国師街道(信州往還) page 2 【廃径】
国師街道の山梨側は、植林地や伐採地が多く多数の踏跡があるので歩く事自体は容易だが、地形が複雑で非常に多くの作業踏跡が入り乱れているため、迷いやすく相当の試行錯誤と読図力を要するかも知れない。朝日峠への登りは一本調子の登りに微かな痕跡が残っているので、道筋を正確に追えるかを別にすれば登るのは容易だが、下る場合はダムや堰堤の人工物に出合わぬよう慎重なルーティングが望まれる。信州側の下りは大薙沢に出るまでがほぼ消滅と言える荒廃ぶりで、迂回路として国有林の巡視道を使用できるがこちらも熟達者向けの悪路だ。そこから沢沿いに下る区間も消え掛けた曖昧な道で、正道の判断は非常に苦労するが、適当に下るならとにかく両岸の歩きやすい河原を行けば良く容易である。
● 石祠峠~一八九六米桜沢渡沢点
むかし金峰山東口参道が越えた石祠峠(一八九一米)を、今は立派な鶏冠山林道西線が乗越している。山腹をトラバースしながら少しずつ登ってきた林道は、越えるというより峠から等高線に沿いに右に回り込んでいる。よく見ると峠を乗越して真北へ下る廃車道が出ているので、これを国師街道として下り始めた。峠からこの先の公徳小屋跡までは完全に伐採された上、作業車道が張り巡らされており、もはや古道の痕跡すら分からなくなっているからだ。緩く下る廃車道を約百七十米進むと折り返しになったので、そこから水平に出る何らかの作業踏跡の痕跡と思われる笹の小さな踏跡に入った。百五十米も行くと別の作業車道がすぐ下を並走し、さらに百五十米先で踏跡はその車道に吸収された。すぐ先で上の鶏冠山林道へ接続する車道を分け上下に分かれ緩く下る方に入ると、約百米先の一八八〇米付近で広い窪状地形に出て車道は折り返して下に向かっていた。低い笹に開けた草地には丸太を積んだ小山が幾つかある小広い場所で、文献が示す地形に合致するここが明らか公徳小屋跡と思われた。伐採後、保水性の乏しいカラマツ植林になったためか、小屋場に必要な水は流れていなかった。辺りは腰までの笹原に植林されたカラマツが点在する明るい場所だ。
この先車道はなく、深い笹に踏跡を探した。小屋跡の二、三十米先に見えるピンクテープで出発点だけは分かったが、すぐ先でもう不明になった。笹の中に多数の作業踏跡があり正道が分からないが、およそ水平かやや登り気味に笹の弱い所を足の感覚で探りながら進んだ。抵抗が弱い部分が道というわけだ。目で見て笹が少し窪んで道的に見える部分もあったが、二〇二三独標から西に出る尾根に近づくに連れ、道が水平になる頃には、笹が深くなり道が分からなくなった。その尾根をちょうど一九〇〇米で水平に回り込むと笹が消え、カラマツ植林の割りとはっきりした作業道になった。この先、桜沢を渡るまでずっと水平だった。数十米進んで微小尾根を回るところで古いワイヤーを見ると、天然更新のような細い密林に入り、百米ほど行くと道の上に落ちた割れた酒瓶があった。時に倒木で荒れ、踏跡が乱れるときもあるが、概ね歩きやすくとにかく水平に行けば良い。雰囲気のよいシラベと苔の道は、桜沢の沢音が近づき沿って歩くようになった。斜面崩壊で四、五十米の間踏跡が流れた箇所を、後から付いた回避踏跡で抜けた。その先の微小尾根で踏跡が曖昧になるが、その尾根を僅か下って沢の左岸の桜沢軌道跡に降り立った。一八九六米付近の、まるで日本庭園のように水の流れと苔が美しい場所である。桜沢左岸の軌道跡を登ってきた場合、右岸にまず微流が出合い、またすぐ右岸に支沢が出合う一八九三米変則三股の三、四十米上流が、国師街道の渡沢点である。この右岸支沢は谷に入っても本沢にすぐ合流せず並流しているので、国師街道は数米間隔の本沢と右岸支沢を連続して渡るようになっている。上流方向にはV字谷で入るこの支沢と広い河原が終わり狭まる本谷が見える。石祠峠への道は河原から段丘へと曖昧な登り出しになっていて見ても分からない。確実な目印がないので、渡ってすぐの右岸の立木に白テープを巻いておいた。
⌚ฺ 石祠峠-(15分)-公徳小屋-(20分)-一八九六米付近桜沢渡沢点 [2021.10.10, 2021.10.30]
● 一八九六米桜沢渡沢点~下アコウ沢道分岐
道は本沢、すぐ下で合流する右岸支沢と続けざまに渡ると、十数米先の微小窪で消えた。捜索して見つけた道の断片からすると、M字ないしは二つの電光型で小窪付近で高度上げているようだった。一〇米ほど上の微小窪右岸からは少しずつ登る明瞭な小径となるも、二、三分先の苔むした崩礫帯で不明となった。だがよく見ると、石の間を縫うように踏んだ形跡が合った。抜けるとまた道らしくなり、すぐに道の脇の錆びた一斗缶を見た(一九三七米)。直後のなだらかな尾根を回る部分は倒木で荒れて道が消えたが、同じペースで緩く登ると道が復活した。次の涸れた小窪直前でまた道が消えたが、道の流れから二股のすぐ上の一九四〇米付近を渡るらしく見当をつけて二本続けて渡った。その先の大規模な倒木帯で長い区間が不明瞭になっており、障害を避けて様々に踏んだ多数の形跡のため正道が全く分からなくなった。だが少しずつ登って二〇九三独標から南下する沢に入ることは昭和四十二年図から明らかであるため、地形的に道を通しやすい緩斜面に付いた多数の痕跡を適当に拾いながら、自らルーティングして進んだ。その結果、その沢の一九四〇~一九五五米付近に広がる長い湿原帯の下部に出た。
一帯に踏査が入っていないためか地形図に湿原記号はないが、実際この辺りには多数の湿原がある。左岸に現れた踏跡は幾つもの曖昧な痕跡になったが、国師街道はすぐ右岸山腹に取り付いて尾根を乗越すはずである。沢は一度倒木帯になり、その先で踏跡が右岸に移ると、一九六三米辺りで再び小さな湿原状となった。地形表現がかなり誤った明治四十三年の旧版図では一九〇〇米圏にある右へ出る作業道の分岐がここであろう。その作業道は湿原の小沢を詰め二〇〇〇米の等高線付近を水平に上アコウ沢の上流へ向かうようになっていて、かつて沢沿いの一九九〇米付近まで歩いてみたことがあるが、国師街道同様に曖昧な踏跡だった。やはり昭和期の営林用の作業道として使われたのであろう。右岸に多数ある踏跡の一つを使って山腹に取り付くと、尾根に出るまでの僅かな区間だけ伐り残され古い森が残っていた。約二〇米上の尾根上に乗り上げた。原が「呆気なく五分ぐらいで乗越してしまう」[5]とした部分であろう。尾根上の一九八三米地点が、地形図には表現されていないが約五十と三十米の方形の平地になっている。原はここで金峰が見えるとしたが、現時点では高い木に遮られ眺望はなかった。ただし乗越の方向はちょうど金峰山を向いていて、樹間にうっすら見た山影が金峰山と思われた。伐採時の作業場だったのか数米四方の小さな空地があった。目立たぬ位置に県有林巡視の目印であるのかピンクテープが下がっていた。
広大な乗越の平地からの道は倒木のため全く分からず、様子を見ながら真直ぐ乗越して北進した。道もない荒地を五十米も進むと次第に下りになる緩い斜面に大きな炭焼窯の跡があった。多数の伐採道、いやむしろ伐採時に歩いた痕跡ほどの踏跡があり峠道が判別できなかったが、昭和四十二年図でも原の紀行でも緩く下るようなので、多数の古道を歩いてきた勘を頼りにシラベ植林の数多くの踏跡を適当に繋いで下り気味に歩いてみた。痕跡は突然小さく開けた場所に出て、キリンビールの空缶があった。水を何とか汲める微流もある小屋場的な場所だが、小屋の残骸や廃棄物が全く見られないので、伐採時の土場か資材置場の類があったのかもしれない。何かの痕跡か踏跡か分からぬほどの微かな道を緩く下り、珍しく右岸が露岩となった小窪を下りながら捲くと、二〇九三米独標から出る西尾根を一九五〇米付近で回った。この先のシラベやカラマツの植林地が比較的新しいためか、しっかり整備が行き届いているためか、道が明瞭になった。下アコウ沢の谷に入ってすぐ、道が分岐した。分かりやすく踏まれているのは良いが、作業道が入り組んでいるのは相変わらずだった。付近の幾つかの踏跡を歩いてみたが、大まかに言えば、水平に続く国師街道から、下アコウ沢の一九三五米二股付近に緩く下りそのまま車道まで沢沿いに下る作業道が左に分かれるという構図である。
⌚ฺ 一八九六米桜沢渡沢点-(20分)-長い湿原帯-(5分)-一九八三米乗越-(15分)-下アコウ沢道分岐 [2021.10.30]
● 下アコウ沢道分岐~一九六三米上アコウ沢渡沢点
道はこの辺りを底として再び緩い登りに転じた。先の一九八三米乗越から水平に行けば良いようなものだが、一度下ってまた登る方が急斜面の捲道などの無理をせずとも道を通せる地形のためである。水平もしくはやや登り気味の幾度も分かれ合わさる弱い踏跡で、明滅するため道が良いとも悪いとも言えない。やはり作業としてみた場合、先に分けた車道へ続く道が本線で、植林地を水平に繋ぐ国師街道の方が支線になるためだろう。下アコウ沢の源流を渡る部分は面白い地形で、高低差二〇米くらいのかなり傾斜のある斜面が横に広がり、苔の美しい湿原状の草地になっている。道はその上端に近い一九六三米で小さな流れを渡った。原全教が「下アコウ沢の草地へ出る。このささやかな流れを渡って」[5]と記したところであろう。古い空中写真によりここは以前から草地であったと思われ[31]、丸い礫が多いことからも、昔の崩壊地が再生して傾斜はあるが凹凸のない草地になったのかも知れない。
下アコウ沢の右岸は倒木で荒れ、取付き分からなくなっていた。道の痕跡をやっと探し当てるも不明瞭で、雰囲気の良いシラベやモミの森をとにかく水平に踏跡を探しながら進んだ。というのも基盤地図情報で詳細地形を見ると、上アコウ沢を隔てる尾根を一九七七米鞍部で乗越すと予想されたからである。この一帯が不明瞭なのは、中腹以下を皆伐した昭和の大伐採を免れ自然林が残った地域に入ったからである[32]。左岸が崖状の小窪るところで踏跡が収斂しむしろ明瞭になった。次の複雑な形の小窪も丁寧に捲いて回った。自然林は約十分で終わり、小尾根を回る地点からいったんカラマツ植林に戻った。幸い道は多少踏まれた感じがあり、相次いで微流を渡った。付近の植林はまだら模様で、ところどころが伐られたまま小さく開けていて、若木のヤブになっていた。やがて大きなカラマツ植林入ると道が不明瞭になったが、下草はなく枝打ちの端材だけなのでヤブや倒木より歩きやすかった。とにかく水平進むと、ちょうどうまく上・下アコウ沢中間尾根の一九七七米の乗越に達した。
割れた酒瓶が唯一の残置物である乗越からは、多少あいまいに踏まれた感じになった。風害か伐採の跡を思わせる細いシラベの密生した森になり、踏跡を見つけては樹間を縫ってトラバースを続けた。一時的にこの道と近くなった車道が遥か下方に垣間見えた。一九八四米の肩状を過ぎると上アコウ沢左岸の斜面に入り、シラベ植林らしい多少落ち着いた森になった。ちょっとした崖状の傾斜地を避けるように一〇米ほど急下したあと、
道はまた山腹をトラバースした。多数の踏跡が並走する植林地なので惑わされたが、ほぼ水平に進んで高度を上げてくる沢に自然と近づくのが正道のようだった。付近で幾つか、数十年前の植林作業時のものらしい黒いプラスチックの弁当容器の破片を見た。沢に吸収されるように、一九六三米で上アコウ沢の右岸に降り立った。右岸に小窪が入る地点で、また数十米上流の一九六七地点には大きな右岸支沢が入っている。右岸には軌条は外されているがアコウ沢軌道の道床が残っていた。
⌚ฺ 下アコウ沢道分岐-(5分)-下アコウ沢渡沢点-(25分)-一九七七米鞍部-(15分)-一九六三米上アコウ沢渡沢点 [2022.6.4]
● 一九六三米上アコウ沢渡沢点~荒川渡河点
昔の道の名残か分からないが、上流側を見ると石が渡りやすく配置されていたので、そこを渡った。昭和四十二年図では、ちょっとした尾根を乗越すまで上アコウ沢右岸を八〇米ほど登るようになっている。原もまた「だんだん登りになる」と述べたが、どこをどう登るかがさっぱり分からなかった。だが幸いなことに、図が示す北への進路を許す唯一の地形は一九六三米の右岸支窪しかなかったので、迷わずそこから山腹に取り付いた。この窪は取り付きだけ多少急だがすぐ緩やかになり、右岸側の一九九八米肩状に乗り上げた。この間ヤブや倒木もなく、小窪の右岸側が薄く踏まれていて歩きやすかった。窪の中で瀬戸物の破片を見た。肩状からはトラバースしながら緩く登った。上アコウ沢を過ぎると自然林一色となり、曖昧な踏跡は次第に収束し多少道的になってきたが、明滅する不安定な踏跡であった。
次第に複雑な形状の小窪が近づいてきた。全体的な地形が穏やかなので、窪は様々に方向を変えながら分岐していて、恒例として窪付近で道が曖昧になることもあり、道の続き方が分からなくなった。網羅的な捜索の結果分かったのが、以下の道筋である。小窪に出合ったら渡らず左岸に付いて登り、二〇二一米二股付近で微流の窪を渡り、支窪の涸れた左股に入って二〇二六米の肩状平坦地を乗越す。この肩状が、原が「また大きな小屋がある。」とした箇所だろうか。ここの平坦地にも目立たぬ位置にピンクテープが下がっていた。他と同じくここでも所要時間に捜索時間を含めていないので、実際の通過にはもっと時間が掛かるかも知れない。
深い森の緩斜面のあるかなしかの曖昧な痕跡をなお僅かに登り気味に行くと、二〇二九米で複雑な形状の微小窪の二股状になった部分を渡った。またひと登りしてその右岸尾根を二〇四〇米で越えると、曖昧な水平踏跡が多少見えやすくなった気がした。ところどころ不明瞭になりなる頼りない踏跡をたどる特徴ない山腹のトラバースが長く続き、道を外してないか不安になる辺りだ。それでも水平に行けばいいので迷う要因は少なく、順調に歩を進めた。同時に耳障りな車道の通行車両の騒音が気になり出し、車道横断点が近づきつつあるのが分かった。不明瞭な何筋かが並走して何となく一つの道になっていたので、周囲の全体的な状況を見渡しながら進んだ。次の微流を渡る頃にはいよいよエンジン音がうるさく、沢の下流を見るともう約五十米先に車道がはっきりと見えた。現在の地形図で二一二二独標の西二百五十米付近の二〇八〇米圏峰の南側の小沢のことである。なお水平な踏跡は曖昧に続いて、左下の車道を見ながら並走した。二〇八〇米圏峰から西に出る小尾根を水平に捲くとき、キリンビール空缶を見た。水平に付いた国師街道は、ついに二〇八〇米圏峰の北側の小窪が車道を横切る地点で登ってきた川上牧丘林道に、二〇四一米で追いつかれた。車道はその小窪を、数米の極短ガードレールが付いた橋状の構造物で渡っていた。
水平に行く国師街道と緩く登る車道とが交差する部分では、道が車道建設により埋もれてしまっていて、約五十米の右カーブからガードレールを越えて道の続きに入った。無理に跨がなくとも数米先のガードレールの切れ目から入ればよい。入口がヤブっぽく車道から見ても分からないが、突入してみれば、車道と並走するように弱い踏跡が水平に続いているのが分かる。直後に酷い倒木を潜って通過、その後も小倒木が続いた。微小窪二つを踏み越えて二〇三五米の小尾根のちょっとした肩状地点から、その先の窪的地形へと下り出し荒川に向けた急降下が始まった。車道以来、常に道はうっすらと踏まれていた。水のない窪状を下ると微水の窪が右から合わさり、すぐに軌道の無名沢支線を横断した。無名沢とは、一九九〇米付近で荒川左岸に注ぐ無名の大きな支流を仮称したものである。道床が荒廃し多少分かり難くなっているが、よく見ると散乱した線路がありそれと分かる。そこから右に行くとすぐ苔むした十本程の倒木、左には余った軌条を積み上げた場所がある。この辺からはシラベの植林になっている。
軌道跡から約二分で、川上牧丘林道から荒川に下る荒れた作業道と交差した。立木に巻き付けたテープでそれと分かる。そこからの道は曖昧な踏跡にバラけ、曖昧見失うほど微かな痕跡となり、二分ほどで前記の無名沢を渡った。この植林地も多数の踏跡が入り乱れているのでどこが正道かの判断は難しく、地形を読んで正しいルートを辿れれば良しとせざるを得なかった。
無名沢はこれまでのどの渡沢点よりも水量が多かったが、道の通過場所には飛び石がうまく配置されているので容易に渡れた。原全教はこの付近で道を外れた見られ「堤防のような」右岸尾根を乗り越えたとするが、正道は右岸尾根末端の全く登らない位置で荒川側に越えていた。すなわち無名沢を渡った一分後にはもう荒川の河畔に達していた。目ぼしい支沢が入る前の源流に近い荒川の水量は平水なら案ずるほどのものでなく、渡河点にうまく並んだ石を踏んで靴を濡らさずに渡った。渡河点は荒川に無名沢が出合う僅か上流の一九九一米である。
⌚ฺ 一九六三米上アコウ沢渡沢点 -(15分)-二〇二六米肩状-(25分)-川上牧丘林道の二〇四一米地点-(15分)-荒川渡河点 [2022.6.4]
【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)
- 公徳小屋跡付近で、鶏冠山西林道の剣ガ峰と2023独標の鞍部を乗越す地点から下ってきた作業車道と短区間重複
- 桜沢渡沢点で、川上牧丘林道桜沢橋から来る桜沢軌道跡と交差
- 下アコウ沢横断点付近で、川上牧丘林道から下アコウ沢沿いに来る踏跡を合わせる
- 上アコウ沢渡沢点で、上アコウ沢軌道跡と交差
- 2122独標尾根下の2041mで、川上牧丘林道と交差
- 川上牧丘林道の大弛峠4K標識の約200m大弛峠側、無名小沢の右岸尾根に踏跡があり、荒川渡河点の約100m甲州寄りで交差
[31]建設省地理調査所『米軍撮影空中写真(1948/10/19)』、昭和二十三年、M1196-57。
[32]国土地理院『空中写真(甲武信ヶ岳)CCB7614(1976/10/22)』、昭和五十一年、C8A-14。