」一二七~一三〇頁。
[11]山梨日日新聞社編『三富村誌 下巻』三富村教育委員会、平成八年、「第五編 三富村の民俗と宗教 第二章 各集落の風土と個性」九三〇~一〇二七、「同 第八章 神仏と人 第一節 神社と神」一三二〇~一三七二頁。