金峰山東口参道(杣口~御室小屋) page 4 【廃径】

● 石祠峠~桜沢小屋跡

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石祠峠~桜沢小屋跡
(出典:国土地理院 基盤地図情報5m標高)

 桜沢へ向かって桜沢右股の窪状地形を下り出した。右岸の作業車道は次第に離れていくので役に立たず、窪の中や伐採跡の左岸を見ても明らかな踏跡はなかった。これと言った痕跡もないので、水のない荒れたガラガラの窪を下った。敢えていえば右岸が多少踏まれた感じがあったが、道と言うにはほど遠いものだった。谷筋が岩や倒木で激しく荒れた部分は右岸を高捲いた。一八二五米付近の右岸支窪出合の堰堤を右から捲いた。間伐木で猛烈に荒れ、踏跡すら全く分からなかった。結局、窪をきっちり辿るのがマシだった。少し下ると次の堰堤が現れ、これも右岸を捲いた。尾根伐採時の作業道が現れたが、今や痕跡すらない参道の道筋と思われる沢沿いをしつこく追った。次第に微流の水が見えてくると、ダムのように水が溜まった次の堰堤は左岸の踏跡から下った。一面伐木だらけで歩きにくく、そのためか踏跡らしいものは殆どなかった。本流の左俣が合流するとまた堰堤で、ダム状に水が溜まった部分を何とか右岸に渡り、捲いて下った。沢幅が広くなったこの辺りに、かつて伐採小屋が並んでいたのであろう。今や明白な痕跡はなく、僅かにトタンの破片や瓶などの廃物を目にする程度だった。川上牧丘林道の旧道が橋をかけて桜沢を渡っており、右岸側のやや高い位置は小屋跡の敷地であった。昭和四十年代まで実際使われていたこの小屋だが、五十年にはまだ十分使えるとして泊まった登山者の記録がある[25]。割れた瓶、サビた空缶、水の流し口の部材などが、数十年前の伐採基地の名残である。ここは現在の車道からは気づき難い奥まった位置で、数十米先に現在の広い車道の桜沢橋が見えていた。石祠峠から桜沢小屋跡までは道がほぼ完全に消滅し、古道ルートに沿う作業道がなく山の荒廃も酷いため、距離の割に時間がかかった。

 

⌚ฺ  石祠峠-(30分)-桜沢小屋跡 [2021.3.15]

● 桜沢小屋跡~軌道跡横断点

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桜沢小屋跡~上アコウ沢(出典:国土地理院 基盤地図情報5m標高)

 廃棄物のある小屋跡のすぐ脇に北東から来る微流の小窪があり、その左岸の低い笹を行くぼんやりした道型の痕跡が残っていた。桜沢からアコウ沢にかけての地形は極めて複雑で、地形図で分からない小窪や小尾根が多数ある。この小窪もその一つで、道の痕跡は旧版地形図が示す古道の道筋によく合致するので間違いないと思われる。一帯は昭和四十年代前半のカラマツ植林地で、作業時の踏跡が山全体に縦横無尽に巡らされているため、大してはっきりしたものではないが、少なくとも古道よりはよほど明瞭である。厄介なことに、古道の後にできた作業踏跡は、つまみ食いのように古道の都合良い一部区間だけを組み入れている様に見え、古道の道筋を辿っていると唐突に明瞭になったり消えそうになったりを反復し、安心して明瞭な部分を歩いているうち、すぐ作業踏跡に引き込まれてしまうのである。上アコウ沢近くの川上牧丘林道に出合うまで、ずっとその状態が続くのである。特に半鐘峠までの区間は道型や地形を上から俯瞰することが出来ない登りになるため、古道の判別が極度に難しく、道筋をほぼ特定するまで二往復半を要した。逆に下りであれば、廃道歩きに慣れた方なら、一回で道筋を見極められるかも知れない。
 この半鐘峠までの区間、登りでは道の消滅や植林踏跡に妨害されて経路判別が極めて難しく、歩き回ってようやく掴んだ道筋を分かっていたかのように記したものだ。前述の小屋裏手の小窪左岸を登り始めた道の痕跡は、一八〇〇米辺りで右岸尾根を回り込むように斜めに登り始め、湿った扇状地形で三本の微流の小窪を続け様に渡った。小窪を渡るごとに咲き始めのクリンソウが濃紅の可愛い花をつけていた。扇状地形では道の痕跡は断続的ですぐ見失ってしまうので、一定ペースの斜登を心がけた。一八三〇米辺りで次の小尾根を絡むように登って回り込む辺り、一度踏跡がややはっきりしたので植林作業道に組み込まれたのであろう。カラマツ植林下の低いササを行くようになり、一八三五米付近で涸窪を通過すると踏跡は離れていき、微かな古道の道型を追うようになったが、しばらくしてまた植林踏跡が合流してきた。一八六〇米付近でまた小尾根を絡みつつ回り込み、小さなササの直線状の踏跡を辿ると、肩状地形で大尾根に乗り上げた。ここが半鐘峠(一八八六米)である。なだらかな斜面に大中様々な岩が数十はあっただろうか、付近には小丘も多数ある何とも複雑な地形である。名のある峠なので周囲を調べるも、祠等の人為的な異物は見つからなかった。物証なくして何を根拠に半鐘峠と判断したかだが、地元の古老から位置を聞き取った原全教が、「桜の小屋場から登った径が大きく回りかけるところ、地図の地類界の細点線あたり」と明記している[12]。またかつては道者が御室への合図に用いる半鐘(小型の鐘)が置かれていたとの言い伝えからしても[12]、この近辺で鐘声が御室に直接届くのはここだけだからである。かなり広い肩状地形なので、二、三の作業踏跡ここを越えていたが、最も有力なものを採って先へ進んだ。
 半鐘峠までは旧版地形図どおりであったが、ここから上アコウ沢までは旧版図の地形描写が大きく間違っているため、道筋は全く一致しなかった。間違っているというより、高さ数米の単位で不規則かつ微細に凹凸した奇妙な地形を地形図が捉えきれていないのである。最新版の二万五千図でも、等高線間隔が一〇米であるため、実際の地形が正確に表現できておらず、地形を把握するには五米メッシュの基盤地図情報により一米の等高線間隔で作図した地形図を参照したい。半鐘峠から道はほぼ水平になって、カラマツ植林と天然らしいツガの混交林を行くようになった。一九〇四米肩状の直前で曖昧になるが、登らず水平に回り込む踏跡が正しいようだ。多少頼りない踏跡だが、湿地帯のような緩い地形を詰めて、一九二〇米前後の台地上部を乗越すように、何とか続いてた。多数の小窪が入り組み、その多くに意外にも水流があり、緑輪状をしたミヤマバイケイソウの若草が群生ししていた。この辺り、基盤地図情報図を参照しないと、どこに居るか分からないほどの迷宮である。湿地帯のように平らな下アコウ沢の源流の一つを渡り、次の小尾根に取り付いた。植林カラマツとツガの混交林であり、カラマツの下層が苔蒸していて変な感じである。この辺りの踏跡が明瞭なのは、植林時代に作業道であったためであろう。明瞭ではないが確実に続く細い踏跡は、一九二〇米付近で湿地状に広がり幾つかの小さな支窪を合わせる下アコウ沢の本流を横切った。この辺りもミヤマバイケイソウの天下である。
 段丘崖状の右岸を、バラけた踏跡が騙し騙し水平に取り付いていた。激しい倒木帯を乗り越え、続いて下アコウ沢の大きな右岸支沢を渡った。やはり右岸が段丘崖状になっていて、登って行く踏跡が見えたが植林地に向かうものと思われた。探すとやはり水平な痕跡が見つかった。シラベの美林を見ながら緩く登り、次の小尾根の一九二六米付近の倒木帯を回った。やや下って小沢を渡ると、道は小沢の右岸を下り始めた。急斜面をバラけた不鮮明な踏跡が並行して、それらを拾いながら下ると下方に川上牧丘林道が見えてきた。次の緩い窪状はカラマツとシラベの植林地で急に古道が不明になり、あらぬ方角へ向かう植林踏跡が取って代わった。目前に近づいた車道の一八八五米付近には不自然に広い駐車帯があり、かつて土場でもあったのだろうか。古道が上アコウ沢の一八八五米屈曲点付近を通ることが分かっているので、そのためには土場跡らしき駐車帯めがけて下る必要があり、緩やかな斜面をわずかに下って車道を横断した。

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上アコウ沢~御室小屋跡(出典:国土地理院 基盤地図情報5m標高)

 

 首尾よく車道から下る明瞭な踏跡を発見するも、真っ直ぐ上アコウ沢へ下る作業踏跡のようだった。下り始めてすぐ右に分かれ、トラバース気味に下る弱い踏跡があるので入ると、急斜面を斜めに下って、上アコウ沢がちょうどくの字に曲がる地点にピッタリ下り着いた。沢近くでは削れて道は不明瞭だったが、右岸に渡るとすぐに最低鞍部の高さが僅か五、六米の右岸の細い尾根を隔てて荒川左岸の崖が迫っているという、特異的な地形になっていた。古道はそこを越しているのである[15,26]。また荒川沿いの軌道ができる前は、軌道がアコウ沢沿いに伸びていたので、当時金峰山へは、ここまで軌道を歩いてきて古道に入り、最低鞍部を越して荒川へと向かっていた。その様子は、原の解説や小野の略図で知ることができる[15,17]。すなわちここからは、当時の案内書に基づき道を推測することができる。
 乗越の先、下り出しからいきなり不明瞭になったが、二つの黄テープを発見した。下り気味の悪路はすぐ不明になり、道の雰囲気を感じた部分を進路に取って進んだ。旧版地形図にも示されているが、原が「石楠横手」としたように[10,12]、古道はしばらく等高線に沿って行くはずである。薄く断続的な踏跡を拾いながら水平に進んで見ると、少しずつ高度を上げてきた軌道敷が次第に接近して平行するようになった。最低鞍部から二百米ほどでガレが現れ、下捲きで通過した。このとき最接近した軌道へ微かな踏跡は下っていて、よく見ると最低鞍部で見たのと同じ黄テーブの落下したものが見られた。微かな踏跡は、車道から軌道跡への短絡路だったということだ。アコウ平道より五分、十分早いかもしれないが、さほどメリットは無いように思われた。これまでの踏跡が軌道へと去ってしまったので道の痕跡はあるかなしかになった。軌道直上の急傾斜を微かな痕跡で辿る辛く無意味な作業を二百数十米も続けると、岩壁に突き当たり前進不能となつた。今から荒川へと下る訳であり、また以前岩稜上の小尾根を歩いたとき捲道の痕跡が見られなかったので、この岩場は下を捲くはずである。そこで岩稜直前の小窪を目と鼻の先の軌道跡へと下った。ここが軌道跡横断点(約一八四五米)で、軌道跡上の荒川下降路が分岐点まで百米弱の地点である。

 

⌚ฺ  桜沢小屋跡-(20分)-半鐘峠-(25分)-下アコウ沢-(30分)-車道横断点-(5分)-上アコウ沢-(20分)-軌道跡横断点 [2021.6.12]

 

● 軌道跡横断点~刈合平

 軌道跡はこの小窪付近の崩落により通行不能になっており、本来の道床の数米下を行く危なげな踏跡で捲いていたが、東口参道は当然軌道の経路とは関係ない。軌道跡の下方、トラバース気味に下る多数の痕跡の一つが参道の痕跡と考えられる。古道跡ではしょっちゅう起こることだが、道が不明瞭になってきた結果、後の通行者がそれぞれのルートで通るため、幾つかの踏跡が明滅しながら並走するパターンである。どれもそれなりに歩きやすかったが、比較的しっかりした一つの踏跡を辿ってみた。踏跡は露岩帯の岩のない部分を縫って続き、すぐにザレた崩壊小窪を通過していた。渡れなくもないが、わざわざ危険を冒す必要はないので高捲いた。対岸の踏跡はバラけて複数の痕跡となりるも、真っ直ぐトラバースを続けるものを採った。二分も行くと、アコウ平から軌道跡を経て小尾根に絡んで電光型に下ってくる現在の登山道に吸収された。なお軌道跡横断点から、道床崩壊部を下捲きしつつ軌道跡を進めば、二分で軌道跡を上流側から進んでくる現在の登山道に出合い、道標に従い小尾根を下降してもここに来る。登山道が現れてしまうと東口参道の道筋は全く判然としなくなるため、ここからは登山道を辿った。さらに二分下ると荒川渡河点である。
 訪問日時点で橋はなかったがバランス保持用のトラロープが張ってあり、石や流木を繋いで何とか右岸に渡った。広い敷地は伐採当時の土場か宿舎跡と思われ、大昭和製紙の作業小屋(通称遠藤小屋)を初め、幾つかの小屋があったという。古い文献では付近に荒川不動尊の石像があったというが[4,27]、見つけていない。数十米下流に御室川の出合があるが、その付近の左岸がその位置であるらしい。
 道はすぐ御室川の左岸を行くようになった。かつて川の流路だった部分を通ったり、山腹をトラバースしたり、道は変幻自在に通じていた。川幅が広く永年の間に流路を幾度も変えているのであろうか、水量のない部分にも谷的な地形があったり、なかなか複雑でどこに川があるか見渡しただけでは分からなかった。突然、伏流した御室川の白い河原に飛び出したところに、小さな道標がくくりつけてあった。この付近の現在の登山道は涸れた河原を道として使っているため、下って来た時、真っ直ぐ河原を黒平へ下る道を離れる塩山への道を見逃さないためである。刈合平は、河原を渡って右岸の茂みに入り、約三十米行った地点である。河原同様に白い石が多い明るく開けた場所で、その端の方から金峰山の五丈岩がよく見える。ここを通って登る表参道は、ちょっと見ただけでは道と気づかないほど曖昧になっていた。

 

⌚ฺ  軌道跡横断点-(10分)-荒川渡河点-(20分)-刈合平 [2021.6.12, 2021.9.16]

 

[25]多摩雪雄「朝日峠・大ダルミ・シラベ峠」(『新ハイキング』二三七号、八〇~八五頁)、昭和五十年。

[26]陸地測量部『五万分一地形図 金峯山』(明治四十三年測量)、大正二年。
[27]小野幸「金峰山御室小屋について」(『山と渓谷』四九号、六二~六六頁)、昭和十三年。

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桜沢へ下る植林地は道がない
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カラマツの間伐と堰堤とで歩き難い
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新道の桜沢橋ができて静かな旧道付近
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桜沢小屋跡
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地形図で見えない小窪に取り付く
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左岸に微かな道の痕跡が見えた
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笹原をトラバースして多くの小窪を渡る
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笹原と作業道に紛れた古道の難しい見分け
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半鐘峠を越える極細の踏跡
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カラマツ植林の見失いそうな小さな踏跡
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小尾根と小窪が入り組む複雑な地形を行く
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1920mの台地状を越える
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苔むしたカラマツ植林を下る
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下アコウ沢左股を渡る
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山ひだを丁寧に巻く道の痕跡
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下アコウ沢の右岸支沢
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右岸支沢の崖状になった右岸の荒廃部分
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シラベの美林を登る小道
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一九二六米で倒木帯の小尾根を回る
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小沢の右岸沿いにあやふやな道型が下る
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カラマツ植林で道が消えるが車道が目前
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右側が広く前方にミラー地点で車道を渡る
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上アコウ沢へカラマツ植林の痕跡を下る
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渡沢点で対岸の異常に低い乗越を望む
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上アコウ・荒川間の乗越
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黄テープの不明瞭な踏跡
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軌道跡が眼下に見え出し並走する
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軌道跡を横断し露岩の間を斜めに下る
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ザレた小窪は高捲いてい通過が無難
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斜めにトラバースして下る参道らしい痕跡