根利山古道追貝道(小森~源公平~砥沢) page 1 【廃径】

 古河鉱業足尾鉱業所の付帯施設として、事業に必要な燃料及び木材供給のため群馬県赤城根村の山深く、砥沢に設置されたのが根利林業所である。古河関係の作業員居住地を除けば、砥沢は人が住む全ての村と隔絶されていた。物資は木材製品を搬出する索道を使って県境の山を越え銀山平から搬入されていたが、人の足では六林班峠を越えて足尾まで小一日掛かった。一方、字名と同じ砥沢は栗原川の支流なので川沿いに下流の追貝(オッカイ)へ下ることも出来たが最低でも半日はかかり、しかも苦労して下っても林業所開設当時の明治三十一年の追貝では江戸時代と大差ない生活であったと考えられる。生活上必要な全てが足尾から輸送されてくるし、会社側が整備した診療所や招聘して駐在所まで設けられていた砥沢では[1,2]、十年以上遅れてようやく沼田まで機関車の代わりに馬が引く軌道が敷かれたくらいだから、さらにその遥か奥地にある片田舎の下流の街に出るメリットは全くなかった。それでも麓の村とを繋ぐ道にはそれなりの意味があり、根利山古道の謂わば本線とも言うべき銀山平~砥沢の径と同じく、大事にされ長く歩かれてきた。

 

【道の利用者】

 足尾鉱業所内の連絡道としては、根利林業所の事務所がある砥沢と、枝郷にあたる円覚、源公平との連絡の区間が主な通行対象区間と思われ、業務上の必要から多くの通行があったと想像される。しかしそれ以外にも、追貝道は群馬側の行政サービスに関わる通行に使われていた。栃木県に属する足尾鉱業所の施設であっても行政的には群馬県に属するためである。日常生活に深く関わるのは学校と郵便である。従業員の子息、特に小学校(当時は尋常科)は当時から義務教育とされていたため、行政が整備する必要があった。学区にある赤城根村の根利にある赤城根上尋常小への通学は歩道すらなく到底無理であったため砥沢に校舎が設けられたが、交通もない山間部への教職員の派遣が不可能であった。そこで歩道により結ばれていた砥沢下流の東(アズマ)村に委託し、追貝校の分校として平滝と津室に分教場が設置された[1,3]。その事情を反映し、東村内の津室に書類上の分校が開設されたのだが、実際には生徒の多い赤城根村の砥沢に古河鉱業が建てた校舎が使われ[5]、大正十二年には百名以上の生徒が通っていた。砥沢分校の学区には円覚、源公平も含まれ、寄宿舎に入る冬期以外は通学路としてこの山道を毎日生徒が歩いて通学していた[4,5]。ただし運動会や遠足は追貝本校で行われたとされ、大きな学校行事の際は砥沢から源公平を経て追貝まで、百名以上の生徒が徒歩で移動していたわけである。また郵政には独自の局割りがあり、大字「根利」字「根利山」は追貝局の管轄とされた[6]。字内の地区名に砥沢、六林班、円覚、源公、ケヤキ沢が列記され、これらの地に人が住み郵便が配達されていたことが分かる。いずれも古河の営林事業の大小拠点となった場所である。資料に併記された局からの四粁単位で丸めた距離は、一般農家としては最奥の小集落小森が八粁、源公平、円覚、ケヤキ沢が十二粁、砥沢が十六粁、六林班が二十粁となっているが、二十粁以内の地区なら当時の山間部への配達としては珍しいことでなかった。他に追貝局管内には平滝、大柿平、津室、小田倉、延間峠、中小屋などの地名も見え、根利山の郵便は全て追貝局が麓から担ぎ上げていてたことが分かる。根利山に点在する千名以上の住人のため、雨の日も雪の日も局員が追貝からの道を辿って巡回していたことであろう。麓の農村より景気が良かった砥沢には物売りが来たり、祭りの時には屋台が沼田から上がってきたという[5]。足尾への峠道が半年近く積雪があることから、砥沢の住人も都会に出る用事の際は追貝道を利用していたことであろう。

 

【源公平周辺】
 源公平とは、いまや地図上に何の痕跡もなくなってしまった林業の集落で、栗原川の八三〇米付近で右岸に入る小沢(源公平沢)付近にあった。根利林業所の本拠地砥沢の枝郷に当たり、根利山を貫く栗原川の最下流一帯の事業を担当した。

 一風変わったこの名は、源義経が奥州に逃れる際滞在した場所と伝えられることによるもので、源公屋敷と呼ばれることもある[1]。現地の碑によれば事業開始すなわちは入植は明治三十七年とされ、三十八年には砥沢~円覚~源公平を結ぶ索道円覚線が開通した[3]。明治四十二年に訪れた大町桂月は、源公平には百人、二百人が住むように見え、作業員は木を伐り、石を切り、荷を運んでおり、現地で提供された酒や味噌汁は足尾から運ばれてくる質の良いもので、豆腐屋があったので弁当のおかずに購入したという[7]。当時としては、麓の村よりもよほど文化的であったことが知れる。後にはケヤキ沢の伐採地に向け敷かれた軌道をトロッコが行きかうようになり、源公平で索道に積み替え砥沢に送られていた[5]。栗原川を下った右岸台地の小森には沼田小林区署の小森苗圃が設けられたというが[8]、立地から考えると根利林業所による伐採後の植樹に用いる苗木を提供していたものと思われる。苗圃の閉鎖後、跡地は開拓者が入植し小集落が作られたが、現在は無人で牧草地になっている。

genko_plan.jpg
源公平図(昭和六年)、村に近い本駅、ケヤキ沢伐採地に近い新駅の二つがある[9]

 源公平は村というより足尾鉱業所配下の事業所であり、栗原川右岸の長さ八百米近い細長い敷地の大部分は、索道駅を初めとした輸送や木材等の堆積場所であったと見られる。そのため村としての痕跡は殆ど残っていない。木材は朽ちて消えたであろうし、当時貴重だった金属は撤収前に完全に回収された[9]。今は最上流部にあった居住地区に僅かな陶器の破片や空瓶を見るのみで、明らかに当時を伝えるのは根利山会が山神社跡に建てた小さな記念碑と道や敷地を形作る石垣だけである。子供達の遊び場だったという源公の滝を見て当時の様子を思い浮かべることしか出来ない。伐採は源公平付近の小さな部分から始まり、大正期には周辺一帯が刈り取られ、昭和になると下流左岸のケヤキ沢から栄沢の方へと移動した。伐りやすい部分を概ね伐採し終わると跡地は植林された[10]。だが植林の成果を収穫することなく事業所は撤退したのである。

 

【追貝道の盛衰】

 足尾銅山を経営する古河鉱業により、鉱山事業に必要な木材と燃料などを供給するため、足尾鉱業所の付帯設備としての根利林業所創設とともに砥沢の町が開かれたのは明治三十一年である[9]。源公平が開かれたのは同三十七年、翌年には索道も開通したので、三十年代前半には既に歩道が整備されたはずである。足尾を本拠地とする古河の道なので砥沢側から開かれたとは思うが、源公平まで下れば追貝の村もそう遠いわけではなく、昔から地元民が入山していた。そのため麓からの道が、源公平か大禅ノ滝、もしくは円覚辺りまで通じていたことは間違いなかろう。明治十二年作成の郡村誌には追貝川(栗原川の当時の呼称らしい)に二十七丈二尺(約八十二・四米)の猪子鼻ノ滝があるとされる[11]。これについては木暮が述べた通り円覚ノ滝のことと思われ[12]、すなわち源公平が開発された当時、既に追貝から円覚辺りまで杣道程度のものがあったことが窺える。栗原川下流では江戸時代初期に開墾が始まり、小森には炭焼が入っていたとのことで[8]、上流の砥沢まで魚採りに入る者もいたと伝えられる。

  根利林業所時代は労働者でもある地域内の住人はもちろん、学校に通う生徒や、郵便配達など、道は様々な人に利用され歩きやすかったはずだ。しかし昭和十四年の古河撤退後、一帯の国有林は返還され沼田営林署の管理下に移った。追貝道は直ちに営林署の歩道に編入され、帳簿上は追貝~小森が小森林道四・〇〇〇粁、小森~大禅ノ滝下が円覚林道七・六九六粁、大禅ノ滝下~円覚~砥沢が砥沢林道四・〇七五粁となった(区間は推定)[13]。しかし交通が隔絶し輸送経路もない根利山で営林署が事業に着手するまでにはしばらく時間がかかり、結果的に追貝道は使われることなく放置されたものと見られる。

 ところでこの道の通行記録については、一般人の通る歩道であった時代に記録がないのはむしろ当然であり、登山記録は廃村になったあと数年間の短い間のものが多く、それ以後は荒廃が酷く通行に適さなくなり通行したとの記録はほぼ見かけない。唯一、まだ人が住んでいた時代の記録は岩根常太郎のものである[4]。昭和十五年発表の記録だが、明らかに生活の様子が伺えることから廃村直前のものであろうか。砥沢から源公平に向かう途中、通学する生徒に幾度か出会ったというのは、源公平、円覚の各村からのそれぞれ固まって通う一団だったのかも知れない。当時の道は、まだ尋常科に通う六歳の子供でも歩けるくらいのしっかりした道で、通学困難のため寮に入る厳冬期以外は毎日通っていたのである[8]。そのもう少し前、昭和四年には原全教が追貝から砥沢を通り銀山平に抜けたが、特段何も書き残していない[14]。

 根利林業所の閉鎖前後、日本は日中戦争が始まるなど戦時下にあり、政府は国民の体力増強のため東京鉄道局と組んで「市民健康路」事業の展開を始めた[15]。追貝から源公平、砥沢を通り、六林班峠を越えて銀山平に抜けるコースが、適当なハイキングコースとしてその一つに指定されたのである[16]。これを機に、登山者というより一般人のハイカーが歩くようになり、幾つかの紀行が残された。その何点かは山河の美しさより古河撤退後の廃村の不気味さを訴える皮肉なものであった[17,18]。だが道の方はまだ歩ける状態であったと記録から読み取れる。他のハイキングコース紹介本にも記載されたが[19]、どの資料もわざわざ見に行くほど素晴らしい大禅ノ滝や円覚ノ滝について全く触れていないのが不思議に思えるが、大禅ノ滝は追貝道を外れて数分歩いてからちょっとした崖を登らなければ全貌が見えないため知らないと気づかず、また円覚ノ滝は索道の動力用に取水されて見どころとするほどの迫力がなかったらしい。「発電所の設けられざりし前は、二段が幾んど一つになり居りて、甚だ見事なりき」と当時の地元の人が語っている[7]。

 昭和二十八年に栗原川林道の工事が始まり、昭和三十年頃までに小森まで車道が通じた[20,21]。だが険しい地形に阻まれ計画どおりには捗らず、三十八年にようやく松反橋に達したものの、源公平へ入るにはまだ古い追貝道が使われていたものと思われる。昭和三十年代に源公平集落跡の下流側に営林署小屋があったがあまり使わておらず[22]、営林署の積極的な事業はなかなか始まらなかった。しかし追貝道は釣人など僅かな通行者により形を留めていたらしく、旧版地形図にある源公平から太郎平への道もまだ通れたという[22]。

 栗原川林道は、昭和三十八年中に松反沢左岸尾根に達し[23]、四十三年には梯子沢橋、四十四年には荒間橋先まで伸び[24]、林道から円覚への新たな下降路が拓かれた。さらに五十一年までに皇海橋[25]、五十二年に新八丁峠[26]、五十五年までに六林沢の銀山平道にまで到達した[27]。これにより砥沢へは車を使って、円覚、新八丁峠、六林沢の銀山平道と各方面からのアクセスが可能になり、古い追貝道を使う必要はなくなった。砥沢のかつての住民が墓参に訪れるようになったのも車で八丁峠に入れるようになって以後のことであり[5]、林道が砥沢近くへ伸びてからは、追貝道を歩いて砥沢に向かうのは沢自体に用事がある釣師くらいなものであったろう。追貝道は昭和三十年前半には砥沢まで通れたと見え、三十四年に廃墟と化した砥沢を見た釣人がいる[22]。だが三十九年の釣り本では追貝道はすっかり荒廃したと記された[28]。そして栗原川林道が円覚付近に達した四十三、四年以後の釣りガイドでは、林道から円覚へ下降しての砥沢入りを紹介している。つまりこの時点で川沿いの源公平~円覚間の道はほぼ使われなくなったと見られる。また昭和二十年代に林道が開通した追貝~小森と、三十年代に整備された小森~源公平入口(追貝道と林道が交差する地点)も、既に砥沢への経路として使われることはなくなっていた。もっとも小森~源公平入口の区間は営林署により周辺一帯が伐採・植林されたため、たまたま作業上都合良い部分だけが暫くの間は作業道として使われたようだ。最後まで歩かれたであろう円覚~砥沢間だが、砥沢付近から上の釣りなら林道から入った方が効率的であるし、円覚~砥沢間での釣りであっても途中まで歩いてから川に降りてしまうため、道として生き延びるほどの通行量はなかったと見える。

 限られた一部の区間に限っては、遡行者の捲道や帰路としても使われた。栗原川を遡行してきた場合、大禅ノ滝の特に三段目はかなりのクライマーでなければ難しく、通常円覚ノ滝も纏めて栗原川右岸の旧道から捲くのだが、岡田は昭和六十三年の著書に「この道は集落があった当時は楽に歩けたらしいが、今では完全に廃道と化している」と記したことから[29]、急壁を捲き上がるその区間の旧道はかなり早くに失われたものと見られる。以後のどの遡行者の記録でも、小沢の六米滝を登攀するか旧円覚事業地まで道なきガレ場を這い上がっていることが分かる。この他ツバメ沢の遡行者の定番アプローチとして、円覚から不動沢の営林署作業道を使って一一〇五独標西鞍部に上がり、そこから追貝道を歩いてツバメ沢に下降することが知られるが、ほんの二百米ほどの短い区間であり道の状況に影響を与えるほどのものでもない。

[1]群馬県利根教育会編『利根郡誌』、昭和五年、「第四章 東村 第五節 教育」一五九~一六二、「第十六章 赤城根村 第十一節 名勝古跡」六〇七~六〇八、「同 第十四節 別天地」六一二~六一六頁。

[2]滝本誠一・向井鹿松編『日本産業資料大系 第5巻』内外商業新報社、昭和元年、「足尾銅山」五四九~五六二頁。

[3]森田秀策「まぼろしの根利山、砥沢・平滝 ─もうひとつの足尾銅山史─」(『上州路』一四四号、七四~七八頁)、昭和六十一年。

[4]岩根常太郎「庚申山と六林班峠」(『ハイキング』九五号、七七~七九頁)、昭和十五年。           
[5]高桑信一「足尾山塊索道の径②」(『岳人』六五九、七二~八〇頁)、平成十四年。                            

[6]逓信省郵務局『通信区画便覧 第2巻』、二二九~二三〇頁、昭和十二年。

[7]大月桂月『関東の山水』博文館、明治四十二年、「追貝の勝」三〇八~三二六頁。

[8]利根村誌編纂委員会編『利根村誌』利根村、「第四章 産業 六 その他 二 古河鉱業の根利林業所」五六八~五七二、「第七章 交通と通信 第二節 今の交通 二 国道・県道・村道 (三) 林道」九〇二~九〇六、「第九章 村の生活・伝説・伝承 第二節 伝説・伝承 四〇 大入道」九六七頁、昭和四十八年。

[9]水資源開発公団栗原川ダム調査所・利根村教育委員会/発行『幻の集落-根利山-』平成十五年。

[10]利根沼田森林管理署『利根上流森林計画区第6次国有林野施行実施計画図』、令和三年、追貝(全11片の内第4片)。

[11]群馬県文化事業振興会『上野国郡村誌 12 (利根郡 1)』、昭和六十年、「追貝村(利根郡利根村)」二五一~二五八頁(原典は木暮理太郎によると「上野国郡村誌 第六冊」、明治十二年)。

[12]木暮理太郎「皇海山紀行」(『山岳』一六巻三号、二〇~三四頁)、大正十二年。

[13]東京営林局『昭和十八年度 第四次検討根利事業区施行案説明書 実行期間 自昭和二十年 至 昭和二十九年』、四九~五〇、一三五~一三六頁。

[14]原全教「秋山回想」(『山小屋』一二九号、一八~一九頁)、昭和二十一年。

[15]片桐由希子・岡村祐「東京市・東京鉄道局による「市民健康路」事業の展開」(『ランドスケープ研究』八〇巻五号、四九三~四九七頁)、平成二十九年。

[16]東京鉄道局『鍛えよ銃後の秋:山野跋渉!』、昭和十二年、編集部「六林班峠ハイキング」八~九頁。              

[17]増田武豊「想い出の六林班峠」(桐生山野研究会会報「回峯」創刊号)、昭和六十二年。

[18]長谷川末夫『汽車が好き、山は友達』 草思社、平成四年、「足尾から庚申山探訪:旅と山登りと買い出しと」三一三~三二五頁。

[19]中村謙『新版 山と高原の旅』朋文堂、昭和十七年、「庚申山と六林班峠」二六四頁。               

[20]前橋営林局沼田営林署『利根経営区第七次経営案方針書 昭和27年度調査 実行期間 自昭和29年 至 昭和38年』、昭和二十八年)、三六頁。

[21]表紙欠損のため不明(前橋営林局沼田営林署『利根経営計画区第1次経営計画書』、昭和三十年頃 と推定)、一二、七九頁。

[22]佐々木一男『秘渓を巡る釣りの旅』つり人社、平成十二年、「廃村跡に哀愁の泙川」一〇一~一一八頁。

[23]国土地理院『空中写真(日光)KT632YZ(1963/11/04)』、昭和三十八年、C1-51。

[24]国土地理院『空中写真(足尾)KT697Y(1969/10/14)』、昭和四十四年、C4-11。

[25]国土地理院『空中写真(尾瀬)CKT762(1976/08/22)』、昭和五十一年、C-21。

[26]国土地理院『空中写真(日光)KT771Y(1977/10/23)』、昭和五十二年、C-5。

[27]前橋営林局沼田営林署『奥利根地域施行計画区 沼田事業図 第4次計画』、昭和五十五年度、追貝(B)(全14片中第7片)。

[28]相葉伸編『秘境の釣りと狩り みやま文庫16』みやま文庫、昭和三十九年、「十二 栗原川源流を行く」一〇五~一一〇頁。

[29]岡田敏夫『足尾山塊の沢』白山書房、昭和六十三年、「栗原川本流」九〇~九八頁。