根利山古道(庚申七滝~砥沢) page 4 【廃径】一部は一般可

● 砥沢小屋(根利栗原川林道)~砥沢

(2019.9.21の再訪により、砥沢町内を詳細に歩き訂正・加筆致しました)
 営林署(森林管理署)の砥沢小屋は、薪ストーブもあり、四、五人が泊まれる広さだった。小屋の対岸、直下にあるロクリン沢一三六五米二股右俣の橋の左岸のダケカンバの幹に赤スプレーで吹き付けられた、「とざわ」の表示が痛々しかった。緩く下る幅広の荒れた牛馬道はすぐ踏跡程度になったが、作業道としてであろうか、よく踏まれていた。岩壁下の急斜面を過ぎ、涸窪の通過で一時道が消えたが、ヒノキ植林の間を行く細い踏跡は確実に続いていた。生育状況から二十五~三十年生くらいに見えたが、表示札には昭和五十五年の植栽とあった。古道上にも容赦なく植えられているのを見ると、植栽当時にもはや立派な古道の面影はなかったようだ。時折小さな踏跡が分れるも、一定斜度で緩く下る古道の付き方が判れば迷うほどではなかった。微小尾根を一瞬登って越えると、微流の小沢を二股上で渡った。その渡沢部で道が消えていた一方、小尾根回る辺りは古道が見事に残っていた。古いロープを渡した小崩壊を通り、植林帯をひた下った。

 
  

neriyama03.jpg

 
 
  

砥沢小屋から砥沢まで(等高線5M間隔で作製)

 
 
  

この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図25000及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 令元情使、 第199号)

 

 急に下り勾配が強まった。溝状の古道跡には間伐木が詰まって歩き難く、脇を歩いた。道荒れが酷くなり、ロクリン沢目掛けて右に下る小さな踏跡を見ると、崖上の急斜面の斜めに傾いた踏跡となり、すぐに手が付けられない程の大崩壊に行手を阻まれた。山体が深く垂直に抉れており、全く通過の余地はなかった。上下いずれの捲き踏跡を取るにしても、高さ数十米分のアルバイトになろう。直前を沢に下る踏跡は、専念寺砥沢説教所から釣橋で沢を渡って登って来る町内道だが、今は橋を釣っていた鋼製ロープが残るのみのためロクリン沢を渡渉する必要がある。渡った後の右岸は歩きやすいが、全ての橋が落ちているため砥沢へは再渡渉が必要となる。そのためか、最近のブログ等の記録を見る限り、この踏跡を下って沢に達し、左岸の崖下を適当に歩いて砥沢に入る方が多いようだ。
 峠道を辿るため、高捲きの微かな痕跡に入り、大崩壊の縁を登った。やがて崩壊上端を通過する踏跡が見つかった。崩壊対岸のカラマツ植林に移り、下り返すと、古道の続きがあった。すぐ傾斜が緩まり、何となく砥沢集落の上端に入った雰囲気になったが、カラマツがびっしり植林され道型はほぼ失われていた。多くの整地が見られたものの、建造物の残骸や廃棄物はなく、道も植林のためすっかり消えていた。この一角に不動沢線の停車場があったはずだが、スキーリフトの頂上小屋の様に自然地形を生かした物だったと見え、痕跡は見られなかった。
 さらに距離にして百数十米も尾根上を緩く下ると、石垣状の基礎を持つ明確な敷地がある一帯に入った。まるで宅地開発用に山を切り崩して造成した、建築前の建物のない敷地のように見えた。その一つに、ポツンと古い木の柱が立っていた。近寄ってみると、九八・九九林班界標の木標だった。木標は昭和三十七年の「国有林野測定規程」で実質的に禁止されたので、それ以前のものであろう。その前を、村内の上段水平道の明確な道型が横切っていた。標高一一八〇米のこの地点は、砥沢の事業地区(ロクリン沢側)と居住区(八林班沢側)を分ける背骨のような尾根の付け根に当たっていた。
 ここから下に植林はなく、尾根の左側斜面に古道の道型が残っていた。それを百数十米下ると下段水平道に出た。古い石垣の切通しが、八林班沢側の住宅街らしい一帯とロクリン沢側の作業場らしい一帯とを結んでいた。峠道が下段道に降りる寸前、右に分かれ尾根に乗る小道が山神社へ続いていたはずだ。それは切通し上で途切れていたが、往時は橋がかかっていて、それが山神社への道だったのである[28]。道理で山神社への道が見当たらないはずである。

 

⌚ฺ  砥沢小屋-(55分)-砥沢 [2019.5.5]
 
  

neriyama05.jpg

 
  

砥沢町内詳細図(等高線1M間隔で作製、建物および索道停車場の位置は、当時の写真、旧版地形図、高桑図(「根利の歴象」(根利山会)からの引用とされる)[28]、スケッチ図[29]を参考に推定。赤は良道(特に実線が良い)、青は悪路(特に点線が悪い)、緑は不明瞭だが適当に歩ける箇所。峠道は、銀山平・六林班峠から来る道は図の「至銀山平」から来て「銀山平道」を通り町に入るもの、平滝へ向かう道は図の「事務所」から「皇海荘」下を通り「八丁峠道」を通り「至八丁峠」へと続くもの。)

 
  

この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図25000及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 令元情使、 第199号)

 

● 砥沢町内散策

 切通し先の高さ数米だけ小高くなった場所に祀られた山神社には、奉納された新し目の左右の石灯籠、昭和四十七年に設置された[30]、根利山会の銀に輝く利根の記念碑などが置かれていた。少し先が神社下の切り通しである。その上を渡していた橋が落ちた今、神社へ上がるには切通脇の踏跡を使うことになる。  神社下の切通しのハチリン沢側にある軌道跡の立派な下段水平道は、下流側、上流側とも短く、本来伐木移動用の作業軌道や土場があった場所だ[29]。ハチリン沢側山腹に付いた銀山平への峠道を登ると、右手のハチリン沢との間に次々と広大な敷地が現れた。この辺りは事業に関連する下請け会社の社宅群であった。町の大きさの割に痕跡が少なく感じられたが、社宅街には廃村となった昭和十四年以前の瓶や廃棄物の破片が若干見られた。
 上段水平道の木標の林班界標まで登った地点で、尾根を行く峠道を見送り、右に入ってみた。上段道は、なお社宅群の敷地に沿って進み、次に広大な小学校跡となった。学校を思わせるものは何も残っておらず、銀色の小さな記念碑だけが唯一の印であった。その一段上まで来ると山が迫り、道が途切れた。役宅が建っていた町の最奥部である。室に使われていたらしいコンクリートのアーチが残っていた。
 林班界標まで戻って、上段道をロクリン沢側に回ってみた。道は数十米先の広場で行き止まりになっていた。平河線の停車場跡である。後から建設されたため、狭い町の高い場所に追いやられていた。そこから急な支尾根上の踏跡を十数米登った植林中の台地状が、不動沢線の停車場跡である。もはや、何かよくわからない森の中の小さな平坦地といった感じであった。林班界標まで下る峠道は、時々道の痕跡を感じるが、緩やかな地形と相まってどこが道か分からぬほど自然に帰していた。
 平河線停車場に戻り、辛うじて石段が残る町内道で河岸近くの事務所に向かった。この石段は、町が栄えていた頃、恐らく八丁峠へ向かう道の途中で撮られた写真に、印象的に写っている。緩く下って、ロクリン沢に沿う崖の上に建つ事務所跡に出た。根利山の営林事業全体を束ねていた根利林業所の洒落た建物も、今や草や灌木が茂るただの平地になっていた。越し方を振り返ると、ついさっき脇を下ってきた辺りに、城跡を思わせる二段の立派な石垣が見える。下段は恐らく大工小屋があった場所、上段が円覚線の停車場跡である。円覚線や平河線で運ばれてきた伐木は、砥沢本線脇の土場に落とされ、積み替えて銀山平へ運ばれていたことが、土場に山と積まれた収穫物を写した当時の写真から推測される。その砥沢本線と土場のあった位置も、低く疎らな灌木と草に覆われた、ただの広大な敷地であった。コンクリート槽を見る程度で、ほぼ何も残っていなかった。
 砥沢本線停車場跡を西端まで行くと、山神社の下に戻る。この砥沢本線跡から、事務所の下を通って二本の道が出ていることが、往時の写真で分かる。ロクリン沢左岸の崖上に位置する一帯は侵食が進み、駐在所(現在の皇海荘の位置)前を通って平滝へ通ずる幹線歩道はそこで途切れていた。仕方なく事務所跡から多少の段差を適当に下って、皇海荘の前に出た。道は駐在所の敷地脇を掠めて緩く下っていたが、その部分十数米だけ道型が残っていた。立派な橋をかけてロクリン沢を渡っていたのだが、恐らく木橋であったのだろう、一帯は完全に失われ痕跡すら残っていなかった。
 皇海荘は、敷地を森林管理署から借り受け、根利山会により昭和五十五年に建設された小屋である[31]。ちょうど営林署の伐採が盛んだった時期であり、開設された林道と、伐木運搬用の索道を使って資材を運び込んだという。供養に訪れる旧住人の墓参用の小屋だが[22]、一般にも開放されているのできれいに使いたい。年月が経ち、既に組織的な墓参は途絶えて久しいという。だがまだ一部遺族の墓参や、釣り人に利用されていると思われ、布団、記念品の搬器のローラー、時計、食料、ストーブを始め、様々な備品が据え置かれていた。
 駐在所の敷地上に沿って小径が残っているのが分かる。一段上の鍛冶屋(索道設備工場)跡を通り、釣橋でロクリン沢の右岸に渡り、沢沿いに進んで、専念寺説教所の下で、六林班峠からの峠道から分岐し釣橋で渡ってきた道に合流する道の跡である。鍛冶屋先の釣橋跡と思しき位置にワイヤーの残骸を見たが、沢に沿う部分の道型はほぼ流失していた。この道は恐らく根利山会の墓参道だったと思われる。小屋開設当時、すでに往時の道は使えない部分が多かったと思われ、植林作業道を利用したり新たに整備するなど、区間によっては峠道とは別に墓参道を整備したという[28]。墓参ルート詳細を明記した資料は目にしていないが、同行した高桑氏の記録と根利山会の設置物から、ある程度推測できる。根利栗原川林道の栗原川雨量観測所から、一四二四独標下まで支線林道が伸びている。その終点から尾根に絡んで八丁峠まで緩く下り、八丁峠から小沢沿いに砥沢へ下る峠道の崩壊箇所二ヶ所をつど回避し、峠道が慰霊碑のやや近くを通る部分で踏跡に入り、慰霊碑、寺跡を経て一気にロクリン沢まで下り、鍛冶屋跡下の釣橋位置で沢を渡って、先の小径で皇海荘に達していたというのが、一つの見立てである。
 ロクリン沢の右岸へは、全ての橋が流失した現在、渡渉となる。平水なら靴を濡らさず何とか渡ることができる。鍛冶屋先の釣橋跡付近を投げ込んだ倒木を足場に渡った。付近は五十米ほどの広い川幅があり、水流が左岸側に寄っているため、右岸の川岸までしばらく荒れた河原を歩いた。河岸は草木に覆われどこから取り付けば良いか分からぬ状態だが、しっかり捜索するとちょうど寺跡の直下に根利山会のものと思しき「八丁峠登り口」の小さな標識があった。墓参道の入口であろう。ヤブがちな森の中に唐突に貼り付けられていた。
 踏跡を一登りすると右岸台地に出て、小規模な住居群の敷地があった。小径の右側が寺跡であろう。現在この上が植林地のため、幾つもの作業道が登っていた。枝打ちで埋もれがちな直上する不明瞭な道を取ると、標高差で約三五米登った植林中の傾斜がゆるい場所に、「南無阿彌陀佛」と刻まれた一基の墓石のようにも見える慰霊碑があった。砥沢には墓がなく、帰る宛てのない無縁仏はここを火葬場として荼毘に付された。傍らの大木の倒木は、砥沢の御神木とされた楢の木で、雨の日だったりするとその大きな洞にこもって交替で夜通し焼いたという。それを「楢の木の下に行く」と言い習わす古老がいたという[28]。彼岸の三連休の中日というのに墓参の形跡はなく、人の往来が絶えて久しいことが伺われた。墓参道は、杉植林を左寄りに斜上し、更に二〇米上の一二三五米付近で、左前方から来て右後方に登る峠道に出合った。その峠道自体、以前通ったから分かるが、初見では判断がつかぬほどの荒れようであった。
 寺跡まで戻り、ロクリン沢右岸の崖上を水平についた道で下流側へ向かった。道は削られてだいぶ怪しくなっているが、道型の痕跡や石積み跡でここが歩道であったことが知れる。八丁峠から来る小沢の手前で峠道に出合うが、峠道も微かに道型らしきが見える程度であった。その小沢を伏流部で渡ると、眼前が崖状に迫り、峠道は左の急斜面を沢岸に向かって折り返し下っていたようだ。やむを得ず傾斜地を沢近くの高さまで無理に下ると、そこから土手のようにきれいに石積みした歩道が下流へと伸びていた。これは沢近辺が完全に消滅した平滝道と分岐する、山神社へ続く歩道である。
 直線的な石積みを進むと、八丁峠からの支沢を橋が落ちて橋桁だけが残る箇所で渡って、小規模な住宅地に至った。春に訪れたとき、庭先に咲いていたであろう水仙が、今なおきれいに咲き並んでいるのが印象的だった。ここを直進するのが源公平道だが、もう道の在り処は定かでなかった。山神社へは左に急旋回し、見事に残った釣橋の二本のワイヤーの下を渡渉、対岸の急傾斜の道の痕跡を拾いつつ登ると、一度折り返してから山神社下の切通しの前に出た。
 以上が、砥沢の今に見る全貌である。だが全盛期の砥沢には、千人は下らぬ人が住んでいたと推測される。人口に関する確かな統計はないのだが、合理化で人口が減少した大正十四年の時点で平滝、津室等も合わせた事業区域内の全従業員が八二九名とされている[31]。このことから、明治末期には根利山全体で、家族を含めると数千の人口があったと推測されることが根拠である[20,32]。人々を支える生活物資は、足尾の銀山平からこの索道で運び込まれ[31]、支線に積み替えられさらに奥地まで配送されていたようだ[33]。だから新聞の朝刊を夕方には砥沢で読むことができ[29]、「あんな山の中なのに正月が近づくと、大箱に入った塩鮭がどんどん届いた」と言われるほど物資は豊かだったという[30]。

 

⌚ฺ  砥沢町内散策 [2019.5.5, 2019.9.22]
190505_p01.jpg
車道脇に立つ砥沢小屋
190505_p02.jpg
赤スプレーが痛々しいダケカンバ
190505_p03.jpg
初めだけは幅広の牛馬道が残る
190505_p04.jpg
道型が崩れて埋まった部分
190505_p05.jpg
植林が容赦なく道の真中にも
190505_p06.jpg
岩壁の危うい踏跡になると、
190505_p07.jpg
すぐ大崩壊で行き詰まって大高捲き
190505_p08.jpg
廃墟すらない砥沢村内の敷地で道が消える
190505_p09.jpg
緩い尾根を適当に下る
190505_p10.jpg
上段水平道沿いの敷地に林班界標の木標
190505_p11.jpg
石積みの基礎だけとなった何かの敷地
190505_p12.jpg
侘びしく形を留める上段水平道
190505_p13.jpg
尾根左側を緩く下る峠道が復活
190505_p14.jpg
ロクリン沢と八林班沢の切通
190505_p15.jpg
八林班沢右岸の社宅街の廃棄物
190505_p16.jpg
社宅跡地の段々になった広い敷地
190505_p17.jpg
「御茶」の陶製容器の金五銭の文字
190505_p18.jpg
ビールの空瓶も多い(写真はキリン)
190922_p01.jpg
小学校跡も森になりつつある
190505_p19.jpg
小高い尾根の端にある山の神
190505_p20.jpg
銀が反射して周囲に同化した記念碑
190505_p59.jpg
土場の作業軌道の軌条の残骸
190505_p21.jpg
事務所近くの土場付近
190922_p05.jpg
城跡のような平滝線停車場跡
190505_p22.jpg
左岸近くの台地に建つ皇海荘
190505_p23.jpg
搬器の残骸が索道砥沢線の証
190505_p24.jpg
往時の石段の道が今なお形を留める
190505_p26.jpg
町内歩道の釣橋跡のワイヤー
190505_p27.jpg
右岸敷地に今なお残る水仙
190505_p28.jpg
川沿いの低地の石垣で固めた道
190505_p29.jpg
水害を避け一段高くして直線的に通過
190921_p15.jpg
墓参道入口の小さな標識
190922_p02.jpg
砥沢の森の奥に潜む慰霊碑
190922_p06.jpg
倒れた大きな御神木の楢の木

[28]高桑信一「足尾山塊索道の径②」(『岳人』六五九、七二~八〇頁)、平成十四年。
[29]水資源開発公団栗原川ダム調査所・利根村教育委員会/発行『幻の集落-根利山-』平成十五年、四二~五五頁付近。
[30]大東のぶゆき『やまびこ』三二〇号、平成二十四年。
[31]森田秀策「まぼろしの根利山、砥沢・平滝 ─もうひとつの足尾銅山史─」(『上州路』一四四号、七四~七八頁)、昭和六十一年。
[32]大東のぶゆき『やまびこ』三二三号、平成二十四年。
[33]大町桂月『関東の山水』博文館、明治四十二年、「第七節 追貝の勝」三〇八~三二六頁。