古道をできるだけ正確に辿った 金峰山表参道 2 【仕事径】

 【補足1─金桜神社衰退の古道への影響】

 加えて補足として、古道の道筋に関して特に気になる二、三の点について考えておきたい。一つは金桜神社の衰退による神領縮小の様々な影響についてである。ここで衰退というのは、修験道の最盛期に武田氏の厚い庇護のもと繁栄し信者が武田軍の一角をなしていた戦国時代に比べ、徳川時代には引き続き多くの信者を集めていたとは言え地方の由緒ある一神社に成り下がったという意味である。金峰参道の古文献として、江戸時代に書かれた幾つかの紀行が知られている。しかしそれらは、金峰信仰の最盛期を過ぎてからの後世の旅人が、見たまま聞いたままを気の向くまま記したものである。金桜神社の社記は慶長十三年(一六〇八)の大火で焼失したため古い記録がなく[8]、そのため体系的な知識を得るための、客観的にまとめた資料は非常に少ない。僅かに、甲斐国志(文化十一年、一八一四)[1,2]、社記・寺記(慶応四年、一八六八)[8]くらいであろう。たが何れも、一ノ鳥居建立から数百年後が経過し修験道がかつてのような大きな力を失ってから編纂された資料であるため、歴史的事実は不確かな伝承に依っている。さらに編纂当時の状況が併記されているため、記述に一見チグハグな部分が生じている。それでも事実関係をまとめた唯一無二の資料であることは間違いない。

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神域の縮小に伴う鳥居位置の後退
鎌倉期の神域南限は吉沢・旧一ノ鳥居だったが、江戸期に八王子峠先まで後退
(出典:国土地理院 五万分の一地形図「御岳昇仙峡」)
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一ノ鳥居付近の地形
(出典:川だけ地形地図)

 国志や寺記・社記編纂当時、御霊若宮近くの藪の中にあるとされ実態が不明であった一ノ鳥居が、昭和五十九年に発掘され位置が確認された。国志は、荒川を御霊渡場で渡ると神領の南限を示す一ノ鳥居、さらに登るとすぐ御霊平で、そこには御霊若宮があったと記している。甲府から吉沢までの古い道は、山沿いに羽黒を経て行く道と、千塚から荒川沿いに行く道の二本しかない[9]。羽黒には、金峰山開山と同時期の大同二年(八〇七)、千塚から遷祀された古刹・大宮七社明神(羽黒大宮神社の異称)があり、近年の研究では、吉沢口の起点が大宮七社明神(羽黒大宮神社の異称)であるとの説が有力になりつつある[3,10]。そこを発った信者は、荒川左岸を通り、明治時代までは現在の「美晶堂」という水晶屋の下側を通っていた左岸道から分かれて御霊渡場で荒川を渡り、今は田んぼになっている一ノ鳥居跡に至ったと考えられる。目前の段丘崖の上が御霊平で、そこに現在も御霊若宮の残骸らしき小祠があることから、位置関係を矛盾なく理解できる。

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御岳の桜大門付近(左:明治四十五年以前、右:令和二年)
(左写真出典:甲斐国 御嶽風景[11])

 ところで、国志に記された一ノ鳥居、二ノ鳥居、一本桜、桜大門等の位置は編纂当時のものであり、古来の位置ではない。江戸~昭和の文献に現れる一ノ鳥居、二ノ鳥居も同様である。中世に権勢を誇り武田家の軍勢として活躍した御嶽衆が崇める金桜神社は、かつて広大な領地を有し、その南限が吉沢の一ノ鳥居であった。一ノ鳥居とは、神域への入口の意味である。御嶽衆は徳川時代にも北山筋の警固を担当し一定の権勢を保ったが、神社の領地は縮小され、門前町の御岳から奥、金峰山までが残されるのみとなった。つまり、金桜神社の足元に建つ三ノ鳥居以奥は本来の位置のままだが、一ノ鳥居、二ノ鳥居は、神領の縮小とともに後退せざるを得なかった。本来は神域内であった吉野の山桜を参道沿いに移植した古来の桜大門は、猪狩村、吉沢村に属することになった。明治時代の解説で、猪狩からの御岳新道と八王子峠越えの旧道との合流点である町の入口の分岐が桜大門とされるのは[12]、新たに移設された先の位置であるかも知れないが、詳細は不明である。また明治三十六年に通行した小島烏水は、「御嶽の宿外れにて朽ちたる黒門の建ちたるを見たるが、その(註:古道の)名残なり」と記しているが[13]、これが古道の何の門に当たるかは分からない。かつて御嶽の町の入口にあったこの門の存在は、明治四十五年の写真でその様子が分かる[11]。

 【補足2─南口参道の歴史的推移】

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参道の歴史的推移
鎌倉期の上道①は、江戸期に下道②および沢道③になった。②は吉沢橋を渡る利便性、③は厳しい山径を回避する利点があった。江戸末期に昇仙峡を抜ける④新道が開通すると、天神平へのバス路線開始までは甲府から便利な和田峠越えが歩かれた。現在は昇仙峡付近が遊歩道になりバイパスの⑤車道が使われる。
(出典:国土地理院 五万分の一地形図「御岳昇仙峡」)

 次に吉沢口を代表とする南口参道の歴史的な移り変わりを整理しておきたい。金峰参道は、元々琴川口や万力口が優勢であったとされる[3,4]。永正十六年(一五一九)の石和から甲府への遷都により北山筋の入口が重要になり、武田氏と御嶽衆との結びつきが金桜神社の力を強め、吉沢口を正道と言わしめるまでにしたものと思われる[2]。吉沢までの道筋も、甲斐の各所から山宮を経て御霊渡しで荒川を渡る道から、江戸後期の文化年間には山宮から荒川左岸を通り吉沢橋で右岸に渡る経路に変わっていた[15]。金峰古道のうち麓から御岳金桜神社までは、特に時代による変化が激しい。上道と呼ばれる伝承上の古来の道は、一ノ鳥居が発掘されるまで長らく具体的な記録や証拠がなく、実用上も忘れられていた。ただ集落に近い部分は畑地として利用されていたので、道そのものは作業道として使われていたのかも知れない。参道の位置に関する最古の文献は江戸時代のもので、吉沢の下道が記録されている。かつて下道沿いには、今は廃村となったが、第二次大戦後に北仙開拓の集落が開かれ、開墾して桑畑となった外道ノ原まで車道が通じていた[16]。この外道ノ原は一本桜とも呼ばれ、ここから桜大門が始まっていたと考えられる。大正末期頃まで道者のための茶屋があったとの話もある[16]。そのすぐ下で合わさる天神平の長潭橋からの道は、甲府から昇仙峡へのバスが通うようになって盛んになった脇道である。太刀抜岩付近で古い上道を合わせると、萬霊塔がある羅漢寺入口付近まで、尾根通しの古道と造林作業道のような捲道の二本が並走する。昭和の後期から現在まで、主に捲道の方が使われ、現在は自然観察路となっている。つまり最近の八王子峠越えでは、利用するのは主にハイカーの方であろうが、吉沢からの下道を使わず、長潭橋から外道ノ原を通って一時的に下道を登り、太刀抜岩付近から捲道に入って羅漢寺入口に回るルートが使われるようになっている。八王子峠から御岳までは全て車道化されてしまい、古来の道はほとんど分からなくなっている。八王子坂を下る部分にのみ、僅かに古道が残されている。この他、八王子峠の山越えを避けて御岳に入る道として、下道とほぼ並行して亀沢川沿いに御岳へ入る亀沢口も使われており、例えば文化六年(一八〇九)に御岳を訪れた渋江長伯[15]はこれを利用している。恐らく一般の旅人は、登山要素の少ない亀沢口を利用していたのではないだろうか。金峰参道に革命的な変化をもたらしたのが、長田圓右衛門らが拓いた新道であった。地元の寒村、猪狩の住人長田は、甲府へ通行の便のため、多くの私財と膨大な労力を投じ、険しい昇仙峡に道を拓いた。天保五年(一八三四)に着手し、ようやく同十四年(一八四三)に完成したという。これ以後、甲府から和田峠、丸山を経て天神平へ下り、昇仙峡、猪狩を経て御岳へ入る路が標準になった。この経路は現在甲府から車で天神森へ入る時の道と、ほぼ同じである。これ以後今日まで、幾度か道の付替はあったものの、殆どの通行者が昇仙峡を経て御岳に入るようになった。八王子峠越えの御岳旧道は廃れ、すっかり寂れた八王子権現の籠堂は、荒されるもことなく放置されていたという[7]。昭和初期、昇仙峡観光が盛んになると手頃なハイキングコースして一時的に脚光を浴びたが、八王子峠の山頂へのロープウェイが完成する昭和三十九年以後、ハイカーが弥三郎岳周辺を歩く以外、山越えの旧道を辿って御岳へ入る人は稀である。

 【補足3─南口参道の鳥居の位置】

 続いて、かつて南口参道にあった古来の鳥居の具体的な位置について分かる範囲で整理してみたい。初期の一ノ鳥居の位置は、吉沢の横田地区、すなわち御霊若宮がある御陵平の段丘崖下の発掘場所と確定された。唯一の鳥居の現物が確認された場所である。鳥居跡には基石が残されているとのことだが[16]、付近には多数の石があり、それには気が付かなかった。国志の桜大門や二ノ鳥居に関する記述は、山川部では登り方向、神社部では下り方向で説明していて紛らわしいのだが、他の資料も合わせ読むと、およそ次のように推定できる。吉沢から下道を登ると、北仙開拓の最後の人家の先で外道坂を一登りし、長潭橋からの道を合わせて広く緩やかな外道ノ原となる。かつて一本桜があったのがここで[16]、さらに九十九折れに登ると、その最中に、付近の高さ約六米の岩の上から三方にこだまする「三聲返し」という場所があると思われる。明治時代の写真に写った景色から[11]、九十九折れの途中にある千田分岐の道標(約七九〇米、現在ここで分かれる道は荒廃)付近と推定できる。ただし、詳細な紀行を記した渋江長伯は、外道を下ってきて、「太鼓岩」(九二〇米圏峰の南を捲く付近)、「山腹の少し平らなる所」、「三聲谷」、「天狗岩(太刀抜岩)」、「虫喰岩」、「九十九折れの坂」、「外道ヶ原」の順に説明しているので[15]、太刀抜岩の少し上である可能性もある。三聲返しの位置としてその付近を図示している資料もある[16]。

 なぜこの地点が重要かと言えば、国志では、ここから約二・二粁(二十町)の地点を、江戸時代における神領南限、すなわち当時の一ノ鳥居の位置としているからである。国志は、「三聲返し」近くに「一本桜」があり、そこから一ノ鳥居までの間は桜大門と呼ばれ、金峰山の本山である吉野から移植した桜が植えられていたと伝えており、十三世紀の隆弁僧正の和歌にも歌われている[12]。「三聲返し」を千田分岐の道標地点と仮定すると、歩測で二・二粁の地点は、八雲神社から御岳に向った場合、自然観察路が下福沢に分岐する地点の約三百米先となり、江戸時代に神領の境界として一ノ鳥居が立っていた場所としては、あまりにも中途半端な尾根上の一地点である。だがそこからさらに歩測で七百米ほど進んだ地点の車道脇に、鳥居か何かの沓石のようにも見える不思議な石が唐突に置かれていた。もし三聲返しが前述のように太刀抜岩先とするとその誤差は縮んで四、五百米となるが、この沓石様の遺物の重要性に変わりはない。この地点は、明治七年まで存在した猪狩村と御嶽村の境界に近いので、江戸時代の金桜神社神領が明治元年にそのまま御嶽村へ横滑りしたと考えれば、その南限が江戸時代の一ノ鳥居の位置である。当時の厳密な村界は分からないが、山間部の古い境界が現在まで変わらず続く通例で考えれば、今日の甲府市御岳町の南限が明治時代の御岳村の南限と推測できる。現在の南限は、沓石のような石からさらに御岳方向に約二百五十米進んだ地点、すなわち地形図で甲府市と甲斐市の境界線が八王子峠から御岳への尾根にかかった地点である。昔の測量技術を考えれば、「三聲返し」から二・二粁の地点、沓石様の遺物の発見地点、今日の御岳町南限は、およそ同一地点と見ることが可能であろう。江戸時代は神領の南限とされた一ノ鳥居のあった沓石様の遺物の地点が御嶽村の南限であり、そこに一ノ鳥居が建っていたが、その後の正確な測量で得られた正しい地形図に基づき境界を引き直した結果、御岳町の南限が北へ移動したものと推測される。気になるのは、入念な記述で知られる原全教の紀行が、江戸時代の一ノ鳥居跡の可能性がある沓石様の石について全く触れていないことである。これは憶測になるが、原が通行した昭和初期にはまだ現在の車道はなく、この石はヤブなどに埋もれて分からなくなっていたが、車道の建設時に出てきたものが道路脇に放置されたのではないだろうか。事実は分からないが、そう考えたくなるほど、中途半端に車道脇に所在なげに放置されているのである。
 国志では、一ノ鳥居を過ぎるとスギやヒノキの多い杉大門と呼ばれる一帯に経つ二ノ鳥居を通り、八王子坂を下るとしている。一気に谷へと下り始めるのは、沓石様の石から約三百米先の地点なので、それまでの短い区間に続けざまに江戸時代の二ノ鳥居が建っていたと思われる。スギやヒノキの様な陽樹が多いということからも、二ノ鳥居があった杉大門が尾根上であることが分かる。原全教は、八王子峠から三十分の所が二ノ鳥居、さらに十分で切通、十分で御岳としている[17]。また二ノ鳥居は「趾あり」と付記してあるので、沓石があったということだ。まず「切通」は、そこから三ノ鳥居まで実歩で十二分だったので、石祠がある約八八〇米の尾根乗越しで間違いない。八王子峠から切通までは山道だった当時の所要時間は現在と異なるはずだが、四十分かかるうち三十分の位置が二ノ鳥居というので、距離で四分の三の地点と考えられる。それは尾根の約九五〇米地点で、下からくる舗装道が未舗装に変わって百米余り登ったところに当たり、それまで水平に尾根上を来た参道がまさに御岳に向け降下を始める地点でもあり、鳥居の位置としてふさわしい感じがする。この付近の古道は車道と微妙に位置がずれていたようで、探してみたが明確な道型は確認できなかった。国志とおよそ同時代の渋江の紀行[15]を歩程と逆順に見た場合も、桜大門から春には見事に咲くと聞く桜の木を目にしつつ眺望の良い尾根道が続き、一ノ鳥居、二ノ鳥居と過ぎると、御岳の町を山から見下ろし、九十九折れの坂を下ると町に入るというので、大きな矛盾はない。なお古来の二ノ鳥居は八王子峠付近とされるが、その位置は全く不明である。
 三ノ鳥居は、間違いなく神社の下に今も建つ大鳥居である。国志では高さ約十・六米(三丈五尺)とされるが、現在の鳥居は六、七米程度に見える。大鳥居脇を御岳沢に沿って金峰山に向かうのは、今も昔も変わらない。四ノ鳥居は滝尾ノ社脇にあるとの国志の記述から、滝尾坂上の祠の地点にあったと考えられる。五ノ鳥居は根子(ネッコ)坂ノ社脇というので、現在「猫坂」と呼ばれる峠道頂上の植林中にある祠の脇にある沓石地点で間違いなかろう。現存する三ノ鳥居を除くと、唯一位置が確実でしかも証拠が残る鳥居跡である。植林される前に書かれた多くの文献が、ここからの金峰山の素晴らしい展望について述べており、御神体である金峰山の遙拝所の役目を果たしていたことであろう。「根子」の意味について、舞田は、御岳の村から見てすぐそこの峠道なので、側・傍らを意味する古語の「ネッコ」・「ネキ」から付いた名と考えた[18]。一方、寺記・社記では根子坂ノ社を木根立社としている。「木根立」とは切株や根っこのことであり、まるで木の根のような羊腸たる峠道から付いたとも考えられる。少なくとも、陸地測量部が冠した「猫」は全くの宛字だが、今やそれが定着してしまった。国志は鳥居峠の鳥居嶺ノ社脇に、寺記・社記は午向社に六ノ鳥居があるとするが、現在それらの地名はない。明治時代の文献は鳥居峠としており[5,6]、国志の記述から黒平の先、精進川へと越える峠であることが分かる。後に平賀も鳥居峠の名を用いている[19]。寺記・社記の「午向」とは現代語で南向きのことだが、当時の社殿の向きから付いた名かも知れない。今は車道の切通しとなっていて、昔日の面影はない。国志が姥子ノ祠脇にあったとする七ノ鳥居は、御小屋沢の先で唐松峠の手前にある姥子ノ社の位置が不明であるため、全く分からない。この付近は地形的特徴が乏しく、六ノ鳥居、七ノ鳥居の推定位置や楢峠、唐松峠の位置について、誤記した文献も少なくない。
 苅合ノ社の脇とされる八ノ鳥居も、苅合の位置が今ひとつ不確かなため特定し難い。近代の出版物に登場する「刈合平」もまた、高畑棟材や平賀文男はそれを唐松峠の位置とし[19,20]、原全教は昭和八年の記事の付図で唐松峠付近としたが[21]、後年御室川で塩山からの道が出合う地点としており[7]、位置が一定しない。小野幸は御室川説を採用している[14]。またこれらが国志から推測した位置なのか、地元の人が呼ぶ位置なのかも分からない。国志では、苅合の位置を、万力・西保口と琴川口の二筋が吉沢口に出合う地点としている。しかしこのような山中深く、当時の東山梨各方面からの道が具体的にどこを通りどこで合流していたかを特定することは難しい。国志には、苅合の先に御子ノ沢、水晶峠があると取れる記述があり、また苅合の先は森林のため下草はクマザサ程度ともあるとので、苅合を唐松峠か御子ノ沢付近とすると納得がいく。水晶峠手前の水の得られる場所を刈合とする文献もある[40]。毎年夏草を刈るほどの頻繁な道の整備が必要なさそうなのは、今日では御子ノ沢の先からだが、明治期の高野[5]、大正期の平賀[19]の報告から、当時は唐松峠から御子ノ沢にかけて、水晶峠付近と同じくモミやツガの天然の森だったと知れ、草刈が必要なのはせいぜい御子ノ沢辺りまでだったと思える。一方物見石(楢峠付近)から苅合までは約三・九粁(一里)であるともされ、距離を基準にすると御子ノ沢が約三・三粁、御室川沿いに出る地点が約四・〇粁、現在のアコウ平道に出合う地点が約四・二粁であり、御室川付近の方がふさわしい。現在残る最古の詳細な参道の記録は、明治三十九年の萩野の記録である[6]。荻野が見た道の分岐状況は、明治四十三年測量の初版地形図と全く同様に、御室川で一本、水晶峠下で一本の脇道があったというので、刈合平が国志の苅合であると示唆される。甲斐国志の編纂から九十年ほどが経過していたとは言え、神領での森林開発が皆無であった当時の状況では、萩野の見た道は国志の当時と変わらぬものであった可能性が高い。このように苅合の位置については国志の記述は整合性を欠いており、八ノ鳥居の位置についても推定困難である。九ノ鳥居が御室小屋の登山口にあったことは、国志に明記されている。

 【補足4─御室川付近の道筋】

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御室川付近の道筋
赤線が御岳からの南口参道の推定ルート。2020.11現在の道(ピンクテープ)はかなり異なっている。また東口参道は、かつて刈合平で南口参道に合流していた。南口参道は御室川(実際は伏流)の左股の河原を通っていたと思われる。
(出典:国土地理院 基盤地図情報 5m標高)
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御室小屋前の風景(明治三十九年頃)
(出典:「山岳」二年一号[5])


 最後に、御室川付近の道筋について整理してみる。現在の御岳からの道は、造林記念碑上から先は点々とピンクテープが付いているが、特に御室川沿いの部分はほとんど古道を無視して取り付けられているので、古道の道筋の点では参考にならない。記録から詳細に辿れるのは、明治三十九年前後の高野や萩野の文献以後となるが[5,6]、明治時代の道はかなりの部分で江戸期の道筋を受け継いでいたものと見られるので、それを古道として考える。初めに昭和初期のものではあるが、最も仔細な記録を残した原全教の記述を見てみよう[7]。水晶峠から下ってきた参道は、まず御室川右岸の密林を進み、原が「刈合平」と呼んだ地点で塩山からの道を合わせ、原が「賽の河原」と呼んだ白い河原に飛び出す。恐らく西から落ちてくる水のない支窪の一つであろう。ただし付近には白い河原が三つあるので、どれが賽の河原かは、人により意見が分かれる。高野[5]や平賀[19]が白い石の河原を二回横切るとするのは、恐らく原が言うところの「刈合平」と「賽の河原」のことであろう。原は、水晶峠から「賽の河原」までを七分とした[17]。次いで深い森が覆う小尾根を越し、五分で御室川の白く干上がった御室川の大きな河原に出る。塩山からの道は、刈合平を経ずに伏流した御室川を遡りここで合流することもできるとしている。この場所は、御室川の一八八〇米二股の左俣の方にある。積石を目印に白い石を踏んで川伝いに二、三百米遡り、再び森に入るとすぐ御室小屋があり、賽の河原から十分ほどであるとしている[6,7,17]。御室川の右股・左股の何れを行くかは、なかなか明確に特定し難いが、河原を北西に行くというので角度的に左俣と思われ[17]、明治二十七年に通った木暮[22]、三十六年の小島[13]、三十九年の萩野[6]の何れも、左俣を伺わせる記述がある。高野は正面に五丈岩とその下の岩稜帯を見ながら河原を遡り[5]、平賀は河原にある高く屹立した岩の所で五丈岩が見え、そこで二分する河原の右を少し行くと上に御室小屋がある[19]、としているので、確かに左俣の状況とよく一致する。写真家でもあった高野の百年近く前の御室の風景を見る限り、左俣の河原が参道であった可能性が高いと感じる。ここに述べた、水晶峠を下ってから御室川の右岸を登り、刈合平で塩山からの東口参道を合わせ、その少し先で御室川の左俣に降りて御室小屋まで河原を遡る古道のルートは、昭和四十年にはまだ使われていたようだ[23]。一方で、昭和十七年の著書で、御室小屋から東口参道を下るとき、刈合平経由の右の本道の他、「左の草を踏み倒したような怪しい径」もあり、やがて両者合流して御室川左岸を下るように書かれている。昭和三十四年の記事でも、塩山からの道は「御室小屋の入り口で右から杣口の道が合している。」とされ、現在と同じ御室川の中間尾根の森林中を来るように読める。以前利用者が少なかった塩山ルートは恐らく道筋が不安定で複数ルートが存在していたようだが、最終的に現在のルートに落ち着いたらしい。なお現在の御岳・黒平からの道のこの付近でのルートは、推定した古道とほぼ重複しない別のものである。

[9]陸地測量部『二万分一地形図 松嶋村』(明治二十一年測量)、明治二十七年。
[10]山梨県教育委員会『山梨県埋蔵文化財センター調査報告書 第260集 山梨県内中世寺院分布調査報告書』山梨県教育委員会、平成二十一年。
[11]甲府商工会議所『甲斐国 御嶽風景』甲府商工会議所、明治四十五年、「御嶽村」二九頁、「三聲返シノ眺望」三五頁。
[12]松井濤(修)・小野泉(重訂)『甲斐叢記 巻之六(後輯)』温故堂、明治二十四年、「御岳嶺道」二四頁、「御岳山金桜社」三〇~三一頁。
[13]小島烏水『不二山』如山堂書店、明治三十八年、「(十一)甲斐金峰山に登る記」一三九~一五九頁。
[14]小野幸「金峰山御室小屋について」(『山と渓谷』四九号、六二~六六頁)、昭和十三年。
[15]渋江長伯『官遊紀勝』直曲庵主人(写)、文化十三年(一八一六)、「遊嶽記 上(巽)」、「遊嶽記 中(坎)」、「遊嶽記下 (艮)」。解説書『渋江長伯著 官遊紀勝 注釈と余話』(功力利夫、私家本、平成十五年)も参考にした。
[16]山梨県教育委員会『山梨県歴史の道調査報告書 第12集 御嶽道』、昭和六十二年。
[17]原全教『奥秩父』朋文堂、昭和十七年、五頁付近、「表口(南口)」四一二~四三三、「東口」四四四~四五三頁。
[18]舞田一夫『山と集落 : 奥多摩と奥秩父』集団形星、昭和四十四年、「十賊越え」二二六~二四六頁。
[19]平賀文男『日本南アルプス』博文館、昭和四年、「九月の金峰山」二五五~二六四、「金峰より将監まで」二九八~三一六頁。
[20]高畑棟材『山を行く』朋文堂、昭和五年、「五月の金峰山」八二~九二頁。
[21]原全教「長城山より琴川へ」(『山小屋』一六号、二一五~二一九頁)、昭和八年。
[22]木暮理太郎「秩父の奥山」(『山岳』九巻二号、二三五~二七一頁)、大正三年。
[23]山と渓谷社編『アルパインガイド15 奥秩父』山と渓谷社、昭和四十年、田中文人「金峰山III ─御岳昇仙峡コース─」一五六~一五八頁。