根利山古道(庚申七滝~砥沢) page 2 【廃径】一部は一般可
● 庚申七滝(一の鳥居上)~赤岩停車場跡
【ご注意】以下の内容は、通行記録です。ガイドとして参考にしないでください。庚申七滝~赤岩停車場の区間は、2019年4月現在、一定の技術・装備・経験・体力を持たない一般登山者にとって非常に危険で、転落死の可能性があります。安全な通行には登攀技術と装備が必要です(溯行時のへつりや大高捲き程度)。特に今回は、ソールのグリップがさほど期待できない登山靴だったため苦労しました。2015年にこの区間を通行した複数のブログがネット上に見られました。一概に現在とは比較できませんが、今回通行した道の印象はかなり悪く、ブログ記事とのギャップを感じました。原因として、ブログ報告者の方の技術・装備等が優れていた可能性、道の状況悪化進んだ可能性、などが考えられます。現時点でのこの区間は、一般登山者の通行は死亡する可能性があること、熟達者でも十分な注意力・判断力が必要であることを、ご認識ください。
一の鳥居のすぐ奥の、一般車通行止めのため意味がない駐車場先から、庚申川左岸道が始まっていた。初めは庚申七滝の遊歩道なので歩きやすく、右に表参道への連絡路を分け、水面沢を渡った。探勝路はすぐ左に下っていくが、そのまま庚申川右岸山腹を直進するのが、根利山古道である。
道は明らかに悪化し、どう見ても廃道の様相であった。岩壁を穿って作設された道は、崩壊せず良く残った部分の道幅から見ると牛馬道規格(一・八米幅)であった。岩壁や谷を無視し、約七度の斜度を保って登る道は、地形的にかなり無理のある危険な場所に作られていた。だから一度荒れてしまうと途端に通行困難になるわけだ。古道に入って数分で、桟道が崩落したのであろうか、下方に約四十米の落差を持つ岩壁のへつりとなった。通行者も稀なため、ホールドやスタンスに今ひとつ信頼を置くことができない。しかも登山靴なのでソールのグリップがあまり効かず、ごく僅かにオーバーハングしたへつりの通過は、荷物のぶん谷側に引っ張られ身が縮む思いだった。
岩壁は必ずしも連続しているわけではなく、尾根的な岩稜状と窪的な土砂の部分が交互に現れた。その窪状は必ず崩壊しており、踏跡を使って下っては登り返す作業を何度も行った。先の四十米の断崖のへつりから約十分で、ルンゼ上端の微妙なバランスの通過箇所が現れた。露岩上のほんの数歩が、グリップの弱い登山靴では恐ろしく、土や枯葉を一歩ずつ取り除きながらスタンスを確認しつつ通過した。全体的に厳しい傾斜地なので、高捲きで追い上げられてしまうと下降できなくなってしまうため、うかつに登ることもできなかった。
大小十数箇所の崩壊や危険箇所を、都度の判断で高捲き、下捲きで乗り越えた。たとえ崩壊のため危険であっても道型自体は明瞭で、この区間で道に迷うことはなかった。眼前の急斜面を、カモシカが落石しながら通過した。彼らが漸く通るほどの崖である。赤岩停車場跡までの危険地帯の最後の高捲きは、距離約三十米の長いもので、どこで下降すべきか迷ったが、山体崩壊による古道流失の捲きであるため、踏跡に乗って崩壊地トラバースをこなせば難しくはなかった。
赤岩停車場跡が近づくと、多少穏やかな山腹の道になった。そして、突然一辺十五~二十米ほどの三角形の平坦な広場、すなわち砥沢線の赤岩停車場跡が現れた。中継地のことを、古河鉱業の索道では停車場と呼んでいた。ここにかつて赤岩小屋があったといい、恐らく索道の作業小屋であったのではないか。設備はすっかり撤去され、敷地のそこここにある若干のレンガやコンクリだけが人工物であった。ここが停車場跡であることは、まだ索道の痕跡が残っていた昭和二十三年の米軍撮影の空中写真[21]を見れば、確認できる。持参した基盤地図情報から自作した千二百六十五分の一地形図(等高線一米間隔)が示す広場の標高は、千二百四米であった。
●赤岩停車場跡~一三一七独標北東鞍部
停車場跡からも一定ペースで登る峠道が続いていた。次第に山腹からの崩土で道が埋まり、道型を追い難くなってきたが、岩稜帯が終わり転落の危険は減少したので、概ね歩みは順調になった。唯一、停車場跡から百米ほど進んだ浅い窪状斜面の崩壊通過で、滑落に神経を使った。
その後も崩壊は頻発したが、どれも容易に渡れた。赤岩停車場跡までが大変だったぶん印象が薄いが、危険なトラバースが続いた。だがそれまでの岩壁と違い、捲く気になれば上下とも可能である点、だいぶ気が楽であった。倒木と落石で荒れた浅い窪を横断すると、一三一七独標の北東鞍部(一二九六米)であった。独標はモミとツガに覆われた美しい小峰で、ここまでのミズナラなど広葉樹林を見てきた目に、亜高山帯の森林らしい清々しさが感じられた。
●一三一七独標北東鞍部~樺平(一四八二独標)
この区間は別の日の記録を使用している。冒頭からやや長い余談となるが、道は、独標北東鞍部先の二連涸窪通過部の荒廃で消滅し、ほんの一瞬道型が見えるもその後大崩壊で再び消滅する。次の巨岩で荒れた窪の右岸から次第に道型が見え始めるが、この間百数十メートルがほぼ途切れており、しかも紛らわしいことに、約七度の一定勾配で付いた道は、計算上その間十二、三米上がるはずの所、ほとんど登らないのである。四月二十日訪問時、崩壊の捲き踏跡が上下両方に付いていて、下の方がしっかりしていることを認識していたが、道の付き方からして上を取るべきと上の捲き踏跡に入った。するとその踏跡は不安定ながらも樺平付近まで続いており、道型の様に見える部分もあったのでそのまま進み、その足で六林班峠を往復した。樺平に戻り、庚申山荘へ向かおうとするも残雪で倒れた笹のため道が見つからず、捜索して見つけたのが、山荘への道ではなく、樺平から銀山平に直接下る旧道であった。この道は樺平付近では庚申山荘への道よりも良く、始め庚申山荘への道と思い進むも、方向や傾斜が違い、すぐこれが旧道の可能性があると気づいた。下り始めたものの、日没が近づき時間切れとなったため、一粁弱の区間を歩けず残してしまった。山中ではGPSは使わぬと自己ルールで決めているので、たしかにそれが旧道と確認したのは、帰宅後GPS記録を地形図に乗せたときである。残った部分を、記憶している周囲の状況が変化しないうちにと翌週歩き直したのが、この区間の記録の日付が異なる理由である。
一三一七独標北東鞍部の先が倒木でちょうど塞がれ分からなくなっていたが、道は尾根を回り込みながら登っていた。ツガとミズナラの混交林を緩やかに登る楽な道がしばらく続くも、倒木や流れてきた岩で荒れた二連の涸窪で、完全に消滅した。水平に通過しいったん道の気配が復活するも、次の大崩壊で全く通行不能となった。左下の涸窪へと導く踏跡で斜めに下り、伏流となった天下見晴直下の小窪を登って高度を回復した。窪を塞ぐ巨岩下の水流が見える付近から、小窪右岸に取り付くと、少し先で道型が回復した。この付近、百数十米の間不明瞭であり、しかも登りを止め水平になるので、迷いやすい区間であった。
古いサイダー瓶らしきを見ると、道は良悪を繰り返しつつ、長い連続崩壊帯を通過した。道の痕跡が断続的に現れるので、古道歩きに慣れてさえいれば迷うことはなかった。緩い窪状左岸の突破困難な崩壊を、約十米の下捲きで通過した。その時、古そうな何か赤いヤッケのようにも見える物体(恐らくゴミ)を見た。赤岩沢が近づくと、左岸斜面が、崩壊・落石・倒木でズタズタに途切れていて、下捲き踏跡でいったん沢に降りて通過した。
この区間で随一の水量のある顕著な赤岩沢を、一三四三米付近で通過した。すぐ上に立派な二段八米滝(上二・下六米)が架かっていた。左岸は道が流されていたが、踏跡を辿るとすぐ回復した。この後は大きな問題はなく、不明瞭だったり、場所によっては一時消滅した部分もあったが、倒木や薄ヤブに惑わされず一定ペースで登る道型の痕跡を追えば良かった。低いササが出ると樺平の一角のすぐ下方を掠め、ツガの森を倒木を越えて進むと、顕著な赤岩沢右岸尾根を一三七五米付近で回り込んだ。その部分で道は倒木やヤブに隠れていたが、注意深く道型を追えば失うことはなかった。この尾根を登る明瞭な踏跡があるが、これを辿ると、次第に不明瞭になりつつも庚申山荘への道に出ることができる。
低い笹に覆われた尾根を倒木が詰まった切り通しで廻り込み、笹の中の傷みは酷いが明瞭な道型で緩く登った。付近で唯一の崩壊箇所の上端を、問題なく通過した。低い笹原の踏跡は時に不明瞭になったが、道に迷うことはなかった。反対側から見ると人の横顔のように見える大岩の下を過ぎ、緩い窪を回ると、ブナやミズナラにダケカンバが混じるようになり、いよいよ樺平の一角に乗り上げた。皇海山や、六林班峠の凹みがはっきりと見えた。
開けた地形になるに連れ、道は不明瞭になって微流の左岸に沿う様になり、左手が完全に平坦な笹原になった。樺平である。これと言った目印はないが、庚申山荘から六林班峠へ向かう道が下り切って底になる地点である。今やモミやブナが優占しており、地名の由来となったダケカンバは道の右手、上の方に多く見られた。古道は、庚申山荘からの登山道に合流する直前数十米で、笹に隠れて不明になっていた。その付近でみたサイダーの空瓶に、微かに「金線」の文字が見られた(すなわち金線サイダーの空瓶)ので、大正十四年以前の通行人が捨てたのだろう。昭和十九年に長谷川末夫が見た二の鳥居[7]は、どこにあったか全く見当がつかなかった。
●樺平(一四八二独標)~六林班峠
この区間は一般道とされている割に悪く、踏跡程度の悪路であった(令和二年現在、刈払済)。若干の道標、危険箇所の桟橋、数ヶ所のロープがあるも、熟達者向けコースの印象だった。逆に言えば、多少は古道歩きの雰囲気を味わえるコースとも言える。
樺平付近は、ササ原にダケカンバが目立つ明るい高原状であった。点在する残雪により、道が埋まり、笹が倒れ、ルートを掴むのに気を使った。山腹のトラバースになると、古道の道型は笹に埋もれ、その数十センチないし一、二米脇に踏跡が付く奇妙な状態が続いた。踏跡は細く不明瞭かつ斜面のため傾いており、古道の笹ヤブを漕ぐ方が楽な箇所もあった。
ミオ沢流域に入ると、残雪が深くなった。岩場の通過は、桟橋とロープで安全に整備されていた。この沢の名は、古い資料でも「ミオ沢」、「三才沢」の二つの表記があり、どちらが正しいか分からない。
境沢が近づくと、積雪がみるみる深くなった。薄い表面はクラストしているが中はジャリジャリと柔らかく、新雪のラッセル以上に厄介な、踏み抜きながらのラッセルが続いた。完全に踏み抜くと裕に股下や腰まで潜り容易に抜けられなくなるので、踏み抜かぬよう一歩ごとに足場を固めてから進むという二度踏みで歩いた。山腹では一米以上の積雪でも木や枝の位置で道筋が推測できたが、沢や窪を渡る部分では全く分からず、その都度道探しに苦労した。積雪期用の立木の幹の高い位置に取り付けられた赤黄二色の標識やピンクテープのマーキングがなければ、道を失ったかもしれない。
境沢は沢の合流点を渡っているらしく、クレバスに加え水流にも落ちるなど酷い目にあった。四十一年ぶりの通行で、夏道の位置など全く覚えていないから、渡れそうな場所を勘で探すしかなかった。境沢を渡る前後から再び峠道は傾斜を取り戻した。フワフワの深雪に嵌まり腰まで落ち込んでしまうと、うかつに身動きが取れず、時にはそれが傾斜地だったりして、膝から下が固定された状態で斜面に宙吊りになった時もあった。やがて針葉樹の森を抜け、無流木地に入ると、峠まではあと一息だった。
六林班峠には、明大ワンゲルの青いプレートを始め、多くの表示板が取り付けられていた。足尾側は銀山平方面の谷が望め、上州側はササと疎林の斜面が広がるも、深雪のため道の状態はわからなかった。一段高いところに登ると、谷川岳から苗場にかけての白銀の連なりが見えた。この区間、特に後半の腐った雪のため異常に時間がかかり、休憩を除いた正味で約二時間五十分を要した。
【林道途中へのアクセスルート】(確認済みのもの)
- 樺平で庚申山荘からの登山道
[21]建設省地理調査所『米軍撮影空中写真(1948/09/14)』、昭和二十三年、M1161-78。