狸穴歩道 【仕事径】
上武国境の1659M独標、すなわち大蛇ノ舟[1]は、滝谷山を始め幾つもの異名を持つが、その一つが狸穴である。山林計測の地籍図根点名から来た名である。狸穴から南天尾根を少し下った60空中図根点から麓の広河原へと続く作業道が、国有林の狸穴歩道である。
仕事道に含めはしたが、南天尾根から足切沢に下り軌道跡までは踏跡もなく、地形を読んで適当に行くことになるなど、道なき道を行く要素もある。仕事道としては難易度が高く技術を要する。
● 南天尾根(60空中図根点)~広河原
国有林図を詳しく見ると、狸穴歩道の分岐は南天尾根から雪久保林道が分かれる地点と同じく、60空中図根点が置かれた最低鞍部から3分ほど尾根を東南に進んだ地点のはずである。しかし付近の道の荒れからから見て、どうせ正道も消滅している可能性が高いだろうと、図根点から谷を真っ直ぐ下降した。日没まで1時間少々しかなく、道を探しながら行くだけの時間がなかったこともあった。
広葉樹の斜面は、急ではあるがヤブや岩が多くないので、スキーで滑走するかのごとく、あっという間に足切沢1390M圏二俣で谷底に着いた。
谷は広くて緩いゴーロ状で、水が涸れている。40年ほど前のカラマツ植林地のため、時々ワイヤーや空缶が落ちている。ここで本来の歩道に合流したはずだが道はなく、谷自体を歩けとのことらしい。小さな水流が出てきたが、真ん中を歩いても靴をぬらすほど出なく、礫のため歩き難いが危険はない。1290M圏で両岸から支窪を合わせ、傾斜を感じぬほど緩い、荒れた河原を下っていく。
16時を過ぎ、谷は既に薄暗い。枯木のように葉を落とした疎らな森のおかげで、地形や雰囲気は一応認識できる。広がった河原に、作業時の残骸だろうか、古い倒木が散らばる荒涼とした一帯を通った。後に廃探倶楽部管理人の方の情報で分かったことだが、狸穴歩道はこの辺から谷の左岸に水平についていたようだった(詳細は後出)。
さらに進み、一瞬谷が狭まると、右岸から雪窪林道から分かれて来た古い馬道と思われる水平道を合わせる。水平道は、最後は沢へと急に下り、崩壊気味の右岸を落ちるように下っているので、気をつけていないと見過ごすかもしれない。岩の間を抜けると直ちに、1220M圏の右岸支窪合流だが、岩の裏側から流れ込む小流は、下りでは恐らく気づかないだろうが振り向くと分かる。
困ったことに、谷の途中から左岸を高巻く狸穴歩道の入口らしい場所が見つからない。途中まで河原歩きで、何の地形的前触れもなく、マーキングもないまま、突然道が始まるパターン、これは既に雪窪歩道で経験しているので驚かないが、実際問題、薄暗い中で、突然始まる道の痕跡を見つけるのは難しい。整備の悪い道は、谷沿いが荒れて消滅していることが多く、山腹まで見渡して道の雰囲気を感じ取るものだが、それをするには既に暗すぎた。
このまま足切沢、さらに鞘木沢を下って広河原まで出るには、時間的に沢を下るしかないだろう、との判断で、ここまでは容易だった足切沢を下って見た。最初のゴルジュは水量が少なく中を通過したが、沢が北にカーブするあたりの次のゴルジュは、滝を持っていて深かった。登山靴での下降となる技術的問題以前に、そもそもルートやホールドがもう良く見えない。そこで、さっさと方針転換して一旦1220M圏の右岸支窪合流間で戻った。
もう16時半近く、周辺の様子が分かる程度である。次の作戦は、真っ直ぐ上へ登り、狸穴歩道の道型が暗くても分かるほど良好であれば、発見できるかもしれないので、それを使ってみようというものだ。落葉で良く滑る急斜面を数分登ると、何かがある。近寄ってみると、古い桟橋の残骸ではないか。道は悪いが何とか使えるかもしれない。すっかり安心したが、それが間違いであることをこの時はまだ知らなかった。
道は踏跡程度とはいえ、快適な水平道で、立派な石垣で道型を補修したところもあり、万全に見えた。そのうち線路の残骸が出てきたのには、全く驚いた。この水平な軌道跡は、恐らく尾根まで続いており、十分程度で鞘木沢・足切沢中間尾根に出られるだろう、と想像を膨らませた。
この部分は、後付けの情報と考察である。足切沢は右岸が索道沿いに伐採と拡大造林が盛んに行われたようだが、左岸と奥地については、若干のカラマツ人工林への転換が行われたものの、大部分は天然林の択伐が行われた程度のようだ。そのため森林軌道のような設備があること自体に驚き、しかも秩父営林署の記録にその痕跡が全く見られないことが不思議に思えた。軌道のような大掛かりな設備が内部資料にしか登場しないということはないと思われるからだ。
不審に思いネット検索すると、驚いたことに、軌道愛好者の方が数回に渡る実地調査を行い、報告を作成しているのを発見した(2007年はじめ氏、2009年廃探倶楽部氏)。red50kei氏による、齋藤達男氏の「日本近代の架空索道」(コロナ社、1985年)を参考にしたらしき略図に「日窒広河原沢軌道」が記入されており、鉄道専門誌「トワイライトゾーン MANUAL7」(1998年、ネコ・パブリッシング社)に詳しい記事があるという。日窒鉱業開発(現ニッチツ)が昭和10年代後半~20年代前半に、坑木と炭の運搬運搬のために敷設したとされているので、当時の動力事情からすると、手押しまたは馬のはずである。
しかしここは国有林であり、東京営林局および秩父営林署の記録(年史・森林図)に痕跡がない以上、梁瀬鉱業所が国の許可を得て開墾したとは考えられない。広河原谷は、昭和30~40年代に西武建設に立木販売(つまり伐採・収穫権と関連施設設置の許可)が与えられたが、(年号記載なく推定だが)戦前には中里村(現・群馬県神流町神ヶ原付近)の越前屋高橋土佐之助が、広葉樹専門に伐採と植林を行い、収穫木は現地で炭や木工製品に加工、馬で群馬側に輸送していたという。峠越えの馬道が何本か整備された。昭和10年に訪れた坂本朱は、散在する鞘木沢奥の数軒の小屋について報告、その一つに宿泊し星空を見ながら入浴したとしている。
このことからすると、越前屋の製品販売先が日窒鉱業開発であったと見るのが、自然であろう。輸送設備も買付け業者に任されるのが常なので、広河原沢下流の大黒までの輸送法を相談し、鞘木沢・足切沢中間尾根まで日窒鉱業開発が提供した軌道で水平輸送したものと推測される。尾根からは定石どおり修羅で落とし、鞘木沢、広河原沢と流していったか、または木馬道で引いたり、当時拓けていた馬道で運んだか、と見るのが自然だろう。
さて、軌道跡は、時に急斜面で崩れて細くなってはいるものの、概ね快適に歩くことが出来た。しかしあと数分で尾根に出るかという所で突然岩稜が現れ、桟橋が落ちている。見た目50度位の傾斜があり落ちたくない感じのところだが、怖がっている時間もなく、下巻き突破した(明るい時見ると非常に危険な可能性もあり参考にしないでください)。気を取り直して進むと、薄暮の中に突破不能に見えるすごい岩稜が現れ、桟橋は微塵も残っていないようだ(暗すぎてよく見えなかったに過ぎず、実は通れたのかも知れません)。しかし辺りは闇が支配しつつあり、考えている暇もない。瞬時の判断で、上から続く岩稜が途切れてトラバースが可能な高度まで、下草のない疎林の急斜面を30Mほど駆け下りた。足切沢の悪場が終わっていれば沢に下りても良いし、トラバースが可能ならそのまま水平移動しても良い。しかし夕闇に微かに照らされて浮かび上がるのは、トラバース困難(時間を掛けて慎重に進めば可能だが、今はその時間がないれば)な急斜面に散在する露岩帯と、依然として深く切れ込んだ谷。さすがに万事休すである。
しかしまだ僅かな幸運が残っていた。今いる微小な尾根は露岩が少なく点々と木が生えている。この斜度なら何とか登れるだろう。これを尾根まで登れば、ヘッ電をつけて尾根伝いに下降可能に違いない。5分ほど登ると先の軌道跡があった。周囲はすっかり落ち着いた自然林で、安定した道筋になっている。これなら使えるかもしれない。再び軌道跡を2~3分進むと、もう暗くてよく分からないが、何となく道が下り始めた雰囲気だ。軌道が終わって、作業道になったのだろう。さらに1分で尾根的な雰囲気の場所に出たが、もう尾根であるかすら正確に判断できない。ただ、道の方向は東南東、地形図の尾根の向きと一致する。
ヘッ電を取り出し、カラマツやヒノキ植林の中を比較的良い道をつづら折れに下り、尾根突端、すなわち鞘木沢と足切沢の出合に着いたようだ。電気が照らす範囲しか見えない、ここからの鞘木沢の下りが試練の第二ラウンドである。
沢沿いのマーキングがない不明瞭な道を下るときは、渡渉点の判断が問題になる。まず尾根突端を捜索する。とにかくヘッ電で前方180度くらいを順に照らし、可能性ある部分を詳しく捜索し、対岸に道の気配があれば渡渉して確認する、この操作を愚直に繰り返すしかない。元々が弱い踏跡は、流れの両岸で流失していることが多く、骨の折れる作業になる。
幸いなことに、鞘木沢は地形的に分かりやすい沢だった。まず尾根を左に下り、鞘木沢の左岸に渡って足切沢の出合を通過した。そこからは、岩で行き詰るごとに頻繁に右岸・左岸と渡り返すと、必ず踏跡が見つかった。右岸を2往復して3回目の左岸は少し長く歩けた。また右岸を一往復して長い左岸歩きとなり、次に右岸に渡ると道が少し登り、ヒノキ植林となった。真っ暗な中、左下からゴーゴーと恐ろしい音がする。なかなかの悪場のようだ。
道はついに悪場に突入し、腐った桟橋を脇から通過した。続けざまに固定トラロープと残置ピン(造林用ピンの転用か)で渡る岩場のへつり、さらに残置トラロープを使った3Mほどの下降…。とんだ作業道である。さすがに辟易してきたが、3分進むと突然支沢のものらしき大堰堤が現れた。支沢へ下って登り返すと、暗闇の中とはいえ、見慣れた風景にすぐ気がついた。雪窪林道が沢に降りる地点にある、サカキノ沢の出合にある堰堤だった。
【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)
- 車道(孫惣谷林道、採掘事務所付近)
[1]坂本朱「奥秩父西側尾根」(『山と渓谷』三四号、六八~七一頁)、昭和十年。