大嶽山参道 page 4 【廃径】

● 京ノ沢小屋跡~牛首ノタル

 黒い森の中の急な尾根は、初めは何となく踏まれていた。しかし一六五〇米辺りから尾根形状が不明瞭になり、踏跡は多数に分かれて明滅するようになった。何が正解か分からぬながらも、森の植生や足元の踏まれ方から、右の支尾根に移る雰囲気を感じた。この付近は文献でも踏跡が曖昧になるとされている。北西に向く支尾根に乗ると、シャクナゲを掻き分けて登る微かな痕跡が続くようになった。ちょうど花が美しい季節で、少しの間楽しめた。シャクナゲのヤブが終わって散在する程度になり、気持ちの良い尾根上の広葉樹林の多少踏まれてて歩きやすい道を行くようになった。一七六五米の肩状地点から、しばらく雰囲気いい緩い尾根になった。次第にブナに変わってモミが優占してきて暗い森になるも、なだらかな尾根道が続いた。踏跡は尾根の芯をやや外れ登っていた。一八八五~一九三〇米付近は勾配がやや強くなったが、それでも大して急ではなかった。倒れてまだ十数年程に見えるさほど古くない倒木を踏跡が避けるように付いていたので、この区間は今でも通る人がいるのであろうか。一九九〇~二〇〇〇米あたりは尾根がほぼ平らで、踏跡は尾根の僅か右寄りに付いていた。古い文献に現れる三里標があったのはこの辺のはずだが、設置から百年程度は経過していると思われ、残骸すら見かけはしなかった。

 再び登りになり、やがて二〇三〇米付近で尾根形状が消え、前面に山肌が壁のように立ちはだかった。尾根の踏跡も消滅したので、ここが牛首ノタルへのトラバース開始点で間違いない。さほど明瞭でなかった踏跡は、捲き始める辺りでは混乱して一層不明瞭になったが、バラけた踏跡を見定めながら進むうちに落ち着いてきた。倒木や崩礫を乗り越えて、弱い踏み分け道が辛うじて続いていた。時に途切れたり分かれたりしながら明滅する廃道の痕跡程度のものだったが、ほぼ水平なので何とか外さずに行くことが出来た。シラベと苔の見事な森も、顕著な尾根を二〇三五米で回ったところで伐採跡のカラマツ植林に変わってしまつた。同時にどこでも歩る植林地であるため、踏跡が不明瞭になり明確に続く道型が失われていた。周辺の踏跡をあちこち探すと、尾根を回ったあと一旦下り気味になるものが正しいようだった。実際牛首ノタルは、その地点より少し低い位置にある。伐採時の作業踏跡や痕跡を適当に繋いで、とにかく水平に進むようにした。植林地はすぐ荒れてきて、倒木の中で踏跡は不安定に明滅、分散を繰り返した。伐採当時の木馬道跡らしい痕跡があり、当時の木馬が展示物であるかのようにそのまま残っていた。作業時の空缶、ワイヤー、酒瓶、トタンなどの散らばるあたりから、ヤブも出て歩き難くなってきた。狭い敷地に空瓶の山があるのは飯場跡だろうか。伐採後の空地に生えてきた極細の再生林の貧相な森を、並走するワイヤーを見ながら進んだ。樹間に牛首ノタルの峠状地形が垣間見えてくる辺りでは、踏跡が入り組んでいた。そこはカラ沢の源頭に当たり、下っていく痕跡は恐らく軌道の西沢橋へ行くものだろう。数本が折り重なった倒木にぶつかる辺りから、前方がヤブ状に繁茂したシラベの若い再生林になり進行不能になった。本来の参道は水平に通ってちょうど牛首ノタルに出るはずだが、仕方なく十米も下を捲いてヤブを回避し、荒れた森を少し登ると牛首ノタルであった。乾徳山の肩から霊峰富士の勇姿が望まれた。

 

⌚ฺ  京ノ沢小屋跡付近-(1時間10分)-黒金山北トラバース開始点-(35分)-牛首ノタル [2022.5.28]

 

● 牛首ノタル~繋場

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繋場付近(国土地理院基盤地図情報標高5mメッシュ)

 

 一般登山道として歩かれるこの区間は、ハイカーが多く道も割りと良い。青笹を指す道標に従い、カラマツ植林と笹の道をどんどん下った。さほど幅はないが歩きやすい道だった。山腹を約二十分下って一八九〇米付近で牛首から来る尾根に乗ると、しばらく笹の尾根に絡んで下るようになった。この辺りの地形は大変複雑で、主尾根の判別が難しい。尾根を下り始めるかに見えた道は、直ちに尾根を外れ左下の一八七四米の笹原に下るようになる。この笹原が木川と呼ばれる地点であろう。実はこの笹原から出る小さな膨らみが主尾根であり、それを距離にして約百三十米真南に下った一八三七米から傾斜が緩んで平らになる。一帯は全て伐採跡の笹原である。ここで一般登山道はいったん尾根を右に外れて下り、二重山稜が入り組んだ複雑な尾根に絡んで乾徳山南林道へと下っていく。一方この場所は、那賀都神社から登ってきた道が初めて主尾根に出る位置である。僅かに数本の黒木が伐り残された一八三五米辺りが古くは繋場と呼ばれた地点と考えられる。

 木川と繋場については、凹凸が多く分岐した一帯の地形のため位置の特定が難しかったが、文献を精読すれば恐らく前述のように推測して間違いないと考えられる。まず木川については、牛首ノタルから四十分のところにある[14]、昭和初期に小屋の骨組が残っていた水が湧く小平地で、概念図では主尾根の西側の山腹とされる[49]。しかし前述の一八七四米の笹原は、牛首ノタルから二十分で着き、水はなく尾根の東側直下に当たっていて、五万分の一地形図レベルのおよその位置としては間違っていないが、具体的な特徴は何一つ一致しないように見える。しかし昭和初期の参道は「笹の中に通ずる小径」[14]、「道は笹にかくれて居るが迷う事はない」[47]など漸く通れる程度の細道で、青笹川を遡行してきた神野真一が横切ったとき名の知れた参道とは思わなかったほど頼りないものであった[30]。山腹に付いた笹の踏跡は、一歩ごとに斜面をずり落ち歩き難さは並大抵ではなく、倍の時間がかかっても不思議でない。全山伐採で豊かな森が失われ、源流の小さな水場が涸れて消えたことも頷ける。この付近は尾根が丸くなっていて、下部では二重山稜が続き、ましてや森に覆われていた当時は主尾根の位置を正しく認識することができず尾根の西側と誤認したのであろう。ここから南に五分下ったところが繋場で「尾根は広く分れ、青笹の斜面に落葉松の美事な老木が介在している桃源境」であり、乾徳山の南の草地を見て左へ斜面を下る、としている[14]。木川が一八七四米であるなら、そこから実測で四分下った尾根が緩んで広がる一八三五米付近は、まさに繋場の位置である。登ってきたとき、ここで青笹道を合わせ、初めて乾徳山が見えることとも一致する[11]。

 

⌚ฺ  牛首ノタル-(20分)-一八九〇米付近で尾根に出る-(4分)-繋場 [2022.5.28, 2022.11.27]

 

● 繋場~塚本小屋跡

 繋場には訪問時二つの新しいピンクテープが設置してあったが、参道の分岐点であることを知らせるというより、青笹道がそこから一時尾根を外れ青笹川側に下ることへの注意喚起用と思われた。分岐する参道と分かる踏跡は見当たらなかった。伐り残されたほんの十本ばかりの黒木の森を抜ける部分だけは踏跡が見えたが、すぐ笹の中で不明瞭になった。先の極小の黒木の森から左に舵を切り下り始めた。すぐ下の伐り残された数本の木がある笹のない場所を通ると、そこからは切れ目のない笹の斜面だつた。膝から腰までの笹に伐採時のものらしき多数の弱く断続的な踏跡が乱雑に付けられていた。それらを適当に拾い繋ぎながら、旧版図が示す道の位置と実地で目にする地形とを照らし合わせ、伐採跡にカラマツが点在する一面の胸に達する笹の急斜面を焼尾の入口まで約一三〇米下った。焼尾とは、一七〇〇米辺りから那賀都神社の方へ出る顕著な尾根のことである。道が消えた現在、起伏の少ないこの斜面を初見で正しく下るのはかなり難しく思えるが、幸い既に知っていたので斜め左目掛けてどんどん下った。笹の高さはさほどでないので見通しが効いた。尾根的な曖昧な斜面の膨らみの向こうに回ると、左下に一七〇五米の広大な平地が見えた。その右端は窪上部の崖的な特徴的ある地形になっていて、そこを通過すればよいのである。

 一七〇五米は倒木だらけの笹原だった。その直前で、何に使ったのか鉄杭を打った古い大きなコンクリートの台を見た。ここから下の焼尾は尾根形状が判別できるうえ、踏跡も分かりやすくなった。右側には抉れた小窪が尾根に沿って続いていた。原全教は、旧参道を繋場から約一〇〇米下ると、右手の深い萱の中に剣を逆さに立てたような閃緑岩の豆腐石があるとした[14]。付図では繋場から少し下った位置に表示され、時間的にも「ぢき」(すぐ)と記されたことから[52]、繋場直下である可能性も考え注意しながら笹原を下るもそのような形の石は見当たらなかった。しかし小窪が出てきてすぐの一六九五米で、苔に覆われた高さ二米弱の岩を見た。伐採後に斜面の土砂が押し寄せ下部が埋まったためか、逆さの剣の様には見えなかったが、縦長の目立つ石と言えばこれくらいであった。それとも豆腐石は他にあったが伐採やその後の撹乱で倒れて分からなくなったのかも知れない。

 焼尾は伐採を受け、伐り残した広葉樹と植林されたカラマツが疎らに立つ丸みがある尾根で、笹原が覆う中に幾つかの不明瞭な痕跡が分散していた。その痕跡をうまく使うと楽ではあるが、探す手間考えると微妙なところである。尾根の左寄りにも一直線の獣道のような不安定な踏跡も付いていた。古道と分かる痕跡はないので、これらの痕跡を適当に辿って下った。一六一〇米からしばらく、踏跡は広がった尾根の右を絡んだ。一五八九米の二重山稜的で峠のようにも見える尾根が不自然にたわんだ地点の右を通り、次の一五五〇米の二重山稜は左を取って下ると、一五三七米で珍しく両側が切れ落ちて踏跡が明瞭な箇所を通過した。

 この痩せた部分では今下っている尾根を回り込む乾徳山東林道を両側の足元に見下ろし、それに下降する踏跡を左に見送った。この下降路は車道直前で曖昧になるものの、容易に車道に出ることができる。この先の踏跡が不明瞭になることから、左の車道に下る道の方がここまで下ってきた伐採道の主経路なのであろう。参道の下る尾根筋は傾斜が緩まり地形的には歩きやすかったが、踏跡はほぼ消滅した。ほぼ平坦な一五〇一米で折れた赤プラ杭を見た。車道が近づく頃には伐採跡に植林された植樹のヤブに突っ込んだ。ありやなしやの踏跡で強引に抜けると、土場のように切り開いた敷地に降り立った。一四七五米の地形図にない作業林道の終点で、これを右に辿ればすぐ乾徳山南林道に合流する。

 ここから、一三六〇米までの間にこれを含め五本の林道を立て続けに横切る嫌な区間を迎えた。ヤブに飛び込むように下るとすぐ、まず一四六三米で乾徳山南林道を横断した。次のヤブ潜りは小さな踏跡があり茨に注意して下ると、またすぐ一四五三米で塚本山林道のカーブに出た。尾根に忠実に行くなら、ここは林道に出ないでほぼ平坦なヤブ尾根を約八十米水平移動し、尾根の突端で林道に降りることもできる。塚本山林道のこの区間は十年前の着工とまだ開通後浅く、それ以前の尾根道も残ってはいるがヤブが酷くお勧めではない。何れにせよ一四四〇米のヘアピンカーブでで塚本山林道を離れさらに尾根を下るが、ちょうどそこで尾根が左に直角に折れるので要注意だ。笹の微かな痕跡を下るも、最後は林道脇の幼樹の猛烈なヤブとなって一四一四米で再度塚本山林道を横切った。北東に方向を変えた尾根の踏跡を見つけ下り初めると、一三八五米辺りから自然林の緩やかだが明瞭な尾根になって一時の安らぎを覚えた。道はないが薄ヤブで歩きやすかった。この辺りが、萩野音松が川から三十分登った尾根状の地点とした一ノ丸であろう[11]。百米ほど続いた平らな部分が終わると、今度は大したヤブもなく塚本山林道の一三五八米あたりに降り立った。この林道は尾根に絡んで下っていて、参道はそれを串刺しにしている訳だ。これでやっと全林道の横断が終わった。

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塚本山付近(国土地理院基盤地図情報標高5mメッシュ)

 

 林道直下はガードレールと擁壁を突破し無理やり下りざるを得ないが、現在の作業道が五十米ほど左のガードレールが切れるカーブのピンクテープから下っているので、それを使っても良い。ここからの下りは廃道に近い作業道ではあるが道型が明瞭で、尾根に絡んでヒノキ植林を下って行った。道は尾根に戻ると右に大きく振れ、伐採のためだいぶ不明瞭な道型でまた尾根に戻ってきた。うねる道筋はヒノキ植林に入ったり尾根上に残った僅かな自然林に入ったりして下った。左の樹間から工事が進む塚本山林道の法面の法枠が痛々しく見えていた。旧道らしい部分が倒木や枯葉で埋まり、脇に新たな踏跡が出来ている部分も多かった。ひとしきり急な部分を下ると、一一三〇米付近のほぼ平坦な緩斜面に立派に生育した広大な植林地が広がっていた。踏跡はその右端を通っていたが、注意して見ると平の中央に石祠と剣が祀ってあった。文字の類が一切なかったが、剣が意味するところは修験道であり、参道に沿って配置された那賀都神社の社の一つと思われる。近くに壊れた木祠が落ちていたのでそう遠くないある時期に更新されたようだ。この鬱蒼として神域のようにすら見える立派な植林地こそが、林業関係では名の知れた塚本山の中心地である。中ノ沢が近づくと尾根上の踏跡は折り返して戻るように左に下り、沢の右岸台地に下り着いた。ここも先の祠があった植林地と同じくらい広く、潰れた小屋の廃墟が大量の五ガロン缶、電球、割れた瀬戸物、多数の酒瓶などの廃棄物と共に認められた。これが塚本小屋跡である。 なかなか大規模な小屋だったことが、残されたトタン屋根や梁の残骸から分かる。その二、三十米奥には、山梨県の「やまなしの森林100選」に選ばれた「塚本山のヒノキ林」の立札が倒れていた。塚本山は明治末期の大水害で荒れた山林再生のため実業家の塚本定右衛門の寄付金と地元村民の土地提供により造林された有名なモデル林で、大正六年に造林事業が完成し記念碑が建設された。小屋の二、三十米沢寄りにある高さ二米ほどの縦長の石がそれである。こちらから見ると碑文が石の裏側にあり気づきにくいが、これは沢の左岸から橋を渡って来る当時の道から正面が見えるようにしたためであろう。冠松次郎、原全教らが認めた同じ石碑が今も人知れずひっそり佇むのを見ると感慨深い。塚本山植林地へは、参道が荒廃した今、上を通る塚本山林道から下ってくるのが順路になっているようだ。以前初めてここを訪れた時、下から来る道がないのに作業道があるのを不思議に思った場所だ。

 

⌚ฺ  繋場-(40分)-乾徳山南林道の1460m-(15分)-塚本山林道の1358m-(15分)-塚本小屋跡 [2022.11.27]

 

● 塚本小屋跡~赤ノ浦

 繋場から下ってきた参道は今では曖昧な踏跡となって塚本小屋跡に下ってくるが、小屋跡の数十米手前の斜面途中で踏跡が各方面に入り乱れた箇所がある。小屋跡へ緩く下る踏跡の外、沢へと下る踏跡を取れば石碑に向かい、さらに沢の右岸高くを捲きながら下流に向かう小さな踏跡がある。これが、中ノ沢の左岸から橋で塚本小屋に渡る旧参道の代わりとなる作業道である。中ノ沢(地形図に「赤の浦川」と表記される沢)に多数の堰堤が出来て旧参道が完全に消滅した現在、この作業道を利用するしかない。道は崖状になった右岸高くを辛うじてトラバースし、一〇七〇米右岸支沢の出合で中ノ沢に下った。右岸を百米ほど下ると那賀都神社から数えて四基目の堰堤をそのまま右岸から捲いた。旧参道は塚本山から神社までに橋を七回渡るとするが、現在多くの橋が消えているのでいちいち渡渉するのは大変なので、なるべく渡らずに済ませたい。堰堤の下は地形的に左岸を通りたい部分だがそのまま右岸を我慢して通ると、一〇五〇米付近から右岸に荒れた作業道が現れた。昭和四十年三年の造林標が立っていたので、六十年近く前に貴重な塚本山を残して全山を伐採し、跡地に発生する土石流を防ぐため多数の堰堤が建設されたのであろう。いま林道に串刺しにされている大嶽山参道だが、命運を断たれたのはむしろこの時期の山の伐採と堰堤の建設によってであろう。さらに百米も行くと右岸が険しくなり左岸にちょうどよく渡れる飛石が現れたので左岸に渡った。一〇三七米で右岸に顕著な支沢が合流した。一〇三五米の三基目の堰堤をそのまま左岸から捲いた。この下の高さ一四・五米の大堰堤上はちょっとしたダムのようになっていて左岸側の水際を通り、踏跡を使って左岸から捲いた。銘板によると神社から二基目のこの堰堤は、赤の浦川火山砂防ダム堰堤というそうだ。これを下ると神社が「高天原」と呼ぶ大きな平地で、ここも堰堤の間に出来た小さな堆積原である。中央付近にしめ縄を回した小振りな石が置かれていた。この下の堰堤が堰き止めてできた堆積地のようだ。そこから神社本殿に続く行者道は神社が「禁足地」して立入りを禁止していた。ここからは神社敷地としてある程度の整備がなされている。コンクリートの白根橋で右岸に渡り小径から神社上の大堰堤を右岸から捲いて下り、園地の橋ですぐ左岸に渡り返せば「中津国」で、あと僅かで那賀都神社の脇に出る。赤ノ浦へはまっすぐ下れば良いが、左に折れて水平に移動すると、長い石段の頂上にある大嶽山那賀都神社の拝殿前に立つ。ここが参道の起点である。

 神社で一礼した後、急な石段を下ると中津国からの道に合流、参拝客に混じって川沿いの長い参道を赤ノ浦まで下った。

 

⌚ฺ  塚本小屋跡-(20分)-高天原-(5分)-那賀都神社-(15分)-赤ノ浦 [2022.5.28, 2022.11.27]

 

 

[52]原全教『奥秩父』朋文堂、昭和十七年、「籠堂から赤ノ浦へ」三三九~三四一頁。

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尾根取り付きの明瞭な踏跡
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尾根形状が消えると踏跡も消える
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尾根が出てくると踏跡も回復
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深い森の急登を振り返る
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シャクナゲヤブを潜って進む
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遅咲きのシャクナゲの癒やし
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板小屋と呼ばれる平坦地
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誰が通るのか踏跡は倒木を避けていた
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尾根の右を一時的に捲く
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かつて三里標があった二〇〇〇米付近
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踏跡は急にトラバースを始めた
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曖昧な箇所もあるが何とか続く
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ほぼ水平に痕跡程度が続く
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倒木を越えにかく水平に行けば良い
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尾根を回るとカラマツ植林に突入
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伐採後の植林地で道が不明瞭に
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道型が消え勘に頼ってトラバース
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放置された木馬が残っていた
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小屋でもあったのか多数の空瓶が
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造林ワイヤーがしばし並走
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幼樹のヤブに入り前進が捗らない
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ヤブを下捲きする踏跡があった
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下捲き分を登り返すと稜線に出る
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明るく開けた牛首ノタルで南面に越す
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古い道標が示す青笹道
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笹は低くとても歩きやすい
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木川と思われる平らな笹原
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一段降った繋場の緩斜面で参道が分かれる
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尾根を真っ直ぐ進むと極小の黒木の森
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一段下の平らに開けた辺りから左へ下る
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伐採跡の腰程度の笹原を見当で下る
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伐採時代の用途不明の遺物
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右側の窪の縁を下る様になる
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不鮮明な踏跡が現れる
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形は似ていないが豆腐石の可能性あり
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二重山稜的な曖昧な地形が多い
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ここ一箇所だけの痩せ尾根を振り返る
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左下の林道へと降りていく踏跡を捨てる
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林道直前は幼樹ヤブを押し分けて進む
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地図にない作業林道終点の広場を横断
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続いてすぐ乾徳山南林道を横切る
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すぐ下の林道へとまたヤブに飛び込む
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尾根先端で越す塚本山林道を振り返る
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もう一段下で同じ林道を横切る
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一ノ丸と思われる尾根が平らな場所
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最後に渡った林道を下から見上げる
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道型が見える作業道で尾根を下る
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荒れた道で植林地をどんどん下る
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真っ平らなヒノキ植林の中央の石祠
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塚本小屋の廃墟
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看板は柱から落ちていた
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大正時代の記念碑は今も変わらず
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右岸に作業道跡らしきが見え始めた
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昭和43年の植林標
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都合よく天然石が配置する渡河点で左岸へ
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堰堤上のまっ平な河原
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巨大堰堤上から向かう下部の河原を覗く
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堰堤が生んだ高天原に祀られた何かの石
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本殿への参拝は禁じられている
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神社敷地に入り立派な橋で右岸へ
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すぐまた左岸に渡ると那賀都神社も近い
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拝殿に無事下山を報告
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百年は経つ標石がある赤ノ浦の参道入口