大嶽山参道 page 3 【廃径】
大嶽山参道の道の状態は、部分ごとに千差万別と言っていいほどの差がある。現在はとても一本の道と言える状態ではないが、部分ごとに歩いた記録を一つにまとめて、北奥千丈岳から那賀都神社へ下る形で記載した。
北奥千丈岳から天狗尾根分岐までが一般道、令和四年六月現在で天狗尾根入口にロープが張ってあるがそれを越え天狗岩までは踏まれている。天狗岩から鶏冠山西林道に下る作業道分岐まではバリエーションコース、その先京ノ沢に下って西沢本谷を渡り黒金山の北を捲いて牛首ノタルまでは廃道である。牛首ノタルから繋場までは一般道で、そこから神社まではまた廃道だ。この径の特徴だが、廃道区間もまた部分ごとに様々で、一時的に歩きやすくなったりほぼ消滅したりを反復する。これも通して歩かれることがなく、場所ごとに利用状況が目まぐるしく変わるからであろう。
● 北奥千丈岳~天狗岩
北奥千丈岳は、修験道時代の大嶽山那賀都神社の御神体と考えられる。山頂の「大嶽山大権現」の石碑は割れてしまい[6]、昭和六年を最後に目撃記録が途絶えた[7]。山頂付近で随分探してみたが見つからなかった。割れた石碑が刻字面を下にして埋まってしまったなら、多数散らばる石片の一つとなって見分けがつかないことであろう。三繋平、国師岳三角点を通り、甲武信岳と天狗尾根の分岐に来ると、西沢軌道跡崩落のため通行禁止との三富山岳救助隊による青看板が立ててあった。少し進むとまた同様の看板がありロープが参道を通せんぼしていた。もう一つのその看板は、西沢渓谷の歩道(軌道跡のこと)で滑落死亡事故が多発として鶏冠山林道西線からシラベ平への迂回を促していた。これらの立札と立入禁止を意味するらしいロープとどう関係あるのか不明だが、甲武信岳への縦走者の迷い込み防止が目的なのかもしれない。西沢軌道跡の七ツ釜から上流は廃道で道が良くないのは確かだが、わざわざ好んで廃道を歩くような技術レベルの方の死亡が多発とは俄には信じ難い。観光気分や面白半分に踏み込んだ一般ハイカーの事故ではとの気がするが、事実関係は分からない。なおこの参道を歩くには、危険とされる西沢軌道跡の崩壊部は通らないので関係ない。
急な尾根を下る道は予想外に良く踏まれ、一版登山道のようだった。ハイキングでここまで足を伸ばしてくる方が多いのだろうか。矮化したシラベやシャクナゲとイワカガミが彩る露岩の尾根を下った。天狗岩は上から見てすぐそれと分かった。明らかに尾根から突き出た、遠目にも巨大な石積みであった。尾根が大岩の堆積を急下する部分になると分かり難くなったが、ガスに巻かれない限り、踏まれ方やマーキングをよく見てけば概ね判断できる。それでも時には、探したり戸惑うような箇所もあった。いずれにせよ、しっかり地図読みすれば迷うことはないだろう。一度森林帯に入って急な下りをこなし、再び見通しが良くなると天狗岩が大分近づいた。すぐ天狗岩の北麓に降り立った。参道は岩の左(東側)を捲いて下っていた。
天狗岩は多数の巨石が積み重なってできた高さ十数米はありそうな天然のモニュメントである。積み重なった岩のあちこちに隙間があり、岩屋としてビバークくらいなら使えそうだ。その一つが奥宮で、那賀都神社の大山祇・雷・高龗三神が祀られている。実際に登拝した信者が泊まった様子が窺えた。岩の頂上には古い剣と、「奉納」と銘した台座上に二、三米の新剣が設置されている。これらの施設は神聖かつプライベートな空間でもあるので、手を加えずありのまま保全したいものである。
⌚ฺ 北奥千丈岳-(10分)-国師岳-(5分)-天狗尾根分岐-(20分)-天狗岩 [2022.6.18]
● 天狗岩~二〇六五米付近登山道分岐
参道は天狗岩を東から一八〇度回り込んで通過し、再び尾根を下り出した。谷へ下る踏跡もあり紛らわしいが、訪問時点ではピンクテープがあって正道に気づきやすくなっていた。天狗岩から少し下ると、岩がちだが木々が開けて明るい雰囲気のいい小平地があり、そこから急降下が始まった。国境稜線から天狗岩の区間に比べ、通行者が少ないと見え明らかに道が悪化した。岩や低木の多いこの尾根で、参道は現れる露岩帯や急斜面を右に左に避けながら下るので、進む方向を特定し難かった。シャクナゲや灌木の枝を刈った痕跡、ピンクテープなど手入れの痕が随所に見られ、特にテープは大変ありがたかった。テープが無ければ逐一地図読みをして方向確認が必要となり、多くの時間を費やしたであろう。だがこの樹脂製のテープは十年も経てばかなりが劣化しなくなってしまうと予想される。道はいったん尾根の右を下り、次に左の森を急下した。二四一〇米付近は、崖のように見える堆積した巨岩上をクライミングのように降下するが、やや幅のある露岩帯中を探せば多少通りやすい箇所がある。天狗岩の名を採って天狗尾根と呼ぶそうだが、むしろ巨岩上をスイスイ飛んで昇降する天狗のイメージから付いたのではと言いたくなるほどの場所で、丁寧に一つ一つの岩を乗り越えて下った。
約三十分の下りでさしもの険しい尾根道も森林を下るようになり、文字が薄くなり壊れて落ちかかった「至不動小…」の道標を見た。西沢渓谷の不動温泉にあった不動小屋がまだ営業していた数十年前の道標だろうか。踏跡は薄いが執拗に取り付けたテープがあり、これが傷んで落ちるまでの間は迷うことなく下れる。道標の少し下の二三一五米付近で尾根形状が曖昧になり斜面を急に下った後、何の変哲もない山腹で唐突に突然テープが左へと誘導した。一時消滅した尾根の形が回復してきた二二八五米辺りで、参道は尾根上に復帰した。その地点の参道の右脇数米にあるのが怪僧岩である。まさに座禅をする僧のような形の大岩で、森の中に突然ぬっと現れる大きな僧の姿が「怪僧岩」の由来と想像される。佐藤節が「烏天狗がうずくまる格好」と言うのもまた、見る角度により納得できる。かつて一ノ宮と呼ばれたのは、奥宮までの間にいくつもの祠があったということだろうか。昭和四十年代頃まで岩の下にあったらしい大巌権現の木祠は跡形もなかった[8,9,10]。那賀都神社が権現信仰を捨てた今、祠を維持する理由が無くなったからかもしれない。明治三十九年に登った萩野音松が五里標を見たのも、急登が始まる前というのでこの付近と思われる[11]。踏跡は曖昧なままだが、下草やヤブもなく歩きやすい森の中の尾根地形を辿れば良いので、俄然下りやすくなった。二二三五米付近で尾根がまた急で曖昧になると、右に逸れるように下った。次に尾根らしくなった時には、左が明らかに伐採跡と分かる細いシラベ植林に変わった。五十年前の伐採跡も一応緑に覆われてはいるが[37]、シカ対策の保護ネットが参道沿いに張られていて興醒めだった。ただし植林地帯に入り、この区間の参道は作業道となっているため、ある程度手入れされていて歩きやすい。ところどころ木の階段が作られていたり、石楠花ヤブが深い部分は、伐り開かれていて歩きやすかった。この作業道はヤブを避けるためか一度尾根を左に外れ、また尾根に復帰した。二〇六五米付近で、立木を削って描いた古い赤矢印が左を指し、ピンクテープも点々と尾根の左に続く場所があった。ここが登山道を兼ねる作業道と参道との分岐である。
⌚ฺ 天狗岩-(30分)-怪僧岩-(15分)-二〇六五米付近登山道分岐 [2022.6.18]
● 二〇六五米付近登山道分岐~京ノ沢支線軌道跡からの尾根取付点
登山道はここから支尾根を下り、鶏冠山林道を横断する地点で薊沢の治山運搬路に接続して西沢渓谷に下ってしまう。この治山運搬路は何度か参道と交差するので、うっかり入っても復帰することができるが、ここでは尾根伝いの旧参道を下ることにした。登山者も作業者も通らないここから一気に道が悪化し、完全な廃道状態になった。治山運搬路は昭和四十五年からの民有林直轄治山事業に伴い建設されたものだから、少なくともそれまでは登山者も参道を歩いていたはずである。薊沢上流の伐採も、鶏冠山林道が伸延された昭和四十三~五年頃に行われたと見られ、つまり四十五年頃に付近の道の状況が大きく変化したのである。登山者の通行により維持されていた京ノ沢から前述の植林作業道分岐までの間の参道は、治山運搬路から作業道経由の天狗尾根への道が出来たことで廃道化したようだ。作業道分岐からの参道は、はじめ倒木を乗り越えながら古い刈払いを辿っていたが、造林ワイヤーの地点でシャクナゲの密ヤブ中に消えてしまった。尾根左の植林中の僅かな痕跡を使ってヤブをかわすと、また尾根上にヤブっぽい参道の痕跡を発見した。強引に進むうち、ゴミや切株のある古い伐採跡を行く手入れが悪い作業道になり、それも鶏冠山林道が横切る地点で途絶えた。尾根右側の崩壊場所を使って法面上まで下り、降りられる箇所から容易に車道に出た。
車道を渡ると下部の尾根は再び枯れたシャクナゲの密ヤブになった。シャクナゲが美しい明瞭な道だったという[10]、かつての面影は皆無だった。数分間のヤブとの格闘の後、シラベ植林地に入った。参道か分からないが、植林当時の作業道らしき踏跡が尾根上に薄く残っていて、多数の倒木を跨ぎながらそれを辿った。一九六〇米付近で治山運搬路に出合う地点は、約二十米の短区間だが車道がカーブしながら尾根上を通るため、その部分の参道は完全に消えていた。すぐ先で再び尾根上の曖昧な作業道に戻り、相変わらず倒木だらけの植林地を下った。「石楠花と針葉樹の比較的明かるい森林で、径は細いがしっかりと踏まれていて」[51]というかつての状況には程遠かった。一八九五米付近で再びヘアピンカーブする車道を見る地点では、道はカーブを掠めるように通過した。この辺から細い倒木を隠すように、靴の高さ程度の小笹が地面を覆うようになった。一八五五米付近でまた治山運搬路を渡った。薊沢支流の水音が左にすぐ聞こえ、水質の良し悪しを問わなければすぐ汲みに行けそうだ。倒木で歩き難いのは変わらないが、尾根筋はほぼ平坦で多少踏まれているため割と歩きやすかった。酷く伐採された跡地ではあるが、「水の流れる音も聞えてくる。附近が殆ど平となり…」と原全教が述べた地形は当時と変わっていなかった[14]。ただ明治末期にこの付近に立っていた四里標を原は見ていないので、大正年間中に失われていたと思われる[11,14]。一八一五米で、真っ平らで広大な笹原になった。その笹原の右端、崖下に治山運搬路を覗く辺りに道型があったが、笹が膝程度に深くなり完全に倒木を隠すので、躓いてとても歩き難かった。一七八五米鞍部が目前に近づいてきて、そこから尾根は五〇米程度の盛り上がりを見せていた。「前方に僅かな頭を認めると、小径は急に右即ち南へ尾根を外れて下るようになる」[14]という部分であろう。今は右下の治山運搬路がこの鞍部を薊沢へと越えていて、尾根通しの作業道もその車道に吸収されてしまうようだった。車道との高低差が僅かになった鞍部の約六十米手前で、作業道は右に下り治山運搬路の上に出た。
車道を横断して京ノ沢へ下る踏跡は見つからなかった。この付近の伐採は車道が境界線になっていて、これより下は伐採されていないため作業道も必要ないのであろう。もともと「小径が交錯してわかりにくい」ところだったようだから[51]、今探しても下る踏跡は見つからなかった。どこを下るべきか見当がつかないため、文献にある地理的特徴を元に推定した場所を下ってみた。治山堤防がなかったころは京ノ沢の飯場のすぐ手前、堤防ができた後は軌道が堤防脇を通った百米先に、参道の登り口があったという[37,51]。飯場の位置は一七〇五米付近の左岸であるから[34]、京ノ沢左岸の一七〇〇米付近に落ちる小尾根か、一七〇五米付近に入る緩い窪的な斜面が参道の道筋と推定された。目の前にちょうどその微小窪があった。過去の登山者は、「急峻削るが如き山側、小笹のしげれるを分けて、一直線に攀じ上る」[11]、「右手の崖側に取付き暫く急峻な熊笹の藪を分けて登る」[21]、「右手の熊笹の急崖を一気に五〇m攀じ登って」[8]と一様に崖のように急な道の様子を表し、ここを下った原全教は「転げるようにして」[14]と記した。実際に現地の地形を見ると、そこに立って崖のようにみえるのは窪状斜面の方だったうえ、小尾根の末端が「崖のような」というより本当の崖になっていたので、参道は窪状斜面を通っていたものと推定した。そこで車道から、上部が四十度近く、下部は四十五度程度の崩れやすい斜面を適当に下った。この斜面は昭和二十年代あたりに伐採されたと見え[29]、どこでも自由に下れる無立木になっていたので、獣道らしく見える痕跡を利用して滑落に注意しながら下った。
数分後、急な山腹で突然線路を見た。そこは京ノ沢の谷底がもう見える位置で、谷の中にも線路が敷いてあった。何が起きたのかしばらく考え込んだが、ここが「廃探倶楽部」管理人氏の言う、西沢森林鉄道京ノ沢支線の堰堤ダムに沈んだ旧線と堰堤を越えて敷き直された新線が並走している部分のようだった。とすると旧線は少し下でダムに沈むため通れないはずで、今立っている新線の線路にそって下るのが正しいことになる。本来の参道や、昭和三十年代の文献に見る参道が尾根に取り付く地点の伐採飯場跡も下の谷底にあるはずだが、そこへ向かうのは無用だ。そこで土砂に半ば埋もれた山腹の線路を下流方向に進んでみることにした。
⌚ฺ 二〇六五米付近登山道分岐-(15分)-鶏冠山林道横断-(35分)-治山輸送路からの京ノ沢下降点-(5分)-京ノ沢支線新線軌道跡からの尾根取付点 [2022.6.18]
● 京ノ沢支線軌道跡からの尾根取付点~京ノ沢小屋跡
下流方向に進み出すと、直ちに流れ込んだ土砂で線路や道床が消え、踏跡も無くなり、このまま通れるのか怪しい雰囲気になった。十数米下の京ノ沢を右に見ながら急な崩壊地をそのまま水平に進んでみると、酷く荒れた線路や道床が現れ、廃道としては普通に歩くことができた。堰堤でできた小さなダム湖を見下ろし進むと、数分後に下方の木々の間に潰れた廃小屋の残骸が見えた。軌道跡を捨て小さな踏跡に入って小屋跡まで直行し、そのすぐ下で軌道跡に復帰した。三個のヘアピンカーブで次第に高度を下げる軌道跡を、その間二度横切ってショートカットしたのである。廃小屋から一分も立たないうちに立派な車道に出た。ここは軌道時代の本線と京ノ沢支線の分岐があったところで、この車道は先程崖を下る直前に横断した治山運搬路から薊沢の中程で分岐して京ノ沢に回り込んできた、軌道跡を利用して作られた運搬路の支線である。
京ノ沢には多数の堰堤や人工物が作られてしまい、沢沿いにあったはずの参道はすっかり消滅してしまった。ここからもしばらく、車道を使って京ノ沢の左岸を下らざるを得ない。車道を二百米近く先の土砂崩壊の瓦礫を、ダム湖の美しい青い水面を眺めながら乗り越えた。これを過ぎると下流には人工物が無いので、堰堤先の荒れた踏跡で京ノ沢に下った。沢は五十米以上の幅があり流れが右岸側の端にあるため、左岸は広大な河原になっていた。木々の生い茂る河原の水流近くについた踏跡を辿った。西沢が近づくに連れ、河原は小さな分流のため涼し気な湿った深い森に覆われた。比較的明瞭な幾つかの踏跡が、複雑に分岐や合流をしながら下流に続いていた。京ノ沢が西沢に出合う直前で、一つの明瞭な踏跡が京ノ沢を右岸に渡ろうとしていた。近くを調べると、一番左岸寄りの崖の下に車道から転落してきたらしい緑のトラックが落ちていた。また京ノ沢沿いにそのまま下る踏跡は京ノ沢小屋跡の対岸で西沢に突き当り、増水がなければ容易に渡渉できそうに見えた。これが京ノ沢小屋が利用できた頃の参道であろう。今回は京ノ沢小屋がなくなり、大南窪の鉱山歩道が使えた頃の道を辿っているので、いったん京ノ沢を渡る踏跡に戻ることとした。踏跡は京ノ沢の意外と小さな流れを簡単に渡り、低い尾根末端を越えて西沢の左岸に回り込み、上流に約百米進んだところで終わっていた。そこは渡渉しやすいおあつらえ向きの場所で、両岸とも平坦で対岸にも道があることからして、かつて鉱山歩道の橋が架かっていたのはこの地点と思われた。京ノ沢が出合う前の西沢は水流が小さく渡渉は容易だった。どこから流れてきたのか、近くに軌道が通っておらずあるはずのない曲がった線路が落ちていることから、増水時の激しい水流が想像された。
右岸に付いた西沢本流の奥へ向かう明確な道が、鉱山歩道の続きと思われた。参道はここからいったん下流に向かうが、その方向は崖になっていて並走する曖昧な数本の踏跡が崖に張り付いていた。西沢沿いの京ノ沢小屋跡への道が登り気味なのは、その崖を高捲くためだろう。百五十米ほど登り気味のトラバースをこなすと、京ノ沢小屋に落ちる尾根に乗った。水辺に見える平地が京ノ沢小屋跡であろう。小屋跡による必要はないが、念のため見に行くと、十数米も下の西沢より一段高い位置にちょうどよいスペースがあり、さすがに今や何の痕跡も残っていなかった。小屋が無くなったちょうどその頃、少し上流に鉱山歩道の橋ができたので、小屋跡を見下ろすこの位置から突然上流方向の橋へ向けトラバースする不自然な道になったと思われた。
⌚ฺ 京ノ沢支線新線軌道跡からの尾根取付点 -(15分)-本線からの京ノ沢支線分岐-(15分)-西沢渡河点-(10分)-京ノ沢小屋跡付近 [2022.5.28]
[51]岡部長興「秩父の秋に─国師岳天狗尾根─」(『新ハイキング』五一号、四〇~四一頁) 、昭和三十三年。