尻無尾根(ナシ尾根) 【仕事径】

 尻無尾根は市ノ沢ノ頭から北北西に出て大洞ダムに至る顕著な尾根で、現在「ナシ尾根」と呼ばれることが多い。昭和二、三十年代の伐採・植林時には、木材供給源としてはもちろん、山頂周辺への経路や、索道の中継点として重用されたが、作業が一段落すると酷いヤブに覆われ、ほとんど利用されなくなった。しかしこの数年、ヤブの消滅とともに、再び山頂への最短経路として脚光を浴びていることが、ネット記事から窺い知れる。
 しかし道標の整備されていない作業道をマーキングを頼りに歩く部分もあり、デタラメに上へ向かえば良い登りは容易だが、下りの場合は神経質になったほうが良い。今回下りに利用してみたときの要点を纏めてみた。

 ところで尻無尾根の名称は、いつからかナシ尾根に変わってしまった。その理由について少し考察してみたい。文献で見る限り、昭和三十年前後までこの尾根には名がなかった。昭和三十一年にエルミネア山岳会の浅見豊[1]、三十五年に奥多摩山岳会の成富格[2]が、相次いで尻無尾根の名を挙げている。尾根上のピーク尻無ノ頭(尻無沢の詰めにあたるための呼び名だろう)から採ったと思われ、五十年の資料[3]でも尻無尾根が使われていた。
 しかし確認された限りの最初の異変は四十七年に起きていた。問題の資料は昭文社の登山地図[4]である。この会社の登山地図は地名の誤りが多く、数多くの誤記により誤った山名を定着させてきた。単純ミスと思われる図上の表記「ナシ尾根」が、地図の売上と比例して急速に定着していったのではなかろうか。五十六年の日本登山大系[5]でも、もうナシ尾根になってしまっている。
 なおこれとは別に、原全教は手戸沢右岸尾根を「梨尾根」としている[6]。尻無尾根の小さな支尾根の末端にあたり、名の由来は説明がないので不明である。明治時代に設定された尻無ノ頭の三角点名は「尻梨」となっており[7]、「梨」と「無」が混在している。ひょっとすると梨尾根の「梨」と尻無尾根の「尻無」の混同により「ナシ尾根」が誕生したのかも知れない。

● 市ノ沢ノ頭~一七五〇米圏索道台跡

 市ノ沢ノ頭はピークでなく、単なる鼻のような尾根上の一点である。和名倉山を指し示す黄色い道標や、三、四十年は経っていそうな全く読めない木製の表示板があったが、通過しても幅広の尾根上で見つけられるか分からない。仁田小屋尾根から北に分かれる尻無尾根は、右が歩きやすいダケカンバ帯、左はモミかシラベかの二次林になっていた。尾根筋が明瞭である上、植生の境界を歩けば良いので分かりやすい。だが道らしい道はなく、廃道同然の薄い痕跡が見られる程度だった。やや急な尾根筋の右側の、植生の薄い部分を利用して下った。
 この尾根では珍しい小さな岩場を越えると、すぐに一八一〇米圏の甲武信木材か大滝木協かの索道台跡が現れた。小さなスキーリフトの鉄塔の残骸らしきが散らばっているのですぐに分かった。枯死笹ヤブが現れ、その間を行く道型が分かるようになった。さらにひと下りで、同様に鋼製の廃材が散乱する次の索道台跡があった。こちらも仁田小屋尾根を越えてきているので、甲武信木材か大滝木協のものと思われる。

 

⌚ฺ  市ノ沢ノ頭-(15分)-一八一〇米圏索道台跡-(5分)-一七五〇米圏索道台跡 [2018.10.21]

● 一七五〇米圏索道台跡~尻無ノ頭

 一七五〇米圏索道台跡は、数十年前に甲武信木材もしくは大滝木協が、惣小屋谷で伐採した木材の搬出に使用してしたものと思われる。現在は廃物となった部品が散乱していた。尾根が広いため複数の踏跡が、灌木や枯死笹ヤブに並走していた。尾根道のすぐ脇にある一七六八独標は、珍しい角度から雲取~飛龍を眺める展望スポットなので、立ち寄って損はない。松葉沢ノ頭の平頂が大きく、鈍重なバラクチ尾根が三ツ山までうねる様子もよく見える。しばらく一般登山道並みの良道が、小露岩や枯死笹ヤブに続いていた。やたらと目につく全く不要なマーキングが、かつて猛烈な笹ヤブであったことを物語っていた。前方に秩父市街を遠望しながらの漫歩であった。
 氷谷左岸尾根が合わさる一七二〇米圏で、東大境界見出標が現れた。これまで尾根の両側が共有林だったが、約三百米先の小穴尾根分岐までは、左が東大演習林となるので、その間境界見出標や標石が点々としていた。そこからは左が三峯神社社有林に変わり、右はずっと共有林のままである。
 すぐ尻無ノ頭に到着、山名表示はなかったが、四つの石に囲まれた三角点の存在でそれと知れた。

 

⌚ฺ  一七五〇米圏索道台跡-(35分)-尻無ノ頭 [2018.10.6]

● 尻無ノ頭~大洞ダム下降点

shirinashi01.jpg
尻無ノ頭付近
(基盤地図情報 数値標高モデル5mメッシュ(標高)を使用、等高線間隔1m)

 尻無ノ頭の直下、一度尾根の芯が消えるので、初めは方向に注意しつつ探しながら下った。次第に道が明瞭になると、枯死笹ヤブを敷き詰められた広く緩い尾根に開けた場所があった(一四五〇米付近)。松葉沢から来た埼玉工業の索道中継台跡だろう。一四〇〇米付近の緩斜面では、市ノ沢側が一面の見事な枯死笹ヤブ原になった。一三六〇米圏の急斜面では尾根形状が曖昧になり、道の進む方向が分からなくなった。右寄りに現れてきた、尾根の市ノ沢側のヒノキ植林が目印になった。植林界が尾根筋になっているのである。
 再び尾根筋が明瞭になり、しばらくは植林界の薄い踏跡を緩く下った。たまたま開けたところで三峯神社の社務所が正面に見え、放送まで聞こえてきたので、もう気分は下界であった。ただ幅広い緩傾斜の上、植林のため眺望効かず、道型も不明瞭、また植林も正確に尾根筋どおり植えられているわけではないため、とにかく尾根地形を厳密に追うことに専念した。左は常に自然林だったが、右の植林はヒノキからカラマツに変わった。また右が自然林になる部分もあった。道らしきはないも同然で、ただヤブがないので尾根上を適当に歩くことができた。それでも、地形図で地形を正確に把握し、やや気まぐれにつけられたマーキングを見落とさなければ、迷う余地はなかった。

shirinashi02.jpg
1360M付近
(基盤地図情報 数値標高モデル5mメッシュ(標高)を使用、等高線間隔1m)

 一二〇五米付近で、それまで明瞭だった尾根地形が突然消失した。この部分は両側が自然林のため、植林界を目印にすることはできない。眼前に広がるのはスキーゲレンデのようにのっぺりした急斜面であった。地形図通りに、厳密に斜面右端の僅かな尾根筋を追って下った。標高差で約五〇米下ると、左に別の微かな尾根の盛り上がりが見えるので、それに乗り換えた。それもすぐ消え、緩斜面を当てどもなく下り、今度はずっと左に出てきた尾根筋を発見し乗り移った。一帯は踏跡のない自然林で迷いやすいところだが、稀にあるマーキングに注意しながら進んだ。その盛り上がりもすぐに消え、続く緩斜面の下方に見える遥か右方の細い隆起目掛けてカーブを切った。その小尾根上の右はヒノキ植林になっていた(付図の一つ目の「ヒノキ」)。
 いったん多少尾根らしくなった部分を下ると、特徴のないなだらかな斜面のやや開けた場所に、ワイヤー、滑車などの索道部品が落ちていた。惣小屋谷から来た、東洋産業の索道中継台跡だろう。斜度がややついてきて、右がカラマツ植林になってくると、いま下っている尾根の他に、右に二つの尾根らしい隆起が現れてきた。地形図が示す真の尾根筋に従い、その一番右のものに向かって、右に大きく進路を変えた(付図の「カラマツ」近くで急に南に向かって下る部分)。やや狭いその隆起にうまく乗ると、周囲がヒノキ植林になった。そのまま行くと市ノ沢に降りてしまうので、微かな痕跡に従って植林中を左の緩い微小窪に入った。

shirinashi03.jpg
尻無尾根末端付近
(基盤地図情報 数値標高モデル5mメッシュ(標高)を使用、等高線間隔1m)

 ヒノキ植林中の急斜面で、電光型に下る小さな踏跡が現れた。植林を透かして左を見ると、大洞川の車道からも分かる大崩壊の上端付近のようだった。やや不明瞭な踏跡はジグザグに下って、アンテナが設置された無線設備のボックス前まで下りてきた(約八五〇米)。ここから道はやや良くなり、一般的な作業道ほどの明瞭さになった。無線設備から山腹をまっすぐ伸びる電線と、その向こうを並走する大崩壊を見ながら、新たに現れた小尾根を小刻みな電光型で下った。植林地が右に引っ込み、自然林を下るようになると、急傾斜の上、左に大崩壊が見え、危険というわけではないが何となくスリルがあった。やがて道は右の山腹に移って、植林中の下りとなった。大洞ダムの吸い込まれそうな蒼い湖面が下方に広がり、不安定な足元がズルっと滑るたびに、そのままダムまで滑って行きそうな錯覚に襲われた。右に市ノ沢道を分けて、ひと下りで、大洞ダムまで下り着いた。道は、水面ギリギリをへつるように付けられていた。崩壊気味の湖面の道を少し行き、大洞ダムの堰堤上の通路で右岸に渡った。

 作業用モノレールと交差しながらの一〇〇米の小刻みな九十九折の急登をこなすと、車道であった。

 

⌚ฺ  尻無ノ頭-(10分)-ヒノキ植林上端(1360M)-(55分)-大洞ダム-(10分)-車道(大洞ダム下降点) [2018.10.6]
181021_p01.jpg
市ノ沢ノ頭の読めない表示板
181021_p02.jpg
右はダケカンバ、左は針葉樹二次
181021_p03.jpg
1810M圏の甲武信木材・大滝木協索道台跡
181006_p15.jpg
1750M圏にも同様の索道台跡
181006_p16.jpg
1768独標から雲取山の大展望
181006_p17.jpg
枯死笹ヤブに明瞭な道が続く
181006_p18.jpg
ヤブが切れると展望のプロムナード
181006_p19.jpg
左が一時東大演習林になると境界標が
181006_p20.jpg
尻無ノ頭の三角点
181006_p21.jpg
ヤブで道が隠れがちな部分も
181006_p22.jpg
東洋工業の索道台跡
181006_p23.jpg
それなりに見事な枯死笹ヤブ原の風景
181006_p24.jpg
最下部のヒノキ植林でやっと踏跡が
181006_p25.jpg
無線施設のアンテナ
181006_p26.jpg
大崩壊に沿って下る
181006_p27.jpg
眼下の蒼い大洞ダム
181006_p28.jpg
ダム堰堤の通路

 

[1]エルミネア山岳会「和名倉山集中登山」(『山と渓谷』ニ〇四号、六〇~六六頁)、昭和三十一年。
[2]奥多摩山岳会「和名倉山」(『山と渓谷』ニ六〇号、七九~八二頁)、昭和三十五年。
[3]鈴野藤夫『関東南部の渓流』つり人社、昭和五十年、一ニ八頁。
[4]新井信太郎『奥秩父1 雲取山・両神山 山と高原地図21』昭文社、昭和四十七年。
[5]須崎一二「大洞川・大血川流域の沢」(『八ヶ岳・奥秩父・中央アルプス 日本登山大系8』白水社、一二四~一二六頁)、昭和五十六年。
[6]原全教『奥秩父(正編)』朋文堂、昭和八年、四一七頁付近。
[7]陸地測量部『点の記』、「尻梨測點」、明治三十七年。