三宝沢旧道 【廃径】

 千曲川源流に三宝沢と呼ばれる沢がある。紛らわしくも武州側にも同名の沢があるのだが、信州側においても文献によっては地形図と全く異なる位置に沢の名が記されている。恐らくその原因は、千曲川源流地域の山を語る文献のほぼ全てが、秩父もしくは多摩のみを知る登山家により書かれたことにあろう。信州分の地名は聞き伝てで判断した可能性が高く、地元の呼称を用いたらしき資料が殆ど無い。
 三宝沢とそれに沿う道について初めて記した[1]のは田部重治で、唯一この文献だけが、地元の精通者・油井安十郎の教えに基づいて書かれているので信頼できる。沢の名について油井が明言したとの記述はないが、土地勘の無い田辺は油井から情報を得ていたことが随所に記されているので、田辺が用いた「三宝川」の名が油井の見解であることは疑いない。いわば原典であるこの文献では三宝川とされたが、以後の全ての文献や地図では三宝沢としているので、ここでは「三宝沢」と呼ぶことにする。明治四十二年に油井の案内で歩いた田辺は、三宝山から八町ヶ原(現在の「毛木場」と推定)までを約二時間で下っている。この道の詳細な経路説明はないが、 梓山から行って十文字道を分け、谷が次第に狭まったところで松茸を取り、さらに滝場を見ながら栂の密林を進み、西沢を渡り返しながら進んでミズシ下に至ったということから、まず松茸取りが東沢出合の上であろうと推測される。次に三宝山から三宝川に沿って急な道を下り、三宝川が西沢に合流した後、松茸取りの地点を通過したので、三宝沢とそれに沿う道は確かに地形図の三宝沢に沿っていたことが分かる。三宝山から毛木場まで沢沿いに二時間で下るためには、地形的に難所が無く距離的にも短いこのルートしかないのである。
 大正三年に木暮理太郎は、「此山(三宝山)へは三宝沢に沿うて直接に登る路がある。梓山を出発点とすれば、甲武信岳と同じく四時間あれば充分であるが、沢を離れてから可なり急である上に、路が荒廃しているから、甲武信へ登るよりも骨が折れる。」と述べた[3]。本人が歩いたとの記録は見られないが、木暮もまたこの界隈を油井の案内で歩いたので、恐らく油井からの情報であろう。同十二年、松川は「三宝及び甲武信から渓間を伝って梓山の部落へ出る三條の道」があり[4]、その一つは現在も使われる千曲川西沢の道と記しているが、残りの二つについては具体的な記載がない。想像するところ、三宝山から下る二本の道のうち、一つが地形図収載の東沢道[5]、もう一つがこの三宝沢の道なのではないだろうか。三宝沢道は、昭和五年の秩父鉄道の山岳案内図[6]、八年のジャパン・キャムプ・クラブの「大秩父山岳図」[7]に収載され、具体的な道の付き方が周知された。その後しばらく、ガイドブック類の付図に道が表示されることが多くなったが、踏破には精通した案内人を要するためか、通行記録はいっさい現れなかった。
 側師(ガワシ)の小屋がある他は静かだったこの山域にも、小海線の開通と森林軌道の敷設により、意外と早くに伐採の波が押し寄せた。昭和九年に西毛木場(千曲川西沢左岸)の森林が売却され[8]、同時期に東毛木場(千曲川西沢右岸)の国有林も伐採が始まった[9]。木材搬出と第二次大戦中の燃料不足を補うための炭焼とで、千曲川沿いにトラック道が拓かれ[10]、毛木場付近から西沢の奥まで手押し軌道が引かれていた[11,12]。昭和三十一年のガイドによると、伐採跡、朽ち果てた森林軌道と事業所跡が見られた[11]といい、昭和十、二十年代は活発な事業のため登山どころではなかったことであろう。伐採は昭和三十年代までに一段落し[9]、一九二〇米圏の右岸小沢出合[13]から三宝山への新道が開かれたようだ。三十七年に道標を見たとの報告[14]があり、四十三年の登山者によれば道は悪くなく、西沢との分岐から一時間二十分で三宝山に登れたという[15]。この道はしばらくの間ガイドブックにも記載されたが、昭和五十七年には通行不能とされた[16]。現在新道の方も、少なくとも二三八〇米~山頂の辺りでは利用可能な痕跡は見つからなかった。ましてや田辺が通った旧道については、その後百年以上に渡り記録が見つからなかった。
 ところで西沢の他の支沢、特に二一二〇米圏右岸出合支沢を三宝沢とする文献が、幾つも見られる。これは恐らく大正十五年の田島勝太郎の記述[17]をそのまま受け継いだものであろう。田島は丹波川から入山したため信州を知る案内人を確保できず、当時まだ沢名を記入した登山図が存在しなかったため、文献を参照して彼の沢を三宝沢と誤認したものと思われる。昭和五、六年の著書で高畑練材もまた田島と同じ沢を三宝沢とした[18,19]のは、その影響かもしれない。前記の通り、三宝沢の位置を示した登山図[6]が初めて発行されたのは、昭和五年のことである。以後のいくつかのガイドでも、これに引き連られたと思しき三宝沢の位置の取り違えが見られるが、昭和五十一年刊行の地形図[13]に沢名が記入されたことで、この問題は決着した。

● 三宝山~三宝沢源頭二三四五米付近

 平らな山頂から北西に出る尾根を外さぬようしっかり捉え、原生林をかき分けて進むと、密ヤブの間に何とか歩ける程度の空間に不明瞭な痕跡が付いていた。左はシラベ幼樹の密生地、稜線上はシャクナゲヤブで、その境界に辛うじて通れる程度にヤブの薄い部分があるのだった。うっりするとすぐ尾根を外してしまうが、少しでも高い部分に注意すればよい。しかしヤブの不整形な広がりのため常に境界を歩けるわけではなく、時々シャクナゲヤブに突っ込んで突破する必要があった。そのために、あくまでも地形を正しく読み、常時位置確認をしながら緩く下った。
 十数分下った二四三五米付近で、ヤブに遮られ前進できなくなったので、シャクナゲヤブを北に突っ切る痕跡を追って北側の針葉樹の森に逃げた。この辺りではシラベが北斜面にかなり回り込んでいて、シラベ幼樹と原生林の境界のギリギリ歩きやすい辺りを下った。不明瞭ながらある程度は踏まれており、うまくヤブを避けながら行くこのルートが正しいように思えた。道のようでもあり水流による抉れのようにも見える何かの痕跡を下るうち、一時的に隆起した微小な尾根状地形上に、何となく歩きやすい部分があった。

 

⌚ฺ  三宝山-(30分)-三宝沢源頭 [2017.6.4]

● 三宝沢源頭源頭二三四五米付近~一七五〇米で乗る支尾根下の小窪

 見つけた微小尾根の踏跡を試しに下って見ると調子がよく続いている。戦前の古道の残骸としては、まずまず妥当なレベルの痕跡だ。その痕跡は、強まったり弱まったりしながら一直線に下るが、やがて微小尾根自体が幅広く緩い谷に吸収されて消えた。古道らしい痕跡は、ややはっきりとして、谷を降りず左手にトラバースしている。そして谷から新たに発生した広く微小な尾根に乗り直した。一帯の原生林は疎林なので、道をはずしても苦もなく歩くことができる。
 幅広の尾根で踏跡が分散し見失ったが、地形的に尾根の右が本沢なので適当に下ると、2220M圏の右岸に微小な涸窪が出合う地点で、細い水流に出た。探すと右岸に微かな踏跡がある。
 踏跡は2160M圏の水流のある右岸小窪出合いの手前で、左岸に移る。ここから標高差で200M近くは、三宝沢の一番急な部分だ。沢身を覗くと、ナメ滝が連なっているようだ。沢と尾根筋の中間斜面を、潅木密生地帯を巧みに避けながら、水線の20~40M程度上を分散した不安定な踏跡が続いている。それを追えるほど明瞭ではなく、尾根のシャクナゲと沢の潅木を避けて中間を歩くと、自然と踏跡が見つかるという感じだ。急傾斜を避け、踏跡は一時完全に尾根筋に乗るが、すぐ尾根が急激に落ち込むので、再度斜面に戻る。
 傾斜が若干緩む頃、古い切株が散在するようになり、1910Mで右岸に窪が入り、沢は右に曲がる。なおも、倒木や潅木を縫いながら、沢の10~20M上の左岸の歩き難い斜面を下っていく。1880M圏で右岸から支沢が入り、また沢が右に曲がる。沢床と連続した水流脇の岩の部分を気をつけて2~3分下ると、河原が現れる。主に右岸を行くが、倒木が酷く、なかなか前に進めない。
 1850M付近で左岸の森が歩きやすくなるので、渡り返す。この下の左岸踏跡は、見た目にはより明瞭になるが、倒木と荒廃で思うように進まない。道の真ん中から生えた芽が成長して木になり、しばしば道をふさいでいる。このコース唯一の露岩が現れ、基部を巻くが、特に危険はない。
 1750M付近で派生してきた支尾根に一時乗るが、左の小窪にすぐ下る。踏跡は窪を渡ってさらに三宝沢左岸に沿って進んでいる。小窪から三宝沢方向を見通すと、対岸にカラマツ植林地が見えている。

 

⌚ฺ  三宝沢源頭-(1時間35分)-1750Mで乗る支尾根下の小窪 [2013.7.6]

● 一七五〇米で乗る支尾根下の小窪~東沢出合

 一帯は伐採で山が荒れ、そこに軌道跡が水平に横切り、様々に踏まれてよく分からなくなっていた。恐らく軌道跡を横切って、あくまでも左岸のやや高いところを沢と並行して進むのがルートと思われた。全体的な荒廃で、古いマーキングはもはや何を表すのか分からなくなっていた。隣の涸窪(一六九〇米圏で三宝沢右岸に出合うもの)に入ると、山腹の斜度が急になってきて、踏跡は沢に下った。両岸に何度か渡り返しながら、相変わらず酷い荒廃で役立たなくなったマーキングを横目に、歩きやすいところを下った。一六七〇米圏で左岸に渡ると、古い分流跡の歩きやすい踏跡になった。
 西沢の出合が近づくと、伐採当時の道は、左岸の西沢・三宝沢中間尾根末端台地に入り、車道に接続していたはずだが、今その車道は橋が落ち使えないので、出合付近では沢の右岸を進んだ。ここからは踏跡もなく、ただ西沢の河原を歩くだけだった。二度崖が迫ってもへつり通せたが、三度目は右の植林地に軽く高巻いた。軌道の西沢本線の橋台を見ると、ここから伐採時代に車道だったところで、まだ明瞭な痕跡が残っていた。すぐに下の営林署居小屋跡となるが、トイレと物置しか残っておらず、本体は解体されたのであろう。さらに百余米先の保安林看板付近で、往時の車道は左岸に渡っていたが、すでに橋は流失しており、一分戻った河原の飛び石可能な場所で何とか左岸に渡った。すぐ先の、かつての橋の西詰が現在の車道(一般者通行止)終点であり、ここに甲武信岳からの千曲川源流歩道が下り着いていた。東沢出合の大山祇神社は目と鼻の先であった。

 

⌚ฺ  1750Mで乗る支尾根下の小窪-(35分)-東沢出合 [2017.6.17]

【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)

  • 車道(孫惣谷林道、オロセー休場付近)
  • 天祖山表参道(ハタゴヤ付近)

 

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平坦な山頂から北西へ痕跡を追う
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断続的に原生林を下る三宝沢旧道
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不明瞭な道はこの程度の見え方
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三宝沢に下り着いた辺り
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微かな荒廃した踏跡で左岸を下る
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一時的にシャクナゲヤブの尾根に乗る
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1880M圏二俣下で沢身を通過する場所
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1860M付近の倒木帯
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1750M支尾根下小窪付近は分かり難い
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テープがあっても道は不明な三宝沢沿い
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西沢出合近くは左岸が踏まれている
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今なお立派な軌道西沢本線の橋台
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下の営林署小屋は物置とトイレのみ残存
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保安林看板付近で左岸に渡渉する

 

[1]田部重治『山と渓谷』第一書房、昭和四年、「十文字峠より甲府まで」二二八~二四〇頁。
[2]南日重治「十文字峠を越え信州梓山より甲武信、三寳、金峰の三山に登る記」(『山岳』六巻一号、一一〇~一一六頁)、明治四十四年。
[3]木暮理太郎「秩父の奥山」(『山岳』九巻二号、二三五~二七一頁)、大正三年。
[4]松川二郎『療養遊覧 山へ海へ温泉へ』日本書院、大正十二年、「甲武信山脈の縦走」六三~七〇頁。
[5]陸地測量部『五万分一地形図 金峰山』(明治四十三年測図)、大正二年。
[6]秩父鉄道『奥秩父登山案内略図』秩父鉄道、昭和五年。
[7]J・C・C(ジャパン・キャムプ・クラブ)『大秩父山岳図』J・C・C、昭和八年。
[8]川上村誌刊行会『川上村誌 民族編』、昭和六十一年、一八四~一八七頁付近。
[9]中部森林管理局東信森林管理署『千曲川上流森林計画区第4次国有林野施業実施計画図』、平成二十五年、川上森林事務所(第9葉)。
[10]小野幸『奥秩父の山々』朋文堂、昭和十七年、「大洞林道より将監峠」五二~五五頁、付図「奥秩父略図」。
[11]山と渓谷社編『奥秩父 登山地図帖』山と渓谷社、昭和三十一年、山中利男「千曲川本谷」一四一~一四三頁。
[12]竹内昭「梓山林用軌道」(『トワイライトゾーンMANUAL7』ネコパブリッシング、一七一~一七三頁)、平成十年。
[13]国土地理院『二万五千分一地形図 居倉』(昭和四十八年測量)、昭和五十一年。
[14]藤井寿夫「梓山から甲武信岳へのみち」(『新ハイキング』八四号、六〇~六三頁)、昭和三十七年。
[15]小林章「千曲川源流から甲武信岳」(『新ハイキング』一五五号、七二~七三頁)、昭和四十三年。
[16]編集部「奥秩父概念図」(『山と渓谷』五四二号、四二~四三頁)、昭和五十七年。
[17]田島勝太郎『山行記』昭文堂、大正十五年、「三宝山の風の音」四四~六二頁。
[18]高畑棟材『山を行く』朋文堂、昭和五年、三二〇頁付近。
[19]高畑棟材『奥秩父と其附近:時間記録と費用概算』朋文堂、昭和六年、「甲武信ケ岳より梓山へ」六八~七〇頁。