佐野峠街道(一)─小菅峠道 【仕事径】
佐野峠、もしくは佐野山とも呼ばれる峠を越える古道があった。隈なく凹凸する山々に覆われた甲斐の東部は、村々を繋ぐ便利な交通路に欠いていた。小菅川上流の小菅村や鶴川上流の西原村は、奈良倉山から権現山に続く山稜を越えて葛野川へと下り、桂川の要衝猿橋と結ばれていた。文化十一年(西暦一八一四年)の甲斐国志にも「ヤツホヲモレ(註:八坪・オモレ)等ノ小村ヲ経テ(中略)佐野山ノ麓ヲ越ユレバ(中略)是レ小菅丹波ヘ行ク道ナリ険路四里余ニシテ小菅村ノ内白沢ト云地ニ下ル」とあり[1]、天保八年(西暦一八三七年)の古図にも、小菅から「さの峠」を越えて瀬戸に下る峠道が記載されている[2]。
古来、佐野峠、佐野山の名は特定の地点でなく、峰越えの全体を指すものであった[3,4]。一二三四・七米の竹ノ沢三角点付近を中心に、南東側の一〇四〇米圏鞍部(阿寺沢乗越とも[4])で東に阿寺沢、西に和田、その鞍部の北約二百米の一〇六〇米圏(小佐野峠、西原峠とも[4,5])で東に飯尾、北西側の一二一〇米圏鞍部で南に和田、奈良倉山東尾根の一一八〇米圏(十文字峠とも)で北東に白沢への道を出している。つまり、鶴川、小菅川の三村からの道が、二通りの経路で葛野川の和田(現在の中風呂)へ通じていたのである。特に小菅川・白沢からの道は複雑で、葛野川への新旧合わせて三本の下降路があった。一二一〇米圏鞍部から下るのは短く急な道で、葛野川左岸に入るアシ沢出合の一軒家脇の石に刻んだ道標は、小菅への道としてこの経路を示している。一方、一〇四〇米圏鞍部から下る遠回りの緩い道は、佐野峠道、佐野峠街道[6]などと呼ばれる初版地形図[5]収載の里道で、道の造りからして馬道であったと推定される。他に、奈良倉山の南面を回り込んで西鞍部(旧佐野峠)から釜入へ下る道[3,4]もあったという。
このような佐野峠の性格のため、地名は正確に一点を指すべきとの現代的解釈において、様々な混乱が発生した。佐野峠を一〇四〇米圏鞍部や一二一〇米圏とする事例が続発し、地形図もまた後者に「佐野峠」の文字を置いた。また、別称の西原峠、小菅峠が同様に特定の地点に置かれることも見られた。特に西原峠の名は、一〇四〇米圏鞍部と一〇六〇米圏(小佐野峠)の何れに当てられる事例も見られた。また小佐野峠は、本来の位置が峠らしからぬ分岐点に過ぎないため、飯尾道の最高点である杖地蔵(一〇九〇米圏の阿寺沢ノ尾根乗越)[5]が小佐野峠とされたりもした。ここで「佐野峠」の名称を意識的に使用せずに、敢えて改めて整理するならば、大菩薩側から順に、「旧佐野峠」(1321独標・奈良倉山最低鞍部、一二六〇米圏)、「小菅峠」(一二三四三角点北西の一二一〇米圏鞍部、地形図に佐野峠と記入)、「小佐野峠」(坪山への支尾根が東に分岐する地点の南、一〇七〇米圏の山腹で、鶴川への道が分岐する地点)、「西原峠」(阿寺沢道が乗越す一〇四〇米圏の鞍部)となる。
このように佐野峠越えの道は葛野川に二つ、鶴川に二つ、小菅川に一つの入口を持つ複雑な形を取っているが、ここでは和田(中風呂)から一二三四・七米三角点付近に向かって北に登り、十文字峠から白沢に下る小菅峠道について記載する。昭和五年頃、田島勝太郎は奈良倉小屋(註:奈良倉山から鶴峠への道と小菅峠道との交点付近にあった小屋)から佐野峠を越え、一二一〇米圏鞍部から下って和田までニ時間弱で達している[3]ので、当時かなり良い道だったことは間違いない。奈良倉小屋は、小菅からの林道とともに奈良倉山の水源林管理のために建てられたものであり、道もよく整備されていたようだ[3]。昭和三十年のガイドでは、小菅峠から小永田までの小菅川側の部分を所要一時間五分の一般コースとして紹介している[8]ので、その頃までは十分利用できたことが分かる。しかし現在の小菅峠道は、営林作業道として程度の差はあるが大部分が通行可だが、十文字峠から奈良倉小屋跡の約一粁は非常に状態が悪く、部分的にほぼ消滅している箇所もある。
● 和田~一〇〇八独標
松姫鉱泉手前の「佐野峠入口」の表示を下って中風呂橋で葛野川を渡り、すぐ上の廃屋の一軒家裏の石標を左に入る。アシ沢を渡って右岸尾根に取り付き、尾根に絡みつつ単調にひた登る。訪問した三十八年前は伐採跡にバラヤブが酷く繁茂し、一歩ごとに棘を避けたり外したりして進むので猛烈に時間が掛かったが、道自体は良く踏まれていた。最近一〇〇八独標から見下ろした限りでは、アシ沢右岸が見事に伐採され、境界となる尾根上に張られたフェンスが尾根を左右に絡む峠道を寸断していた。フェンス沿いを機械的に登るならともかく、峠道として歩ける状態ではないように見えた。
● [逆行区間]一二一〇米圏鞍部(地形図佐野峠)~一〇〇八独標
松姫鉱泉を示す道標に従いトラバースしながら南に進む。植林中の水平道は、登山道と呼ぶのはどうかというほど、荒れている。数分でトラバースを終えると尾根に出て、枯木のペットボトルとビニールテープを目印に下り始める。
尾根の向こうが大伐採地になっており、若木が植林されているのだが、驚いたことに、その保護のための鹿柵が、ちょうど尾根上に稜線から麓まで張られているのである。そのため、尾根を絡むようにつづら折れに登る登山道が、尾根上を通過するたびにネットで寸断されており、事実上使用不能になっている。ネットが張られた後作られたであろう、尾根上をネットに沿って一直線に行く、非常に歩きにくい急勾配の踏跡が付けられている。しかも、登山道はどちらかと言えば、ネットの向こう側を中心に付けられており、ネット手前側の踏跡はそのうち消えてなくなってしまった。どこかに通過できる扉があったかもしれないが、良く探さなかったので気がつかなかった。
転がり落ちるような急傾斜が終わり、軽く登り返すと一〇〇八独標となる。
● [逆行区間]鈴ヶ尾山~一二一〇米圏鞍部(地形図佐野峠)
鈴ヶ尾山から一二一〇米圏鞍部までは、古い地形図によると鶴川・葛野川分水尾根の東を巻いて進むのだが、東斜面を切り崩して尾根沿いに車道が出来たため、旧道は消滅してしまったようだ。そこでやむを得ず、稜線の踏跡を進んだ。
踏跡は明瞭で歩きやすく、1238M峰南西で一度車道と接した後、西にサギチョウノ尾を分けながら1260M峰に登り、再び車道に出たところが一二一〇米圏鞍部である。峠道はここで稜線を越え、葛野川側を巻き始める。
なお稜線伝いに進むと竹ノ沢三角点(1234.7M)があるが、潅木のヤブが深く踏跡は不明瞭で、地形的判断が難しい。また小佐野峠まではほとんどの区間が車道化されていて、容易に西原峠道に合流する。その先一〇四〇米圏鞍部から下る道筋が緩く下る馬道らしきルートである。
● [逆行区間]十文字峠~鈴ヶ尾山
十文字峠は奈良倉山東尾根を横切る所を指し、峠といっても水平道上の一地点に過ぎない。十文字というのは本稿で説明した小菅から十文字峠・佐野峠と越えて猿橋に至る峠道と、長作から十文字峠を越えて土室川へ入る峠道が交差するための名と推測されるが、長作からの道は不明瞭になってしまった。十文字峠から佐野峠方面へは峠から見ると比較的明瞭だが立派なものではなく、松姫峠の車道が開通した今、通行者は稀であるようだ。
ここから南下する佐野峠道は、植林と自然林を交互に通過しながら、秋切沢の源頭を、ほぼ水平に進む。道は流失気味で歩きにくく、時には不明瞭ですらある。
自然林のトラバースになると、今度は倒木で歩きにくい。あくまでも水平に進み、鈴ヶ尾山(1238独標)付近で、林道に合流する。どうやら、この先は峠道が拡張され、林道になってしまったようだ。
● 十文字峠~白沢(小菅村営奈良倉林道(車道)終点)
峠では明瞭だった道はすぐに消滅し、廃道であることは明らかだった。気持ちいい雑木林を水平に行くが、道型は消えかかっていた。左後方から鶴峠道が合流すると明瞭になったが、1分後に緩く下り始めた鶴峠道を見送ると、またあるかなしかになった。鶴峠道は、この古い峠道の水平部を一部だけうまく使ってるようだった。鶴峠道との二つの分岐は、この古道の存在を知らないと、気づくことすら難しいほどの痕跡だった。小植林で弱い踏跡が現れたが次の自然林で消え、再び植林になっても回復しなかった。適当に道の気配を繋いで水平移動すると、カラマツ植林に飛び出した。緩く広い尾根には車道がすぐ下まで登っていて、その終点からこの水平な痕跡まで踏跡が上がって来ていた。酒ビン、テープ、赤杭がある賑やかな地点で、前方には水平な作業道が付いていた。この水平道は、二、三分でまた消えそうな微かな痕跡に戻ってしまい、炭焼窯跡を見てなお水平に道の気配を追った。
傾斜の緩い幅広の小尾根に乗ると小平地があった。数本の木組みを残すだけの奈良倉小屋の跡地であった。七十年前の「静謐(ひつ)のなかにそっと置かれたささやかな好ましい小屋」[9]は跡形もなかった。ここからの道はある程度良くなり、少なくとも地面の安定した箇所では峠道の道型がきれいに残っていた。新しい白い境界標杭と石標が点々と続いていた。すぐヒノキ植林に入り、尾根に絡んで下った。道幅は広いが荒廃気味であり、道は枝打ち材や落葉に覆われ歩き難く、道がどこにあるか分かるという程度であった。不明瞭な箇所もあったが何とか繋がっていて、尾根形状は不明瞭かつ複雑だが、峠道は九十九折れを交えてうまく絡んで下っていた。歩き込まれた様には見えず、ほとんど利用されていないものと思われた。奈良倉沢が見えて来ると木橋で渡って、奈良倉沢の左岸に伸びる奈良倉林道(車道)の終点に出た。
【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)
- 松姫峠から奈良倉山を経て来る車道
- 美流沢中間尾根から鈴ヶ尾山
- 飯尾峠道から小佐野峠
- 長作からの十文字峠道(不明瞭)
[1]鈴野藤夫『関東南部の渓流』つり人社、昭和五十年、「葛野川」二六七~ニ七一頁。
[2]岩科小一郎『大菩薩連嶺』、昭和三十四年、「鶴峠まで」ニ三五~二三七頁。
[3]田島勝太郎『奥多摩 それを繞る山と渓と』山と渓谷社、昭和十年、一九七~ニ一五、ニ一五~ニニニ、三〇ニ~三〇六、四九四~五〇一頁。
[4]田中新平「鶴川水源の山々を探る」(『山と渓谷』一一〇号、ニ九~三四頁)、昭和二十三年。
[5]岩科小一郎「権現山とその附近」(『山と渓谷』一三号、八六~九三頁)、昭和七年。
[6]陸地測量部『点の記』、「竹ノ沢測點」、明治三十七年。
[7]陸地測量部『五万分一地形図 丹波』(明治四十三年測図)、大正二年。
[8]落葉松山岳会編『大菩薩とその附近 登山地図帖』山と渓谷社、昭和三十年、北村武彦「佐野峠越え」一七八~一七九頁。
[9]神山弘「大菩薩の寂境 連嶺東辺の山旅」(『ハイキング』一一八号、三六~四一頁)、昭和十八年。