大嶽山参道 page 1 【廃径】
大嶽山(大岳山)と呼ばれる山が全国に幾つかあるが、「ダイダケサン」と読ませるのは山梨の大嶽山(国師岳の異称)だけのようだ。麓に建つ里宮の那賀都神社から大嶽山に至る参道が大嶽山参道である。国師岳は現在二五九一・九米の國師岳三角点峰とされるが、元来、数え方によるが三~六の小丘から成る複合体との考えが中心だった。従って大嶽山はその最高点である北奥千丈岳(二六〇一米)を頂点とする、現在の国師岳を含む一帯とみるのが自然であろう。那賀都神社の起源は神話の時代に遡るが、養老元年(717)開祖の「国師ガ嶽」を奥の院とする大嶽山金剛坊大権現が、社記が示すある程度信頼できる起源である。一時廃れたが元文五年(1740)に再建され、参詣者で賑わったという修験道の寺院である[1,2]。笛吹川右岸の小集落である赤ノ浦から軽トラックがようやく通る山道を約一・二粁登った赤ノ浦川左岸の高台にあり、現在も広く寄進を集めている。
明治五年の政府による修験宗廃止令により那賀都神社も修験寺としての存続が不能となり、わずか数戸の赤ノ浦の村社として生き残った。しかし修験禁止令も民衆に深く根付いた行者の山岳修験を封じることはできず、その後も大嶽山を目指す行者が絶えなかったことが登山家の記録で知れる。昭和二十一年より修験道は法的に可能となり主要な修験寺院は修験宗に復帰したが、那賀都神社は神社のまま留まった。神社としては山村小集落の氏子四戸を有するのみだが、崇敬者数三万人とされるのも多数の「講」(修験道の信者)を抱えているためであろう[3]。だが諸文献の表現の変遷から、明治頃までは北奥千丈岳を奥ノ院として重視していたのが、昭和の辺りから天狗岩の奥宮を持って奥ノ院とする見方が広がったように見える。道の踏まれ方を見る限り、信者による登拝はかつての大嶽山参道を使用せず、大弛峠から国師岳を経て天狗岩まで下ってくるのが殆どと見受けられる。車で峠まで登っては、本来の御神体であった北奥千丈岳を素通りし奥宮まで下ってくるという、開祖の志からすれば奇想天外な方法で参拝が行われるのも、現代修験道の在り方の一つなのだろうか。
【奥宮の位置について】
大嶽山参道については、どこまでが参道なのか、換言すれば本来奥宮はどこであったかという問題がある。山梨市の隼に、那賀都神社の別当寺(江戸時代以前に神社の仏事部門を担っていた寺)に起源を持つ観音寺という曹洞宗の寺院があり、由緒書上帳(「創建由来説明書」程度の意味)で那賀都神社について「国司嶽者奥院申伝」(国師岳─恐らく北奥千丈岳を差す─が奥ノ院と伝えられる)と説明している[2]。かつてまだ修験道が辛うじて残っていた時代、北奥千丈岳の頂きには「大嶽山大権現」の小さな石碑が立っていたという[4,5]。山体そのものを御神体として蔵王権現を祀る修験道のご本尊であることを表し、その頃までは北奥千丈岳を大嶽山として信仰対象にしていたと考えられる。明治五年、時の政府により修験道が禁じられると、修験寺院であった大嶽山は神社として生きる道を取った。そのため権現神は公式な立場を失ったのであろう。現在、大山祇(オオヤマヅミ)、大雷(オオイカヅチ)、高龗(タカオカミ)の三神を祀る天狗岩下の祠が、那賀都神社の奥宮とされている。昔より天狗岩の頂上に差し込まれていた剣は台座のある大きな新剣に更新され、信徒の寄進により維持されているが、修験道と関わりの深い権現信仰は廃れてしまったように見える。大正十三年に吉澤一郎が見たとき「大嶽山大権現」の石碑は半分に欠けており[6]、昭和六年に渡邊三郞が見たのが最後の記録となった[7]。また昭和九年の記事で報告された怪僧岩下にあった大巌権現の木祠も[8,9]、しばらくの間登山者が見かけていたが、昭和四十二年の記事に現れて以降[10]、記録が見られなくなった。明治時代には登山者は導者の案内により参道を登り[11]、白鉢巻をして国司嶽、大天狗、小天狗と 書いた白衣を着た先達率いる一行に出会ったりしていたが[12]、登山者による目撃記録としては昭和七年に参道を登ってきた行者一行以来途絶えている[13]。
「大嶽山大権現」の石碑の他にも、かつて北奥千丈岳が奥宮であったことを伝える間接的な証拠もある。それは里程標である。慶応四年の文書で那賀都神社から奥宮までは七里余とされ[1]、参道には一里ごとに里程標が立てられていたようだ。「里」とは公式には昭和三十三年まで使用が可能だった長さの単位で、江戸時代以前、特に民間では目安程度の曖昧な距離の指標とされてきた。山道の距離測定は、一時間で歩ける距離を一里としたとの説がある。明治三十九年の萩野音松の登山記録から、小休止の長さなど一部推定を交えつつ神社から北奥千丈岳までの各区間の所要時間をまとめると、神社~一ノ丸(一里?)五十五分、一ノ丸~繋場(二里?)七十分、繋場~三里標(黒金山北の二〇〇〇米付近)八十分、三里標~四里標(京ノ沢左岸尾根に乗る地点)九十分、四里標~五里標八十五分、五里標~天狗岩(六里?)七十分、天狗岩~北奥千丈岳(七里余)六十分、となる[11]。ただし萩野の記録で里程標の記述がない場所は当時既に失われていたものと推測し、区切りの良い場所を推定地点として「?」記号付きで記載した。この時間記録を見ても、現在奥宮がある天狗岩を慶応四年当時の奥宮と同一と考えるのはとても無理があり、当時は北奥千丈岳が奥宮であったと考えるしか無いことが分かる。
【時代とともに変化した道筋】
大嶽山参道は、何が参道か決め難いほど時代とともに常に変化し続けた。特に大きな影響を与えたのは伐採と治山であった。伐採のため山が刈り払われ、搬出用の軌道や車道が敷設された。治山工事のため谷に堰堤とダム湖ができ、工事用運搬路が開設された。そのため参道は一部を除き廃道化もしくは消滅して使用不能となった。ここではこれらの開発が始まる前、すなわち昭和初期の参道を辿ってみることにする。
明治七年の釜川村絵図によると、当時の大嶽山参道は神社から登って牛首ノタルを越し、カラ沢を下って西沢を渡り、アザミ沢に入って天狗尾根に取り付いていたという[14]。薊沢から天狗尾根に取り付いて登る道は地元では測量の道と言われていることから、明治十八年の國師岳Ⅰ三角点埋設当時に利用されたと推測される[15]。実際、五万分の一地形図「金峯山」の初版にその道が記入されている[16]。しかし同三十七年の薊沢三角点設置時には、徳和から大ダオを越え大嶽山籠堂に下り登り直しているので[17]、この時点では京ノ沢出合の籠堂が既に存在し、参道は牛首ノタルから黒金山の北を捲き籠堂まで下降する新ルートに置き換わっていたものと考えられる。籠堂の建設は明治二十年頃とされ[8]、原はその経緯を、カラ沢を下るより尾根道の方が安全で、かつ上流の方が水量が少なく渡渉しやすいため、京ノ沢出合に籠堂を建てたことが理由と推測している[4]。明治三十九年に萩野が辿った時の記録は、既に新ルートのものであった[11]。完成後約二十年を経た京ノ沢小屋(籠堂の、主に登山者による俗称)は破損箇所が多く雨漏りしていたという。新道は牛首ノタルで旧道と分かれ、黒金山の北を捲いて進んだ。その辺りは道もよく、雨のため傘をさして歩いたとのことだ。京ノ沢出合付近へ落ちる尾根を下ると京ノ沢小屋に至る。道は京ノ沢小屋の前で西沢を渡り、しばらく京ノ沢を遡ったあと一八二五独標の西鞍部へと急登して旧参道に合流、天狗尾根を登り、天狗岩の奥宮に達していた。この道は行者や測量技術者以外にも、日露戦争時には村人が戦勝祈願のため奥宮まで参拝したとの話もある[9]。
大正時代に入ると開発の手が西沢の奥まで入るようになり、参道に様々な影響が及ぶようになった。最初の動きは大南窪出合付近での金とベンガラの採掘であった[14]。鉱山への当初の道は、参道の三里標(黒金山北の一九五〇米付近)で分かれて金山へ下りるものだったが[14]、二〇一八米の牛首ノタルを越える運搬路としては無駄の多い道だった。そこで大正十五年、芹沢から一八一四米の御築江(築江神社奥ノ院)の南鞍部を越えて京ノ沢小屋付近に下る捲道が開かれた[18]。元々の奥ノ院への参道を延長したものである。これにより国師岳登山は少し楽になるはずだったが、登山者の記録を見たところ、殆ど利用されることはなかったようである。鉱山が短期間で閉鎖されたことに加え、風害でこの地域の道が酷く荒れてしまい[14]、恐らくすぐに廃道化したためかと推測される。
この頃の出来事として、京ノ沢小屋の建替えと荒廃、倒壊があった。当時は山小屋を大事に使う習慣がなく、小屋材を燃料として燃やしたり失火による焼失などが頻繁で、新築の小屋も十年持つのが精々という時代だった。明治二十年頃、信者の寄進により建てられた小屋は[12]、明治三十九年に萩野音松が泊まった時には、床はあったが破損して傾き雨が漏っていた[11]。約三十年が経過した大正五年に建て替えられ[19]、神棚のあるしっかりした本普請の小屋になった[20]。大正九年に冠松太郎が見たときは「まだ頑丈で当分使用に耐えられる」とのことであった[21]。しかし昭和六年に原全教が見たときには床が剥がされ祭壇の幣帛(白い布)もなく[14]、同八年の記事では激しく荒廃し[22]、十四年には利用不能[23]、十九年には無くなったとされた[24]。小屋がないのなら、大嶽山参道の赤ノ浦からの天狗尾根に取り付くまでの区間をわざわざ通る意味がなくなってしまったのである。
さらに参道に大きな影響を及ぼした出来事は、山梨県林務部による伐採用の西沢林道(西沢森林鉄道の正式名)の軌道敷設であった。最初の軌道は昭和初期の頃、広瀬からちょうど今の西沢渓谷駐車場の少し先まで左岸の短い区間に開設されたが[25]、中央本線の塩山駅に接続する本格的な路線が昭和六~八年にかけ塩山~広瀬間に建設された[19]。広瀬付近で笛吹川を右岸に渡り、山腹を通って七ツ釜を高捲いて奥へ進み、昭和九年頃には不動滝付近[19]、十三年頃にはカラ沢手前で西沢橋を左岸に渡り薊沢に達した[26,27]。また大南窪の鉱山が再開し、鉱山小屋が西沢橋付近と大南窪とに建てられ、運搬された鉱石が軌道で積み出されていた[23,24]。それに関連してか、それとも京ノ沢小屋が使用に耐えなくなったためか分からぬが、参道は京ノ沢小屋に降らず、西沢右岸を二百米ほど遡った地点で鉱山からの道と合流し[27,28,29]、丸木橋で渡るようになった[8]。鉱山へは徳和からも馬道が開かれた[23,27,30]。軌道の方も、昭和二十四年頃には京ノ沢、三十年以前に大南窪出合の鉱山小屋跡(伐採用の軌道開通と前後して鉱山は閉山)を通り西沢本谷の奥まで延長された[31]。軌道の京ノ沢支線は、京ノ沢を一六五五米付近の橋で渡って本谷へ向かう本線から分かれて京ノ沢左岸を登っていたので、広瀬から軌道を歩いて行くか、徳和から鉱山跡まで馬道で来て軌道の本線を歩けば、京ノ沢支線に入ってその途中から天狗尾根を登る大嶽山参道に取り付くことができるようになった。その結果、赤ノ浦から牛首ノタルを越え京ノ沢小屋跡付近で西沢を渡らずとも、軌道を歩いて天狗尾根の下まで入れるようになり、参道の那賀都神社から天狗尾根下までの区間はあまり歩かれることが無くなったようだ。昭和十五年発表の紀行には、登山者は西沢の軌道や大ダオ越えの大南窪の鉱山道を利用していて、奥宮へ参拝する信者も減少し神社から京ノ沢までの参道を通る者は僅かだろうと記されている。青笹川を遡行してきた著者自身、帰路に使う予定だった参道を獣道と思い見逃している[31]。昭和三十二年の記事で牛首ノタル付近が荒廃のため利用できなくなっていたとのことだが[29]、神社から牛首ノタルを経て黒金山まで三時間十分とする三十三年の記事から[33]、那賀都神社から繋場を経て牛首ノタルまでは道が良かったことが分かると同時に、牛首ノタルから先の黒金山北面を通る部分が荒れていたことが分かる。この区間は昭和初期にも倒木で酷く荒れたことを原全教が報じており、風害を受けやすい地形なのであろう。
昭和三十年代以降になると、さらに幾つもの出来事が追い打ちをかけた。山梨県の伐採事業とそれに伴う山の荒廃、それを抑えるための治山事業が、参道の大部分に壊滅的な打撃を与えた。伐採は那賀都神社のすぐ裏から黒金山の北尾根までと天狗尾根の下部で完膚無く行われた。山が作業場となり通行に支障が出たであろうし、伐採作業やその後の植生の変化で道が消えることもあったであろう。さらに問題なのは、土壌が失われ保水性が低下したため土砂流出が盛んになり、多数の堰堤が建設された。中ノ沢(地形図で「赤ノ浦川」とされる沢)では尾根に取り付くまでの沢沿いの区間に数基の堰堤が設置され、特に大きな一基の上にはちょっとしたダム湖が出来ている。参道が京ノ沢を通る部分でも二基の巨大堰堤上が小さなダム湖になっている。この区間では沢沿いに歩いた参道は全く通れなくなった。京ノ沢ではさらに悪いことに、笛吹川全域での数十年に及ぶ大規模な治山工事のため運搬用の車道網が張り巡らされた。そのため京ノ沢から天狗尾根にかけ、参道を通ると車道を五回も横切ることになる。那賀都神社からの参道を通らず、西沢から軌道を歩いてきて天狗尾根下で参道に入るようになった登山者は、京ノ沢支線の開通当初は軌道を通って京ノ沢左岸を登った。当時は、京ノ沢一七〇一米左岸に流れ込むガレのすぐ奥に伐採飯場があり、そこから急登して天狗尾根に取り着いていた[31,34,35]。ところが京ノ沢の治山工事により軌道そのものが堰堤やダム湖の下になってしまった。しかし伐採事業を継続のための必要から、堰堤を越える形で軌道が敷き直された[36]。この堰堤の竣工は昭和四十三年だから、四十年頃のことであろう。京ノ沢が治山工事の結果、参道が通行不能になって車道や引き直した新しい軌道(といっても五十年以上前に廃止されたもの)を通らざるを得なくなり、参道は急斜面を掘削して通した軌条から急な山腹に直接取り付くようになった。この新線は四十八年のガイドでは既に「軌道跡」となっており、軌道跡を歩く登山者は堰堤の脇を通り、その百米先でまだ先へ続く軌道跡を離れ尾根に取り付くと記されている[37]。敷設から僅か数年で廃止となった新線だが、当時川上牧丘林道の六本楢峠付近からシラベ平を越えて伸びてきた車道が、昭和四十二年までに京ノ沢上部に達していた[38]。当時山梨県林務部は、生産材の輸送力アップのため軌道を廃止し、シラベ平の土場まで索道で上げ、車道で搬出する方針を打ち出していた[39]。こうして上下に廃線跡の線路が並走する奇妙な光景が生じ、その地点を通る時いまでも目にすることができる。山梨県は笛吹川源流地域の山林を余りにも伐り過ぎてしまい、山体崩壊や渓流荒廃を防ぐ治山工事が追いつかなくなったと見え、東京営林局直轄の治山事業に応募、昭和四十五年から国による工事が始まった。天狗尾根下部には、参道の尾根道が串刺する形で京ノ沢の下部へ資材を搬入するための治山運搬路が開かれた。その結果、西沢渓谷から軌道を来た登山者はそのまま治山運搬路の車道を経由して県営の西沢林道(現在、鶏冠山林道西線と呼ばれる車道)に入り、植林作業道から大嶽山参道の二〇六〇米付近で合流するようになった[40]。一方、徳和からの登山者は、大ダオからいったん京ノ沢に下らなくても、シャクナゲ新道を歩けば国師岳に直行できるようになった。昭和二十年代はシャクナゲ新道の方が悪路で大南窪から京ノ沢へ下る鉱山道の方が歩きやすかったが[35]、鉱山道が荒廃すると共にシャクナゲ新道が整備され、登山者はそちらを通るようになった。昭和四十四年の大弛峠開通後も車で登る登山者は少数派だったが、平成十五年に舗装化されると一気に国師岳へメインルートになり、今や信者の多くは国師岳から天狗尾根を下って奥宮に詣でているようだ。現在登山者もまた、車を利用して大弛峠に上がり国師岳から下ってくる方が少なくないようだ。細々と歩かれてきた西沢渓谷から入って天狗尾根の途中で参道に合流する登山路も、平成元年の記事によると、軌道跡の荒廃と西沢渡渉のため上級コースとされてるようになった[41]。令和四年現在も同様で、渡渉や岩場のへつりを難なく熟せれば問題ないという状況で、西沢渓谷のハイキングコースとの分岐に「この先通行不能」の看板がある。
参道上部の大変化と前後して、下部もまた伐採による深刻な影響を受けた。昭和三十七年の記事に、那賀都神社から黒金山の北を通る辺りまでは台風と伐採とで荒れてしまったとあり[4]、国師岳が西沢渓谷または徳和から登られるようになると、少なくとも登山者にとっては参道は無用になった。青笹川、赤ノ浦川(中ノ沢)、さらには西沢右岸上部の伐採が進み、昭和四十年代前半頃までに神社~現在の塚本山林道付近と繋場~牛首ノタル~黒金山北尾根が、後半には塚本山林道付近~繋場までが伐採された[34,42,43]。五十一年に牛首ノタルから下った登山者は、下っても下っても伐採地帯であったという[44]。従来牛首ノタルから天科方面へ下る登山者は那賀都神社へ下っていたが、この登山者はなぜか青笹へ下っている。青笹道は昭和六十三年の地形図に初見することから、伐採に伴い新造された道と想像される一方、那賀都神社の奥でしばらく中ノ沢沿いに行く参道は、中ノ沢にかなり大規模なものを含む四基の堰堤が出来てしまい、工事のため通行できなくなった可能性が考えられる。現在も堰堤を越える道はなく、踏跡で脇を無理やり登って越す状態である。那賀都神社から繋場までの参道に関する最後の記録が昭和三十三年の記事であることから[33]、作業のため通行が困難になった伐採期間を経て、昭和五十年代以降に再びこの山域に登山者が入れるようになった時には、青笹道が使用されたと考えられる。
[1]山梨県立図書館『甲斐国社記・寺記 第1巻』、昭和四十二年、一〇二七~一〇二八頁。
[2]山梨県立図書館『甲斐国社記・寺記 第4巻』、昭和四十四年、七三三~七三五頁。
[3]山梨県神社庁「大嶽山那賀都神社」(『山梨県神社庁』、http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/2105)、令和四年現在表示。
[4]浜野条治「奥秩父国師岳へ」(『新ハイキング』八四号、六三~六五頁)、昭和三十七年。
[5]森喬「甲武信岳と奥千丈岳(国師岳)」(『山岳』一一号一巻、九二~九九頁)、大正十年。
[6]吉沢一郎「琴川を遡りて奥千丈岳へ」(『山岳』二〇号一巻、一八五~一九二頁)、大正十五年。
[7]渡邊三郞「殘雪の荒川源流」(『東京市山岳部年報』一号、七八~八八頁)、昭和八年。
[8]宝田銀次郎「乾徳山、黒金山より国師岳へ」(『山と渓谷』二七号、一三七~一四三頁)、昭和九年。
[9]芳賀正太郎「国師岳天狗尾根」(『新ハイキング』四五号、五六~五八頁)、昭和三十二年。
[10]佐藤節「京の沢天狗尾根から国師岳」(『新ハイキング』一四四号、四六~五〇頁)、昭和四十二年。
[11]萩野音松「甲州國司嶽紀行」(『山岳』二号二巻、一七~三七頁)、明治四十年。
[12]田中冨弥「金峰山から国師岳」(『山岳』四号三巻、四五~四九頁)、明治四十三年。
[13]河合実「金峰・国師・甲武信岳紀行」(『山小屋』一二号、五四~五九頁)、昭和七年。
[14]原全教『奥秩父・続』朋文堂、昭和十年、一九五~二三六頁。
[15]国土地理院『一等三角点の記』、「國師岳Ⅰ」、昭和六十二年。
[16]陸地測量部『五万分一地形図 金峯山』(明治四十三年測量)、大正四年。
[17]陸地測量部『点の記』、「薊沢」、明治三十七年。
[18]高畑棟材『山を行く』朋文堂、昭和五年、「国師ヶ岳」三一五~三一八頁。
[19]山梨県『山梨県恩賜県有財産沿革誌』、「第八章 土木事業」一四一~一五六、「第九章 森林休養」一五六~一六四頁、昭和十一年。
[20]黒田正夫『山の素描』山と渓谷社、昭和六年、「笛吹川西沢」一四五~一六三頁。
[21]冠松次郎「西沢、国師岳、東沢」(『山岳』一五号二巻、一~一三頁)、大正九年。
[22]釜井盛四郞「京ノ澤小屋の幻想」(『山小屋』二二号、七三〇~七三二頁)、昭和八年。
[23]小野幸「笛吹川西澤」(『山小屋』九三号、五〇~五一頁)、昭和十四年。
[24]矢島俊和「秩父主脈とその附近」(『山と高原』四九号、二五~二七頁)、昭和十八年。
[25]大熊忠藏「笛吹川東澤」(『山小屋』一二号、四九~五二頁)、昭和七年。
[26]西裕之『特撰森林鉄道情景』講談社、平成二十六年、「Column1 山梨県林務部の軌道」八一頁。
[27]北村峯夫「奥秩父の山々」(『山と高原』二九号、七~一三頁)、昭和十六年。
[28]小野幸『奥秩父の山々』朋文堂、昭和十七年、八三頁。
[29]永田勉 「天狗岩から国師岳へ」(『山と渓谷』二二〇号、八四~八六頁)、昭和三十二年。
[30]北村峯夫「乾徳山・黒金山縦走」(『山と高原』一七号、三〇~三二頁)、昭和十五年。
[31]半藤和巳「天狗岩尾根より国師岳」(『新ハイキング』三三号、四六~四八頁)、昭和三十年。
[32]神野真一 「黒金山紀行 -青笹川遡行-」(『山と高原』一九号、五七~六〇頁)、昭和十五年。
[33]浜野条治「大岳山から黒金山」(『新ハイキング』五一号、五六~五七頁) 、昭和三十三年。
[34]国土地理院『空中写真(塩山)CB7212Y(1972/09/05)』、昭和四十七年、C9-9。
[35]北村峯夫「徳和周辺の山々」(『岳人』四一号、三六~三九頁)、昭和二十六年。
[36]廃探倶楽部管理人氏「File013 西沢森林軌道 京の沢支線 完結編 その1」(『廃探倶楽部』、http://haitan.web.fc2.com/haitan013/haitan013-01.htm)、平成二十八年。
[37]芳賀正太郎『アルパインガイド35 奥秩父 大菩薩連嶺』山と渓谷社、昭和四十八年、「天狗尾根」一一七~一一九頁。
[38]山梨県『塩山森林計画区 地域森林計画書 昭和44年4月1日~54年3月31日』、昭和四十四年、九三~九四頁。
[39]青垣山の会『山梨県県有林造林:その背景と記録』、平成二十四年、高山巌「奥千丈事業地の森林整備の方向」六一~六二頁、廣田稔「直営精算事業の想い出」六八頁。
[40]山梨登高会『山と高原地図(エアリアマップ)22 奥秩父2. 金峰山 甲武信岳 十文字峠 乾徳山』昭文社、昭和五十年、 河西功「天狗尾根から国師岳へ」 二一~二二頁。
[41]小沢利一「西沢から国師岳」(『岳人』五〇二号、三二~三三頁) 、平成元年。
[42]国土地理院『空中写真(塩山)CB7212Y(1972/10/14)』、昭和四十七年、C10-11。
[43]国土地理院『空中写真(甲武信ヶ岳)CCB7614(1976/10/22)』、昭和五十一年、C8A-19。
[44]阿部新路「西沢渓谷から黒金山」(『新ハイキング』二六四号、六八~七〇頁) 、昭和五十二年。