大嶽山参道 page 2 【廃径】

【経路の特定】

 前項のように、大嶽山参道はその時々の山の状況に応じて常に経路を変化させてきたので、旧道として参道を歩くにしてもどの時点の道を参道とするか、様々な見方ができよう。参道沿線で初めて歩道以外の道が現れたのは、昭和二十四年頃に京ノ沢に敷設された伐採用の軌道である。とするとここでは、全区間が歩道として歩かれていた昭和十年代の経路を参道の旧道と考え、その道筋を改めて確認してみる。

 那賀都神社からの参道は、旧版地形図の尾根への取り付きは全くの間違いで、まずしばらく中ノ沢(地形図では赤ノ浦川と記載)を遡る。合計七回橋を渡って、つまり川の両岸を三往復したあと最後に渡って、山に取り付いていたという[11]。現在神社奥の敷地内で一往復する部分が残っているが、その上は堰堤が続いて沢沿いを歩くどころではなくなっている。幾名もの登山者の記録では、個人差が大きいが神社から十五~三十分行くとその取付き点だという。原全教はそこまでの道の様子を詳しく書き記したが[14]、実際に歩いた地形と比較すると、一〇〇三米右岸出合支沢を「滝ノ沢」、現在滝ノ沢とされる一〇三七米右岸出合沢を「左から小さい沢が来る」としているように思える。もしそうなら特に後者は出合う向きを間違えていることになるが、細かく尾根や沢の位置を見ると旧版地形図は細部で間違っているため混乱したのであろう。沢から山腹に取り付く地点については、地形図の取付き地点の位置の間違いが指摘されており[14]、旧版地形図を参考にすることはできない。地図の「大」の字あたりが正しい取付き点との指摘だが、旧版図は細部に歪みがあるため精密な位置の推定には馴染まない。原全教が参道を下ってきた昭和六年の記録では、地図の道を下ってきて一三〇〇米辺りから東に折れて植林を沢へと下った地点を取り付き点としている[14]。右岸に中ノ沢沿いの道があり、左手に塚本山の石碑があったという。この石碑は明治時代の大水害に心を痛めた篤志家の塚本定右衛門の寄付により大正二~四年に県が行った植林を記念して、大正六年に建立された記念碑である[45]。その偉業は「塚本山」としてやまなしの森林100選」に登録され、今に伝えられている。この石碑は大正九年に冠松次郎が通ったとき既にあり、植林直後の若木がまだ育っておらず道すがら猛烈に暑かったとのことだ。やはり石碑のところで道が二分していたと伝えている[21]。大正三年に下った小佐野も、恐らく当時できたばかりの植林地を通ったことを認めている[46]。昭和十三年に通った小野幸が付近に「塚本山荘」があったとし[47]、昭和三十三年の紀行にも「中ノ沢の「無人小屋」の前の細い山道を尾根について登る」とあるので[30]、現在中ノ沢右岸台地一〇九五米付近にある小屋跡のことと思われる。すなわちここが参道の尾根への取付きである。原全教の、一三〇〇米辺りから東に折れて植林を中ノ沢へ下るとの説明では図のルート①に思えるが、当時植林が行われた塚本山は、ルート②の下部の一帯である。春日俊吉は参道が沢に降りる位置を、『「大」の字の右肩あたり』とより正確に表現した[48]。塚本山荘らしい小屋跡があるのもルート②の方だ。これらのことから、原全教の説明は間違いで、ルート②が参道の経路と推測される。

daidatke01.jpgdaidatke02.jpg
左:国土地理院5万分の1地形図「御岳昇仙峡」(昭和7年)、昭和4年修正、右:同2万5千分の1地形図「川浦」(昭和50年)、昭和48年測量
旧版図は滝ノ沢が中ノ沢に入る位置が大きく南にズレている。地形図の道は全くの間違いで、①と②が候補。最終的に②が正しいと考えられる。特に旧版図は地形の歪みがあり、ルート①の左端標高の1300m付近は実際は1180m。

 

 しばらく焼尾と呼ばれる笹の尾根を登るが、この尾根は二重山稜や尾根形状不明瞭な箇所があり要注意だ。特に一六四〇米からは明確な尾根が消えてしまう。これを青笹道との合流点である繋場(ツナギバ)まで登るのだが、そのため繋場の位置そのものがはっきり分からない。青笹道は乾徳山林道が開通して林道から黒金山を目指すハイカーが増加し、林道から上がよく踏まれている。そのコースには繋場から牛首ノタルまでの参道が含まれる。だが参道が不鮮明になったためどこで合流するかが分からず、繋場の場所も分からなくなってしまった。原全教は繋場を、参道で尾根を下ってきたとき尾根が広く分かれ笹原に木々が点在する桃源境とし、大正二年版の地形図で「料」の字の下の辺りと説明している[14,49]。旧版図と実際の地形とに牛首付近はズレが大きいため判断が難しいが、恐らく尾根が緩む一八〇〇~一八五〇米辺りのようだ。この後、尾根を少し登ったら左にトラバースを始め、下りで十分ほどの地点で、木川という笹の中に湧水がある廃小屋を通ったという[14,49]。現在それらしい地点が見当たらないのは、全山伐採の影響で道が変わったか、それとも植生の変化で水流の変化や崩壊が起きたためか分からず、牛首ノタルまでは今歩かれるハイキングコースを辿るしかない。

 ここから参道は黒金山の北を僅か登り気味に二十分ほどトラバースし、京ノ沢出合に下る尾根に乗る。この尾根は山頂付近ではほぼ消えてしまうが、この地点より下部ははっきりしていて、一本調子の下りとなる。尾根は西沢の直前で曖昧になり、京ノ沢小屋跡まで急斜面をバラけた踏跡で下る。小屋が使えた昭和初頭までは小屋前で西沢を渡渉していたが、廃小屋状態になってからは小屋の直前で左に折れて鉱山道に合流し、小屋跡の約二百米上流で西沢、京ノ沢と続けて渡るようになった[28]。京ノ沢は比較的河原が広く、踏跡を伝って何度か渡り返しながら一粁弱を遡るのだが、百数十米行くと大きな堰堤があり、以後様々な治山工事の影響で沢を通れない状態が続くため、そこから左岸の車道、軌道跡を繋いで歩かざるを得ない。現在車道となっているその地点から先の参道は、初版の二万五千分の一地形図に収載されている[50]。ただし当時はまだ車道部分も軌道跡すなわち歩道だったため、破線で描かれている。さて京ノ沢左岸の堰堤直前で右手の車道に適当に上がったあとは、車道が京ノ沢を渡ろうとする直前で軌道跡に移る。軌道跡は旧線と新線とがあり、本来の道筋に近い旧線は治山工事でダムに沈んでしまったため、暫くは新線跡を利用した登山道(廃道)を歩く。軌道跡はM字型にヘアピンカーブを重ねて少しずつ高度を上げるが、登山道の方は串刺しにするよう上部の軌道跡まで真っ直ぐ登り、あとは軌道跡に沿いに左岸を上流に向かう。極小ダム湖の堰堤を過ぎたあたり、二万五千図の道はその約八十米先の小窪を急登しているが、正しい道は約百八十米先にあった飯場の直前の浅い窪状地形を登る[4,10]。その飯場跡自体、今は極小ダム湖上の河原になってしまい新線軌道跡で見ることが出来ないため、取り付く浅い窪状地形を読んで判断する。登るべき窪状地形は京ノ沢に落ちるガレのすぐ先にあり[31,34]、そのガレは現在も新線軌道跡を横切ってなだれ込んでいるのですぐ分かる。窪状の急登が終わると尾根の平らな部分に出て、ようやく天狗尾根の登りが始まる。

 治山運搬路の車道を何度も横断しながら伐採後植林された尾根をひた登り、県営の鶏冠山西林道も越える。植林地帯が終わるとすぐ怪僧岩があり、かなりの急登のあと奥宮のある天狗岩に達する。そのままさらに登ると甲信国境に出て、天狗尾根が終わる。西にもうひと登りで国師岳、さらに北奥千丈岳へもあと一息だ。

 

[45]山梨県立博物館「研究紀要 第11集」、平成二十九年、小畑茂雄「近江商人・塚本定右衛門と甲府の豪商大木家─両家の交流と「塚本山」成立を中心に」三五~四四頁。

[46]小佐野迢々「甲信武國境縱斷」(『山岳』九年二号、五二四~五三四頁)、大正三年。

[47]小野幸「黒金山」(『登山とスキー』一〇巻六号、二四~二五頁) 、昭和十四年。

[48]春日俊吉『奥秩父の山の旅』、登山とスキー社、昭和十七年、「西沢遡行」二四八~二五四頁。

[49]原全教「黒金行二題」(『山小屋』一二号、四四~四九頁)、昭和七年。

[50]国土地理院『二万五千分一地形図 金峰山』(昭和四十八年測量)、昭和五十一年。