大菩薩北尾根 【廃径】
大菩薩嶺から北に派出し、泉水谷と小室川の出合に落ちる長い尾根。バリエーションルートとして通行が多く、割りと良く踏まれているが、明瞭な道はなく踏跡は断続的である。通行者が多い割に道が安定しないのは、稜線を忠実に辿る者と、尾根に絡む古道を辿る者があり、踏跡が分散しているためと思われる。従って、道を辿るとの考えに立てば廃道探索の実力を要するが、古道を無視して単に登り方向に尾根筋を辿るだけなら、体力さえあればバリエーション経験者なら容易である。
北尾根は、古くから通行があったようである。恐らく大正期と思われるが、環状林道の開通以前、「頂上よりの尾根(註:北尾根)が一のタルの方へ立派に通っているので、柳沢への尾根と誤り大黒茂や小室川に紛れ込んで困った人も随分あった。」[1]と云われ、中でも有名なのは、明治四十五年の若き日の田部重治の雪中遭難である。当時二十七歳の田部は、まだ地形図も存在しなかった時代、唯一頼りにできる地元の案内人を峠で返らせてしまい、大菩薩嶺から丸川峠に抜けるつもりを北尾根に迷い込み、さらに谷へ下って雪の夜の大黒茂谷で遭難した事件である[2]。寒さで意識を失った田部だったが、唯一の同行者、中村清太郎がひとり泉水谷の険路を丹波まで下り、村人に助けを求め一命を取り留めた。これは積雪で一ノタルの環状林道が全く見えなかったための遭難だが、「大菩薩から北に走る尾根を搦んでいる小道が沢に達する(図九〇〇米の記載ある所)」(註:泉水谷・小室川出合)[3]ともされるので、尾根には何らかの小径があり、それを下っての遭難もあったと思われる。昭和三十年代の土方利夫の報告[4]によると「わずかではあるが切り開きの跡」があり、尾根上の所々に「古い林班界標」があったと言うことから、一度は巡視道が開かれたのかもしれない。
明確に記録された登山家による北尾根初登挙は、昭和三十一年の奥多摩山岳会によるもので[5]、その成果はガイドブックで公表された[4,6]。大黒茂林道の上は今と違ってヤブが酷く、苦労したことが伺える。
北尾根には、上から一ノタル、ニノタル、三ノタルの三ヶ所の特徴的なポイントがあると言われている。田島勝太郎は、国内御殿や東嶺(三本木ノ頭)付近から北尾根を望んだとき見える、三つの肩[3]のこととしている。実際歩いてみると分かるように、尾根上には明瞭な峠や肩状地形はなく、緩急はあるものの一方的な登りの中、ただ多数の小ピークを延々と繰り返すだけである。あくまでも遠望した時、尾根が緩んだ一帯を指す言葉であり、特定の地点を指しているわけではない。
文献を繙くと、著名な登山家が述べたタルの位置は、実に多様である。その理由は恐らく、実際に歩いた登山家がいなかったこと、また当時の地形図の精度の低さのため、北尾根が比較的均等な傾斜で描き出されていたことが挙げられよう。田島は一ノタル、ニノタル、三ノタルの標高を一九〇〇、一八〇〇、一六〇〇米付近とした[7]が、原全教は一九〇〇、一七六〇、一五〇〇(付図では一六〇〇)米付近とした[8]。また岩科小一郎は一九〇〇、一八〇〇、一七〇〇米と述べている[9]。三者三様で、旧地形図が示す地形の曖昧さと相俟って、なかなかタルの位置が特定できない。
そこで、田島が説明した国内御殿からの北尾根の眺めを、山岳展望ソフト「カシミール」で再現してみた。環状林道が通過する一九七〇米付近の一ノタル、一段下がった一八四〇米付近のニノタル、一七二〇米付近で長く緩い部分が続く三ノタルがはっきりと分かる。一ノタル、二ノタル、三ノタルの位置についての決定的な根拠はまだ見つかっていないが、地元の案内人や技術者を連れ立った山旅を重ね、現地に最も精通した田島勝太郎の言にここでは従うこととした。更に一段下、大黒茂林道が通過する一四九〇米付近を三ノタルとする見方[4]もあるが、北尾根が下るに従い東寄りに向きを変えるため、国内御殿からはそのタルミがよく見えず、従って田島が述べた三ノタルはそこではないと思われる。
●泉水谷・小室川出合~大黒茂林道
まだ歩いていません。
●大黒茂林道~大菩薩嶺
ノーメダワと泉水谷を結ぶ大黒茂林道が北尾根と交差するのは一四八〇米圏、六一・六五林班界標が立つ尾根の平担部である。林道は約二百五十米に渡り尾根に沿って進むと右に切れていくので、そこから尾根上の踏跡に取り付いた。枯死笹ヤブに付いた明瞭な道を進むが、笹が繁茂していた時代は分かり難かったことだろう。枯死笹ヤブは一六〇〇米付近で消えたが、同時に明瞭だった踏跡も消えてしまった。岩混じりになった尾根をデタラメに登るのは容易だが、断続的な古道をきっちり辿ろうとすると中々分かり難かった。一六六〇米圏の地形図に出ない小突起先のクビレを過ぎ、断続的な踏跡は尾根の右に絡むようになった。枯死笹ヤブが出た部分だけが分かりやすかった。一七〇八独標を大きく右巻し、その先も同様に巻き気味に絡んで進んだ。
やがて尾根が痩せ気味になり、小さなコブ続いて、大して登らないようになった。長い三ノタルの一角であった。凹凸をなぞって進む踏跡は稜線上か右に絡んで付いており、割と踏まれた部分、背の高い枯死笹ヤブ中の分かりやすい部分、不明瞭な部分が交替した。
雰囲気の良いツガの森を稜線沿いに急登し、一八四〇独標を右巻の藪っぽく断続的な踏跡で通り過ぎた。この辺がニノタルで、大登りなくコブを連ねる稜線を、左右に巻きつつ緩登する明瞭な踏跡が続いた。そのような地形で尾根全体が何となく緩んだ場所なので、厳密にどの地点がタルであるとは言うことができえない。地形図に乗らない一八四〇米圏ピークの左を巻き、高さ二~三米程の緩い高みを過ぎると、尾根上が開けた笹原となって微小な鞍部の向こうが緩い登り斜面となっていた。地形図では一八六〇米コンターが横切る辺り、何か峠のような雰囲気を持った場所であった。この地点を横切る微かな水平踏跡があり、左は数十米先まで、右は国内御殿ノタルまで続いているのを確認したが、これが環状林道であるかはまだ確かでない。
ヤブや倒木が勢いを増し明瞭な踏跡を失った広い尾根は大変登り難く、それらを避けるべく、大きく右巻きする断続的な踏跡に入った。この一帯の右巻き道は、心配になるほど大黒茂谷側に尾根を外れ、しかも断続的で失いやすいものであったが、うまく使えば比較的楽に一ノタルまで抜けられる。約八〇米登った一九四〇米圏で一時尾根に乗るが、地形図一九八〇米圏ピークも右を巻く。尾根筋にも断続的な踏跡が付いていて、それを登っても大した苦労ではないが、巻きの踏跡は多少不安定ながらヤブ潜りより全然楽で早く、二回目以降で知っていれば時間を短縮できる。
巻道は一九七〇米圏小鞍部で、多少細くなった尾根にまた乗った。この一帯が一ノタルと思われた。尾根を少し登って数米の岩頭を越した辺りで、痩せた稜線上に二本の古角柱を見た。古くてとても表示は読めないが、柱自体はしっかり形を留めていた。恐らく七、八十年前まで使われていた、白ペンキ塗り角柱形式の林班界標か道標であろう。かつての丸川峠からの道は現在のように大菩薩嶺直下を九十九折れで登らず、横手に北尾根に乗り上げ、北尾根を嶺まで登っていた時代があった。一九八〇米圏のこの位置は、地形的に見ると当時の登山道がちょうど北尾根に乗った地点の様に思われた。
そのまま尾根を六分登ると人声が賑やかになり、二〇一〇米圏で丸川峠からの登山道に出合った。それを四分登ると、足の踏み場もないかと思うほど混み合う大菩薩嶺の山頂であった。角柱地点から十分で山頂ということは、過去の記録に照らせば、やはり角柱地点が一ノタルということであろう。
⌚ฺ 大黒茂林道の65・61林班界標-(1時間15分)-ニノタル-(20分)-一ノタル-(10分)-大菩薩嶺 [2017.9.24]
【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)
- 大黒茂林道から65・61林班界標(1480M付近)
[1]田島勝太郎「多摩秩父行」(『山岳』二〇巻一号、一~四八頁)、大正十五年、九~一〇頁付近。
[2]田部重治『山と渓谷』第一書房、昭和四年、「甲州丹波山の滞在と大黒茂谷」二四六~二六一頁。
[3]田島勝太郎「多摩川水源の山脈に就きて」(『山岳』二〇巻一号、一五九~一七三頁)、大正十五年、一六五頁付近。
[4]川崎吉蔵編『アルパインガイド21 大菩薩連嶺』山と渓谷社、昭和三十六年、土方利夫「大菩薩北尾根」一〇五~一〇六頁。
[5]梶玲樹「大菩薩北面 泉水小屋を中心として」(『岳人』一一四号、七二~七五頁)、昭和三十二年。
[6]落葉松山岳会編『登山地図帳 大菩薩とその附近』山と渓谷社、昭和三十四年、「北尾根」一〇五頁。
[7]田島勝太郎『奥多摩 それを繞る山と渓と』山と渓谷社、昭和十年、一四六頁付近。
[8]原全教『多摩・秩父・大菩薩』朋文堂、昭和十六年、一二二、一四五頁付近。
[9]岩科小一郎『大菩薩連嶺』朋文堂、昭和三十四年、二二五頁付近。