大ダワ林道 【廃径】
はじめに、「大ダワ林道」はもはや存在しない、と言っても過言ではないかも知れません。廃道とは、踏み固められた道が存在するが、部分的な消滅、ヤブや草木の繁茂、整備不良などにより、一般の通行に適さない状態の道を意味すると考えます。ここでは便宜上「廃道」のカテゴリに含めましたが、通行時(2022.4.16)の状態としては、7~8割の区間がもはや「廃道」としてすら存在しておらず、消滅していました。道がない崩壊地を延々とトラバースする感じで、通るにしても、大雲取谷遡行者が下山で使う場合など、いざとなったら大雲取谷か二軒小屋尾根へエスケープできるつもりの歩行が望まれると感じました。奥多摩ビジターセンターのサイトでは、「登山道」の項目に「大ダワ林道 通行止 土砂崩落」 と表示していますが(2022.4.28現在)、道自体が多くの部分で消えているので、「通行止めの登山道」という程度の甘い認識では酷い目にあうと思われます。
事の発端は、2010年4月に鍛冶小屋窪(大雲取谷1152m左岸出合窪)出合の約150mほど奥で高さ約100mの大崩壊が発生し、同4月30日から通行止になったことにあります。大崩壊の現場は脆い岩の傾斜約50~60度のトラバースで、崩壊発生後に突破を試みた登山者が転落死しています。経年でさらに崩壊が進んだと見られ、現状では大崩壊の手前ですでに極めて悪く、今回崩壊箇所に達することすら出来ませんでした。山体そのものが崩落した大崩壊箇所以外も、林道が大雲取谷本流(六間谷)を離れて支沢に入る日向窪まで、道が崩土で埋まりかなりの部分で消滅していました。日向窪から先は崩落箇所の数は少なくなりますが、しかし通行者がいないことで道が自然に還りつつあり、やはり道の消滅部が増加しつつあります。
大ダワ林道の起源は江戸時代のワサビ道にあると考えられる。例えば嘉永7年(1855)に権衛谷(権右エ門水流)へのワサビ田開墾届が出されるなど、早くから日原川奥地の利用が行われていた[1]。雲取小屋が開業した昭和3年、原全教がカルメ尾根(小雲取谷左岸尾根)から雲取山へ登ったときは、権衛谷へのワサビ道を経て、小雲取谷出合のワサビ小屋への踏跡を辿ったという[2]。つまり二軒小屋尾根を乗越した辺りまでは道があったことになる。昭和6年の菅沼達太郎の概略図を見ても同様である[3]。明記されていないが昭和6、7年頃と思われる高倉亀太郎がカルメ尾根を登った記録では、大椈別れに小雲取小屋をへて雲取山頂まで二里半の道標があった。今は使われぬカルメ尾根道の途中にあった小雲取小屋は、その数年前に通った原全教の記録にはなかったことから直前に新造されたものであろう。
昭和8年に東京市が日原川一帯の山林を水源林として買収すると一気に整備が加速し、多くの林道や巡視小屋が作設された。大ダワ林道もこの時期に開設されたと見られ、昭和15年刊行の「秩父山塊」に初見する[4]。「大ダワ林道」の呼称は、知る限りでは昭和22年の雑誌記事で奥多摩山岳会の創立者真鍋健一が用いたのが最初である[5]。当初は日原からの歩道が大椈別れで大雲取谷と唐松谷に分かれるので、そこから大ダワまでが大ダワ林道とされていたが、車道の延長に伴い、二軒小屋下降点から大ダワまでを大ダワ林道とするようになった。「びっしりと繁った原生林下」「笹の間の一本道」「苔むした丸太を乗越えたり」などの表現から[6]、当時の山相は今とは違った美しい森になっていて、かつては「雲取山への登路のうちで(中略)もっとも安易なコースのうちの一つ」[7]として知られていた。しかし少なくとも今世紀には崩壊が進んで悪路となり、廃道化以前にも死者が出ていたとの話もある。
● 二軒小屋下降点~日向窪
車道からいきなり50~60度の急斜面を約20cm幅の踏跡で長沢谷へと下リ出した。この林道はずっとこんな調子である。二軒小屋と呼ばれる長沢谷渡河点の立派な木橋を渡り、電光型に登って二軒小屋尾根を乗越した。乗越から芋ノ木ドッケへ登る二軒小屋尾根には、正規道でないので不明瞭ながらもバリエーションクラスの良い道がある。乗越しから水平に行くとすぐ、不明瞭な権衛尾根道が分かれて大雲取谷へ下っている。鍛冶小屋窪を過ぎてすぐトラロープが落ちていて、鍛冶小屋窪右岸尾根に大崩壊の捲道らしいテープが巻いてあった。直進するも、脆い岩や土砂のため大崩壊へ行き着くまでがすでに極端に悪く、引き換えした。初め急登する小尾根の捲道はどこから水平になるか分からず、踏跡を見つけて何度か水平に行くも、都度崩壊に追い返された。結論的には、何も考えずテープを追って60m登るのが正解だった。このマーキングテープは崩壊の上端を通過したところで消え、林道への復帰とその後の全ての道筋ではほぼ目印がなく、ごく稀に見える道型や、時々見かける補強の石垣、桟橋の残骸、都の設置した標識類を辿って進む。
登った分を落葉の堆積した急斜面を転げるように下り返し、林道の続きっぽい雰囲気の痕跡に復帰した。柔らかい土砂の崩壊が頻発し、キックステップで新雪を行く要領で、林道位置を土砂の堆積具合で推測しながら急傾斜のトラバースを続けた。籾曽窪を渡ると小雲取谷出合へ落ちる尾根を回った。図根点らしいコンクリート柱と保安林看板が目印になった。微妙な岩屑を掴んで直後の小崩壊を通ると、一時的に緩い山腹になったが、どこが道か分からずそれはそれで参った。気の抜けない崩壊のキックステップをこなし、微流の芋ノ木窪を通過した。桟橋が落下して脆い岩片と細木に頼る微妙なへつりの後、微流の栃ノ木窪を渡った。窪を渡る部分はどこも両岸付近の道が消えている。38・39林班界標を見て、約35度の傾斜を、道の断片、微かな痕跡、石垣を探してキックステップで進むのでなかなか疲れる。日向窪左岸で完全に道が消え、勘で進むと谷に積もる土砂や落葉に埋もれそうな道標があった。右岸にも道はなかったが、登れそうな斜面を目で追い倒木の下敷になった保安林看板と破損した桟橋残骸を遠望した。日向窪はすでに大雲取谷の支流の支窪なので、水流はあるかなしか、地形も多少穏やかだった。核心部は終わったと見て良い。
⌚ฺ 二軒小屋下降点-(5分)-長沢谷-(10分)-二軒小屋尾根乗越-(25分)-大崩壊手前-(1時間30分)-日向窪 [2022.4.16]
●日向窪~大ダワ
道標から窪右岸の道のない斜面を上方の破損桟橋まで登ると、薄い道型が回復した。つかの間のアセビやブナの穏やかな山腹を過ぎ、熊穴窪に入ると完全に道が消滅した。窪は落葉で埋まり、両岸とも道の雰囲気が感じられないため、やむを得ず涸れた窪を登った。右岸の約30m上の斜面に短い石垣を見たので、そこに至る推定ルートを頭に描き渡沢点を見積った。渡沢点の細木に保護色のように色褪せて見難いテープが巻いてあったので白テープで補強した。その約20mほど下流に、瓦礫に押し流され落葉に埋まった道標の破片があることを、後で知人のm氏に聞いて知った。後日写真を拝見したところ、右岸の道の続きを探して上ばかり見ていると歩く方向と光加減によっては見え難そうな埋まり具合だった。熊穴窪からバラ窪にかけ、雰囲気の良い美林を消えそうな道で辿った。バラ窪を回り終わって登りが一瞬平坦になったところに大きな倒木があった。踏跡はその下側を抜けて大ダワ直下の1625m付近の涸沢の三股の方に続いていたので行ってみると、この道で始めて見た二、三の空缶があり、その先大ダワ窪に微かな踏跡が付いていた。初回はそれを登って簡単に大ダワに着いたが、m氏によれば三股のそれぞれを回り込みながら大ダワまで少しずつ登るのが正道とのことであった。再訪時に調べると、正道は倒木付近でいったん消えた後、登りながらその先へ続いていた。崩壊して道が消えたさらに2つの小窪を深く回り込み、大ダワのすぐ北にある小鞍部の直下をゆるく登りながら、大ダワにある通行止めの柵の裏側に登り着いた。
⌚ฺ 日向窪-(1時間5分)-大ダワ [2022.4.16, 2022.5.15]
[1]上野福男「多摩川上流水源山村地域における冷水資源と山葵栽培 土地利用の地理学的研究」(『とうきゅう環境浄化財団一般研究助成』六七号)、一二二~一四五頁、平成二年。
[2]原全教『奥秩父(正編)』朋文堂、昭和八年、一八二~一九三頁。
[3]菅沼達太郎『奥多摩東京近郊の山と渓』山と渓谷社、昭和六年、一七六頁。
[4]原全教『秩父山塊』三省堂、昭和十五年、「日原から雲取山へ」四九~五〇頁。
[5]真鍋健一「日原から雲取への登路」(『山と高原』六五号、一八~二二頁)、昭和二十二年。
[6]奥多摩山岳会編『奥多摩の山と谷 登山地図帳』山と渓谷社、昭和三十年、樽井秀美「大ダワ林道」九四~九五頁。
[7]奥多摩山岳会編『奥多摩の山と谷 登山地図帖』山と渓谷社、昭和三十三年、「大ダワ林道」九四~九五頁。