大除沢道 page 2 【廃径】

 大除沢道の情報は、知る限り六十二年前の浅見氏の記述[2]以来途絶えている。竹内氏の平成十二年頃の聞き取りでは、軌道部分は「道床も大変な笹薮になっており、歩くのは無理」[5]だったという。上中尾からの道は荒川を渡る橋が消失したため通行の余地は無く、大除沢沿いに辿ってみた。軌道の道床は部分的に残るものの、急斜面の崩壊で完全に失われた部分もあり、部分的にしか通行できない。使うとしたら、大除沢遡行時に13Mネジレ滝の巻きに使用し、そのまま一気に作業小屋跡まで直行する場合であろう。つまり歩道としては利用できないということである。
 軌道の少し上を並行し長四郎谷へ至る作業道「上の道」も通ってみた。こちらも状態は悪いが、通行できないことはない。現時点で(遡行でなく)登山道で大除沢に入るには、「上の道」で長四郎谷まで入り、長四郎谷を下の道まで下るのがよいだろう。

●不動の滝入口~軌道跡始点(0M地点)

 栃本集落下の不動滝入口の東屋から下って、遊歩道の釣橋で荒川を渡り、大除沢左岸の大除不動尊まで登り返した。遊歩道と分かれた右岸高みの作業踏跡は、割石平への踏跡を右に分け、小窪の深く抉れた崩壊を通過した。この崩壊は悪く、状況次第では通過が難しいが、沢まで下巻けば通過できる。直後に、木橋の残骸の古い丸太一本を見るのみの渡河点に達した(720M圏)。平水なら靴を濡らさず渡渉できる。
 右岸に渡った作業踏跡は、百米ほど進むと、そのまま右岸を直進する沢沿いの踏跡を見送り、戻るように折り返して右岸尾根の山腹に取り付いた。電光型に高度を稼ぎ、860M圏で一瞬尾根に乗り、また大除沢側山腹を絡んで登った。895M圏で再度尾根に乗ると、向こう側は植林になっていた。そのまま尾根を登り、910M圏で登尾ノ頭方面へと山腹を捲く古道を分け、再び大除沢側を絡むようになった。995M圏で三たび尾根に出て植林を見ると、今度は一度大除沢側の支尾根に乗って、主尾根直下の大除沢側の灌木帯を進み、緩く開けた1060M圏鞍部で四たび主尾根に乗った。そこから僅かに登った1066Mの斜面で、大除沢側から来た軌道跡が尾根を回り込んでいた。
 この区間は、以前の「和名倉・大除沢右岸尾根 【藪径】」の報告の一部と重複する。

 

⌚ฺ  不動滝入口-(35分)-大除沢渡河点-(40分)-軌道跡末端 [2018.3.3]

●軌道跡始点(0M地点)~切通し(1066M地点)

 以前使われていた下の道(大除沢軌道跡)は、途中の崩落で寸断され通して歩くことができない。代替策の一つは大除沢の遡行だが、13Mネジレ滝付近がやや悪い。それなりの装備と技術があれば突破は難しくないが、さもなくば滝下から右岸のガレを軌道跡の515M地点まで登り、作業小屋分岐(777M地点)を経て、踏跡を使って作業小屋跡がある1100M付近二股で沢に戻り、なお遡行して浮田製作所跡へ向かう方法がある。しかしこの行き方は遡行技術を必要とする。
 もう一つの代替策は、上の道(仮称:長四郎谷作業道)を使う方法だ。険悪路や道なき道を行く技術が必要なことに変わりなく、一般の通行は危険だが、(猟師や木樵のような)山馴れした人なら遠回りながらも安全確実である。

 

 軌道跡のほんの数米上に、もう一本の水平道がほぼ並行して走っていた。軌道跡同様に古い痕跡で、崩れかかり歩き難い踏跡といった感じであった。同じ山腹を行く道でも軌道跡よりやや傾斜があり、次第に高度を上げて行った。二百米も進むと、非常に古い瓶が落ちていたり、年季が入った石垣があるなど、いかにも古道らしかった。航空写真からの推測では、昭和二十三年の開設と思われた。一方さほど古くない黄テープが見られた。この先も時々テープがあり、ある程度踏まれた感触があることから、演習林関係か釣りの関係か分からないが、今でも若干の通行があるのだろう。
 それからも二、三の石垣を見て、山腹を緩く登る踏跡は続いた。今や崩れや傷みが目立つものの、本来の道型はしっかりしていたようで、たまた保存状態の良い部分ではよく踏まれた良い道型が残っていた。軌道跡の515M地点の上方で大きな支尾根を回り込んだ。基本的には緩登だが、時々悪場を避けて急登が交った。もう一つ大きな支尾根を回り込むと、長四郎谷の右岸に入った。水がない谷が近づくと、崩土のため風前の灯のような細い踏跡になり、曖昧に消えてしまった。
 そこは長四郎谷の1190M圏で、大きな礫がゴロゴロ埋め尽くしていた。左岸に何か鐘楼の土台のような石垣があった。かつて炭焼きが入っていたと言うから、窯の残骸だろうか。踏跡は沢を渡り左岸に続くように見えたが、やはり崩土でほぼ消滅していた。
 歩き難いゴーロ状の涸沢を適当に下ると、時々似たような石組みが見られた。左岸に注意しながら数分下った辺りで、容易に軌道の切通しを視認した。そこが長四郎谷横断点(1025M地点)で、左に軌道跡を数十米も辿ると軌道跡の切り通しであった。

 

⌚ฺ  軌道跡始点-(30分)-長四郎谷1190M圏-(5分)-切通し [2018.11.11]

○サブルート 軌道跡を辿る旧道(軌道跡始点~切通し)

 伐採のためか木も疎らな大除沢右岸山腹を、軌道跡がほぼ水平に続いていた。斜面が崩れて道幅が狭くなったり道自体が傾いていたりするが、道床の痕跡は明瞭に残っていた。第二次大戦前から放置されていた軌道跡の状態としては、平均的であろう。290M地点の岩稜を辛うじて越すも、起点から415M地点の急な露岩帯は道床がほとんど消え危険なため、通過を断念した。この先、515M地点までは、「上の道」もしくは大除沢を遡行して捲くのがよい。

 

 515M地点は、大除沢中流部の1040M付近に掛かる13Mネジレ滝上部の小尾根上の地点である。ネジレ滝直前の右岸に入る山抜けもこの高さでは縮小していたが、それでも数米の区間、泥岩質の捌けた斜面を渡る必要があり、倒木のしっかりした枝をつるはし代わりに足場を一歩ずつ切り開いて進んだ。
 その先は、明瞭な箇所と土砂流入で不明瞭になった箇所とを交互に交えて、比較的快調に歩ける水平道が続いた。 二、三分毎に計三点の軌道のものと思われる鉄帯が落ちていた。木軌道に貼ってあったものらしく、長さ数十センチの平棒で小穴が一定間隔で開いたものだった。岩が出た所には、中村が報告したように、桟道を渡していたと思われた。小尾根回る所はやや広く、道床もしっかりしていた。ごく緩く登っていた軌道跡が、流れに向かって緩く下りだす辺りが、往時の作業小屋分岐と思われた(777M地点)。現在は作業小屋方面のみ踏跡が続くので、知らずにそのまま作業小屋跡へと導かれる。もし小屋跡へ向かうなら、ほんの数分の緩い下りで到着する。道は直前で曖昧になり、大除沢1100M付近二股の右岸に降り立つ。左岸の高台に、二ヶ所の小屋跡的な整地と、周囲に散らばる水がめ、釜、酒ビン、茶碗などが見られた。

 長四郎谷横断点(1025M地点)までは岩混じりの急壁、急斜面、崩土帯のため通行不能の区間を含む可能性があるが、確認していないので分からない。

 

 長四郎谷横断点(1025M地点)から説明を記録の記述を再開する。東行する長四郎谷(1110M圏右岸支沢)は、あるかなしかの細い水流だった。沢沿いの遺構はしっかり組んだ橋脚でもなければ流されてしまうものだが、未だに沢を横切る道床の補強らしい石組みが残っているのは、この水量の少なさに依るものだろう。ここから約五十米下った大除沢の出合付近に、知る限り唯一の6kg軌条が落ちていた。出水の度少しずつ流されて、そこまで移動したのだろうか。
 急な右岸の道床は崩土で埋まり跡形もなかったが、傾斜の緩い左岸には明確に残り、そのまま小尾根の切通しを越えて本沢(大除沢)の右岸に続いていた。同様に急な大除沢右岸も微かな踏跡が残るのみで、結局どこまで軌道が続いていたかは分からなかった。その先も、標高1170M付近まで右岸に一見道床のようなものが断続的に現れたが、1150~1160M付近と予測する浮田製作所の位置からしても、またトロッコの通行が困難な傾斜からしても、木馬道の残骸と思われた。確認できたことは、少なくとも本沢と長四郎谷との切通しまでは、断続的ながらも常に6~7‰の勾配を保つ道床があり、それに沿って幾つかの遺物が発見されたということである。従ってここでは、一応上中尾へ下る索道上から本沢と長四郎谷との切通しまでの1066Mを、軌道跡と推測しておく。

 

⌚ฺ  軌道跡始点-(15分)-415M地点 [2018.11.11] -(未通行のため不明)-515M地点-(15分)-作業小屋分岐 [2017.4.29] -(未通行のため不明)-長四郎谷横断点-(1分)-切通し [2018.11.11]

●ヒルメシ尾根出合~大除ノ頭南鞍部

 現在の川又道(ヒルメシ尾根道)は和名倉山の西腹の低い位置を巻き、曲沢源頭の伐採小屋跡を通って八百平付近で将監峠からの道に合流する。ここから川又道を辿るのが通常だが、以下は山頂方向へお寝に絡む旧道を辿った記録である。最初に開かれた道は、大除ノ頭を越して尾根通しに下っていた[6]が、伐採や風倒木の影響で幾度か道の付け替えが起き、現在の位置になった。大除沢道を辿るとすると、ヒルメシ尾根に付いて登り大除ノ頭を登って越すことになるが、現地で見ると大除ノ頭を西巻きして二瀬道に合流する一世代前のルートの痕跡を見るのみだったので、今回はそれを辿ってみた。
 登り始めて数分後の1770M圏で、川又道は右に巻き始めた。曲沢側の伐採跡との境界を成す稜線に明瞭な踏跡は無かったが、大きな障害になるほどのヤブや倒木はなく、どこでも歩くことができた。伐採跡はカラマツ植林とモミの二次林が混生していた。造林ワイヤーを見ると作業道の残骸であるのか、多少道的な雰囲気出てきた。大除沢側も伐採跡のシラカンバの二次林になり、辛うじて尾根筋だけがモミやツガの暗い森を保っていた。1870M圏峰を越えて旧大滝村有林に入ると、伐採の爪痕は激しさを増した。1860M圏の小さな舟形地形は明るく開けた伐採跡になっていて、酒ビン、ワイヤー、造林機器の廃物が放置されていた。続いて別の舟形地形が現れ、踏跡や径の痕跡がないので下りでは迷ってしまうだろう。
 1910M圏に突然赤テープと落ちたビニール袋があり、ワイヤー多数残置されていた。位置的には、この辺りを二瀬旧道が西から東に乗越していたはずである。尾根は原生林帯になり、1930M圏小突起を過ぎると赤テープがあり、何となく尾根通しが歩き難くなり、右へ水平に行く痕跡が見えた(1930m圏)。どうやらここが大除ノ頭を巻き始める地点と思われた。痕跡は複数に分散して並走し、断続的で不明瞭ながらもほぼ水平であるように思えた。確信もないまま暗い森を我慢して進むと、左上の稜線が下がって明るい空間が垣間見えてきた。稜線は容易に手が届く位置まで下がって平らになった。僅か左が、二瀬登山道が通る大除ノ頭南鞍部で、真新しい道標が立っていた。ここから千代蔵休場下の和名倉山、将監峠との分岐まで、原生林中ではそれほど明瞭でないが、マーキングがベタ付けされた一派名登山道が続いている。

 

⌚ฺ  ヒルメシ尾根出合-(50分)-大除ノ頭南鞍部 [2017.4.29]

●浮田製材所跡推定点~ヒルメシ尾根出合

 浮田製材所からの道は、「ヒヨドリ越えのような急傾斜の阪路を電光型」で行くものだったという[10]。推定値の目前には、1160M圏左岸支窪の出合がある。その支窪の左岸斜面はまさにその表現にピッタリの、急だが露岩がなく平面的で、安定した登りやすい斜面である。あやふやな小さな踏跡を繋いだ約10分の登りで、左岸尾根の1230M付近に乗った。
 この尾根は薄く踏まれた歩きやすそうな尾根で、これを1305M付近まで登れば、以前通ったことのある尾根上の地点に出る。恐らく10分の登りで行けると予測されるが、この短い区間は残念ながらまだ歩いていない。
 1305M付近というのは、以前、1100M圏二股左岸の作業小屋跡から別の作業道で登ってきた地点である。その作業道は明らかに遠回りの上、浮田製材所予想地点を通らないので、当時の伐採道の一つであろう。またその作業道は、歩いて確認してはいないが大除沢1120M付近左岸支窪出合へ下るらしい道を、途中で分岐しているようだった。この付近は伐採のため様々な作業道が張り巡らされていたらしく、今でもあちこちに道の痕跡を見ることができる。
 尾根に絡んで進む大除沢道の微かな痕跡は、たまに道らしい断片となるも大部分が不明瞭であり、道型を失った斜面のトラバースはずり落ちやすく歩き難かった。地形や斜面の雰囲気、落葉の溜まり方で道の位置を推測し、時に混じる折り返し箇所を判別した。尾根を出鱈目に登るのに比べ体力を消耗する、苦しい登高だった。古道は尾根筋を通ることは殆どなく、不定型な尾根形状にうまく絡みつつ、ばらけた痕跡となって断続的に続いていた。伐り残された尾根筋は見事なヒノキの森で、古道は岩場や急壁を避けて、トラバースや折り返しを使ってうまく抜けていた。振り返ると谷の正面に栃本の集落が見えてきた。1500Mを超えた辺りは尾根筋が不明瞭で、倒木で荒れた原生林を適当に登った。
 1600M圏で痕跡が尾根の右をまき続けるようになったので、トラバースに入ったようだった。数分後、左に分かれる踏跡があり追ってみると、1630M付近に直径数十~百米近い顕著な舟形地形が現れた。ヒノキとモミの見事な森の平坦地に多少の水が溜まっていた。すっかり刈り払われた二瀬尾根によくあるものと同様の地形だが、深い森に突然現れる舟形は格段に神秘的なものであった。
 伐採跡なのか、立木も疎らな礫に覆われた崩壊跡の荒地に出ると、どこでも歩け、随所に歩いた気配が感じられたが、確かな道筋が分からなくなった。仕方なく、尾根に絡んで右斜面を適当に登った。ヒノキの小尾根を回ると、ヤブ状の伐採跡二次林に痕跡が明滅するようになり、目的地のヒルメシ尾根1735M圏鞍部の見た目の位置を意識しながら、適当に水平に進んだ。造林ワイヤーの断片を見て、1120M圏左岸支沢源頭の一つの支窪の小流を渡った。まだ僅かな雪塊が残っていた。不確かな痕跡は、その先の伐採跡で次第に踏まれてきて、数分後にヒルメシ尾根の川俣道に出た。標高をあらわす1735と書いた小プレートが木に取り付けてあった。合流点の様子は、ヒルメシ尾根を下ってきて、戻るように山腹に入るという諸文献の記述[6,11-13]と良く一致した。

 

⌚ฺ  浮田製材所跡推定点-(10分)-1160M圏左岸支窪左岸尾根1230M付近-(10分と予想、未通行)-1160M圏左岸支窪左岸尾根1305M付近-(1時間15分)-ヒルメシ尾根出合 [2018.11.11、2017.4.29]

●ヒルメシ尾根出合~大除ノ頭南鞍部

 現在の川又道(ヒルメシ尾根道)は和名倉山の西腹の低い位置を巻き、曲沢源頭の伐採小屋跡を通って八百平付近で将監峠からの道に合流する。ここから川又道を辿るのが通常だが、以下は山頂方向へお寝に絡む旧道を辿った記録である。最初に開かれた道は、大除ノ頭を越して尾根通しに下っていた[6]が、伐採や風倒木の影響で幾度か道の付け替えが起き、現在の位置になった。大除沢道を辿るとすると、ヒルメシ尾根に付いて登り大除ノ頭を登って越すことになるが、現地で見ると大除ノ頭を西巻きして二瀬道に合流する一世代前のルートの痕跡を見るのみだったので、今回はそれを辿ってみた。
 登り始めて数分後の1770M圏で、川又道は右に巻き始めた。曲沢側の伐採跡との境界を成す稜線に明瞭な踏跡は無かったが、大きな障害になるほどのヤブや倒木はなく、どこでも歩くことができた。伐採跡はカラマツ植林とモミの二次林が混生していた。造林ワイヤーを見ると作業道の残骸であるのか、多少道的な雰囲気出てきた。大除沢側も伐採跡のシラカンバの二次林になり、辛うじて尾根筋だけがモミやツガの暗い森を保っていた。1870M圏峰を越えて旧大滝村有林に入ると、伐採の爪痕は激しさを増した。1860M圏の小さな舟形地形は明るく開けた伐採跡になっていて、酒ビン、ワイヤー、造林機器の廃物が放置されていた。続いて別の舟形地形が現れ、踏跡や径の痕跡がないので下りでは迷ってしまうだろう。
 1910M圏に突然赤テープと落ちたビニール袋があり、ワイヤー多数残置されていた。位置的には、この辺りを二瀬旧道が西から東に乗越していたはずである。尾根は原生林帯になり、1930M圏小突起を過ぎると赤テープがあり、何となく尾根通しが歩き難くなり、右へ水平に行く痕跡が見えた(1930m圏)。どうやらここが大除ノ頭を巻き始める地点と思われた。痕跡は複数に分散して並走し、断続的で不明瞭ながらもほぼ水平であるように思えた。確信もないまま暗い森を我慢して進むと、左上の稜線が下がって明るい空間が垣間見えてきた。稜線は容易に手が届く位置まで下がって平らになった。僅か左が、二瀬登山道が通る大除ノ頭南鞍部で、真新しい道標が立っていた。ここから千代蔵休場下の和名倉山、将監峠との分岐まで、原生林中ではそれほど明瞭でないが、マーキングがベタ付けされた一派名登山道が続いている。

 

⌚ฺ  ヒルメシ尾根出合-(50分)-大除ノ頭南鞍部 [2017.4.29]

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不動滝を横目に大除沢を登る
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渡河点手前の非常に悪く手を焼く崩壊
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丸太1本を残す木橋の残骸(現在は流失)
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右岸に渡った細い踏跡
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1066M地点で尾根を回り込む軌道跡
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「上の道」の良い部分は立派な作業道
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崩土で埋まると漸く見える程度になる
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「下の道」の始めは明瞭な道床
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斜面からの崩土で次第に薄くなる
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515M地点先崩壊は足場を掘りつつ渡った
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かつての軌条の存在をうっすらと感じる
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岩盤を切り開いた部分のみ明瞭
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軌条に敷かれていた鉄帯の残骸
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同様の遺物を三箇所で見た
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尾根に取り付く辺りの微かな道の気配
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ヒノキの尾根を登る道
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炭焼窯跡までは何とか道は続いている
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道の痕跡は右巻きを始める
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静寂に包まれた尾根上の舟形
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伐採跡では殆ど道型が見えない
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川又道との合流
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針葉樹の細い二次林を適当に登る
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放置された造林設備の残骸がそこここに
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伐採か風害でできた舟形地形の開けた箇所
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左の山稜が下がった平地が大除ノ頭南鞍部
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道標地点で一般登山道に出合う