大河俣林道 【廃径】
大河俣林道は、中津川から大河俣沢右岸にかけて走る古い林道だが、枚挙にいとまない程、資料により経路の差が大きい。そもそも林道名は営林署の内部的な呼称であり、公表された資料がないため、どの説が正しいとの判断はしようがない。特に大河俣林道の丸山下から検分河原までについては、全く情報がない。この区間は、閲覧可能な最古の国有林図(昭和23年)にも既に廃道となったためか記載がない。秩父鉄道の案内図(昭和5年)や青木好通の略図は簡単すぎて経路が特定できず、原全教「奥秩父・続」(昭和10年)の案内図は本文の説明と食い違いがあり明らかに間違っている。附属する別刷りの付図「大秩父山嶽図」が経路を示した実質的に唯一の資料であり、丸山西肩から中野沢に下り、大松ノソリの北面を検分河原に落ちる支尾根までトラバースし、検分河原に下っている。
● [逆行区間]検分河原~丸山下
大河俣橋付近の尾根末端の法面は崖になっていたので、西沢(地形図の金蔵沢)左岸の車道を100Mほど入った辺りの踏跡から、崩れやすい斜面をやや強引に登って尾根に取り付いた。尾根上には、大河俣沢側からの踏跡も上がってきていたので、車道からの取り付きが一見困難に見えたが、何らかのルートがあったのかも知れない。尾根上を絡んで登る薄い踏跡を10分ほど行くと、ヒノキ植林になり、続いて「公共」と書かれた図根点の石標を見た。
地形図に見えない1240M圏の鞍部から、踏跡は左の山腹をトラバースし始めていた。ここは中野沢に向けてトラバースを始める想定地点だが、明瞭な水平踏跡は見られず、自然林の斜面のトラバースを開始した。痕跡すら不明瞭な歩みを約10分間続けると、南東へ出る小尾根上でヒノキ植林に出合った。尾根を回り込むと自然林となり、向こうは急な窪状、その先に岩稜が待ち構えていた。窪状の下部はもの凄い斜度で落ち込んでいたが、今来た位置から等高に行く踏跡が上部斜面を横切っていた。足早にそこを渡ると次の植林地に入り、植林は大松ノソリ(1595独標から南東に出る尾根)の北東に向かう本稜を回る地点で終わった。
そこから中野沢までの約20分、美しい自然林のプロムナードが続いた。細く微かな水平道が、時にばらつき、時に緩く波打ちながら自然林に続いた。途中で通過した、緩斜面の一大広葉樹林は特に素晴らしかった。水平な痕跡は断続的で道と言えるか分からぬ程だったが、長く途切れることなく続いた。水音が徐々に近づき、中野沢の伏流になった水がちょうど現れる地点(1270M圏)で沢に降り立った。松尾尾根から来た「中野沢歩道」が中野沢に降り立つ、ちょうどその地点であった。
これから登る丸山の南斜面は一面ヒノキ植林になっていて、今年間伐が行われたばかりであった。そのため中野沢左岸の斜面は、道の存在すら分かり難いほど伐木と枝とで埋め尽くされていた。多くの作業踏跡が生成し、本来の道筋が分かり難くなっていた。一方作業に使われた経路には、当時のマーキングがまた殆んど損なわれることなく残っており、それは有難かった。
1250M圏で出合う左岸支沢の少し上から山腹に取り付き、支沢を渡り東を向いて斜めに登るのが、国有林図の中野沢林道であった。中野沢から丸山下までの区間が大秩父山嶽図が示す概略ルートとほぼ一致するので、旧大河俣林道の一部を利用して再生された林道と思われた。これに付いて登ると、道は植林中を1300M圏まで登ると、小尾根に取り付き折り返すように北西に反転した。一時自然林が見えたがすぐ植林に戻り、ワイヤーが幾重にも巻かれた倒木を見て尾根を登った。山が綺麗なら十分認識できる踏跡だったが、間伐による荒廃でかなり不明瞭になっていた。作業時の踏跡が混じり、正しい道筋の判別は困難になっていた。断続的に目にする痕跡を適当に繋いで登るしかなかった。
標高1380M付近は、作業踏跡の交錯が著しく、進む方向が分からなくなった。大部分がピンクテープのマーキングの中、黄色テープの下がる地点(1380M付近)があり、そこから右に緩く登る良い踏跡が林道のようだった。道はいったん落ち着き、1395M付近で折り返して小尾根に取り付いた。1430M付近で左への明瞭な水平踏跡があったが、一向に登らないので違うようだった。左に斜上する踏跡もあったが、すぐ間伐の荒れで消えてしまった。そこでとにかく垂直に上へ移動する方法を選んだ。間伐時の作業道の役割をしていたらしく、ある程度踏まれていた。1460M付近で水平踏跡が横切った。
やがて松尾坂道のような斜めにトラバースする踏跡に出合った。以前来たときは気づかなかったが、倒れてかつ文字がほぼ消えた保安林の看板があった(起こしておいた)。確信できなかったのは、間伐で余りにも大きく様子が変わり、同じ場所と断定する自信がなかなか持てなかったためだ。
⌚ฺ 検分河原-(1時間)-中野沢-(20分)-丸山下 [2015.9.20]
● 検分河原~大山西肩(十文字峠道)
西沢(地形図の金蔵沢)に架かる大河俣橋から、まず西沢の左岸に降りてみた。壊れた木橋を慎重に渡り検分河原(大河俣沢・西沢出合の広い場所)に渡ると、「山火事用心」の大きな旗が張られた草の台地があった。その奥にも大小数ヶ所の何もない広い敷地が並んでいた。ここが昭和30年に開通した森林軌道の終点として山林開発で賑わい、作業場に加えて約20戸の集落があったとは信じられない静けさだ。河岸に埋もれた鉄路の残骸だけが僅かにそれを伝えていた。
良く見ると、検分河原へは大河俣橋の対岸から短い支線車道が降りてきていたので、西沢の危ない木橋を渡る必要はなかった。その支線車道終点から幾つかの敷地を適当に抜けると、大河俣沢を渡る木橋があった。対岸の一段上にはカエデの大木があり、「大河俣のイタヤカエデ」の銘板が設置してあった。国有林図に従って右岸の下流側に回り込み、弱い踏跡から尾根に取り付いた。尾根上に出るとイタヤカエデの方から良い踏跡が来ていたので、直接尾根に取り付くのが正しかったようだ。歩きやすい植林尾根の登りが始まったが、良い踏跡は数分後に右に切れて行ってしまい、尾根の薄い踏跡を急登した。十分弱で左下からのはっきりした踏跡を合わせ、それ以後踏跡は明瞭になった。
全山が植林されており、国有林図を見ても様々な作業道が記入されている。道は尾根を直登せず、折り返したり絡む様に登ったりするのできつくない。道しるべのマーキングや、樹木に取り付けたナンバーテープ、ビニール紐などが目立ち、造林作業は現在も続いていることが見て取れた。道の真ん中に七三空中図根点の石標を見て登ると、両側が自然林になり踏跡が曖昧になってきた。天狗岩(1580M圏)直下の急登が迫ると、道は右に逃げるように巻きながら登り始めた。往時の登山道は稜線を忠実に辿っていたようだが、現在の道は明確に巻いていた。この一帯は稜線の20~30M下で造林地が終わっており、それに合わせ道が付け替えられたようだ。
すぐ右手に再び人工林が現れ、概ね稜線側の自然林との間を、尾根に沿って緩く登るようになった。道は安定し、倒木を切断したりステップを切るなど、古い手入れの跡があるため歩きやすかった。間伐され整然としたカラマツ林を抜けると、稜線の1690M圏から西に出る小尾根で自然林に変わった。急に道荒れが酷くなり、ルートを見つけるのに苦しむようになった。踏跡は倒木や流失で不明になり、見当を付けてトラバースを続けた。十分弱で針葉樹の森となった。複数の痕跡が離合しながら続き、それらは弱く断続的だった。幾つかの痕跡を常に眼中に収めながら、総合的にルートを判断して進んだ。突然上にコンクリ壁が見えると痕跡は右に切れて、奥秩父林道(車道)に出た。この地点は使われてないと見え、未舗装の路面に幼木が成育し、稜線を跨ぐ部分は土砂で埋もれていた。
稜線まで出て見ると、向こうからの登山者用の車道崩壊による通行止のバリケードが置かれ、大山沢に下る踏跡を指す道標が立っていた。腐敗し倒れた標柱に「原生の森遊歩道終点」と書かれていた。
林道の踏跡は車道を横切り、稜線に取り付いていた。道が尾根上に出ると森が切れ、両神山の鋸状の山稜や三国から十文字の稜線が良く見えた。この先の踏跡が大きく乱れていたが、1785独標は水平に右巻きするのが正しいようだった。微かな踏跡が再び稜線の右を水平に巻くようになった。倒木が邪魔をするようになり、それを下巻き踏跡ができていた。腐った桟橋が一ヶ所あり、少し切れていたので注意深く通過した。その直後、道標ある大山の西肩で十文字峠道と合流した。ここは十文字峠から尾根の北を巻いてきた道が、折り返して大山の西肩に乗り上げる地点であり、真っ直ぐ進むと大河俣林道に入ってしまうという、昔から間違えやすいとして有名な地点だ。道標はそのために建てられたもので、今や見落としそうなほど薄い道型となった大河俣林道の方は指していなかった。
⌚ฺ 検分河原-(1時間40分)-車道-(20分)-大山西肩 [2015.9.19]
【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)
- 車道の中野沢橋から中野沢1270M圏
- 検分河原(車道:市道17号横断点)
- 1785独標下(車道:奥秩父林道横断点)