根利山古道追貝道(小森~源公平~砥沢) page 4 【廃径】
● 大禅ノ滝下~円覚
初めて来たときは円覚への登り口が全く分からなかった。昭和五十五年の岡田図には小沢の右岸に円覚への道が示されていたが[36]、その小沢は見当たらず、ましてや道の気配や痕跡すら全く見当たらなかった。上流方向は完全に岩壁に阻まれ、道があるはずの右岸斜面は大きなガレに覆い尽くされていた。その時は大禅周辺の入り組んだ地形も良く理解していなかったので、むやみに探索するには及ばず出直そうと引き返し、後日円覚から地形を確認しつつ少しずつ下ってきて全貌が明らかになった。追貝道から見あげると単なる東向きの高さ三米の垂直な岩にしか見えない、円覚に続く小沢の道との交差部は、隣の大ガレに半ば埋まっていて小沢の存在すら認識困難な状況であった。この岩壁こそが小沢の涸滝であり、そのしばらく奥に控える六米滝を登攀すれば円覚まで容易にたどり着けることが分かった。六米滝付近だけに湿る程度の微水がチョロチョロと見られたが、遠目には小沢と認識し難く、初回は円覚まで抜けられるか不確かなままこれに取り付こうとは思わなかった。また登るとしてもそれは登攀であり、古道を歩くという範疇のものではない。
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、
同院発行の電子地形図25000及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 令元情使、 第199号)
分かった円覚への道はおよそ次に述べるものだが、もはや道としては痕跡すら存在せず、踏跡を拾いながらの滝の高捲きのようなものである。こちらも遡行というほどではないが、登山家でなければ危険であり決して一般の方の通行を薦めるものではない。右岸を覆う大ガレは栗原川林道の工事や昨今の異常気象など古道が失われた後に発生したと思われ、円覚から来る涸れた小沢は、水流もない上、地形的にも大ガレに覆われ合流点が分からなくなっていた。丹念に見ると、大禅ノ滝下へ続く歩道がガレから現れるその地点で左側にある高さ約三米の黒っぽい岩があが、これが涸れ小沢である。その付近から適当にガレを登って取り付き岩の上へ出ると、涸れ小沢の右岸が心なしか薄く踏まれていた。しかしそのまま進んでも涸れ小沢の六米滝に突き当たるだけであり、小沢沿いは岩を抉ったような谷となり近寄れないため、道は右岸のかなり離れた位置を高捲いていたようだ。円覚から下ってきた時、古道の残骸らしきを見ていたが、そこへ向かうには痕跡の消えた岩混じりの急斜面を横切る必要がある。当時は桟橋を架けたり歩きやすくしてあったと思われるが、現在無理に通るのは安全とは言えない。そこで六米滝高捲き部分は道にこだわらず、遡行者の踏跡らしい痕跡を拾いながら岩場をうまく縫って通れる場所から通過した。個人によりルーティングは異なるだろうが、筆者の場合、大膳ノ滝への道を見た地点から約五〇米大ガレの縁を登り(九三五米)、そこから岩がちな涸れ小沢の右岸尾根へと岩を避けつつ斜めに登りながら取り付いて回り込み(九五〇米)、水平にトラバースして涸れ小沢の緩くなった部分に出た(九五五米)。そこには落葉で薄くなってはいるが明らかな道型があり、涸れ小沢右岸を少し下った五十米ほど先で今高捲いてきた急斜面の中で消えているように見えた。
古道は小さく折り返して緩く登っていた。緩やかな円覚一帯ではそれが分かる程度に道型が残っているということだ。源公平同様ここでも廃タイヤを見たが、遥か上方の林道から落ちてきたのか本当に不思議である。谷間で地形が広がり、涸れ小沢は幾つかに分流する。ここが円覚だ。大禅という僧が円覚寺というお堂を建てたとの話に由来している[9]。左には円覚ノ滝から水を引いて軌道の動力とするための原動所があったが今は敷地だけしかない[9]。少し先の右側にあるグラウンドのような広い場所は社宅だった。多数の設備の跡を通過する辺り、往時は様々な小径があったと思われ、そのため追貝道の道型も不鮮明になった。ただし道が円覚の敷地をおよそどう抜けていたかは当時の写真を見れば分かる[9]。前記の社宅跡(九七四米)の左を掠め、不動沢を覗き込む尾根上の崖の縁に向かってジグザグに登るのである。その辺の道型も明瞭だ。九九五米付近で尾根に乗り、そのまま円覚駅跡(一〇〇五米)平地に出た。駅跡には根利山会が建立した小さな碑と、操業当時の施設の残骸が残っている。腐敗防止処理のためこれだけの年月を経てまだ一部が形を留めているのである。敷地の川寄りの位置からは、円覚ノ滝の迫力ある上段を見下ろせた。
まっすぐ砥沢へ向かう場合は関係ないのだが、ここに重要なエスケープルートがあるので記しておく。駅跡敷地奥の吊橋ワイヤー付近、左手の山腹に取り付くトラロープがあり、これを上がると栗原川林道への踏跡がある。諸記録を見る限り沼田営林署の施行当時は道であったようだが、現在は不安定な踏跡程度になっていて、それでもこの一帯では貴重な退路である。道はまず不動沢右岸の支尾根を登り、次第に沢を離れて微小な尾根的地形の猛烈な急勾配をあるかなしかの踏跡で登る。一番急な部分では恐らく五十度ほどの傾斜になり、灌木もないのでヒノキ植林を頼りに林道まで這い上がる。訪問時点では所々にピンクテープが付いていた。下りでは特に注意が必要である。まず林道からの下り口(一一五八米)だがカーブミラーしか目印がなく、知らないと多数のミラーのどれがそうなのか判別し難い。栗原川林道では珍しい一一六四米にある小さな乗越を越えた約二百米先である。また踏跡は特に下り出しが不明瞭で、地形に沿って下ると崖に飲み込まれてしまうので、下り始めは微細な尾根状を無視して左寄りの植林中のテープを追うよう心掛ける。そして相当な急勾配のため滑落や転落にも注意を払いたい。不動沢が近づくと、時々現れる岩場に注意していけば、円覚までは普通の尾根下りである。円覚駅跡から栗原川林道円覚下降点まで登り二十分、下り十五分。
⌚ฺ 大禅ノ滝下(滝分岐)-(25分)-円覚集落跡-(5分)-円覚駅跡 [2023.11.23]
● 円覚~砥沢
追貝道は円覚駅のすぐ脇を吊橋で渡っていた。現在はワイヤーが一本残すのみなので不動沢を渡渉する。別に危険というほどではないが、渡るのが円覚ノ滝の落口なので気持ちの上で何となく緊張し少し上流側に回って渡った。そこに上からお助けロープのようなものが下がっていて、色々考えるも意味を確定できなかった。古道が廃道化した後、積雪で道型が分からない時、踏み抜いて円覚ノ滝に落ちぬよう滝に近づかずに不動沢を渡るルートであるのか、または不動沢を上流側で渡ってから吊橋の左岸側に移動する時、ちょっと障害になるいやらしい岩を安全に通過するための掴み紐なのか、はたまた古道のことを全く知らない人が単に尾根に取り付くため崖に吊り下げたものなのか。いずれにせよ、そのロープは左岸をへつる際の手掛り程度に軽く掴んですぐ吊橋の左岸側に回った。
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図25000及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 令元情使、 第199号)
道は多少不鮮明だが道型を探すほどではなく、円覚ノ滝の左岸側から尾根に向かい斜上していた。シャクナゲやミツバツツジが咲き乱れる中、小刻みな電光型で尾根を登り、一〇六八米小峰から一度一〇米近く急に下ってまた登り返す変な地形があった。この急降下にトラロープがあったことから、それなりに通行者もいるようだ。登り返した一〇七〇米付近に昭和四十六年の植林票があり、左に小さな踏跡が別れていた。ここから砥沢にかけては四十年代に一度ハゲ山になって植え直された二次林が多い。直接見ていないが、この直下の山腹を円覚軌道の隧道が通過していることを後日資料で知った[9]。一〇八〇米付近で道は尾根の右急斜面を捲き始めるが、落葉の積もった滑りやすい急斜面の土砂で埋まり消えかかった道型で横切るのは危険と判断、尾根上の踏跡から捲き、危険箇所が終わったのを見て捲道に戻った。西に出る大きな支尾根を一一〇〇米付近で回ると緩い下りになり、流土と枯葉で埋まってよく滑る捲道を注意深く進んだ。道は一〇七五米鞍部で一瞬尾根に乗った。そこは変則的な十字路になっていた。主経路は鞍部に立ち寄りしながら栗原川本流の砥沢に沿って水平に行く二方向である。あとは不動沢から登ってくるのと尾根伝いに南西に登る二本の作業道である。尾根の方はかなり悪くお勧めしないが、不動沢道は比較的歩きやすく、カラマツ植林中で不明瞭になるもツバメ沢遡行者のアプローチとしてよく使われるようだ。
鞍部から栗原川まではほぼ水平なので本来は楽な道のはずだが、実際は場所によってかなり危険になっている。銀山平~樺平の道に似て無理やり崖を切り拓いたような道で、よく残った部分については歩きやすいうえ景色も良く、ツバメ沢の幅広七米滝がよく見える。岩が崩れたところ、道が消えた急斜面、そして岩壁を穿った崩れて狭くなった箇所を通るが、何れも注意して通れば難しくはなかった。倒木が多数あるも、道型はしっかりしていた。次第に栗原川が近くなり、右下に川から一段上がった高台が見えた。この先、道が川に降りるまでの約三百米が非常に悪かった。砥沢に向かう以上遡行の準備が出来ているはずだから、実際通って確認してはいないが、何ならこの高台地形から栗原川に下って遡上した方が歩きやすいかも知れない。道は崖をへつるように通る悪路に変わりりきみの道になって危険になってきた。五米斜滝が正面によく見える辺りに、トラロープ、古ザイルとハーケンを接した相当危険な崩壊があった。設置されたロープを使って数米登り崩壊箇所を高捲くが、高捲きそのものがトラロープ頼みになる。このような私設の設置物は補助的に使う程度のことが多いが、ここは全幅の信頼を置いて頼るしかない。特に下り方向ではトラロープに体重を架けて岩場を下降することになり、リスキーである。その後は酷い危険はないが、道がほぼ消滅し足跡を探してひたすらトラバースする感じである。これらも遡行者にとっては普通のことだが、道歩きとしてはおすすめできない状況である。川が急に直角に右折し、下段が崩壊して奇妙な形になった石組みの古い七米二段の堰堤が見えてきた。道は堰堤上の右岸でちょうど河原に降りるようになっていた。昭和四十年測量の地形図[31]で現在の堰堤の位置から十林沢出合にかけてが平坦であることから、少なくとも当時既に堰堤が存在していたと見られる。堰堤上流右岸は平成二年生のカラマツ植林だが[39]、元々そこは大正五年に植林されたヒノキ林であった[27]。植林保護のため渓流を穏やかにして山腹の侵食を抑制するためのものと思われるが、設置されたのが根利林業所時代か沼田営林署時代かは分からなかった。
堰堤上は明るく開けた一面の平原になっていた。堰堤で堰き止められ上流側が堆積した土砂で埋まったためである。古い道がこの河原にあったのか堰堤に堆積した土砂の下に埋まってしまったのか分からなかったが、いずせれにしても道型が消滅した。しばらくは堆積土で埋め立てられたまっ平らな河原を適当に行くしかなかった。水流は比較的左岸側を通る部分が多いので右岸側の歩きやすいところを進んだ。時々右岸ギリギリまで流れが移動するので、一旦左岸側に渡る必要があり、都合四度の簡単な渡渉を行った。右岸はカラマツ植林地で斜面に多数の作業踏跡が見られたが、いずれも古道とは関係ないものである。ただし崩壊した石垣の断片を見たのは古道の残骸であったかも知れない。しかしいずれにせよ連続した道型は全く認められなかった。堆積土で埋まっていたのは十林班沢(栂打沢)出合辺りまであることは、河原の状態を見ればすぐ分かった。その辺りから古道が復活する訳である。実際、十林班沢出合を過ぎてすぐ左岸の森の中に石垣で整えた古道跡が現れ始めたので、ここでまた左岸に渡った。この十林班沢出合は、河原が平ら過ぎて合流に気づき難いので要注意である。
崩壊や倒木で消えかけた道は歩き難かった。単に砥沢へ向かうだけなら、そのまま河原を行くか、また場所によっては右岸に植林作業道が使える部分もあり、その方が早いだろう。屋敷林道終点直前から来る左岸小沢が入る一〇八五米付近で根利林業所時代の古いヒノキ植林を通過した。一帯のヒノキ植林は昭和期に沼田営林署が伐採済だが、見るからに生育の悪いこの植林は役に立たぬと伐り残したのかも知れない。流れギリギリ急斜面を石垣の残る道型で通過すると、左岸に屋敷林道終点付近から来る微小涸窪が入り、それが三、四米の深さで道を抉っていた。荒れ気味のカラマツ植林で多少不明瞭になると、道は急に川に下る踏跡に変わった。川に沈んだワイヤーがかつてあった吊橋の残骸であろう。右岸のカラマツ植林に良い道があり、すぐまた左岸に渡るが今度は吊橋のワイヤーがまだ残っていた。多数の渡渉を除けば道は歩きやすく、ゴミがあったり営林関係の何かの目印らしいピンクテープが付いていたりした。道は左岸の川と付かず離れずの位置を進み、気をつけて見ていると一番滝、二番滝、三番滝も分かる。一瞬崩れて上を捲くところで見えるのが一番滝である。直後に左岸を進む作業道と別れて川へと下る踏跡があり、ピンクテープの付いた吊橋のワイヤーだけが川を渡ってるところで、道はまた右岸に渡った。砥沢の町跡が近づくと道はさらによく、往時のゴミと新しいゴミとが混在しながら落ちていた。すぐ八林沢が左岸に入る二股つまり山神社がある鼻を見上げるところまで来て、かつての町の一端に入った。家の敷地の石垣脇に野生化したスイセンが見事な花を咲かせていた。町内に入るとかつては神社下に吊橋があったが、橋台のコンクリートとワイヤーがまだ残っていた。そこを渡渉して尾根に上がれば砥沢の中心地で、右が山神社、左が事務所になる。四年前に立っていた比較的新しい二本の石灯籠は、倒木の直撃で倒れて割れていた。かつての住人の多くが亡くなり、栗原川林道の通行が禁止された今、もはや直しに来る人はいないかも知れない。
⌚ฺ 円覚駅跡-(10分程度:渡渉準備時間含む)-円覚吊橋跡左岸-(25分)-一〇七五米鞍部-(35分)-二段堰堤上で川に降りる-(10分)-十林班沢出合-(40分)-砥沢 [2023.5.2]
【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)
- 円覚駅跡(栗原川林道から踏跡あり)
[39]関東森林管理局 利根沼田森林管理署 追貝担当区『利根上流森林計画区 第6次国有林野施行実施計画図』、令和二年度、追貝(全11片の内第4片)