会所越(通称コレイ峠) page 2 【廃径】

● 奥三川~取り付きの右岸小窪

 奥三川は古くは板小屋とも呼ばれていた一三〇〇米圏にある三川最奥の耕地で、三川源流へ向かう森林軌道の起点であったが、廃村になって久しい。左岸奥の方には、伐採当時の土場が無意味に広大な空間となっていた。左岸に注ぐ沢又沢(原全教は文献付図で誤ってサブイノ窪としているもの)を見て冬期通行止ゲートを跨ぎ、車道(大黒沢林道)を歩き始めた。付近は車道が複雑に入り組み、三川の両岸を並行して二本の車道が奥へと通じていた。暖冬で雪の欠片もなく、本来除雪作業をすべき業者が、無駄に落葉清掃作業を行うのを横目に、汗を拭きつつ右岸の暑いアスファルト道を進んだ。国有林の入口にあるヅミノ窪手前の山ノ神の湧水で喉を潤し、左岸に渡る南相木ダム下への車道を見送った。五十数年前の村の地図[36]や記録[31]を見れば、この分岐先、約百米の右岸小窪で旧道が山腹に取り付いていたことが分かるが、取り付き部分の道はほぼ消滅していた。ここまでは車道歩きなので、今日ではこの取るに足りない小窪が、実質的な会所越の始まりである。

 

 

⌚ฺ  奥三川-(15分)-取り付きの右岸小窪 [2016.4.19]

● [逆行区間]取り付きの右岸小窪~土捨場奥

(「弥次ノ平林道」に記載の内容と重複するので、多少調整のして同一文を使用。)
 現在、土捨場の左岸中ほどまで車道が完成しているので、ただ単に下山するなら土捨場の上端から左端へと回る踏跡を辿るのが良いが、古道を辿るために右端の踏跡に入った。土捨場部分の古道は埋め立てられて消えたと思われ、それが再度現れる部分まで仕方なく埋立地の縁を進む訳である。あるかなしかの踏跡で人工的な平坦地に沿って進むと、傾斜のある埋め立て部分に入ってきた。やがて車道のヘアピンカーブ部に接近し、その脇を抜けると、踏跡はバラけて不明瞭な痕跡になりほぼ消滅した。探しながら適当に下ると、一四三五米付近で突如小道が現れた。土捨場の残土に埋もれていた古道が、ようやく表に出てきたのである。
 明らかに馬道のムードを漂わすしっかりした道型で、岩を避けて直下を通りながら、カラマツ(上)と自然林(下)の境界を水平に進んでいった。切株もあることから、植林作業道として生き残ったようだ。小尾根上の岩頭を越える所で、足元の大黒沢の眺望が良い。ここが原全教の云う「岩の突端」で、「足許から水面までは絶壁をなし、深峡の底には紺碧に淀んだ深淵を俯瞰し」[3]と述べた箇所に違いない。ただ原が通った一月と違い、青葉に覆われて絶壁や深淵ははっきりとは感じられなかった。カラマツ植林地に入って緩く下り始めるも、暫くして土砂流出による道型消滅があり、微かな踏跡を辿った。踏跡は、水のない三川の一三五〇米圏右岸支窪の一四〇〇米圏二股付近に下りた辺りで、完全に消滅し、進むべき方向が全く分からなくなった。道の目印を隈なく探すと、左岸の不自然な石垣が見つかった。それを道と仮定し下ると、馬道の痕跡らしき道型が一瞬回復し、すぐ滑らかな斜面に消えた。時々現れる道の気配を追うと、車道が近づき、痕跡は窪をつづら折れて窪を下ってる雰囲気だった。道型を認識できないまま涸窪を、目の前の車道(大黒沢林道)まで下った。大黒沢出合の下流約二百米の地点であった。

 

⌚ฺ  取り付きの右岸小窪-(←20分:逆行区間)-峠道が土捨場に埋もれて消滅-(←10分:逆行区間)-土捨場奥 [2018.6.3]

● 一六六二独標付近~会所

 

 二つ目の小丘の北の一六六〇米圏台地を軽く登って越すと、石仏ノ頭に向かう稜線が巨岩に塞がれた地点に白ビニール紐があり、正面に平たく南相木ダムが見えていた。ここが一六六二独標で、弥次ノ平と会所の分岐である。ここから会所までの道はほぼ水平と予想されていたが、伐採後の国有林図[30]に道の収載がなく、車道と連携した新たな作業道網が構築され、峠道は消滅した可能性が考えられた。
 巨岩脇からカラマツ植林中の薄い作業痕跡に入り、少し登って後は水平に進んだ。数多い痕跡のうち水平に近いものを繋いで前進し、ヌクイノ窪左岸尾根を回った。一面のカラマツ植林に続く道や踏跡未満の痕跡は、間伐・倒木・枝の落下で歩き難く、それとなく踏まれた箇所を拾って進んだ。地形図一六八〇米付近の岩記号の顕著な大岩下端を通過した。岩の真下でのみ明瞭な踏跡が現れたが、道型は残っていなかった。時折現れる露岩を除けながら、植林地の山腹の僅かな痕跡を伝った。露岩を避けるため、微流の支窪を下って渡り登り返し、続いて本沢に相当する石仏ノ頭に突き上げる無名沢を、一六五〇米圏二股の少し下で渡った。
 この高度は手強いヤブと低密度のヤブの境界になっており、それに沿う踏跡を拾いながら進んだ。酷い笹ヤブ帯が次第に下がり、前進が難しくなってきた。時々見かける残置ワイヤーに作業道への淡い期待を抱くも気休めでしかなく、容赦ない猛烈な笹ヤブを掻き分け、泳ぐように進んだ。散見される何らかの痕跡も、長くは続かなかった。多少踏まれている無名沢の左岸尾根(上信国境一八六〇米圏から南西に出る尾根)を回り、続いてその支尾根(大黒沢付近一四八八独標に落ちる尾根)を回った。猛烈な笹ヤブの連続で、ルートは無いも同然だった。この支尾根にも弱い踏跡があった。一時笹が弱まったが、次の小尾根手前で激しくなり、それを回ると弱まった。南斜面で強く東斜面で弱まるという法則が見事に成立していた。
 次の小窪(御巣鷹山トンネル入口付近に落ちる窪)辺りから南斜面になり笹ヤブがまた強まったが、今までより明瞭な作業道の痕跡的なものが出て来て、同じヤブ漕ぎでも全然歩きやすくなった。先の小尾根から小林班が切り替わり、切株が点々とあることから、ある時期間伐が入り歩きやすくなっているのかも知れない。薄い踏跡のある次の小尾根(上信国境一八六〇米圏から南南東に出る尾根)から、踏跡はさらに道的になってきて、普通の廃道や悪路程度にまで好転した。倒木を避け、もしくは跨ぎながらではあるが、明瞭で歩きやすかった。次の窪の通過時の南斜面のヤブで少し荒れたが、道を失うことなく通過した。ただ間伐の残骸らしき倒木が多いのには閉口した。このまま水平に会所まで行けそうな感が強まってきた。いよいよ国境の会所が見えてくると、斜面はまた南を向き始め、ヤブと間伐倒木とで不明瞭になってきた。特に峠状になった会所直前の完全に南向きの部分で、道はほぼ消滅していた。目の前の会所まで数十秒の間、笹を掻き分けるのは何の苦もないが、会所からこの道に入るとしたら全く認識できないであろう。
 会所は、上信国境上の一六九〇米圏の鞍部であり、地形図の昭和二十七年版までは一七〇五米の標高点が記入されていた。地形図上の峠道の破線記号は、最低鞍部の僅か北西寄りの一七〇〇米圏で国境を越えるよう描かれている。実際の峠道も厳密な鞍部から北西約二十米の辺りを通過していた。基盤地図情報(数値標高モデル、5mメッシュ)では、最低鞍部が約一六九七・八米、現地で取得したGPSログの通過地点が約一六九八・七米となっており、それを裏付けている。峠道は鞍部を越えるというより、石仏ノ頭の山稜の南東面を巻くように付いているので、鞍部通過に拘っていないのだろう。
 会所の信州側は臼田営林署に伐り荒らされた、カラマツ植林中の一地点に過ぎない。中山氏が「休むスペースもない」と報告した10年前の深い笹ヤブは勢力を弱め、煩く感じるほどではなかった。「動」「手」「昭和」などの文字が部分的に読み取れる古看板の残骸や、金属片、瀬戸物、割れた瓶の残置物がある箇所は、ロボット雨量計の残骸である。上州側の潅木の間から、品塩山、ブンキガゴヤノ頭、上イセ岩が望まれ、山腹を刻む中之沢林道もはっきり見て取れた。
 群馬への道は、稜線のヤブで分かり難いが雨量計の残骸脇から水平に始まっていた。つまり峠道の両側とも稜線一帯のヤブに消えており、これでは縦走者が気がつかないのも無理はない。注意すべきは、現在、茶屋ノ平から会所までの道はほぼ消滅していて、代わりに大黒沢の一五八〇米圏二股の右股を登り、会所の南東約百五十米の一六九〇米圏小鞍部で国境を越え、群馬側を会所のわずか下をトラバースして通過し、峠道に接続する踏跡が出来ていることである。単に信州から上州に越えるならこの踏跡の方が全然歩きやすく、逆に上州から来るとこの踏跡に引き込まれ、会所を通らず大黒沢に下ってしまう。

 

⌚ฺ  一六六二独標-(1時間40分)-会所 [2016.4.19]

 

● 一六六二独標付近~会所

 

 二つ目の小丘の北の一六六〇米圏台地を軽く登って越すと、石仏ノ頭に向かう稜線が巨岩に塞がれた地点に白ビニール紐があり、正面に平たく南相木ダムが見えていた。ここが一六六二独標で、弥次ノ平と会所の分岐である。ここから会所までの道はほぼ水平と予想されていたが、伐採後の国有林図[30]に道の収載がなく、車道と連携した新たな作業道網が構築され、峠道は消滅した可能性が考えられた。
 巨岩脇からカラマツ植林中の薄い作業痕跡に入り、少し登って後は水平に進んだ。数多い痕跡のうち水平に近いものを繋いで前進し、ヌクイノ窪左岸尾根を回った。一面のカラマツ植林に続く道や踏跡未満の痕跡は、間伐・倒木・枝の落下で歩き難く、それとなく踏まれた箇所を拾って進んだ。地形図一六八〇米付近の岩記号の顕著な大岩下端を通過した。岩の真下でのみ明瞭な踏跡が現れたが、道型は残っていなかった。時折現れる露岩を除けながら、植林地の山腹の僅かな痕跡を伝った。露岩を避けるため、微流の支窪を下って渡り登り返し、続いて本沢に相当する石仏ノ頭に突き上げる無名沢を、一六五〇米圏二股の少し下で渡った。
 この高度は手強いヤブと低密度のヤブの境界になっており、それに沿う踏跡を拾いながら進んだ。酷い笹ヤブ帯が次第に下がり、前進が難しくなってきた。時々見かける残置ワイヤーに作業道への淡い期待を抱くも気休めでしかなく、容赦ない猛烈な笹ヤブを掻き分け、泳ぐように進んだ。散見される何らかの痕跡も、長くは続かなかった。多少踏まれている無名沢の左岸尾根(上信国境一八六〇米圏から南西に出る尾根)を回り、続いてその支尾根(大黒沢付近一四八八独標に落ちる尾根)を回った。猛烈な笹ヤブの連続で、ルートは無いも同然だった。この支尾根にも弱い踏跡があった。一時笹が弱まったが、次の小尾根手前で激しくなり、それを回ると弱まった。南斜面で強く東斜面で弱まるという法則が見事に成立していた。
 次の小窪(御巣鷹山トンネル入口付近に落ちる窪)辺りから南斜面になり笹ヤブがまた強まったが、今までより明瞭な作業道の痕跡的なものが出て来て、同じヤブ漕ぎでも全然歩きやすくなった。先の小尾根から小林班が切り替わり、切株が点々とあることから、ある時期間伐が入り歩きやすくなっているのかも知れない。薄い踏跡のある次の小尾根(上信国境一八六〇米圏から南南東に出る尾根)から、踏跡はさらに道的になってきて、普通の廃道や悪路程度にまで好転した。倒木を避け、もしくは跨ぎながらではあるが、明瞭で歩きやすかった。次の窪の通過時の南斜面のヤブで少し荒れたが、道を失うことなく通過した。ただ間伐の残骸らしき倒木が多いのには閉口した。このまま水平に会所まで行けそうな感が強まってきた。いよいよ国境の会所が見えてくると、斜面はまた南を向き始め、ヤブと間伐倒木とで不明瞭になってきた。特に峠状になった会所直前の完全に南向きの部分で、道はほぼ消滅していた。目の前の会所まで数十秒の間、笹を掻き分けるのは何の苦もないが、会所からこの道に入るとしたら全く認識できないであろう。
 会所は、上信国境上の一六九〇米圏の鞍部であり、地形図の昭和二十七年版までは一七〇五米の標高点が記入されていた。地形図上の峠道の破線記号は、最低鞍部の僅か北西寄りの一七〇〇米圏で国境を越えるよう描かれている。実際の峠道も厳密な鞍部から北西約二十米の辺りを通過していた。基盤地図情報(数値標高モデル、5mメッシュ)では、最低鞍部が約一六九七・八米、現地で取得したGPSログの通過地点が約一六九八・七米となっており、それを裏付けている。峠道は鞍部を越えるというより、石仏ノ頭の山稜の南東面を巻くように付いているので、鞍部通過に拘っていないのだろう。
 会所の信州側は臼田営林署に伐り荒らされた、カラマツ植林中の一地点に過ぎない。中山氏が「休むスペースもない」と報告した10年前の深い笹ヤブは勢力を弱め、煩く感じるほどではなかった。「動」「手」「昭和」などの文字が部分的に読み取れる古看板の残骸や、金属片、瀬戸物、割れた瓶の残置物がある箇所は、ロボット雨量計の残骸である。上州側の潅木の間から、品塩山、ブンキガゴヤノ頭、上イセ岩が望まれ、山腹を刻む中之沢林道もはっきり見て取れた。
 群馬への道は、稜線のヤブで分かり難いが雨量計の残骸脇から水平に始まっていた。つまり峠道の両側とも稜線一帯のヤブに消えており、これでは縦走者が気がつかないのも無理はない。注意すべきは、現在、茶屋ノ平から会所までの道はほぼ消滅していて、代わりに大黒沢の一五八〇米圏二股の右股を登り、会所の南東約百五十米の一六九〇米圏小鞍部で国境を越え、群馬側を会所のわずか下をトラバースして通過し、峠道に接続する踏跡が出来ていることである。単に信州から上州に越えるならこの踏跡の方が全然歩きやすく、逆に上州から来るとこの踏跡に引き込まれ、会所を通らず大黒沢に下ってしまう。

 

⌚ฺ  一六六二独標-(1時間40分)-会所 [2016.4.19]

 

【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)

  • 大黒橋2号橋(御巣鷹山トンネル入口先の大黒沢を渡る橋)から会所

 

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車道(大黒沢林道)からの取り付き
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道の消えた小
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石垣跡を目印に不明瞭な植林地を進む
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斜面の流出で道が消えている
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自然林をトラバースするきれいな道型
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土捨場に呑まれて突然古道が終わった
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土捨場沿いに右岸を進む
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植林部分では細い作業道になる
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ヌクイの岩峰を見上げカラマツ植林
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登りやすい馬道が残った部分
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窪中央では礫と倒木で道はぼ消滅
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茶屋ノ平付近の稜線に登り着くところ
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目標となる纏を持った栗鼠看板
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古道は稜線を北巻きして進む
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樹林と枯死ヤブの中の茶屋ノ平
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カラマツ植林の幹間に覗く南相木ダム
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植林中の不明瞭な作業痕跡
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道はないも同然だが適当に進む
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石仏ノ頭南面の酷い笹ヤブ帯
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踏跡が少しずつ見えて来た
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会所付近の間伐倒木が激しい道
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ヤブに覆われた会所
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会所の峠上は平坦で小広くなっている
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会所の目印、ロボット雨量計の残骸