古道をできるだけ正確に辿った 金峰山表参道 5 【仕事径】
● 龍ノ平~御小屋沢造林記念碑
楢峠・御小屋沢付近 クリックで拡大表示 (出典:国土地理院 基盤地図情報 5m標高) |
龍ノ平の駐車場から金峰山に登る登山者は多いが、確定したコースはなく幾つかのルートかあるようだ。荒廃が酷いこの区間の古道は登山者にとって歩き難いばかりで、場所によっては通行の形跡は全く見られなかった。ただ、尾根筋のバリエーション登山として古道の一部を利用する方がいると見られ、マーキングが見られた場所もあった。この区間は、道は不明瞭だが、地図読みさえできれば容易に歩くことができる。
道は森林浴広場の周囲に沿って進み、百米弱の地点で未舗装の園内車道を横断した。この地点の道の付き方は大変分かり難く、下り方向は歩行を妨げるように枯枝が積まれ、登り方向は車道造成とヤブの繁茂とで道の入口が消えていて、さらにそこから園内車道の支線が分岐しているので、ちょっとした捜索が必要かもしれない。蛇行して登る抉れた古道は枯枝が詰まって歩き難く、豪雨時の水路となり詰まったものなのか、所々に枯枝の大きな束が積み重なって道を塞いでいた。普通に道として歩ける状態ではなく、古道は廃道扱いのようだった。約五〇米登って、一二九〇米付近で御岳林道を横切った。崖状になった山側の法面の取り付きは若干の危険が感じられ、ごく偶に通る古道の登山者が強引に登った踏跡が付近の数ヶ所に付いていた。
御岳林道を過ぎると、道の善し悪しは別として古道は概ね明瞭で、無理に歩く気になれば歩ける状態であった。相変わらず倒木や枯枝が詰まった水路のように抉れて荒れた道を、急登した。一三一八米付近でカラマツ植林の尾根に乗ると、以後常に尾根に絡んで登るようになった。荒れた作業道といった感じで、周囲より窪んだ道型と時折見られるマーキングのため、大きく迷うところはなかった。周囲がミズナラやイヌブナになると、大量の落葉をラッセルのようにかき分けて進んだ。道が平らになる部分は、落葉に埋もれて少し分かり難くかった。僅かに伐り残されたこの自然林が、かつて一帯全てがブナやナラの下に笹が茂る豊かな森であったことを思い起こさせた[19]。枯木の間から金峰山の五丈岩がくっきり見え、漸く登山らしい雰囲気になってきた。道は、尾根の左を登ったあと、カラマツやヒノキの植林の辺りで右を捲くようになった。その先一四〇九米小峰の右捲きは、カラマツの土壌保持力が弱いため道型があいまいになるほど荒れていて、ヤブっぽい細道になっていた。地形図で小さな崖記号があるその近くの一四〇〇米付近は、二十米位の間、斜面全体が崩落していた。
尾根を右に左に移動し、もしくは尾根上を蛇行しながら、一気に一五〇〇米近くまで高度を上げた。古道上に横たわる大倒木を潜ると、古びて読み難い鳥獣保護区の標示板があった。そこから出る支尾根の方が主尾根に見えるので、下りでは迷いやすい箇所である。急に広がった緩い尾根の僅か右を捲く薄い道を辿るようになった。尾根筋も踏まれていたが、道の付き方から右捲きの方が古道らしく思えた。モミが優占する広い尾根が狭まると、軽い登りの後、伐採で明るく開けた尾根上の一五四〇米付近の平らな場所に出た。古道はその右端を通過していたが、比較的新しい伐採地らしく、古道を無視して造成された作業車道が交差していた。そのため車道が横切る部分で、古道の下側は積み上げた枯枝の山で塞がれ、上側もヤブで分かり難くなっていた。
カラマツ植林の中、古道は荒廃が強まり、ヤブや道を塞ぐ倒木、崩れて埋まった箇所等で、かなり歩き難くなり、殆んど歩かれていないように見えた。古道ルートを辿ろうとする登山者も、この区間は敬遠して適当に歩きやすい箇所を拾って通行してるのだろう。尾根の右寄りをトラバース気味に登るうち、自然林が現れ倒木が減ってきた。山腹を蛇行しながら高度を上げ、傾斜が緩むと保安林の看板を見て、尾根は広く真っ平らになり道型が不明になった。道は尾根の芯に近づき、そのまま乗越しているようだった。ここが楢峠(一六一九米)であろう。暫く尾根の右を登ってきた道が、ここから大きく尾根の左に逸れるので、尾根を乗越す肩状のこの場所が、地形的には最も峠らしい。九十年以上前に歩いた高野は、付近が終始ナラの森であることからその名に納得したという[5]。明治三十七年の測量記録には物見三角点(一七〇九・七米)の通称を物見山とし、黒平から金峰道を登ってきて峠の右側にあるとしている[33]。国志では「楢嶺(トウゲ)ト云坂路羊腸タル處ニ物見石アリ」とし、高畑も「楢峠の上に在る物見石」と、ここが楢峠であることを示唆している[20]。右から登って来た御岳林道からの廃車道が、近年「金峰古道」コースとして歩かれる登山道であろう。よってこの先、今までより多少は道らしくなることを期待した。
平坦な楢峠からの道がどう続くか判断に迷ったが、尾根の左寄りに見えたピンクテープが良い目印になった。ここからは登山道として利用されているためか、道の状態は作業道程度であり、悪くなかった。物見三角点の左を水平に捲く間、伐採跡地やシラビソやカラマツの小植林を通過した。カラマツの箇所はやはり道の荒廃が進んでいた。
物見三角点を捲き終わった辺りの尾根上に、突然真新しい百本程度の伐木の山が現れ驚いた。付近の山が伐採の最盛期らしく、御小屋沢から尾根の西を回り込んで作業車道が延び、そこで再び御小屋沢側に尾根を越していた。古道はすぐ新しい車道に呑み込まれ、暫く車道化されているようだった。車道の右側を並走する痕跡らしきを見て歩いてみると、数十年前の古いジュース缶が落ちていてるなど古道の可能性を感じたが、連続する明確な道として残っているわけではなく、基本的に車道を歩かざるを得なかった。一六九二独標南の小鞍部で車道は尾根の右に移った。尾根上に付いた切り開きは防火帯で、試しに歩いてみたが古道らしい道型は見られず、捲かずにきっちり尾根筋辿っているので、それは古道でないと思われた。車道が尾根の右側に移って約三百五十米行くと、車道は再度尾根上に戻るが、その寸前で右へ緩く下る作業道があった。一帯の伐採と植林により全く面影が消えていたが、これが古道である。そのまま車道を進んでも同じ地点に出るが随分遠回りになる。タイミングよく刈払い直後だったので大変歩きやすく、テープのマーキングも確りしていた。一般向け登山道と言えるほど、格段に手入れが良くなった。御小屋沢の小流を丸太橋で渡り、低い笹原を進むと、先程離れた車道が回り込んでくる所を横断した。車道の手前左に造林記念碑が、少し離れた右方にプレハブ作業小屋があった。扉が無くなっていたが、雨露程度なら恐らく凌げるだろう。
● 御小屋沢造林記念碑~御室小屋跡
唐松峠・御室小屋付近 クリックで拡大表示 (出典:国土地理院 基盤地図情報 5m標高) |
造林記念碑からは明らかに道の整備がよい。少なくともピンクテープの付いた今日の登山道を辿る限り、山慣れた登山道なら容易に通行できるが、ただしその場合は一部で古道と異なるルートになってしまう。
原全教が「暗い見事な美林」と評した森林や、高野が報じた天然カラマツ林も、跡形もなく伐採され植林になっていたのは残念だったが、明るいカラマツ植林下の笹原は、手入れもマーキングも良好でとても歩きやすかった。一見ただの作業道に見えるが、周囲より凹んだ道型により古道と知れた。緩く単調な登りで約一五〇米の高度を稼ぎ、唐松峠を越えた。御小屋沢と御子ノ沢を分ける尾根の乗越で、甲斐国志で「唐松嶺(トウゲ)」とする地点である。峠の手前に姥子ノ社があって側に七ノ鳥居が建っていたとされるが、それらしい痕跡は分からなかった。峠を越えるとカラマツ植林が終わり、ダケカンバ、モミなどの混成林になった。もともと金桜神社林であった豊富な金峰山の森林資源に目をつけた東洋遊園地(小野財閥のグループ企業)が、大正十一年に森林を買収し伐採を開始したため、昭和初期には既にこの辺りの伐採が進行していた。昭和十二年、森林は大昭和製紙系の会社に転売され、いよいよ大伐採の危機が迫ると、甲府市は幾多の交渉の末、水源林として買収した[34]。しかしその甲府市も、結局は市財政への貢献を求め、昭和三十四年の第二次経営計画により、唐松峠に近い白平三角点以奥の登山道沿い五十米以内と標高二二〇〇米以上を除く部分で、多くの山林を伐採してしまった[35]。だからここまでは大部分が人工林であった。しかし御子ノ沢流域にまで来ると、初めて自然の山が感じられるのである。
緩く下って、一八二六米三俣で小さな御子ノ沢を渡った。緩やかで広い別天地のような谷で道が消えたが、右俣の奥に見える道標に向かって進んだ。龍ノ平以来初めて見た道標には「金峰山」と示されていた。昭和期にはこの辺りまで伐採の手が及び、御子ノ沢沿いに木馬道が敷かれていたため、迷い込んで荒川へ下ってしまう登山者がよくいたと云う[7]。点々と打たれたマーキングに従い右俣を進むと、十米近いナメ滝があった。滝を右手から登る古道の上にちょうど倒木があったが、十分通過できた。マーキングはそれを避けて、微妙な泥壁を渡る踏跡を伝って右から大捲きしていたが、却って通りにくいように見えた。ナメ滝上で小尾根に取り付くと、道はまた明瞭になった。黒平と水晶峠を指す古道標を見て、苔むしたモミの美森を、点在する倒木を避けながら緩やかに登った。
水晶峠(一九二五米)は、多くのガイドが記すように、知らずに過ぎてしまうような乗越だった。明治三十九年頃黒平の案内人と峠を越えた高野は、十数年前まで御室小屋の御師(小屋番)への連絡用の鐘を吊っていた朽ちた柱を此処で見たと記録している[5]。鐘の数で宿泊者の人数を知らせたとか、道に迷った場合鐘を鳴らし案内を頼んだとか諸説あるようだが、真偽の程も定かでないように思えるこれらの言い伝えは、本当だったようだ。御室川へ下り始めて百米近く行った辺り、標高差にして二〇米ほど下った肩状の地点付近に水晶の採掘場があったらしい。多数の盗掘禁止の看板がこれでもかと架かっていた。どういう意図であるのか、「水晶峠」と記した私設標示板が立木に括り付けてあった。水晶峠は古来、御子ノ沢と御室川を分ける尾根の乗越を指すものであり、明らかに間違っている。意図を推測するに、明治四十三年測量の地形図は、現在私設標示版がある辺りに水晶峠と表示しているが、当時そこから荒川へ下る道が分岐していたため、製図の都合上「水晶峠」と表記する位置に制約が生じ、文字の位置がずれている。それを鵜呑みにして、峠の位置を誤解した結果なのかも知れない。明治四十年の荻野音松の記録では、「…(御室川から)坂路を上れば掌大の平地にある所に出づ、此処にて道又二分せるに、其の右を取りて更に上る事一町許り、遂に峠の頂上に達す、之れ即ち水晶峠にて…」と述べており[6]、大正十年に訪れた柏源一郎は、峠は頂にあり、そこに「水晶峠」の木標があったと記していることから[36]、知る限りの昔から、最高点が峠であったことは確かである。一時は黒平住民の生計を支えた水晶も、昭和の中頃までに取り尽くしてしまい、今は欠片さえ見つかるかどうかということだ。
道は小さな谷に沿って急下した後、御室川に向かって緩く下っていた。この緩い下り部分で、ピンクテープのマーキングは、妙な踏跡を付けながら古道を外れていた。しかし薄い道型をよく見ると、古道は谷を御室川直前まで下り、川の右岸を登っていたことが分かる。もしマーキングを頼りに歩くと、上流側を御室小屋、下流側を黒平と示す御室川沿いの甲府市の道標の前に出るはずだが、その意味に困惑することだろう。本来の道は、その道標からさらに数十米下流まで行って水晶峠に取り付くのである。御室川右岸は巨石や倒木で道が荒れ、明瞭な道型が残っていない。ピンクテープは、右岸を百米ほど遡った所で、伏流した御室川の白い川筋に誘導しているが、灌木を潜るように古道らしき微かな道型がそのまま右岸に続いていた。それを更に百米ほど進んだ開けた場所が、刈合平と思われた。前述のように刈合平の位置は未だ特定されていないが、現時点では御室川右岸の東口参道に出合う地点を言うようなので、ここではそれに従った。石和、塩山から来る東口との合流点であり、毎年夏季に、南口と東口の村がそれぞれ下草の茂る参道の刈払いを行ったことからその名を得たと言う。現在の東口は一般に車でアコウ平へ入ってから徒歩となるが、その道は御室川右岸の刈合平に寄らず、川に出たらそのまま涸れた川筋を遡るようマークが付けられている。そのため南口、東口のいずれから来た登山者も、刈合平へ寄らないようになってしまった。国志よれば、刈合平には「苅合ノ社」と八ノ鳥居があったという。
明治時代まで使われた修験道の御室小屋の間取り(高野鷹蔵氏作図) (出典:「山岳」二年一号[5]) |
刈合平付近から御室小屋にかけての道筋は、昭和の頃と現在ではすっかり変わっている。前述の通り、古い道は御室川左俣の伏流した河原を辿るものであったが、現在は一八八〇米二股の中間尾根に取り付き、そのまま御室小屋跡に達する。令和二年現在のマーキングが示す現在の登山道と対照して説明するなら、黒平とアコウ平の分岐にある「←牧丘・塩山/水晶峠・黒平町↑」の甲府市道標の西約三十米の森林中の開けた場所が刈合平である。刈合平付近は白い大石が堆積して荒れた感じの、木が疎らな開けた場所だった。奥の方から木々が葉を落とす冬なら五丈岩が望める。刈合平の一角に古い小さなピンクテープが、御室小屋への古道の入口である。黒平方面への道として、地形と道の位置とを熟知していれば、約二百米の間炎天下河原の石を踏んで行く歩き難い現在の道よりも旧道を選ぶ人がいるのかも知れない。刈合平を出て、約二十米で一つ目の、さらに約二十米で二つ目のいずれも小さな白い涸窪を渡った。昭和の登山家が記した二つの白い河原がこれに違いない。どちらかといえば大きい二つ目が、賽の河原であろうか。曖昧な踏跡は、複雑な地形を無視するように、直線的に北へ続いた。堤のような尾根状地形を軽く登って越えると石のない涸窪、さらに次の小さな堤状を越えるとまた涸窪があった。これを数十米遡り、右の堤状地形が低くなった所で乗越すと、御室川左股の白い河原だった。森の中なので伏流していても多少湿っぽいため、完全な白でなく多少苔か何かで黒ずんでいた。ここから御室まで、古い記録ではゴーロ状の河原を歩いていたようだが、必ずしも歩き難い石の上を歩く必要はなく、最初は右岸、途中から左岸の土の部分の薄い踏跡を辿れば良かった。道標代わりの崩れた石積みが、かつての盛んな往来を物語っていた。御室川を約二百米ほど遡った辺りの左岸が、御室小屋跡である。この道の廃道化により御室に上がる部分が草木で分かり難くなっていたが、左岸に気をつけていれば、御室が近づくと現在の登山道のピンクテープが垣間見えるので分かる。
御室小屋は老朽化で取り壊され、ロープで囲んだ空地に積んだ廃材の山になっていた。参拝が盛んだった頃の小屋は宿坊であり、期間中は金桜神社の御師が入山料を徴収していたという。小屋からの登り口に御室神社と九ノ鳥居があったとされるが、小屋跡奥の石段が残る遺跡のようなものがそれであろう。神社跡脇の変則的な三角形の五十町石には「文化十葵酉八月 従是頂上迄五十町 市川宿 世話人渡邊助左衛門」とあるが(小野が「町」を「丁」としたのは誤記と思われる)[14,17]、現在は苔が付いてしまい「文化」「従是頂上迄五」「町」「市」「人」が何とか読み取れる程度である。正徳年間(一七一一~一七一六)に建ったという数十名が泊まれる立派な宿坊は、二つの部屋と囲炉裏、座敷、土間、台所、風呂を備えており、明治三十年代に訪れた小島や高野は驚きを隠さなかった[5,13]。かつて賑わいを見せた御室の小屋も、明治五年の修験禁止令により急速に衰え、同二十四年以降は神社の御師も入らなくなり、黒平の村民が番をして鉱山事務所や登山小屋として使われていたそうだ。それも明治四十一年の火災により、小屋も社も灰に帰した[14]。その後再建するも火災や荒廃に見舞われ、十年ほど前(平成二十三年頃)から全く使用不能となっていたが、近年ついに解体されてしまった。明治期の写真と比較すると、小屋の廃材が積まれた小広い敷地に散在する踏石のようなものが、当時の御室の名残なのかも知れない。
● 御室小屋跡~金峰山
明治末期の五丈岩前の本宮蔵王権現 (出典:「山岳」二年一号[5]) |
この区間は一般登山道と変わりない良い道だが、鎖場があるので問題なく通過できる技量と身体能力は必要だ。小屋裏からすぐに急登が始まった。登山者の多い東口を合わせたためか、一般登山道並のよく踏まれたシャクナゲの良道となった。新しいアルミ梯子の上は、傾斜したスラブに長い鎖二本が敷かれた数十米のトラバースで、トサカと呼ばれる岩峰の一角だ。御室川左俣の慶応谷側へ見た目に三十度ほど傾いており、墜死した慶大学生に因んで慶応谷と呼ばれるようになったと言われる。懸垂下降の要領で動けば危険はないが、実際濡れた箇所を踏んでみるとスリップしたので、緊張するところである。登り切ると、道は岩稜を上下しつつ捲いて進んだ。二本目のアルミ梯子は、古い木梯子と並び掛かっていて面白かった。三本目の梯子は古い木梯子の上に重ね掛けしてあった。原全教によれば、岩場を抜けた恐らく二〇三〇米辺りに御室小屋への回り道があったという。危険な岩場を通らずとも登れるものを、修行のためわざわざ厳しいルートで登るようになっているのだろう。
道はしばらく慶応谷側を捲きながら登るようになる。二一二九米の不安定に置かれた巨岩は片手廻しと呼ばれ、足元に勝手明神の小祠がある。尾根に近づくたび岩が現れ、離れると深い森林になった。途中左への小さな踏跡をほんの数米辿ると、二二一二米の突起上で西から南への展望が素晴らしかった。二四〇〇米付近で森林を抜け、道型の不明瞭な石の多い尾根を登るようになった。近く見えるのになかなか距離が縮まらない五丈岩にがっかりしながら、黙々と登った。石が多く尾根形状が丸いためルートがやや不明瞭な山頂直下を、道を外さぬよう注意して登ると、五丈岩下の道標に飛び出した。
登り着いた場所は山頂側から見た岩の裏側で、立ちはだかる岩壁下に平らな場所があった。そこには明治十七年の火災で消失するまで、七重扉の厨子に黄金の大黒像が安置された壮麗な本宮社殿が有り、三十人の信者の宿泊が可能だったというが[7]、いまはその名残として、奥宮の小祠と、かつて本殿を乗せていた石垣が見られるのみである[16]。大黒像を盗み出すため火を放たれたのが火災の原因と言われている[37]。明治十七年の焼失時にはもはや修験道が禁じられていたが、金桜神社の努力によるものであろう、それなりに立派な本宮が再建された。明治三十九年頃に訪れた高野は、「構造小なりと雖も粗ならず」「板葺屋根を更に板囲ひしてあり」とする一方、「雨漏りて床も破れぬ」と傷んだ様子も報じている。「何某何講」の類の落書きが多数あったといい、まだ信仰は廃れていなかった[5]。高野は写真家でもあったため、寒風に吹かれつつ苦労して撮影した貴重な写真が残されている(図11)。この本宮も、明治四十二年に田部重治が通ったときには信者の火の不始末により再度焼失しており[37,38]、以後再建されることはなかった。五丈岩の名については、文化十一年の甲斐国志では「御影石」[1]、慶應四年の金桜神社の由緒書では「御像石」[8]、明治期の文献では「五丈岩」[6]と、年代とともに変化している。当初は少彦奈命が岩の像(カタチ)でここにおいでになる、の意味であったが、明治期に信仰が失われると共に、高さを表す「五丈」に訛ったとされる。由来を知らぬ多くの登山家が、「高さが五丈(約一五・二米)ないのに五丈岩とはおかしい」とクレームを付けるのも、信仰心の消えた現代では仕方ないことであろう。原全教は、昭和十年以降の著書ではそのどれとも異なる「御像岩」を用いているが、塩川称とのことである[39]。殆どが大弛峠まで車で来るハイカーになった現在、五丈岩下の奥宮は岩の「裏側」であり、鳥居は山頂側から見える「表側」に設置されていた。訪問当日、山頂付近は登山客が密集していて、五丈岩の約百米北東の多数の大岩のうちどれが山頂なのか、はっきりとは分からなかった。
[33]陸地測量部『点の記』、「物見測點」、明治三十七年。
[34]泉桂子「甲府市水源林の形成過程」(『東京大学農学部演習林報告』一〇三号、二一~一〇六頁)、平成十三年。
[35]泉桂子「甲府市水源林における戦後期の経営展開」(『森林総合研究所研究報告』五巻一号、二九~五九頁)、平成十九年。
[36]柏源一郎『山谷の放浪者』三田書房、大正十二年、「十文字峠より金峰山を越えて」一七四~二五八頁。
[37]春日俊吉『奥秩父の山の旅』 登山とスキー社、昭和十七年、「金峰山・水晶峠より甲府へ」二〇〇~二一〇頁。
[38]田部重治『山と渓谷』 第一書房、昭和四年、「十文字峠より甲府まで」二二八~二四〇頁。
[39]原全教『奥秩父・正編』朋文堂、昭和八年、「金峯山」一〇四~一一〇頁。