真ノ沢林道 【仕事径】
真ノ沢林道は、股ノ沢林道と共に明治42年に完成した奥秩父最古の林道とされる[1]。木暮理太郎は大正3年に、入川からの道が真ノ沢右股(1750M圏二股)を通って甲武信岳、股ノ沢上部を横切って十文字峠道に接続する道が近年出来たとの伝聞を記した[2,3]。大正5年に登った冠松次郎は、「道が二つに岐れて左のが甲武信へ行く林道で、右のが十文字峠の方へ分れる林道です。右の方へ七八町も入って林道を離れて、左の山側の深叢を分け登って暫く行くと急に頭上が明るくなって、三宝山の南に累積されてある大岩の櫓の上へ飛び出しました。」と記しており[4]、当時の道筋は今とは違っていた様だ。また佐藤野里路は、2100-2200m付近の小尾根を通る部分で古い十文字道が分かれていたとしている[5,6]。どの記述も実際の地形と比べ不自然な点があり、当時の地形図が十分正確でなかったこともあり、どこで十文字道が分かれていたかは推測できなかった。
大正4年に木暮は田部重治と共にこの林道を下った[7]。彼らは三宝山東方でわざわざ林道を離れて沢を下り、木賊沢下で再び林道に復帰している。当時は正確な情報がなかったため、真ノ沢林道の正しい径路を知らず、甲武信から下り始めた林道がはじめ三宝山の下までトラバースするので十文字峠への道と思い込み、適当に沢へと下り始めたものと推測される。林道は常に高みを行くため、一度沢を離れると千丈の滝上まで出合うことがなく、木賊沢下に作業小屋を見つけ道があるはずと捜索した結果、左岸高くを行く林道を再発見したのである。
その後長い間一般登山道として親しまれ、平成3年にはまだ一般登山者が通行出来る状態であったというが、千丈の滝上の橋は危険で渡れず渡渉を余儀なくされたという。平成8年には埼玉県の管理歩道リストから外され、登山道としては廃道となっていた。現在も一般開放されない営林用の作業道として細々と維持管理されているが、精通者だけの通行が前提のため道標等はなく、部分的な荒廃で分かり難い箇所や危険な箇所であっても何の手当てもない所も数多い。それでも全体としては、登山者や遡行者の通行が少なくないためか良く踏まれていて道の状態は悪くなく、熟達者の通行は困難でない。個人的には37年前に下降して以来だが、個別に傷んだ箇所はあっても全体の印象は大きく変わっていなかった。当時の記録を見返すと、休憩を除いた正味の歩行時間で、甲武信岳から真ノ沢渡沢点までが約3時間、そこから柳小屋までが約1時間であった。今回、翌日一部区間を下降したときの時間と大差なく、きっとこの道は開通した107年前とそう変わらぬ姿を今も保っているのであろう。
この林道の経路については、国土地理院からは現在に至るまで一度も正しい図が発行されていないので注意されたい。真ノ沢林道が地形図に収載されたのは、昭和4年測量(同7年刊)の5万図「金峯山」「三峰」からである。まず 柳小屋から真ノ沢渡沢点(千丈ノ滝上)までについては、当初ほぼ沢沿いに右岸を行くように、昭和48年測量(同49年刊)の2.5万図「中津峡」から現在に至るまでは右岸の高い位置を行くように示されているが、実際の経路はその中間である。最新図に即していえば、柳小屋から尾根に取り付き1420M圏までの部分は概ね正しく、そこから山腹をほぼ水平にトラバースし、最後に少し登って、1500M圏で真ノ沢を渡る。従って地形図の1560M付近での渡沢は間違いである。渡沢点から1750M圏二股付近まで、地形図は左岸の沢沿いを進んでいるが、これも重大な間違いだ。一帯の地形は険しく、一般的な登山では沢沿いに進むことはできず、林道は左岸を大高巻きしている。最後に1750M圏二股付近から甲武信岳直下までも大きく違っている。最新版(2.5万図「金峰山」、平成26年測量(同26年刊))では道自体が削除されたが、同図の平成18年測量版(同18年刊)までは、全く違った道筋が表示されていた。同じ間違いでも、その内容が時代とともに変遷してきたのが面白い。当初は地形自体が間違っていたため、それに引きずられて道の位置が違ってしまっていた。そのため当時の版を見ると、間違ってはいるものの道を示す破線の引き方の雰囲気には納得感がある。しかし大きな地形間違いは補測調査で訂正され、5万図「金峰山」(昭和42年補調、同44年刊)において一度は訂正された。僅か数年間ではあるが、この期間に発行された地形図(次版の昭和47年資修、同48年刊まで)は、真ノ沢源流部の林道がかなり正確に表示されていた。ところが驚くべきことに、直後に刊行された2.5万図「金峰山」(昭和48年測量、同51年刊)では、全く違う誤った道筋が記入されたのである。
また山頂直下の道の付き方は、時代とともに変遷があった。昭和4年測量の地形図が示すように、当初の道は山頂からいきなり下り始めていた。その様子は、大正時代の登山者が報告する通りである[3,6,8]。しかし昭和30年代には、営林署の管内図では変わりなかったが、ガイドブック類の説明では現在と同じ三宝山への登山道から分かれる道になっているので、その前後に真ノ沢林道の終点が変わったようである。
現在この道は、多少の修繕がみられる程度で本格的な手入れは行われていないため、随所で寸断や不明瞭箇所が発生している。迷わず登っても半日は掛かるので、たとえ道がなくても当日中に甲武信岳まで抜けられる自信がある方か、山中泊の用意がある方以外は、入山すべきではないです。
● 柳小屋~真ノ沢渡沢点
柳小屋前の釣橋を渡り、入川右岸の鋼製桟橋を通って道標に従いひと登りすると、真ノ沢林道分岐の道標があった。甲武信岳を指示する腕が外され、真ノ沢林道にはロープが張られていた。折り返しつつ登る落葉に続く薄い道型はすぐ尾根に乗り、50~60Mほど絡みつつ登った。丸みを帯びてきた尾根筋の左を登る部分で道型がかなり薄く不明瞭になり、時に見るマーキングを確認しながらアセビなど潅木の歩きやすそうな部分を縫って登った。1400M圏で痩せてきた尾根に乗り、89空中図根点の石柱を見て稜線を小さな上下をしながら大登りなく3分も行くと、急に痩せ尾根が消えて壁のようなのっぺりした斜面に突き当たった。
道はマーキングに従いここから急にトラバースを始めた。巻き始めは倒木に埋もれて道が見えず心配だが、すぐに薄い踏跡が見えるようになり、美しい自然林を微かに下り気味に進んだ。露岩を過ぎた涸小窪で十数M急下しまた水平に行くと、露岩に掛かった破損桟橋が現れ木の根に掴まりへつって通過した。この辺から道は緩い登りに転じるので、見上げる形になるので見渡しが効かず道筋が良く見えず、たまに現れるマーキングに注意して歩を進めた。露岩先で一度少し下り(下りの時は分かり難く要注意)、薄く分かり難い落葉の痕跡を一定ペースで斜めに上っていった。1539独標北側では極めて弱い痕跡が分散して並走し、正道の判別がほとんどつかない程になった。とにかく水平に行かず、斜め上へ登る踏跡を選ぶとうまく行きやすかった(下りでは見下ろす形になるので、割りと道筋を把握しやすい)。千丈の滝の脇を通過する辺りで急に明瞭な道になった。恐らく遡行者も巻きのため利用するためであろう。道からは滝が殆んど見えないため、道草をして滝見物に下ってみた。沢の上に張り出した倒木に乗ると木の葉越しに滝の全容が何とか分かる場所があり、二段30M程の激流が轟音を立てて落ちる様は凄まじかった。滝を通り過ぎると道は急に真ノ沢に下った。橋は落ちて跡型もなく、トラロープのある10M余りの右岸のへつりの後、1Mほど飛び石で渡るようになっていた。距離的には余裕だが、水量が多く石が飛沫で濡れコケで滑っているので、飛び石は危険な掛けであった。丁寧に靴を縫いで歩いて渡った。そのとき川底の砂地に光るものがあったので拾って見ると砂金だった。見た目には膨大な量だが、一粒ずつ道具もなしに砂と分けて取るのは並大抵でなく、取ってみると金箔のように薄く重量もない。しばらく砂金取りで遊んだ後、先は長いと我に返って靴を履き直した。
● 真ノ沢渡沢点~甲武信岳巻道
本来橋があった場所なので、沢に下ってきた地点のほぼ対岸が登り口であった。マーキングに従い斜面の不明瞭な痕跡を10Mほど登るとグレーの読めない道標が木に取り付けてあり、水平に少し進むとピンクのテープを巻きつけられた85空中図根点の石標が埋設されていた。「秩空八五」の表示は道から見ると裏側になるので一見何の石標か分からない状態だった。その先に一見落ちそうな桟橋があったが、トラロープに頼らずともまだ何とか渡ることができた。河原をふと見ると、誰か人がいて、向こうからこちらに真ノ沢を渡渉してきた。服装からして、遡行者にも、釣の人にも見えず、登山者とも少し違う雰囲気で、むしろ旅行者のように見えるいでたちだった。大声を出して手を振ったらその人は気づいてくれたが、林道と河原との距離があり、真ノ沢の轟音もあって殆んど意味のある会話は出来なかった。柳小屋からここまで誰一人会わなかったし、砂金取りの短時間に後から追いついてきたとは思えなかった。その人も雰囲気もごく普通の人の雰囲気だった。それなのにその人が現れた位置は、まさにちょうど林道を下から上がってきた位置であった。この人はあっという間に自分に追いついてくるのだろうか。しかしその後二度とその人を見ることはなく、とても不思議な体験だった。
シダなどの陰性の下草が繁茂して道が見えなくなったが真ノ沢の流れに沿って緩く登りながら進み、急に30Mほどの高度を九十九折れて登ると、また美しい広葉樹の自然林の一本道を緩やかに登った。木賊沢出合の数十M上を通る辺りは、礫と倒木が斜面を埋め、明るい斜面に草が生えて道筋が分かり難かった。歩き難くペースが上がらず、マーキングに注意しルートを失わぬよう気をつけた。木賊沢出合を通過した辺りで一瞬水平になった後、礫や倒木が積もる小窪状でほぼ道が消え、マーキングも見えなくなった。垂直に登る雰囲気を感じキョロキョロしながら適当に登っていくと、やがて戻るように登る踏跡が現れ右の小尾根に取り付いた。その小尾根に乗った地点に読めない黄道標が木に打ち付けられていた。小尾根を一時登ってから、緩い登りながらのトラバースが再開した。まだ錆びていない新し目の黄色い国有林看板を見ると、道は水平になり、徐々に緊張する露岩が増えてきた。散った鮮やかなピンクのミツバツツジの花が、花道のように道に敷かれ心を和ませた。露岩帯は桟橋が落ちて危険なトラバースを強いられる上、倒木で不明瞭になっていて、転落とルート外しの両方に注意を要するいやな一帯がしばらく続いた。真ノ沢に張り出したシャクナゲヤブが煩い小尾根を回り緩い登りが再開すると、林道からは見えないが真ノ沢は1750M圏の二股を向かえ、以後右股の左岸を登っていった。緩く登って1750M圏左岸出合涸窪を回り、シャクナゲを分けながら登ると、左下の緩い斜面の下に真ノ沢の流れが近くに見えてきた。踏跡や痕跡から適当に下ればすぐ二股に降りることが出来、左右両股の中間尾根末端はすばらしいビバーク地になっていた。やがてヤブも幼樹も下草もない、歩きやすい庭園のような平坦な森になりどこでも歩けるようになった。数少ないマーキングに気をつけながら不明瞭な薄い踏跡を斜めに上って高度を稼いだ。広く緩い窪に入って1850M圏まで登ると、武信白岩沢との中間尾根が前方に見えていた。一帯は倒木や枯れ枝のない、ツガのスッキリした美しい森であった。
緩い窪の右岸小尾根に取付き、特徴のない斜面でどんどん高度を上げた。高山的な矮生化した植生のため若干ヤブっぽくなったが、その分森林中の頼りない踏跡に比べ明瞭な道になり、殆んどルートに迷うことはなくなった。1880M付近から、ごく淡いピンクのハクサンシャクナゲのが見事に咲き揃い始めていた。道に張り出したアセビやシャクナゲの潅木の枝が剪定されていて、切り落とした枝の状況からまだ半月以内のように見えた。良く見ると枝の切り落としの新しさも様々で、この道は今でも少しずつだが定期的な手入れが行われていることが分かった。トラローブも大部分が古いものだが、1ヶ所だけ新しいものもあった。林道上部ではどういう訳か東京営林局の古い「山火事注意」の看板が目立つようになった。1970M辺りから大きく折り返し登って、水平になり、次の微小尾根を小刻みな電光型で登ると、また水平になった。険しい地形を避けるためなのか、一貫しない道の付き方であった。ガレた涸小沢を回り、トラロープを掴みつつ崩れかけた桟道を通ると、2080M圏で源頭部の三宝沢を渡った。真ノ沢の渡渉点を別にすると、この林道で唯一の待望の水場であった。
崩壊か風害かで開けた明るい場所を通過した。そこからの眺めは素晴らしく、真ノ沢、入川の先に見えたのは、不自然に削られた山容の武甲山と秩父市街の遠望であった。急速に高山的ムードが漂い出し、小尾根を回りながらトラバース気味に高度を上げた。倒木帯で荒れた所も丁寧なマーキングで道は分かりやすかった。隣の涸窪に近づき、ほぼ接した後、また折り返し緩く登った。三宝沢のもう涸れている源頭まで戻り、また折り返して、雰囲気いい緩いツガの森を一歩ずつ登った。ヤブ状のツガの幼樹や苔むした森林を僅かな登りで北進した。迷う余地のない丁寧なマーキングが続き、道は細く薄いが安定していた。一瞬緩く下ったことで、2398独標西の小鞍部を越えたことが分かった。緩い登りを続け、次第に右手が明るくなってくると、ついに甲武信小屋への巻道に飛び出した。三宝山から来た道が国境縦走路を離れ、甲武信小屋に向かって巻き始めてすぐの地点で、道標には「柳小屋・危険」と表示されていた。
[1]小野幸『マウンテンガイドブックシリーズ19奥秩父』朋文堂、昭和三十一年、「山小屋と山村」三二~三四頁。
[2]木暮理太郎「秩父の奥山」(『山岳』九巻二号、二三五~二七一頁)、大正三年。
[3]木暮理太郎「奥秩父の登山に関する注意」(『山岳』十一巻一号、一二九~一三九頁)、大正五年。
[4]冠松次郎「秋信」(『山岳』十一巻三号、六四~八一頁)、大正五年。
[5]佐藤野里路「真の沢を下る(一)」(『山(横浜山岳会会報)』七号、二頁)、昭和五年。
[6]『東京附近山の旅』朋文堂、昭和九年、佐藤野里路「真ノ沢」一六五~一六七頁。
[7]田部重治(南日重治)「秩父の旅 三」(『山岳』十一巻一号、二七~三八頁)、大正五年。
[8]森喬「甲武信岳と奥千丈岳(国師岳)」(『山岳』十一巻一号、九二~九九頁)、大正五年。