根利山古道(庚申七滝~砥沢) page 3 【廃径】一部は一般可

● 六林班峠~砥沢小屋(根利栗原川林道)

 六林班峠から砥沢小屋までの区間は、車道から容易に国境稜線へ到達できる便利なルートであり、明瞭な道はないながら多くの人に歩かれている。明治三十年代頃に古河鉱業により伐採されたこの一帯は、昭和五十三~五年の間に沼田営林署により再伐採された[10,22]。それに伴う作業車道の造成や森林の撹乱により、新たな道が開拓され、古道は激しく損傷を受けたようだ。このため現在、古道と植林作業道とが入り乱れ、古道の道筋を辿ることはかなり難しくなっている。以下は、できるだけ植林道に惑わされず、古河時代の峠道を追いかけた記録である。
 鉄索の砥沢本線を通していた六林班峠は、未だに高木の少ない笹原のままで当時の名残を残していた。言うまでもなく、庚申山荘から六林班峠を経て鋸山へと向かう一般登山道は、峠の近くまで行くが峠を経由しておらず、真の峠の位置は、国境稜線上である。明大ワンゲルの古い青プレートのある最低鞍部の、笹に埋もれた小溝が峠道の残骸のようだ。ごく緩い下りで低い森を百数十米進むと、不明瞭な峠道は急に右に切れて、山腹を斜めに下るようになった。道自体は消えかかっているが、索道建設時の資材運搬に使った牛馬道なので、道幅が広くどうにか判別できた。さらに二百米ほど行くと、腰までの笹に覆われた疎林で、道が消えた。斜面には多くの涸れた水跡が付いて、古道は流されてしまったようだ。丹念に道の断片を繋ぎ合わせると、どうやら大きな折返しを一度交えて、なおも右斜の下降を続けていることが分かった。
 ロクリン沢の源頭が近づく頃、古道とは思えぬ幅広い明瞭な廃道が、左後方に分かれて下るのに出合った。試しに少し下ってみたが、どうもこの道は、鉄索時代の原動所の方に向かって伐採跡を下る作業道のようだった。六林班峠からここまで古道の道筋通りの営林署歩道は、ここで古道を離れ、植林地を通って砥沢林道終点へと続いているのである[9]。
 この分岐から数十米行くと、ロクリン沢の右岸沿いに笹を分けて下る不明瞭な道型が見えた。これが原動所経由で下る、峠道のサブルートである。本道は、水のないロクリン沢源頭を右岸に渡り、山腹を絡んで下ってから一度大きく折り返し、原動所下方の一五六〇二股上で流れに下り着いていることが、旧版地形図[23,24]から知れる。峠道は原動所を通らず、一旦分かれた原動所道は下方でまた峠道に出合うのである。また峠の下には索道事務所があったとされ、中村は峠から一・五粁二〇分の地点としている[12-14,25]。資料により記述は様々のため、位置関係は今ひとつはっきりしない。
 あやふやな道型はなおも斜めに下るも、次第に森林が薄くなり、反比例して笹が高くなってきた。やがて深い笹原で完全に消えてしまった(一六五〇米付近)。足先で探ると所々に小さな水流跡が感じられたが、急斜面をトラバースしていたはずの峠道の痕跡は全く分からなかった。この斜面にカラマツが再植林されたのは昭和五十六年とされる[9]が、実際に植林されたのはごく一部で、大部分は根付かず笹原となっている。解像度の高い空中写真[26]には、古道が通過していたはずの部分に道型的な痕跡が見えるが、植林以前からあったものか判断する術がない。平成四年に登った石井氏は、この斜面で上方に道型的なものを見つけ、ヤブを漕いで登ったところ、旧道的な痕跡を見つけたという[19]。やむを得ずロクリン沢の右岸約十米上に付いた古道まで、笹の急斜面を適当に下った。古道は一五九〇米付近まで沢沿いに何とか続いていることから、そこから右岸の笹原に取り付いているものと想像された。
 しばらく右岸のやや高い位置の笹原に、多少ぼやけているが安定した道型が続き、一五六〇米圏二股は、直接見えないまま通り過ぎた。左岸が崖状になると、道は笹の中で曖昧になり、沢に下っているようだった。右岸が崖で通れなくなり、逆にその先で左岸の傾斜が緩むことから、この一五〇五米付近で沢を渡っていることが確信された。一帯は伐採後の手入れが悪く、かなり荒れた雰囲気だった。約三十米上には、伐採時に使われた作業車道(砥沢林道)の終点があり、恐らくそこから来ていたであろう支線車道の断片が、左岸斜面に断続的に見られた。砥沢林道から分かれるこの左岸支線車道跡も一見便利に歩けそうだが、突然崩壊して消えてしまうので当てにできない。
 峠道は右岸が急に落ち込む部分を過ぎると、また右岸に戻って笹の斜面を下っていた。山腹の道は小さな支窪的な地形が現れるとその底を行くようになり、水が現れると渡り返して絡むように下った。小尾根と小窪が入り組む地形は複雑で、基盤地図情報から起こした二千分の一程度の詳細地形図でないと判断に苦しむところである。自然と本流の右岸に戻ると、一四二〇米付近で木製の堰堤が行く手を塞いでいた。
 ここから根利栗原川林道の砥沢小屋までは、傾斜が緩いうえ沢に削られ、造林や車道工事の影響が強いため、古道がほぼ消えているようだ。地形的にもまた旧版地形図から見ても、古道はロクリン沢の左岸に渡った後、山腹を横切って支流のロクリン沢右股に移っているようであった。しかしその辺りの道型は、工事と植林踏跡とに紛れてほぼ消えていた。現在多少踏まれているのは、堰堤の上で左岸に渡り、約十米急登して中間尾根を越え、伏流した右股を横切り、その右岸に付いた作業道的な酷く荒れた道型に乗る方法である。道型は車道(根利栗原川林道)と交差し、そのまま砥沢へ続いている。

 

⌚ฺ  六林班峠-(25分)-原動所道上の分岐-(30分)-原動所道下の分岐-(10分)-1505M付近渡渉点-(30分)-砥沢小屋 [2019.9.21]
 
  

neriyama04.jpg

 
 
  

六林班峠から砥沢まで(等高線5M間隔で作製、茶点線は消滅・不明部)

 
 
  

この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図25000及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 令元情使、 第199号)

 

●サブルート:権兵衛原動所道

(実際は逆コースで通行)
 六林班峠から来て、ロクリン沢を渡らず左岸に沿って下るのが、原動所道である。峠道自体がもはや曖昧なので、分岐もまた曖昧である。この道が脚光を浴びたのは、昭和五十年代前半の伐採で営林署の道が原動所の尾根にできたことがきっかけと想像され、昭和五十年代に岡田氏はよく利用していたという[1]。平成十三年の高桑氏も権兵衛経由で登り[20]、十六年に通った増田氏も躊躇せず原動所道を下っている[2]。峠道に捉われずただ便利に通行するには、近年はこの道が定番となっているようだ。
 道はロクリン沢源頭の左岸の高い位置を、明瞭かつ直線的に下っていた。笹は低く、古道は安定して割と歩きやすかった。形の不明瞭な尾根を回り込む様に左に旋回すると、権兵衛原動所跡に辿り着いた。峠の少し下にまで及んだ全山の伐採事業は、ここだけを切り残して小さな森になっていた。理由は不明だが、もしかすると営林署も歴史的な重みを感じ伐採を躊躇したのだろうか。昭和二十三年の空中写真では、笹に覆われた五〇×二〇米ほどの平坦で長細い敷地全体に、まだ施設の残骸が残っていた[27]。現在残っているのは、敷地周囲の石垣と、中央付近の櫓のような木組みだけである。小雨の水滴を弾いているのは木材を防腐剤のクレオソート油で処理したためと見られ、例えば杉材では三十六年以上の耐用が可能というが、条件次第では八十年以上経過してなお実用にある例も報告されている。この高さ数米の櫓状は、スキーリフト終点の索道動力装置のようなものであったと想像される。違いといえば、ここが最高地点でなく山腹であることだ。重い木材を引き上げるのだから六林班峠の頂上が理想と思われるが、当時の技術ではコンパクトな施設を作ることができず、できるだけ頂上に近い平坦地としてここを選定したと想像される。ブライヘルト式の複線自動循環式索道は、ここでいったん平坦になり、施設内で約三十キロワットの動力を与えられていた。増田氏によればこの一角に根利山会が建てた記念碑がある[2]というが、特に注意していなかったので気付かなかった。
 深い笹の痕跡を水平に尾根まで出ると、見張所か何かの跡と見られる小広い敷地があり、瓦礫となった明治時代の煉瓦が散乱していた。珪土を含む白い耐火レンガも混じっていた。SHINAGAWAの刻印から、有名な品川白煉瓦(株)製であると知れる。多少細くなってきた尾根上の、明瞭ながら笹深い痕跡を漕ぎ下ると、一度小さく左に折り返しを入れた後、傾斜が急になったところで明瞭な道型が消えた。小さな踏跡が三々五々様々に下っていたが、尾根の右側、すなわちロクリン沢右岸の踏跡に、多少道らしき面影を見たので、それを拾いつつ斜めに下った。
 踏跡がロクリン沢に降り立って右岸に渡ると、そこで正道に合流した。

 

⌚ฺ  原動所道下の分岐-(15分)-権兵衛原動所-(15分)-原動所道上の分岐 [2019.9.21]
190921_p06.jpg
六林班峠直下(逆向撮影)
190921_p07.jpg
倒木やヤブで埋もれた箇所も
190921_p14.jpg
森と笹をトラバースする広く不明瞭な道型
190921_p05.jpg
道幅だけは十分な笹原の峠道
190921_p04.jpg
ロクリン沢右岸の深笹(逆向撮影)
190921_p03.jpg
植林中の道型良好な部分
190921_p02.jpg
荒れて不明瞭な箇所も散見される
190921_p01.jpg
ここも歩きやすい部分
190921_p13.jpg
ロクリン沢沿いの原動所道
190921_p11.jpg
幻影のような木製の櫓
190921_p12.jpg
近くで見ると防腐剤が効いて傷みも少ない
190921_p10.jpg
敷地端の石垣も明瞭に
190921_p08.jpg
煉瓦が散在する見張所らしき敷地
190921_p09.jpg
百数十年前の品川白煉瓦製の耐火煉瓦

[22]国土地理院『空中写真(日光)KT771Y(1977/10/23)』、昭和五十二年、C5-4。
[23]陸地測量部『五万分一地形図 足尾』(明治四十~四十三年測図)、明治四十三年。
[24]陸地測量部『五万分一地形図 男体山』(大正元年測図)、大正二年。
[25]中村謙『新版 山と高原の旅』朋文堂、昭和十七年、「庚申山と六林班峠」二六四頁。
[26]国土地理院『地理院タイル・2004年~(簡易空中写真)』、平成二十六年。
[27]建設省地理調査所『米軍撮影空中写真(1947/11/06)』、昭和二十二年、M631-A-No2-249。