小滑沢道【藪径・雪径】
中津川の小滑沢沿いに登る道。大正5年に東大演習林用地として購入後整備された、栃本と小滑沢出合を結ぶ古い巡視道が起源と思われ、昭和6年の東大演習林図にも見える。途中には、昭和6年の古い植林地がある。昭和40年代前半に大規模な伐採が行われ天然更新と一部で植林が行われたようだが、それ以来営林事業は実施されていないように見え、研究用に僅かの間伐が行われている程度か。釣人や登山者の入山も稀な人跡の薄い沢のため、訪問日現在で道の状態は非常に悪く、道を歩くというより遡行するというニュアンスが強かった。
● 三条の滝~680M小滑沢渡沢点
大滑沢駐車場から中津川右岸道を下流に約700m向かった先の、「折木不動尊 三条の滝」の古い木製の看板横の階段が取り付きである。道路工事により折木不動尊はどこかへ移設され、三条の滝はあるにはあるが道路下の排水溝同然になってしまったので、看板が示す見どころは何もない。道路の法面の様に見える急斜面を階段は横向きに登っていく。これは法面なのではなく、中津川に落ち込む尾根末端の斜度が50度以上あるため、急すぎて直登できないのである。続いて梯子かと思うほど急な丸太の階段を上がると、さらに急斜面上の傾いた細い踏跡が電光型にどんどん登っていた。この道は小滑沢奥の植林地へ続く作業道なのだが、これほど急な作業道も珍しい。ようやく尾根に絡む普通の登りになって来た頃、小滑沢随一の18mの折木の滝(大滝、不動滝などの名もあるようだが、正称不明)の滝音が聞こえてきた。現場を見ていないので憶測になるが、日本登山大系8の小滑沢の紹介文では特記していないことからさほど手強くないのかもしれず、だがjun555氏の記録(2012.6.24)によると微妙な登攀になるようだ。705Mの小鞍部で右から小さな踏跡を合わせた。細い踏跡が落葉を踏んで水平に行くようになり、やがて緩く下って小滑沢が目前になった。トラロープの岩場を軽くへつると、680M地点の小滑沢に下ったところで踏跡が消えた。
● 680M小滑沢渡沢点~1105M小滑井戸沢歩道出合
中流部は岩角に当たる白い波頭が新緑に映え、沢の中央に堂々たるカツラが聳える、美しい渓流だった。沢近くに付いた道は、洗い流されたり崩れたりして、判別困難な極めて薄い踏跡になっていた。時折見る、木の幹に巻かれた、また脱落して落葉に埋もれた赤テープで道と知れるが、山歩きというより遡行に近い感覚だ。だが平水なら水量が限られ靴を濡らすことはない。地形や道の痕跡、マーキングを見ながら、時々左右に渡り返して遡った。
沢の両岸は植林部分も少なくなかったが、70~80年生くらいに見える立派な杉植林で、小屋跡らしき土地も長い年月を経て自然に返り始めていたりと、人の気配を感じるようなものではなかった。むしろ割れた瓶や瀬戸物の破片から、昭和初期の雰囲気が感じられた。後で調べると、分かった限りの最古の伐採は大正10年、植林は昭和4年に行われていた。仮に昭和4年の植樹であれば、93年生である。空中写真および植生図と林業試験の論文から見て、主な伐採は昭和前期に行われ、この数十年は試験的な間伐を除くと手つかずのようである。
相当古い石積みや、切り揃えた丸太が苔むして積まれていたり、タイムスリップしたような光景が続いた。消えかかった植林中の痕跡で小さな岩尾根を越えると、そこも風格ある立派な植林地であるのに驚いた。840M付近の激しい帯状の間伐は、間伐試験に伴うものであろうか。しばらく沢筋から消えた植林が再び現れると、数十年は経った電気釜やトタンの廃物が見え、石積みや踏跡が散見された。1100~1150M付近である。赤テープもこれまでより密度が高い。だが、明瞭な道は見つからなかった。小滑沢の赤テープ道は1100M付近で右岸側に逸れ、50mほど先で栃本の方から来る水平道(小滑井戸沢歩道)に出合っていた。
[1]安藤愛次・小島俊郎「土壌の性質と林木の成長(3) シラベの35年生林」(『日本林学会誌』三九巻四号、一三六~一三八頁)、昭和三十二年。
[2]竹内昭「杣口・奥千丈林用軌道」(『トワイライトゾーンMANUAL7』ネコパブリッシング、一六四~一七〇頁)、平成十年。
[3]吉沢一郎「琴川を遡りて奥千丈岳へ」(『山岳』二〇号一巻、一八五~一九二頁)、大正十五年。
[4]小野幸「奥秩父の南部」(『日本山岳会会報 山』八四号、三~四頁)、昭和十四年。
[5]原全教『秩父山塊』三省堂、昭和十五年、「金峯山(三)」八三~八四頁。
[6]原全教『奥秩父』朋文堂、昭和十七年、「東口」四四四~四五三頁。
[7]吉沢一郎「奥千丈迷路行」(『登山とスキー』九巻一〇号、一三~一八頁)、昭和十三年。
[8]北村峯夫「奥秩父の山々」(『山と高原』二九号、七~一三頁)、昭和十六年。
[9]青垣山の会『山梨県県有林造林:その背景と記録』、平成二十四年、有井金弥「拡大造林との出会い」五四~五五頁、高山巌「奥千丈事業地の森林整備の方向」六一~六二頁。
[10]小野幸「秩父の寸景」(『日本山岳会会報 山』一六六号、六~七頁)、昭和二十八年。
[11]小野幸『マウンテンガイドブックシリーズ19 奥秩父』朋文堂、昭和三十一年、「石楠花新道より国師岳」六八~六九頁。
[12]芳賀正太郎「国師岳天狗尾根」(『新ハイキング』四五号、五六~五八頁)、昭和三十二年。
[13]山と渓谷社編『奥秩父の山と谷 登山地図帳』山と渓谷社、昭和三十三年、橋爪宗利「杣口から国師岳へ」一八三~一八五頁。
[14]北村武彦「金峰山集中登山」(『山と高原』二七六号、二四~二七頁)、昭和三十四年。
[15]山口源吾「関東山地における高距縁辺集落」(『歴史地理学紀要』一〇号、一九一~二一八頁)、昭和四十三年。
[16]山と渓谷社編『奥秩父 アルパインガイド15』山と渓谷社、昭和四十年、河合敬子「国師岳Ⅰ─琴川コース─」一三八~一四〇頁。
[17]西裕之『特撰森林鉄道情景』、講談社、平成二十六年、「杣口森林軌道」七八~八〇、「山梨県林務部の軌道」八一頁。
[18]芳賀正太郎編『奥秩父・大菩薩連邦 アルパインガイド35』山と渓谷社、昭和四十八年、「琴川から国師岳」一一四~一一五頁。
[19]国土地理院『二万五千分一地形図 金峰山』(昭和四十八年測量)、昭和五十一年。
[20]山と渓谷社編『奥秩父 アルパインガイド15』山と渓谷社、昭和三十六年、筒井日出夫「杣口から国師岳へ」一八三~一八六頁。