和名倉軌道跡・柿原林材道 page 2 【廃径】

●二瀬尾根の造林小屋跡~和名倉沢渡河点

 跡形もなく消え道標の表示にのみ名を残す二瀬尾根の造林小屋跡の先、数十メートルに小さな水場がある。和名倉登山道はここで軌道跡を捨て、舟ノ平へと礫の多い斜面を登っていくが、軌道跡はなお水平に続いていた。一・五~一・八米幅の道床は石でしっかり組んだ補強がなされたところもあった。倒木や土砂の堆積で多少妨げられるも、総じて道床はよく保存され歩きやすかった。和名倉沢左岸の一二二六独標に落ちる小尾根で東大演習林が終わる。軌道跡はここを切通で通過していた。
 共有林に入っても伐採後の二次林であることに変わりなかった。次第に明瞭な軌道跡と荒廃した部分が交互に現れるようになり、石組みが残る箇所もあれば、崩壊で完全に失われた部分もあった。道床が消滅し露出した岩場を抜け、押し出した礫で歩き難い二瀬尾根の一六八四独標から東に出る小窪を横切った。ここが航空写真から予測される軌道終点だが、今はそれを感じさせる残置物はなかった。
 急傾斜に付いた水平踏跡を進んだ。枯葉の積もる秋深くに通ったときは、スリップしやすい細道が多少危険ですらあった場所も、湿り気を含んだ土と落葉を踏んでの今回の山行では余裕を持って通過した。途切れがちな水平小径で、ワイヤー、碍子、滑車の部品、酒瓶など、幾つもの伐採作業の残骸を見た。最後に少し登って、珍しく常緑樹に覆われた、一六八四独標から南東に出る小尾根を一三九五米圏で乗越した。
 和名倉沢を数十米下に覗き込む左岸の急傾斜を細いが明瞭な踏跡で水平に抜け、やや不明瞭になって急下すると、一三八〇米圏二股であった。顕著な右岸支沢が滝で落ち、さしもの和名倉沢本流も並の水量にまで減っていた。暗い印象の強かった和名倉沢も、伐採の影響もあろうが、ここまで来るとわりと明るく穏やかだった。

 

⌚ฺ  二瀬尾根の造林小屋跡-(30分)-一六八四独標から南東に出る小尾根の乗越-(5分)-和名倉沢渡河点(一三八〇米圏二股)[2018.10.6]

●和名倉沢渡河点~尻無尾根一七五〇米圏索道台跡

 右岸に渡った道は、ほぼ埼玉県森林図[6]の通りに続いていた。右岸の崖を高巻く明瞭な踏跡は、市ノ沢ノ頭から北に出る顕著な小尾根で行き止まった。伐採の名残のワイヤーが苔に埋もれていた。森林図の道はいったん和名倉沢に沿って尾根を周り込んでから尾根に取り付くが、ヤブがちな崖状の斜面に道が続くようには見えなかった。複雑に屈曲する沢の地形を取り違えた作図調査員が、道の位置を間違えたのではなかろうか。小尾根の左を急登する部分だけが多少踏まれた形跡が有るので、旧道はそこを折り返して登っていたのだろう。道が消えたまま約四〇米登ると、一四七五米圏で小尾根の緩い部分に出た。和名倉沢が大きく屈曲する部分なので、沢が左右両側に見えていた。尾根の左下を一定にトラバースする気配があるも、土砂で埋まって道型は消えていた。
 すぐ先で左に逸れる明らかな道型があった。間違いなくこれが旧道のはずで、実際森林図上の破線とほぼ一致していた。三十年放置されると、地図に記入された道もこうなってしまうのかと、改めて思った。しばらく良い踏跡が水平に続き、見分け辛いほど苔が付着した古い桟道が見られた。かつて崩壊があった斜面は、歩いた気配がある程度で、道の流れ追って勘で進んだ。
 小さな窪でそのかすかな痕跡が乱れ、登っているのか水平に行くのか、判断に迷った。ちょうど森林図でも道が登りと水平に分岐していた。取り敢えず水平痕跡を選んで進んでみた。もはや踏跡は断片的で、追うのが難しくなっていたが、とにかく水平に進むうち、支沢近づいてきた。ちょうど和名倉沢渡河点で右岸から入っていた支沢である。支沢はすぐ下まで水が来ていて、渡った一五〇〇米圏では涸れていた。この支沢右岸で崖上の露岩帯に行き当たった。付近の道型はほぼ消えていたが、森林図では道はこの下縁を通過していたので、少し下り気味で下巻くように通過した。かつてあったであろう桟橋はなく、核心部の岩場は三点確保で通過したが、それでも道の片鱗は随所に見られた。
 小尾根を回り込み、落ち着いた森の不明瞭な痕跡を道型がないまま水平に進んだ。森林図の道はこの辺で切れているが、道の気配のようなものが相変わらず感じられた。図の各所に不自然な道の途切れが認められるので、恐らく作図業者が都合で引き返したため、図上ではこの先の道が途切れているのだろう。次の出合った和名倉沢一三三〇米圏右岸支沢は、両岸が崩れて危険だったが、注意深くトラバースして通過した。道として歩くに値しない微かな道型的なものが明滅するが、足場になるだけ何もないよりは全然ましだった。ルンゼ状の支窪は、道型の残骸的な足場を辿ってうまく抜けることができた。
 水平痕跡は、尻無尾根一八一〇米圏から北に出る顕著な支尾根に差し掛かった。一五、六〇〇米付近は尾根が丸く不明瞭で、どこが芯だか分からなかったが、伐採後の切株が目立つのですぐ気がついた。約六十年前、この尾根には尻無尾根から二瀬尾根の作業小屋跡に向かう索道が架けられていたと見られ、尾根上の一六〇〇米付近までが伐採されたとされる[10]。尾根に取り付く複数の痕跡や、また登るうちに別の水平踏跡とも交差したが、どれも曖昧で正道は分からなかった。いずれにせよ、未だに灌木しか生育していない伐採跡の尾根を、打ち捨てられたワイヤーを見ながら、歩きやすい所を拾いつつ登った。
 一五九九独標付近で尾根が緩んで、灌木に覆われた開けたところがあった。昭和四十一年当時、少なくともここまでは、尾根から下ってくる明瞭な道があった[7]。もう道型は明確だったが、灌木ヤブで歩き難かった。その先一六一〇米圏にも、伐採で開けて灌木帯になった、ワイヤーが巡らされた場所があった。一時ヤブが弱まり、一般登山道に近い登りやすい道になった。片側だけ盛り上がった変則的な舟形地形状を過ぎると、稜線の灌木ヤブが酷くなり、左に巻く不明瞭な踏跡が現れた。
 昔の道は、尾根の西側山腹を電光型に登って尻無尾根一八一〇米圏の索道台跡に達していたようだが、この地点からも尻無尾根からも灌木が茂って道がよく確認できなかった。現在見える踏跡は、そこから左に向きを変え、概ね水平に進んいた。崩土帯をトラバースすると、次第に尻無尾根が近づき、一七五〇米圏索道台跡の僅か上の地点で尾根に出た。尻無尾根(ナシ尾根)には索道台跡が非常に多いが、この索道台跡は一七六八独標の百米ほど西の地点である。櫓を組んでいたらしき廃材が散らばり、ドラム缶、ワイヤー、滑車、その他の部品が散財していた。甲武信木材もしくは大滝木協が利用していたものと思われ、惣小屋沢支沢(麻生市)の源頭から、仁田小屋尾根を越え、この地点で尻無尾根を越え、二瀬尾根の造林小屋跡を経由、往時は和名倉軌道に積み替えられていたが、軌道廃止後はさらに二瀬まで長距離索道で運ばれていたようだ。空中写真[7,11]から見るとほぼ並行して二本の索道が架けられており、もう一方は少し上の一八一〇米圏で尻無尾根を越えていた。

 

⌚ฺ  和名倉沢渡河点-(1時間)-一五九五独標付近-(30分)- 尻無尾根一七五〇米圏索道台跡 [2018.10.6]

●尻無尾根一七五〇米圏索道台跡~第一柿原林材小屋跡

 現在の踏跡により尻無尾根の一七五〇米圏索道台跡に出てしまったので、ひと登りして本来の尻無尾根乗越である一八一〇米圏の索道台跡に向かった。そこにも同様に鉄骨廃材の残る索道台跡があった。また驚いたことに、鉄材に紛れて長さ約三米の一本のレールが落ちていた。形状からして、明らかに和名倉軌道で使われていたものと思われた。こんな山中にレールがあった理由は、後ほど知ることになる。
 一八一〇米圏の索道台跡から南側の伐採跡のヤブに下っていく、古い道の痕跡があった。間違いなく柿原林材道の続きと思われた。伐採跡は荒れたダケカンバなどの明るい二次林になっていた。下層は枯死笹ヤブで、道型的な開けた部分が古道であろう。土砂流出の部分以外は、明瞭な枯死笹ヤブの切り開きが続き、一部では道型が残る箇所もあった。落ちた針金に、遠い昔人が通っていた僅かな形跡が認められた。障害を避け上下しつつも、ぼんやりとした踏跡が断続する頼りない道の痕跡は、基本的に水平を保っていた。
 灌木がヤブとなって茂った小尾根を通過した。斜面に積もった土砂のため明確な道型は認められず、僅かな歩いた気配を見る程度の状態が伐採跡に続いていた。緩い涸窪を回ると露岩が現れ、断続的な痕跡を水平に繋いで歩いた。崩壊部にも微かな踏跡があることから、今やヒトよりも鹿が歩いのかも知れないと思えた。振り返ると、尻無尾根越しに秩父市街が白く輝いていた。軽く緊張する露岩帯を通過する部分は、恐らくかつては桟橋がかかっていたのだろう。
 市ノ沢一五一〇米圏二股の中間尾根をなす次の小尾根から、ダケカンバと他の広葉樹の混合林になった。源流の沢音が聞こえていた。水のない支窪を渡ると広葉樹林となり、二次林の荒地で消えていた踏跡がうっすら出てきた。すぐ下に水音がしていたので水源が近いようだ。次の支窪をすぐに渡った。断続的な道の気配を拾ってとにかく水平に進んだ。次の小尾根の先の緩く広い窪の辺りでは、また道の雰囲気が感じられた。落ちたワイヤーを見て、広葉樹の道らしき雰囲気を進むが、伐採跡でまた不明になった。
 カラマツ植林の広い大尾根に出た。ここが仁田小屋尾根だった。このごく薄い道の痕跡は、尾根を歩いていても、なかなか気づかないだろう。尾根を横切ってカラマツ植林に入ると、植林作業道を兼ねていたためか、心なしか多少踏跡らしくなった。たまたまなのか、水平な踏跡の下側だけが枯死笹ヤブになっていた。尾根から数十米の辺りで、枯死笹ヤブを下る道の残骸らしきものが目に入った。位置的にこれが柿原林材道であろう。
 山腹を激しく下る枯死笹ヤブの切り開き状は、道とは言えぬほど荒れ様で、幾つもの筋が入れ乱れ、分離融合しながら、小尾根の左側の山腹を急下していた。推定経路から外れぬよう、それらの痕跡を適当つなぎながら下った。尾根の芯のやや左側に、何らかの痕跡が断続するので、それを使って小窪に沿うように進み、途中から右に山腹を斜めに横切るように下った。辺りは一面の五十年生前後のカラマツ植林で、下層は枯死笹ヤブか灌木になっていた。かなりの深山であるのに全くそれらしい感じがしなかった。沢が近づくと枯死笹ヤブに草地が交じるようになり、惣小屋沢の支沢である麻生市(この支沢の名称は様々に呼ばれており、確定したものはないようである)の沢音が聞こえてきた。沢に近づくと植林踏跡っぽいのが幾つか出てきたので、沢に沿って左岸の高みを行く踏跡を追ってみた。すぐ小屋が真下に見えてきた。ほぼ水平な踏跡は、沢が高度を上げるに従って近づき、自然と小屋の近くで沢に下りることができた。もっとも水流に削られ、沢付近では踏跡も完全に消えていた。
 源流近い麻生市の小流の左岸、約一七一〇米に、ペシャっと潰れたトタン屋根のプレハブ風の小屋の残骸があった。鋼製の梁や柱が散らばる大型の小屋で、長辺は十米はあるだろうか。その梁か柱かに例の和名倉軌道のレールが使われていたのである。尻無尾根で見た一本のレールは、和名倉軌道が廃止され不要となったレールの再利用先であるこの小屋へ運ぶ途中に、余ったか忘れられたかしたものであろう。当時の索道は、和名倉軌道の造林小屋から、一八一〇米圏でナシ尾根を越え、この小屋の上方付近で仁田小屋尾根を越えていたようだ。沢の水中に錆びたボイラーやかまどの残骸が見られ、多少の瓶も散らばっていた。木造部分は少なく、伐採時代の比較的後期の小屋のようなので、ここでは「第二柿原林材小屋」と仮称する。落ちた三角屋根の下に傾いた木製の床が残り、隙間に無理やり潜り込めば泊まれるかも知れない。平成十一年時点では「まだ倒れてそんなに時間が経っていなさそうだった」[12]という。
 第二小屋から沢の左岸に付いた道は、激しく崩壊しとても使えなかった。水量の少ない沢を登れば良いのだが、倒木、ワイヤーの障害物やヤブのため、歩き難かった。沢沿い残る僅かの広葉樹を見たが、基本的に回りは全てカラマツ植林だった。百余米先の左岸に涸小窪入ると、もう一つの小屋(ここでは第一柿原林材小屋と仮称)から落ちてきたらしき、ボイラー、風呂釜などの残骸が落ちていた。その上の台地上が、第一柿原林材小屋跡だった。廃棄された多量の瓶があったが、小屋の残骸は僅かの朽ちた角柱とボロボロのトタン屑だけであった。伐採初期の古いタイプの小屋と見られる。最初にできたと考えられるので、第一小屋と仮称したわけだ。ここから周囲の広大なカラマツ植林に作業道が伸びていたようだ。周囲を多少歩いてみたが、あちこちに作業踏跡の断片を見るも、きっちり道として残ったものは認められなかった。もっとも道がなくとも、カラマツ植林下の低い草を踏んで、山腹を自由に歩くことができるので、ここから八百平近くの和名倉登山道へと抜けるのにさほどの苦労はなかった。

 

⌚ฺ  尻無尾根一七五〇米圏索道台跡-(10分)-一八一〇米圏索道台跡-(40分)-仁田小屋尾根-(20分)-第二柿原林材小屋跡-(10分)- 第一柿原林材小屋跡 [2018.10.21]

【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)

  • 尻無尾根1810M圏索道台跡
  • 仁田小屋尾根1810M圏

 

[10]環境庁『現存植生図 埼玉県16 三峰』(昭和五十四年度調査)、昭和五十六年。
[11]埼玉県企画課『埼玉全県航空写真(昭和四十一年度)』、昭和四十一年、C10-15。
[12]石川裕一「滝沢~和名倉山~惣小屋沢右俣下降」(『むげん年報』一〇号、二一二~二一四頁)、平成十二年。

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二瀬尾根造林小屋跡付近の軌道部品
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明瞭な軌道跡の道床が続く
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石積みの補強もはっきり確認できる
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一部では道床ごと崩壊に呑まれている
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軌道跡の先の水平道に残る碍子
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小尾根を越えると和名倉沢も近い
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最後は一気に沢まで下る
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和名倉沢を1380M圏二股で渡る
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右岸の高みを行く道
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小尾根を離れトラバースを始める道型
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苔に包まれた桟道の丸太
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土砂流出箇所では完全に消滅
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岩場は桟橋も落ちてへつって通過
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再び安定した山腹で道型が回復
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崩れて多少危険になった渡沢部
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1599独標尾根は切株やワイヤーが散見
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伐採され灌木が優占する尾根筋
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道は一時かなり明瞭になった
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ヤブを嫌ってかトラバースを始めた踏跡
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1750M圏索道跡小鞍部近くの尻無尾根に
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尻無尾根1810M圏の索道跡
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線路が1本落ちていた
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尾根の枯死笹ヤブに水平道が分かれる
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奇跡的にきれいな道型が残る場所
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水平道の大部分は荒廃は酷い
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ダケカンバの二次林を適当に進む
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カラマツ植林の仁田小屋尾根を回る
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小屋跡へ向け枯死笹ヤブを急下
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きれいなカラマツ植林を斜めに下る
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麻生市左岸の柿原林材第二小屋
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ペシャンコに潰れている
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床と屋根の間に潜り込むことも可能か?
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沢に落ちた竈のようなもの
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レールも骨材として再利用
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倒木で埋もれた沢筋
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第一小屋の敷地
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建物の残骸は僅かの朽ちた廃材のみ
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ストーブだろうか