大除沢道 page 1 【廃径】
奥秩父の玄関口として知られた山上集落の栃本。正面に圧倒的な存在感で立ち塞がる和名倉山に、栃本のちょうど対岸で食い込んでいるのが大除沢である。浮田製材所辺りまでの下流部は、元来滝沢と呼ばれていた[1,2]が、恐らく地形図に大除沢と記入された影響であろう、今では全域が大除沢と呼ばれているので、ここでは便宜上それに倣う。大除沢は江戸期以来栃本・上中尾両集落の耕地であった[1]が、大正五年に、和名倉山頂直下の一部を除いて東大演習林となった[3]。昭和六年の東大演習林図を見ると、栃本から滝川を渡って大除沢沿いに遡り、二手に分かれて一方は登尾ノ頭の北を巻いて和名倉沢に、他方はヒルメシ尾根に絡んで久殿沢に下る巡視道が設けられていた[4]ことが分かり、これらは基本的に現在と変わらない。
昭和十年代前半[5]の浮田製材所の製材事業の始まりにより、大除沢に大きな変化が生じた。当時の大除沢には、山林業者に加え、炭焼人、木地屋が入っていて、守り神として出合付近にある不動尊が厚く信仰されていた[6]。東大演習林の一部である大除沢でのこのような製材事業は、演習林の公表記録には一切現れない。しかし谷の大部分が代償植生であり[7]、伐採・炭焼など様々な活動が行われているので、一度大規模に伐採されたことは間違いない。古文書を繙くと、古くは少なくとも明和八年(一七七一年)に用材の伐採が行われていたことが分かる[22]。また長四郎谷に見られる謎の石組みも、炭焼窯跡である可能性がある。演習林の特別試験林一覧では、樺木谷の一本上流側の谷の「9ほ1」林班が昭和七年に伐採されていた[8]ことが知れる。こちらは時代背景からして、炭焼用の伐採だったのではなかろうか。
大除沢道の開通は昭和十二年春[9]とされ、昭和十二~十四年頃の軌道敷設前に通行した中村謙の報告[10]があることから、軌道開通は昭和十五年の少し前と推測される。十五年以後のどのガイドブックにも登場する浮田製材所の位置は、屈曲し複雑に枝分かれする大除沢の流れと尾根末端の地形、薄く断続的となった当時の軌道や作業道、跡形もなく消滅している小屋の残骸のため、残念ながら特定できなかった。
春日は「地図の大滝村の「大」の字の右ななめ肩の地点で大除沢を横切り、間もなく盛んにこの辺の用材を切り捌いている浮田製作所前に出る。ここからトロ道も通っているから…」[9]、小野は「…降り切ると大ヨケ沢の辺に立ると製材所がある。此処から軌道になり…」[11]としており、別のガイドの付図[12]で製材所を右岸に記入している。そこから軌道が大除沢の右岸山腹に敷かれているのだから、製材所も当然右岸であったに違いない。製材所は、ヒルメシ尾根の支尾根である大除沢一一〇〇米圏二股へと落ちる尾根を下ってきた付近の大除沢右岸にあり、所々に現存する道床の高度から見て一一五〇~一一六〇米の辺りと考えられる。つまり和名倉山から下ってきた主尾根の右側(大除沢側)に派生する枝尾根の末端に位置するのであろう。登り方向に解説した昭和三十一年の浅見[2]も、「軌道沿いに登り長四郎沢の入る少し行ったところから本流に下り、製材小屋まで」としており、長四郎沢の少し上まで軌道跡を使い、さらに沢を少し遡ると製材所があることを示している。しかし現地を歩いても、大除沢の地形は厳しく、明らかに小屋が経っていたであろう平地は近辺に見られなかった。谷の両岸には幾つかの平地が見られたが、そういういかにも鉄砲水で流されそうな位置に製材所を作ることはなかったろう。一一五五米付近、一一六五米付近の右岸の高みに、多少傾斜の緩い場所があった。ひょっとするとかつてそこにあった製材所の跡地が、崩土で斜めに埋まった場所なのかも知れない。
軌道は、製材所の少し下から始まっていたらしい。中村は、「これ(註:浮田製材所)より道は木馬みちとなり、二三度左右に沢を渡ってから右岸にうつって桟道づたいとなる。」[10]としており、小野の図[11]でも製材所下で沢を渡り返した後、右岸のみを行くようになってすぐ長四郎谷を渡り、そのまま索道まで山腹を進んでいる。長四郎谷の上で大除沢は傾斜がきつくなりトロッコでは厳しいこと、実際に確認された道床や遺物は長四郎谷先の切通付近までだったことを考えると、索道台(標高一〇六六米)から長四郎谷先の切通(標高一一三七米)までの、図上測定値にして距離千六十六米(標高差七一米)の区間が軌道区間であったと推測される。勾配は、六・七パーミルと計算される。
製材製品を運搬するトロッコ軌道は、そこから約一粁米の距離[5]を下り、上中尾への索道台へと続いていたことになる。手押し軌道としてはやや勾配があるが、急峻な和名倉山地からの搬出となれば仕方ないだろう。現地で道床確認を行わなかった竹内の「勾配はほとんどなく」[5]の記述は、登山道と比較して勾配が緩い、程度の意味だろう。軌道が敷かれた大除沢右岸の岩壁や斜面は険しく、中村が「桟道づたい」と表現したように危なっかしい箇所もあったと思われる。多くのガイドで、製材所から荒川を渡るまで一時間半程度という、距離の割に掛かり過ぎのコースタイムを示していることからも、険路であったことが想像される。
現在半分程度の区間で明らかな道床見られるが、木橋などを組んで通していたと思われる岩壁を通過する区間や、斜面の土砂流出が激しい区間では、跡形もない。軌条の類もすべて撤去されており、僅かに六キログラム規格の軽レール(H50.8mm、L5.5m)が一箇所、軌条として使われたらしき鉄板が三箇所に残されるのみである。玩具のように見える六キロレールは、昭和二十八、九年の改修前の滝川軌道や、二十三年に開設された和名倉軌道でも使われていた当時のトロッコの標準軌条である。また長四郎谷を渡る部分には、道床の石組みの残骸の可能性がある遺物が、そこから本谷へ向かって小尾根を越える部分には明瞭な切通が見られる。レールは基本的に角材に鉄帯を打ち付けた木軌道で、カーブ区間は鉄レールを使用していたという[5]。二両の手押しの平トロが昭和二十五年頃まで存在していたそうだ。軌道の下の終点は、空中写真[13-16]の詳細な観察により、大除沢右岸尾根の一〇六六米付近と見られる。ここは不動尊からの大除沢右岸山腹をきた登山路が尾根上に飛び出す地点の一つである、一〇六二米鞍部の一段上、ちょうど軌道跡が尾根を回り込む地点である。
軌道終点からは、製品を索道を使って上中尾下の奥秩父運輸組合軌道まで搬出していた[5]。索道終点は、鎌双里谷の対岸、五七四独標の約百米東、基盤地図情報(数値標高モデル)5mメッシュ(標高)を見ると小尾根上の標高六〇五米付近で軌道跡が通過している辺りであろう。索道沿いに付けられた上中尾への歩道が、当時の下山ルートだった[9,11,17]。
製材所の推定位置から大除沢を数百米下った、一一〇〇米二股の左岸には、作業小屋があったとされる。作業小屋が、わざわざ製材所や軌道から離れた低い位置に立てられていたのも不思議に思えるが、現地の地形を知れば想像がつく。豪雨による急な増水時も安心できる高台の平地が、近くではそこしかなかったためであろう。登山者がこの作業小屋を通ることはなかったろうが、小野の付図[11]では製材所の少し下流の左岸に示され、興味深いことに昭和三十七年の清水武甲が記したガイド付図[18]に、大除沢道らしい道が作業小屋跡へ続く様子が示されている。つまり当時は浮田製材所跡への道が消滅し、作業小屋跡への道だけが残っていたことが推測される。当然ながら、実際に作業小屋が使われた昭和初期から、すでにこの道は存在していたのであろう。沢から少し上がったその台地には、今も明らかな整地があり、酒ビンや古い釜の廃物が見られる。
大除沢道は、ヒルメシ尾根の途中で川又道と分かれて浮田製材所に下り、大除沢軌道を使って水平に進み、索道沿いに上中尾まで急下する、和名倉山からの手っ取り早い下降路である。幾つかのガイドで紹介されるも、いずれも簡単な説明や概略図だけで、詳細な道筋が不明であった。大除沢軌道の部分にも増して、ヒルメシ尾根から浮田製材所への道筋も定かでない。一本の顕著な尾根地形を通るのではなく、トラバースや小尾根を伝って通る道だったようだ。ヒルメシ尾根との分岐では、ガイド執筆の三者が三様に、尾根を下ってくると大除沢道は右に戻るように分かれる[9,17,19]と述べている。中村の記録では、大除沢近くまで降りてくると急傾斜を電光型に製材所まで下ったという[10]。沢に降りる直前で尾根地形は不明瞭になり、かつどこを下っても急傾斜になるので、道が最後にどのように沢に下り着いていたか確実には分からない。現地で実際に見た、下れそうな急傾斜は、一一二〇米圏と一一六〇米圏でいずれも左岸に出合う支窪左岸の南向き斜面である。浮田製材所の推測位置から考えて、後者(一一六〇米圏出合左岸支窪の左岸斜面)がそれであろうと思われた。この斜面は急だが登りやすく、現在でも薄く踏まれている。ただ道の右岸高巻きが始まる一一〇〇米付近二股(作業小屋跡)の少し上流、一一二〇米圏左岸支窪の左岸斜面も乱れた電光型で下る痕跡があるので否定できない。作業小屋から登るにはこの方が都合よいので、作業小屋、浮田製材所の何れからも道があったと考えるのが自然かもしれない。なぜなら、過去大きな伐採を受けただけあって、浮田製材所や作業小屋の跡地付近には、現在でも様々な道の痕跡が残っているからである。
この道は、昭和十八年に補修が必要[20]とされていることから、使われたのはごく短期間だったようだ。また昭和二十二年の航空写真[13]で見えていた作業小屋上の右岸を行く軌道が、翌年[14,15]には見えなくなっており、同時に軌道経路と並行してやや上を行く新たな道ができているのが気にかかる。この上の道は、現在でも踏まれているもので、さほど古くない黄テープが数箇所設置されていて、崩壊や土砂流出のない部分では道型もしっかりしている。石垣による補強箇所も幾つかある、本格的な作業道である。一見軌道跡に見えなくもないが、所々に軌道ではありえない急登があるので、あくまでも作業道と思われる。軌道の索道側終点のほんの一〇米ほど上から始まり、長四郎谷一一九〇米付近まで続いている。付近の幾つかの石垣のような遺跡は、炭焼窯跡だろうか。浮田製材所の推定位置よりかなり上に行ってしまうので、恐らく、昭和二十三年以降の長四郎谷伐採に伴い開かれた道であろう。現在も使われているというのは意外だが、激しく崩壊している軌道跡に替わり、多少遠回りではあるが安全な大除沢奥への通路として、東大演習林の管理や、釣り人などに使われているのかも知れない。
伐採は、昭和ニ、三十年代まで行われ、軌道は一度使用されなくなった後、恐らく昭和三十年代に一時再使用されたという[5]。エルミネア山岳会の浅見豊氏(現・秩父山岳連盟会長)の昭和三十一年の記事では、ヒルメシ尾根の解説に大除沢道の解説が見られず、和名倉山からの下山路として将監峠経由を推奨している[2]ことから、当時既に廃道化していたと思われる。同じ記事で、不動の滝下の大除沢出合から浮田製材所までは通行可能としている。特に大除沢の出合から右岸尾根の索道上までの区間は、演習林歩道でもあるため、一定の整備が行われ現在まで存続している。昭和三十七年刊のガイド付図[21]では、浮田製材所は製材所跡とされ、軌道はただの山道になっているので、その時点で製材所は既に閉鎖、軌道も撤去されていたようだ。また製材所からヒルメシ尾根へ取り付く山道も付図には見当たらない[21]。一方、上中尾から索道沿いに大除沢右岸尾根へ向かう道は、荒川を渡る橋が無くなったためであろう、利用不能になった。
[1]大滝村誌資料調査委員会編『大滝村誌 資料編四』大滝村、昭和五十年、一九一~一九二頁付近。
[2]浅見豊「和名倉山の集中登山」(『山と渓谷』二〇四号、六〇~六六頁)、昭和三十一年。
[3]東京大学農学部付属秩父演習林『東京大学秩父演習林50年誌』、昭和四十一年、五~一〇頁付近。
[4]猪熊泰三「秩父演習林及其付近の木本植物(予報)」(『東京帝國大學農學部演習林報告』一四号、一~一四五頁、東京帝国大学農学部附属演習林)、昭和六年。
[5]竹内昭「奥秩父の森林軌道」(『トワイライトゾーンMANUAL10』ネコパブリッシング、二五二~二七二頁)、平成十三年。
[6]飯野頼治『山村と峠道』エンタプライズ社、平成ニ年、「十文字峠」六〇~八〇頁。
[7]環境庁「三峰」(『現存植生図 第2回自然環境保全基礎調査』)、昭和五十六年。
[8]東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林秩父演習林「秩父演習林第10期教育研究計画(2011(平成23)年度~2020(平成32)年度)」(『演習林』五一号、一七七~二六六頁、特に二三七頁)、平成二十四年。
[9]春日俊吉『奥秩父の山の旅』登山とスキー社、昭和十七年、「将監峠・白石山」六三~七一頁。
[10]中村謙「紅葉の和名倉山」(『山と高原』一八号、一六~一九頁)、昭和十五年。
[11]小野幸『奥秩父の山々』朋文堂、昭和十七年、「将監峠より荒川」六〇~六三頁。
[12]小野幸『マウンテンガイドブックシリーズ19 奥秩父』朋文堂、昭和三十一年、付図「奥秩父」。
[13]建設省地理調査所『米軍撮影空中写真(1947/11/08)』、昭和二十二年、M636-A-No1-45。
[14]建設省地理調査所『米軍撮影空中写真(1948/10/19)』、昭和二十三年、M1195-A-72。
[15]建設省地理調査所『米軍撮影空中写真(1948/09/28)』、昭和二十三年、M1169-96。
[16]建設省地理調査所『米軍撮影空中写真(1952/04/10)』、昭和二十七年、M4-10-2-79。
[17]朋文堂『新版 東京附近山の旅』朋文堂、昭和十五年、神野真一・小野幸・島田武・原嶋歡作「和名倉山」一六一~一六四頁。
[18]清水武甲・浅見清一郎『山渓文庫14 奥秩父 山旅と風土』山と渓谷社、昭和三十七年、「栃本から和名倉越え」一五〇~一五三頁。
[19]北村峯夫「奥秩父の山々」(『山と高原』二九号、七~一三頁)、昭和十六年。
[20]吉田浩堂「奥秩父国立公園候補地と其施設概要案」(『山と渓谷』八〇号、ニ〇~二八頁)、昭和十八年。
[21]森川佳枝「和名倉沢を遡る」(『新ハイキング』一六号、七五~七七頁)、昭和二十七年。
[22]富岡政治「近世中津川村における生業と林野利用」(『史苑』五一巻二号、四一~八〇頁)、平成三年。