大滑沢道 【廃径】

 

 中津川の大きな支流大滑沢は、昭和から平成に掛け両岸の大部分が順に伐採され、ほぼ全域が植林地である。立派な作業道や索道が整備され、出合や山中に幾つもの作業小屋が掛けられた。それにも関わらず、現在不遇をかこち、山深い未開地の雰囲気すら漂わせているのは、出合付近の険しい地形と著名な滝や山に恵まれない地の利の薄さのためであろうか。かつての作業道は、全ての橋が落ちてもはや登山道としての用をなさず、源流部の植林地を通る部分は植林されたカラマツの倒木と枝、それとシダに覆われ消滅している。渡渉が多いので、溯行用の足元が必要だ。
 「東国第一之御宝山」であった秩父一帯は、幕府の建築資材提供場所として、厳重に管理・利用されてきた。大滑沢もまた、江戸時代から公的な用木の伐り出しが行われていた[1]。貞亨三年(一六八六)の江戸城修繕の用木伐り出しを期に、築城に用いる良材が切り尽くされるまでの約百年間、私的利用が禁止された。それ以後、民間の伐採が行われ、寛政八年(一七九六)、文政二年(一八一九)の、伐採に関する記録がある。現在の森林は、一番古いもので、出合付近の両岸が昭和二十年前後、中流域の左岸県有林が昭和二十年前後、右岸国有林が二十三年頃に伐採された後に植林されたものである[2,3]。三十年代に源流域の国有林のほぼ全域が皆伐され、ヒノキやカラマツが植林された[4]。大規模な伐採に伴い、出合付近には作業員の集落ができ、さらに中流域の右岸に国有林の、左岸に県営林の作業小屋が設置された[5,6]。国有林小屋は伐採の源流地帯への移動に伴い、現在の場所に移された。中流域左岸の県営林は昭和二十年頃の植林が約十二例級の伐期に達し、溯行記録[7,8]を拝見すると平成十六~二十年頃に皆伐されたと思われる。この時の山出しや再植林の資材搬入は、中双里からの索道で行ったようだ。
 出合付近の屈曲部は両岸が切り立ちスペースが少ない。そのため一時的に左岸に三回渡る。そのための六本の橋は全て落ちていて、急傾斜につけた道や桟橋は崩落し、その度に渡渉や溯行を余儀なくされる。その先、渓相が安定する中流部でも三回の渡渉があり、国有林の大滑造林小屋に至る。上流部の植林地は、通行者が少ないためであろう、荒廃が著しい。水乄日陰沢付近で痕跡が消え、十文字峠道近くで微かな踏跡が復活するこの道は、昭和五十年頃の登山地図には、大滑沢から白泰山への登山路として点線で掲載されていた[11,12]。現在でも巡視道として営林署図に掲載されている[4]。

● 出合~大滑造林小屋

 県道が付け替えられと大滑沢出合を通らなくなったため、雷電三高山トンネル先の分岐で中津川の右岸に渡り、沢に入る。左岸の歩道は、直ちに堰堤に行き当たった。堰堤に掛けた階段は、木材が腐り鉄パイプで辛うじて支えられた状態だった。こわごわと乗り越すと、すぐに道が曖昧になった。捜索するも不安定な壁状のトラバースしか方法はなく、状況を悟った。目的を登山から溯行に切り替え、沢装備をして再出発した。
 現在の右岸道は、多くの橋の崩落を織り込んで、その近辺を沢の遡行・渡渉で通過するよう付け替えられている。だが数多くのマーキングと要所ごとのトラロープのため、整備状態は意外と良かった。それを見て、溯行を取りやめフエルト足袋で道を歩く形での登山スタイルに戻した。かつての橋の位置は、基盤地図情報から作成した詳細地形図と営林署等の森林図[4,9]や釣り関係の遡行図[10]とを照合すれば、正確に推定できる。堰堤の数十米先の一つ目の左岸通過部分は、遡行して通過すると右岸道が復活した。左岸の高い位置に古い「山火注意」標識が見える辺りで、また右岸道が消滅し、橋の存在を伺わせた。更にその先、左岸の崖を通過する桟橋が、まだ落ちず吊り下がっているのが見えた。桟橋のトラロープが水面近くまで垂れ下がっていた。左岸道が安全になった辺りで渡渉してそれに乗った。整備用トラロープの残余のデポを見て、七米滝を捲くためどんどん高度を上げた。恐ろしげな腐敗桟橋もトラロープのおかげで安心だ。渡渉して右岸に戻り、明らかに橋が落ちたような地形で左岸に渡り返すと、植林地の良道となった。それも長くは続かず、崩壊に遮られ、右岸に戻された。古い石垣の整備もあり歩きやすく、谷が広まり両岸が植林地となった。古い腐った桟道は、四、五十年前のものに見えた。狭いながらも沢辺は渓畔林が残り、雰囲気は良い。手作りの落石注意表示を見ると、一時河原を歩き、左岸の大崩壊を見て進んだ。一段と河原広がり、道は左岸に渡った。古い県有林看板の植林地に、幾段にもなった小屋場跡があった。瀬戸物、ビール瓶・酒瓶の破片、鎹が見られた。初期の県営林小屋の跡ではなかろうか。
 渓畔林と植林の境界を緩く登る良い道が続き、右岸に入る口木沢(朽木沢、フチギ沢とも)が遠目に見えた。勾配を強めて沢の高みを行く間、右岸に大きな石組みを見た。恐らく初期の国有林小屋の跡であろう。最初に伐採された国有林は、ちょうどこの奥の右岸一帯である。新しいラミネート加工の落石注意表示が設置されていた。この先、左岸の県有林内で数箇所見たものなので、十数年前の県営林伐採時に付けられたものであろう。北側の一一九八・六米三角点を「高ドア」と表記したブログが有った。中双里では「向山」と呼ぶようで、三角点名称は「中双里」で、営林関係では名無しの山だが、高ドアとはどこから来た名称だろうか。唯一、釣り関係の文献[10]でその表記を見たことがある。ヒノキ植林の道は、滝場を捲くべく傾斜を強めた。沢に近づく頃、数名なら余裕で泊まれる岩屋の下を通過した。落ちてきた巨石が偶然止まっただけの、危なっかしい状態のように見えた。二連の十米滝の一つ目の迫力ある姿が渓の奥に見え、落石注意のラミネート表示を見て、道は山腹の植林で高度を上げた。左岸に水のある小沢が入ると、左岸側がその先一面の若い植林地になった。この道は基本的に渓畔林を行くが、三十米ほどの高捲きで伐採地に入ってしまったのだ。打って変わって日差しが強く戸惑いを感じた。食害防止網が巡らされ、その外に植樹された僅かの苗木にはシェルターが被せてあった。作業道の痕跡が植林地へと分岐し、この道自体も小沢右岸の白茶けた不鮮明な踏跡で折り返し登った。小さな水平踏跡とテープに導かれ渓畔林に戻ると滝上に達したようだったが、高捲きが続き流れは見えなかった。伐採地の境界付近を行く道は、伐採地に入るたび荒廃して辛うじて見分けられるほどの踏跡になった。シカ柵に取り付けた古い山火防止看板を見てしばらくでようやく渓相が落ち着き、また伐採地への道を分けた。向かえた平場は、平成初期にはまだ建っていた県営林小屋の跡である[9]。幾つかの敷地に、ドラム缶、トタンの廃物が落ちていた。
 苗木シェルターが並ぶ平坦な道は、沢幅が狭まって自然と右岸植林地に渡らされた。同じ頃植林され伐期に達した右岸国有林はまだ残っていた。こうなると例え植林でも木があることがとても有り難く感じた。国有林に入っても道は心もとないほど細く、伐採地までのしっかりした道は回復しなかった。県営林伐採作業時に補修し通行されることがなく、永年に渡り放置されていることが伺えた。栃山沢を渡った。道は栃山沢の左岸を登って多少の高度を稼ぎ、回り込んで本沢右岸に戻っていた。栃山沢の作業道を覗くと、少し先の小屋があったかも知れない平場の先で消滅していた。辛うじて続く道は、出水で削られたのか一度沢に降ろされた。河原で新しく踏んだ跡を見て不審に思ったが、踏跡が回復するとごく最近つけた境界標と赤ペンキがあった。元気に生えた夏草にもペンキがかかったままで、足跡もはっきりしていた。この二、三日中に国有林の巡視が行われたようである。通過した敷地は、数十年前の伐採時の土場だろうか。時々見るマーキングを頼りにこの平場を抜けた。沢の狭い部分を一時明瞭になった踏跡で通過し、再び広がると道は少し歩きやすくなった。またも夏草が踏み倒され、真新しい足跡を見た。もしかすると小屋に先行者が居るのか思ったほどだ。右岸に小窪が入ると道は左岸の県営林に渡り、また苗木シェルターの林を進んだ。 廃棄物の中を軽く一登りし、小流のオッペ沢を渡ると、畔に大滑造林小屋が建っていた。この小沢の右岸から、両岸が国有林である。日当たりの良い南向きの立地の良い小屋で、炊事場、管理室、別棟のトイレが付いた、ちょっと登山用の営業小屋並である。布団が残り、天井から電灯も下がっていた。棚には古い週刊誌や殺虫剤などそのまま置いてあった。当時の作業員によれば、この管理室のような小部屋は役人用の部屋で、小屋には風呂もあったという[6]。上流部では最後の植林が昭和四十四年に終わったので[4]、もう五十年以上前のことだ。週刊誌が昭和五十年発行のものであったことから、植林直後は保守のため作業員が入っていたようだが、少なくとも四十年以上は使われていないようだ。ドアは破れ、床が抜けてはいても、まだ雨露を凌ぐことは出来るように見えた。埼玉森林管理署の、危険だから使わぬようにとの張り紙がしてあった。

 

⌚ฺ  大滑沢駐車場-(1時間)-初代県営林小屋跡-(30分)-県営林小屋跡-(40分)-大滑造林小屋 [2020.6.5]

● 大滑造林小屋~白泰山下十文字道

 小屋を出てすぐ小窪を渡ると、ヒノキ植林で踏跡が分散し不明になった。結局数十米先で全てが合流したが、このことがその先の道の状態を暗示していた。マーキングは姿を消し、あやふやな踏跡が途切れず細々と続いた。渓畔林に入り左岸踏跡は礫崩壊で途切れるも、強引に突破すると回復した。水線からやや離れた高い位置を進んだ。左岸道はいったん自然と一一一〇米圏左岸支沢に入り、岩屋状の下を支沢が流れる奇妙な地形の前でそれを渡って本沢左岸に戻った。本当に細々とだが道は続いていた。左岸に岩稜の小尾根が入り、道が途絶えた。元々消えそうだった踏跡の明らかな続きが見つからず、三、四十米上のヒノキ植林まで登って踏跡を見つけた。きっと分散する踏跡の一つが上に登っていたのを見落としていたのであろう。溯行なら容易に通過できる箇所だが、山道ならではの苦労であった。植林帯の細い踏跡を快調に歩くうち、高度を上げてきた沢に追いつかれ渓畔林に入った。水流よりやや高い位置を並走する踏跡は安定していた。右岸に支沢が入ったかに見えたがそれが本流で、道は一二〇〇米圏支沢の左岸に入った。八米シャワー状滝の下を、涼しい飛沫を浴びながら通過した。この支沢とで成す中間尾根の一二二六米は、保残渓畔林の緑豊かな素晴らしい休場で、幾つかの古い空缶や伐採資材、廃物が残されていた。微かに見えるポッカコーヒー缶のデザインは、缶面に大きい文字と小さい文字で「コーヒー」と二重にカタカナ書きしてある昭和四十三~四十七年のものだった。ちょうど一帯の伐採を行っていた当時のものである。ここで沢装備を解除し、登山靴に履き替えた。
 踏跡は一度左岸支沢に入るかに見せて本沢左岸に戻り、多少曖昧になりつつ渓畔林を進んだ。一帯は谷では最後に数十年前に伐採され、カラマツが植えられた地帯である。その時の作業者が残したらしき一升瓶が、石の隙間にそのまま残っていた。伐採後の土壌流出や崩石に埋まり、道型は殆ど消えており、後付けの小さな踏跡が二、三本並走しながら登っていた。一つ一つは長続きせず、幾度も上の踏跡に乗り換えた。ガレで痕跡が消えても構わず突き進むと、先でまた続いていた。一三八〇米付近の四段十二米滝の捲きに入ると、左岸の小窪を続けて渡り、岩稜を回った。途中に造林ロープが落ちていた。滝上で谷が緩み踏跡が明瞭になると、古いサイダー瓶らしきを見た。一四〇五米で右岸に水乄日陰沢が出合うと、左岸からの激しい押出しで踏跡が消え、谷が埋まって伏流になった。礫と倒木で進めず右岸に逃げると、歩くには歩けたが踏跡はなかった。傾斜のある広い渓となってある程度の水流は回復するも、沢というより単なる斜面を水流れてくる感じだった。全面がゴーロ状で地形がはっきりせず、沢っぽい部分を探して登った。一四二五米は本谷的な右俣のゴーロに入ったが、一四七〇米の曖昧な二股を、第3次国有林野施業実施計画図(平成十九年)の通り右寄りに登った。殆ど凹凸のない礫の斜面にシオジ、カツラとカラマツが共生し、その中をどこと言わず水が流れる奇妙な光景が広がっていた。
 この経路が間違いであったことを、一年後に偶然知った。東大秩父演習林三十四林班境界巡視道を歩いていて、大滑沢源頭で正道を見つけたのである。帰宅後調べるとその経路は昭和四十八年の秩父営林署管内図と一致した。平成十九年の施行計画図は大滑造林小屋から上の道が全般に実際の位置とずれていたが、昭和四十八年の図はほぼ一致していた。昭和四十八年図の正道は、一四七〇米、一五一〇米でいずれも左股を取り、左の小尾根に乗り上げるはずである。ただ窪を行く部分は礫が覆って道が見えなくなっているので、恐らく道の回復はく尾根に乗ってからと思われる。実際、翌年道を発見したのは一五九五米付近のカラマツ植林の小尾根上であった。消えそうな細道は尾根に絡んで小さく折返したあと、一度左の窪に向かって斜めに登り、再度カラマツ植林の尾根に戻る大きなくの字を描き、再び左の窪へと斜めに登って、ひょっこり十文字道に飛び出した。そこは白泰山分岐の百米ほど西の地点で、平成十九年の営林署図と一致しており、直前の二、三十米だけ、見て分かる程度の踏跡になっていた。しかし大滑沢源頭を行く道は半分消えかかった痕跡程度になっていて、廃道に慣れていないと認識出来ないくらい弱かった。特に窪状を通過する部分や倒木頭で斜面が荒れた部分はほぼ消滅していた。十文字道への合流点からを栃本方向へ約百米行ったところに、二一六補一の石標があるので分岐の目印になる。

 

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営林署図 左:平成十九年[4]、右:昭和四十八年[13]。道の位置が多少違っていて、右図の方が正しい。

 

⌚ฺ  大滑造林小屋-(50分)-一二二六米休場-(50分)-一四七〇米二股/(この間ルートを外し時間不明、20分程度と推測)/一五九五米小尾根上-(15分)-十文字道白泰山分岐 [2020.6.5, 2021.5.22]

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出合近くの堰堤を壊れた梯子で越える
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右岸道が消えて溯行で通過
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トラロープで良く手入れされた道
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旧道の落ちた桟道
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植林中にきれいな道が続く
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腐敗桟道に丁寧にトラロープが架かる
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壊れかけた桟道が残る岩場
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苔むした古い山留めの石垣
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左岸の旧県営林小屋の敷地
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右岸の立派な旧国有林小屋の敷地を望む
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まだ新しいラミネートされた落石注意表示
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数名は余裕で泊まれる岩屋下を通過
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ガレた左岸小窪先は伐採後日の浅い植林地
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県営林小屋跡には廃物が残るのみ
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細道が右岸に辛うじて続くようになる
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道が完全に消えて沢を歩く
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真新しいペンキの境界見出し票
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大滑造林小屋は酷く荒廃しまともに使えない
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床が剥がれているがまだ布団がある
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道は左岸の頼りない踏跡になる
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礫の押し出しで道が消滅した箇所
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左岸支沢を巨岩の下で渡る
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渓畔林に細く長く続く道の痕跡
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シャワー状滝下で左岸支沢を渡る
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人跡の強い一二二六米休場
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土砂流出箇所をトラバースする踏跡
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礫の隙間に割れずに残っていた空瓶
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4段12M滝を横目に高度を上げる
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森の中に散見される伐採の痕跡
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水流が弱まって緩やかな源流地帯
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水乄日陰沢出合からゴーロの右岸側を行く
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地形不明瞭となりとにかくゴーロを登る
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カラマツ植林の小尾根で踏跡が見つかった
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窪状に向かい斜登する途絶えがちな道型
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落葉や枝に埋もれ消えかかっている
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稜線直下を最後の一登り
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十文字道のとの合流点
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僅かに栃本側の「二一六補一」石標が目印

[1]近世中津川村における生業と林野利用富 岡政治 「近世 中津川村 における生業 と林野利用-土 地利用からみた生活領域-」, 史苑51-2,. 1991, 41-80頁 。
[2]東京営林局『東京営林局 秩父営林署 秩父経営区経営図 第5次編成』、昭和二十三年、3片之内第1片、第3片。
[3]建設省地理調査所『米軍撮影空中写真(1947/09/17)』、昭和二十二年、M484-17。
[4]関東森林管理局東京分局埼玉森林管理事務所『埼玉森林計画区第3次国有林野施業実施計画図』、平成十九年、大滝(第3片)。
[5]東京営林局『東京営林局 秩父営林署 秩父経営区経営図 第6次編成』、昭和二十八年、5片之内第5片。
[6]黒沢和義『山里の記憶4』同時代社、平成二十七年、「昔の山仕事」一九〇~一九三頁。
[7]グループ沢胡桃・大塚氏、奥秩父・中津川大滑沢~入川矢竹沢下降 2004年7月11日(日)~12(月)、 http://sawagurumi.org/2004/07/11/奥秩父・中津川大滑沢%E3%80%9C入川矢竹沢下降/
[8]杉並勤労者山岳会・悠久のへや氏、NO22 通番 NO331 11・2~3 中津川・大滑沢遡行同支沢下降、 http://koukiwata.web.fc2.com/yamanen/sanko08.htm
[9]埼玉県『大滝村森林基本図』、平成三年、其8。
[10]つり人社編集部『つり人渓流フィールド 秩父』つり人社、平成六年、「大滑沢」一一四~一一五頁。
[11]新井信太郎『奥秩父1 雲取山・両神山 山と高原地図21』昭文社、昭和五十年。
[12]学習研究社『日本山岳地図集成 第2集』昭和五十年。
[13]秩父営林署『秩父営林署管内図』昭和四十八年。