毛渡乗越道【藪径・雪径】

 毛渡乗越は上州赤谷川から越後の毛渡沢への乗越しである。現在上州側が登山者に辛うじて歩かれているが、越後側は痕跡すら残っておらず、かなり古い時代に遺棄されたと見られる。明治40年頃、赤谷川のエビス大黒ノ頭南面に鉱山があり、土樽との間に毛渡乗越越えの盛んな交通があったとの話だ。土樽から毛渡沢に入る当時の道は、国境手前で東俣に入り、その支流の越後沢の右岸尾根を絡んで毛渡乗越を越し、現在の登山道のように赤谷川へ下って、金山沢出合にあった鉱山小屋に続いていた。廃坑と共に道も廃れ、昭和初期にはすでに断続的な踏跡になっていたという(「上越の山」(日本登高会編、昭和12年)p185-187付近)。
 昭和初期、毛渡沢はスキーコースとして普及し、六年には法政大学・山想会共同運営のスキーヒュッテ「毛渡沢ヒュッテ」が、右岸支沢のオキイノマチ沢を少し入った地点に建設された。

● 毛渡乗越~越路ノ沢出合

 毛渡乗越から土樽への下降路についての資料は、極めて少ない。古いガイドブック(「東京附近山の旅」(朋文堂、昭和31年)によると概念図に道の記入があり、群大ヒュッテまで二時間とされているが、無雪期の記録を調べても全く見つからず、この記述は信頼が置けない。昭和12年刊の「上越の山」ですら、当時ようやく古い切り開きの跡が残っていて、オキイノマチ沢の毛渡沢小屋まで二、三時間だったという。
 そこで稜線から地形や植生をよく観察し、沢筋までのルート取りとして、下り出しは一ノ沢源頭を下降→傾斜がきつくなり始めたら一ノ沢左岸尾根(越路ノ沢右岸尾根)に移行→尾根伝いに越路ノ沢出合まで下降、という計画を立てた。
 最低鞍部の倒れた道標から、踏跡ともつかない笹ヤブの微かな分け目を下ると、1~2分で、一ノ沢源頭の水流のない小さな窪みに沿って、笹と潅木のヤブ掻き分け下るようになる。数分後には、縦走中の水場に使えそうな細い水流となる。
 1480M付近で草付となり、水流の抉れが大きくなり出し、沢がカーブして先が見えなくなるので、左手の一ノ沢左岸尾根の、大岩の下にトラバースして移行する。県境稜線からこの大岩を視認していたので、あえてそこまでは稜線を辿らないでいた。
 この尾根は、毛渡乗越の西方約100M地点の県境上の1580M圏峰を起点に、北に越路ノ沢出合まで落ちており、岩勝ちで斜度が強く形状が不明瞭なので、慎重な下降が必要だ。
 尾根は潅木と笹のヤブが濃く、足元が見えないほど葉と枝が絡み合っており、地形図ではっきり分からない細かい支沢や支尾根が入り組み、方向を維持するのが容易ではない。わざと蛇行し、方向を都度修正しながら、ゆっくりと下る。小さな岩場や急傾斜がヤブに隠れて見えず、常にヤブにホールドを確保しながら進むため、速度が上がらない。時々登れそうな木に登り、周囲の地形を確認しながら進む。
 右手の一ノ沢に雪渓が現れてきたので、快適な下降に使えそうな斜度になる地点を見計らい、沢への安全な下降点を探しつつ、恐らく1340M付近で雪渓に降り立った。
 数分間の楽しい雪渓下りも、上から覗いた感じ10M以上あろうかという滝上で終わりとなり、やむを得ず支沢から1300M付近と思われるヤブ尾根に再度戻った。尾根はこの付近で丸くなりかつ一ノ沢は右に離れていくので尾根上を左にトラバースし、左手の越路ノ沢寄りの尾根上を下る方針に変更した。
 ヤブはほんの気持ち程度薄くなり、もがくというよりは何とか歩くという感じになってくる。踏跡かもしれないものが現れては消え、また時々ヤブが切れて草付やガレ場が現れるのでホッとする。相変わらず右手に支沢が次々と現れ、それを下って楽をしたい誘惑を振り払い、ヤブ尾根の中央を保ちながら下る。
 そんなヤブ尾根も、右手の毛渡沢東俣と左手の越路ノ沢の二つの沢音がはっきり聞こえてくると終わりになる。越路ノ沢出合のわずか上流の、毛渡沢東俣にころげ落ちるように下りついた。

 

⌚ฺ  毛渡乗越-(1時間25分)-越路ノ沢出合 [2010.6.24]

●越路ノ沢出合~バッキガ平

 ここから植林地までは沢筋を歩くので、遡行の装備を付けた方が遥かに早い(下記記録も遡行時間である)。越路ノ沢出合から下の毛渡沢下降は、難所といえる箇所は全くないが、激流と巨石の多さのため気を抜いて歩けるほど楽ではなく、しかもとにかく長く単調だ。6月なので水量は多く、河岸まで激しく笹・蔓草・低木のヤブが繁茂して、歩ける河原が全くない。大岩がごろごろする間を落ちながら流れる水流にも、歩きやすい浅瀬は多くは見つからない。沢の地形は単調で、時々合流する大きな支沢を除いては目印がなく、人為的な形跡も非常に少ない。道を探しながらヤブに突っ込んでみるが空振りに終わり、結局流れに戻るかヤブを強引に漕ぐかのどちらかになる。今何処にるかもわからず、永遠に苦行を続ける錯覚に陥るほど、精神的に参る道筋だった。
 同じような景色の中を、時間感覚を失ったまま、二俣(東俣西俣出合)、シッケイ沢出合と過ぎていく。特にシッケイ沢を過ぎてからは谷が小広くなり、オキイノマチ沢出合(1000M)以外には地形的に変化もなく、場所の感覚を殆ど失ってしまう。大岩を縫う激流と河岸の平坦地の密ヤブとの二者択一となり、下山中なのでモチベーションもすでに低下し完全に戦意喪失しており、どちらにしても滅入る選択だ。
 後で分かったのだが、「日本登山体系3谷川岳」(白水社)に詳しい記述があった。仕事道が、オキイノマチ沢出合のやや上流部に始まり、バッキガ平近くまでずっと右岸の少し離れた高みを通っているとのことだ。
 この谷は広いうえ分流が多く、特に枯れた分流は道のように見える。しかも、仕事道に出合うチャンスは、オキイノマチ沢出合上部とバッキガ平近くの渡渉点の二箇所のみ。しかし入口にマーキングがあるわけでもなく、詳しい予備知識なしに下降時に入口を見つけることは難しいのかもしれない。
 広い谷の中で水流は年代ごとに動いているようで、幾筋もの小さな流れや水流跡が複雑に絡み合っている。底なし沼のようにどろどろな流れ、潅木が繁茂し通せんぼする流れなど、どれも経路としての利用には適さないが、本流とそれらのどちらを通るか、都度逡巡し、あちこち行き来しながら下っていく。
 稀にヒノキ倒木や残置ワイヤーが沢に落ちており、斜面に植林地があると思われるが、だいぶ上の方のようで、沢周辺には作業道は見つからない。唯一見かけたピンクテープ周辺を丹念に捜索したが、道型は発見できなかった。
 1954年にはあったらしい、オキイノマチ沢出合付近の法政大毛渡沢小屋の痕跡には、気がつかなかった。
 877Mのデトイノマチ沢出合から、いよいよ谷は広くなり、基本的に谷の左端を通っていた流れが右寄りになり、左岸から小屋場ノ沢が合流し台地が広がりだすと、初めて谷の中に植林地が現れた。関東の植林地ほど整然とした感じはないが、スギかヒノキが林立し、ヤブが薄いので気がつく筈だ。枝打ちの端材が散乱するようになると明瞭な踏跡が右から合わさり、安心して歩けるようになる。オキイノマチ沢からの踏跡はバッキガ平に近いどこかで渡渉しているらしく、恐らく左岸の植林地が始まった僅かに下流でその踏跡が右岸から左岸に渡ってきたのだろう。
 植林地を抜けると、夏草が茂る細道を掻き分けること1分で平標新道に合流する。平標新道は数十メートル毛渡沢本流を下った後、鉄板を渡した吊橋を渡って、バッキガ平で群大ヒュッテ近くの林道に出る。

 

⌚ฺ  越路ノ沢出合-(40分)-シッケイ沢出合-(2時間)-左岸植林地-(15分)-バッキガ平 [2010.6.24]

 

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毛渡乗越を左に下る
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毛渡乗越で見る毛渡沢源頭の笹ヤブ
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一ノ沢に残る雪渓
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大水量の毛渡沢の豪快な流れ
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美しい渓流が続く

 

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一ノ沢の雪渓を下る