豆焼沢作業道 【廃径】
昭和30年代の豆焼沢の伐採時に、沢沿いに作業道が付けられた。豆焼沢を遡行した森田福市の報告[1]によれば、作業道はトオの滝上と思われる作業小屋から、沢沿いに左右に渡り返しながら続いていて、渡河点には橋が架かり、梯子や敷き詰めた石によりよく整備されていたという。源流一帯が伐採・植林された当時の豆焼沢には多くの作業動が作設されたと思われ、例えば原全教は大村氏の情報として、豆焼沢の左岸尾根に上がる別の作業道の存在を報告している[2]。森田が作業道をどこまで辿ったか明記されていないが、1240M圏のミニ十字峡から約1時間の地点まで続いていて、そこまで次々と現れていた滝も、道が終わった辺り、10Mの滝を過ぎると大したものがなくなり、小さな沢が次々と入り本流はその度に細くなったというので、10Mの滝が両門の滝の左滝であろうか。そこは国有林図が示す様に、豆焼沢源流の植林地がちょうど始まる位置でもある。実際付近には、接続未確認の未知の作業道の断片が多く見られるので、その一つを辿ったともの思われる。因みに大滝に一切言及していないことから、作業道を通って巻いてしまったのだろう。
ここで述べる「豆焼沢作業道」とは、そのうちの一つの経路であり、奥多摩山岳会の山崎進が詳細に報告したものである[3]。山崎が訪れた昭和39年当時、沢の上部では伐採が終わり飯場も無人になっていたというから、この時点で作業道も用を終えていたことであろう。山崎は41年の冬にもこの道を登った[4]が、それがこの道に関する最後の記録である。以後の豆焼沢の遡行記録には、作業道や飯場の存在に触れられることはなく、完全に忘れ去られてしまった様だ。
山崎は豆焼沢を滝川出合から大滝直前の作業道が沢を離れる地点まで遡行し、その後作業道を辿っている。詳細な遡行図[3]には、征小屋滝から先の林道位置が記されており、左岸に付いた道は、12Mスダレ滝すぐ下の「落ちかけた橋」で右岸に渡り、スダレ滝上で左岸に戻って1360M圏二股を通過、1370M圏右岸支沢先で一度右岸に渡ってすぐ左岸、また右岸に戻り、そのまま大滝手前の小窪を登り出していた様だ。そこからジグザグに登ると荒れてはいるが何とか泊まれる飯場があり、沢の上流側を見下ろすとゴルジュに10M滝が落ちていたという。林道は尾根をどんどん登り、途中でケーブルを見て、やがて黒岩尾根に出て、飯場から1時間で雁坂小屋に到達している。
● 豆焼林道分岐(1230M圏左岸ガレ沢出合)~大滝下
アプローチは出会いの丘休憩所から豆焼林道を使い、1230M圏で左岸に渡る豆焼林道を見送り、豆焼沢の作業道に入った。トオの滝下は一度靴を脱いで渡渉した。8月下旬に2つの台風が通ったが、今日は水量もある程度落ち着き、川又観測所の当日午前7時現在の水位が0.83m(雨期としては普通、渇水期の2倍強)、豆焼雨量観測所でも4日前の台風以後は降っていないので、水量は単に「多い」という程度だろう。実地で確認すると、トオの滝は以前渇水期に来た時より勢いがあり、豆焼林道が取り付く1230M圏左岸の伏流のガレ谷は、水流が露出していた。
ここからが豆焼沢作業道である。左岸に渡る豆焼林道は、龍谷洞の調査に伴い二十余年前に再整備されたが、現在ほぼ消滅しており気づくことはないだろう。そのまま右岸を進む作業道は、道型がやっと分かる程にまで傷んでおり、崩壊箇所もあるので、河原を歩いた方が早いかもしれない。左右同時に支沢が出合う1240M圏のミニ十字峡で、左側の懸谷は普段は水量が少なく、雨後でないと見栄えがしない。ここから林道やその橋の流失箇所が何ヶ所もあるので、靴での歩行は不可能、遡行用のフェルト足袋を装着した。
右岸の林道は岩壁が迫るといったん左岸に渡り、またすぐ右岸に戻った。全ての橋は流失しており、全て渡渉となるが、余程の大水でなければ水量的には容易だ。ミニ十字峡から130~140M先の2段7M滝(すうじい氏遡行図参照、氏の遡行図は群を抜く精度の大変素晴らしい出来で、以後本文では常にすうじい氏の図を参照)では、左の崩れた山腹をトラロープで巻いて登ると、滝上で不明瞭な道型が回復した。古道があった当時はここがまだ崩れておらず、山腹をうまく登っていたのかもしれない。また岩壁が現れると左岸に渡り、薄い道型が続くようになった。すぐ「ニセ柾小屋」的な4M滝の右脇を登り、道型もすっかり流失しはっきり分からないが、滝上でまた左に渡っているように感じた。約50M先で沢が直角に左折すると、波打ったレースカーテンのように幅広く真っ直ぐ落ちる柾小屋滝が姿を見せ、作業道は少し手前から右斜面に取り付き、滝からやや離れた位置を九十九折で登っていた。
征小屋滝の滝上で、左岸の少し上を行く作業道の桟橋の残骸を見た。初めて見る明白な林道の証拠であったが、古道歩きに慣れていないと、それと認識できないかも知れない。しばらく左岸の僅かに高いところを行く道型は、傾斜が緩めの部分を中心に残り、一部で歩きやすい部分もあった。しかし全体としては不明瞭かつ断続的で、流れに沿って新たにできた釣り人や遡行者の踏跡の方が強い部分もあった。道は1310M圏右岸出合支沢近くで一度沢辺に下り、再び少し高い位置に戻った。邪魔な倒木の処理跡の切口は鮮明で、沢の随所に沈む古い造林用ケーブルと共に、往時の活況振りが示唆された。
征小屋滝から約100Mの辺りで、前方に12Mスダレ滝が見えて来た。両岸とも高い岩壁に覆われ、余程の大高巻きでなければ越えられず、実際捜索しても道型は見つからなかった。作業道が通るべき唯一のルートは、遡行時の巻きに使う滝左側のルンゼしかなかった。ルンゼの中ほどで見た、平らな切口の木材が梯子の残骸に見えた。帰宅後に文献を引くと、「滝のところは、水の落ちている脇に梯子がかかっている。」[1]とのこと。作業道の区間において梯子で登るべき滝は他になく、やはり往時の梯子の残骸である可能性が高かった。また山崎の略図でも、道は滝下に橋を掛けて右岸に渡り、滝の左を登るようになっている[3]。無論現時点では、巻きとはいえ滝登りであり、技術的には古道歩きの範囲外である。
スダレ滝の上はややゴルジュ的で、恐らく道は桟道や石積みなどで内部を通っていたと思われた。続いて傾斜のついた山腹が崩れた部分も、全く道型が分からなくなっていた。数分も行くと、右岸の沢畔の数M上に道型が復活した。極太のものを含む何本かのワイヤーが這う様に道に沿っていた。1360M圏二股で、左岸に大き目の支沢が入った。そこはやや広い河原になっていて、道型は左岸に移った。ちょうどその地点でワイヤーが沢を横切っていた。
沢沿いは倒木や崩れが頻発し、荒れた道は歩きやすいとは言えないが、確かに続いていることは感じられた。沢幅が狭まり、また古道の痕跡が消えた。道を通す余地はないことから、沢辺に何らかの仕掛けを作って通ってたのであろう。1390M圏で右岸に支沢を合わせ、再び左岸に道の雰囲気が漂ってくると、1420M圏で沢が左に急曲し、その先に大滝を迎えた。地形図では1430M付近の沢が左折する位置に相当するが、基盤地図情報から読み取る大滝の落差は約50Mに達し、滝記号さえない地形図は明らかに間違っている。3段とも4段ともされる滝の最上部は遥かに遠く、よく見えなかった。
⌚ฺ 豆焼林道渡河点-(1時間)-大滝下 [2016.9.3, 2017.5.29]
● 大滝下~黒岩林道(「雁坂小屋0.4K、豆焼橋7.8K」道標の東約50M)
大滝のちょっと手前の右岸にある、斜面に取り付く踏跡が作業道の尾根への取り付きであった。頭上を見上げると、右岸のもの凄く高い位置に造林ロープが張られていた。道は山腹に取り付き、ヒノキとツガの深い森を小刻みな折り返しにより上方へ垂直移動した。遡行者の大滝の巻道を兼ねているので、比較的踏まれてはいたが、しかし遡行者が大滝上を狙って沢への復帰場所を探りながら思い思いの経路を取るためであろう、酷く分散し不明瞭でもあった。微かな作業道の道型を確かめながら、大量の切株に目を瞑れば雰囲気の良い黒木の森で、忠実に電光型の登りを続けた。
尾根乗越が近づくと、廃棄物が散らばる一帯となった。ストーブ、一斗缶、酒ビン、ウイスキービン、ワイヤー、釜、茶碗、缶詰の空缶、生活に関わる全ての廃物が落ちていた。1500M圏の細い尾根の乗越まで登ると、向こうはすぐ下が沢であった。廃棄物はその尾根の両側に散乱していて、しかも不思議と、小屋を建てるべきスペースもなければ、潰れ小屋の残骸も見られなかった。昭和三十九年の記録と付図[3]が示す飯場の位置は、沢からジグザグに登った地点でそこから沢の上流が見える、尾根の登りにかかる直前の地点というので、この場所で間違いない。当時、少し荒れてはいるが複数の部屋のうち左の部屋がそのまま使える状態だったというので、大きめの小屋だった様だ。付近に不自然に多くの丸太を伐り出した切株が目立っていたこと、廃棄物に混じって多数の丸太が約1M間隔で平行になって尾根の両側に落ちていたことからして、狭い尾根上に櫓を組むように木材で小屋の土台を作り、その上に小屋を立てていたもの想像された。等間隔で並ぶ不朽した丸太が土台であったと推測された。
シャクナゲと灌木ヤブが煩い尾根筋を行く、まずまず分かる踏跡が登っていた。錆びた細い針金が巻かれた朽ちて役立たぬ桟橋の丸太が、林道の証拠であった。切株が散在する尾根に絡んで、シャクナゲヤブを分けて幾筋かに分かれた踏跡が急登していた。酷いヤブで、方向が判っても進むのに結構苦労した。随所に作業道の支線が水平に分かれていた。シャクナゲがポツポツと咲き始めているのが、せめてもの救いであった。そんな中、尾根筋が突如岩場になって、行き詰まった。右側を捜索してもヤブっぽい急壁が続くばかり、左に活路を求めた。ヤブを潜る消えかけた痕跡が隣の支尾根に取り付いているのが見つかり、古い梯子の踏板か何かの細い横木に針金が巻いてあるのも見かけた。少なくともここはルートと思われたが、しばらくその尾根と右手の窪状の間に踏跡が入り乱れ、はっきりしない状態が続いた。
二本の造林ワイヤー潜ると、1615M付近の尾根が東に曲がる鼻状の地点に出た。伐採跡なのか、笹と細い広葉樹の開けて明るく展望のあるは高さ一、二米の小丘で、十本以上のワイヤーを巻きつけた枯木と残置された滑車やロープの留め具や崩れた伐木搬出台の残骸があり、各方面に伸びるワイヤーから、かつての大中継所であったことが分かった。大滝下から見えたのもその一つであろう。作業道痕跡も各方面に伸びていた。山崎が飯場から15分登ってケーブルを見た地点[3]がここであろう。
ここからは尾根の傾斜も普通の登り程度になり、シャクナゲと灌木のヤブの中に埋もれながらも明瞭な道を登った。一段上の鼻(1650米圏)は、やはり低い笹に覆われた開けた感じの場所を過ぎると、尾根形状は次第に平面的になり、低い笹の斜面の分散した不明瞭な踏跡となった。適当に登れるが、正道が不明となり、それなりに登り難かった。1720米付近で一時スッキリした栂の森になったが、続いて見事に開花したシャクナゲの道となった。酷いヤブはすぐ終わり、シャクナゲヤブ下のわりと歩きやすい道に戻った。また針金の付いた桟道跡を見た。次の笹とツガの森では、明瞭な道が沢の方から上がってきた。とにかく支線歩道が多いので、いきなり下りに使うのは難しそうだ。
バラクチ尾根の上部にも似た気持ち良い尾根を、絡みつつうねって登ると、いつの間にか下りになり、すぐ下にピンクテープが見えた。黒岩尾根を乗越したのだった。黒岩林道の「雁坂小屋0.4K、豆焼橋7.8K」道標の50Mほど東に出たのだった。雁坂小屋は、ほぼ平坦な道を西へ数分ほど進んだところである。
⌚ฺ 大滝下-(15分)-飯場跡-(25分)-ワイヤーの大中継所-(45分)-黒岩林道 [2017.5.29]
[1]山と渓谷社編『奥秩父の山と谷 登山地図帳』山と渓谷社、昭和三十四年、森田福市「豆焼沢」一七五~一七七頁。
[2]原全教『奥秩父研究』朋文堂、昭和三十四年、「秩父側における林道の近況」三二二~三二三頁。
[3]山崎進「豆焼沢」(『OMCレポート』一七九号、二五~二八頁)、昭和三十九年。
[4]山崎進「奥秩父豆焼沢遡行」(『岳人』二三一号、九四~九五頁)、昭和四十二年。