金峰山東口参道(杣口~御室小屋) page 3 【廃径】
● 柳平~楢平
明るく開けた柳平を、小学校の分校、金峰山荘を見ながら一直線に森林軌道跡の車道を辿って登った。八~九パーセントの勾配は徒歩でも楽ではなく、軌道時代は行きの空車時は馬一頭に台車一台を牽かせてやっとのことで登り、下りは滑りやすい雨の日はブレーキが効かず危険で走れなかったという[6]。この伐木搬出用の森林軌道は、乙女鉱山の設備増強に伴う資材や食料搬入にも利用され、昭和三十六年に焼山峠、柳平、六本楢峠経由で鉱山までの車道が開通するまで使われた[20-22]。柳平を抜けるところに川上牧丘林道のゲートがあり、これを過ぎると琴川の両岸が急に狭まり、急速に谷底が上がって左岸の崖上を行く車道に追いついてきた。車道と河原とに大した高度差がなくなると、左の河原の下る小さい踏跡があった。これが東口参道である。もし行き過ぎたとしても、数十米先の右側に千貫岩という筍のような形をした巨大な奇岩があるので、その案内板を見て気づくであろう。河原近くの踏跡は曖昧に分散しているが、渡渉して壁状の左岸に取り付くと明瞭になった。高さ二〇米分の登りで右岸尾根に立つので、そのまま尾根を乗越して宿屋に向かう踏跡を離れ、カラマツ植林を登る参道の尾根道に入った。伐採の影響で当初は不鮮明だったが、次第に古道らしく抉れた明瞭な道になり、幾度となく小刻みに折り返して急速に高度を上げた。八十八曲と呼ばれる所以である。振り返り見る琴川ダムがどんどん低くなっていった。
一六五五米付近の尾根が緩む辺りで、川上牧丘林道を横断した。南に出る支尾根をヘアピンカーブで回るカーブミラーの地点である。車道横断後の参道は、付近の尾根幅が狭いため、回り込むように両側を通る車道の法面に削られがちだった。横断後すぐ、右側の法面で約十米の長さがスッパリ削られ崖になっていた。百米余り先で今度は左側の法面のため道が消えていた。だが痩せ尾根というほどでもないので、何れも十分回避できた。左に沿う車道が次第に遠ざかると、登ってきた支尾根が琴川・荒川分水尾根に吸収される。この辺りが楢平(約一六九五米)であろう。原全教が通った頃はミズナラの美林だったこの付近は、人工林の不成績な生育状況と近隣の伐採年次から見て、昭和二十年代もしくは三十年代前半に伐採されたものと思われ[23,24]、上層がカラマツ、下層がササの人工林になっている。高原上のこの地点は、尾根幅があまりに広く、また凹凸の多い複雑な地形のため、とても二つの大きな河川の分水尾根には見えない。腰から胸の広大な笹原で参道の踏跡はプツッと途切れてしまった。藪漕ぎ登高なら何の問題もないが、古道の道筋を追う目的なので道が消えると困ったことになる。何度も何度もしつこく探し回り、何とかかつて道があったであろう雰囲気の微妙に笹の勢いが弱い一つの経路を見つけ出した。痩せ気味だった尾根が急に広がる一六八五米付近から右前方の緩やかな小峰(一七〇四米)の荒川側を登らず捲くように進んでから分水尾根に乗るルートであり、約百米の間、道がほぼ消えていた。
⌚ฺ 柳平-(15分)-琴川渡河点-(20分)-一六五五米付近車道横断点-(10分)-楢平 [2021.2.23、2021.3.15]
● 楢平~石祠峠
ようやく見え始めた、幾つにも分枝する微かな踏跡は、古道らしく踏まれた様子が見られないので植林時の作業道である可能性が高い。しかし他に頼る術がないので、できるだけ尾根筋に沿うよう、それらの踏跡を繋いで登った。一七一〇米辺りから次第に尾根らしい形状になってきた。左から倉沢北沢の右俣が食い込んでくる一七一七米付近で、笹に埋もれて歩きにくい溝状の古道らしい道型が一時現れるも、数十米続いたあとすぐ消えてしまった。このことから、古道の大部分が伐採と植林により消えてしまったことが示唆された。再び植林作業のものらしき弱い踏跡となったが、尾根に絡んで何とか続いていた。一七二五米付近で、川上牧丘林道から分岐してきた未舗装の鶏冠山西林道を横切った。その地点で分かれる造林当時の支線廃車道が目についたが、恐らく参道は右寄りの窪状を登っていたと推測される。ヤブや倒木で激しく荒れている上、窪んだ古道の残骸らしきが分裂と融合を繰り返しながら幾筋か登っていた。荒川へ落ちる支尾根が主尾根に見える付近の地形は紛らわしく、この辺りの分水尾根はほとんど消えたも同然である。一七五〇米付近で広く大きな支尾根の上に出ると、剣ノ峰に向かって登り出し、その尾根はいつの間にか分水尾根となった。あるかなしかの笹の踏跡は、ただの歩いた程度の曖昧さになってしまい、尾根道なので大きく道を外す心配はないこともあり、感覚頼みで低い笹原を登った。一七八〇米付近で、回り込んできた鶏冠山西林道をまた横切った。この地点で分岐する作業用の廃車道が尾根に絡んで登るようになったので、否応なしにその上を歩かされた。その廃車道は一八〇五米小丘で終わり、若干下った約一八〇〇米にモミの原生林が残った猫の額ほどの平があった。伐採後のカラマツ二次林中の小さなオアシスだった。
相変わらず半分消えかかった低い笹の踏跡は尾根に絡んで登り、一八二五米付近で山腹の傾斜が緩くなると、何となく左に捲き始める雰囲気が感じられた。踏跡自体が不明瞭なため、あくまでも感覚的なものである。ふと左を見ると、倉沢北沢の左俣を挟んで向こうに見える剣ノ峰南西尾根のほぼ同じ高さの位置に小さなクビレが認められた。直感的に、「ああ、あそこが湯ノ花峠で、あれを越えるのだな」と感じた。この地点で琴川・荒川分水尾根を離れ、トラバースを開始した。地形的に歩きやすい部分があるも道や踏跡はなく、だが雪の上の動物の足跡や微妙に踏まれた感触から水平に進んだ。作業車道が窪沿いに付いた倉沢北沢左俣の涸窪を渡ると、傾斜のきつい植林地に幾つか作業踏跡が見つかったので、適当に繋いで剣ノ峰南西尾根の湯ノ花峠と思しき位置にちょうど出た。山腹を回り込んできた鶏冠山西林道が目の前へ登ってきていた。三度目の出合いである。ちょうどそこから支線林道が剣ノ峰の方向に分かれていた。この尾根には僅かに自然林が残っていて、尾根を登ってきた踏跡があった。前方のやや高い位置に見える石祠峠までは鶏冠山西林道が通じているので、必然的にそれを歩くことになった。僅かな車道歩きで、一八九一米の石祠峠に到着した。峠の名の起こりである石祠は、西側に高さ一〇米ほど登った山腹の自然木の根元の岩の上に鎮座する小さな祠であった。文化八年に地元の西保村民により奉納されたものとされ、側面に「文化」の文字が読み取れた。脇には、二〇〇三年の牧丘町教育委員会の調査で設置された小さなプレートが取り付けられていた。峠付近は伐採されて広々しており、前方へ続く鶏冠山西林道から、左右両方向へ作業林道が分かれていた。石祠のはただふらっと峠に来ても分からない位置にあり、原全教の著述をよく読まずに来たので、かなり探し回る羽目になった。訪問当日、峠は一面の積雪に被われていたので、もしかすると無雪期であれば石祠への踏跡が見えたのかも知れない。
⌚ฺ 楢平-(1時間5分)-湯ノ花峠推定地点-(10分)-石祠峠 [2021.3.15]
[20]角田謙朗・飯野秀人「乙女鉱床の開発史(Ⅱ)」(『山梨大学教育人間科学部紀要』一四号、九八~一〇九頁)、平成二十五年。
[21]角田謙朗・飯野秀人「乙女鉱床の開発史(Ⅲ)」(『山梨大学教育人間科学部紀要』一四号、一一〇~一二三頁)、平成二十五年。
[22]山口源吾「関東山地における高距縁辺集落」(『歴史地理学紀要』一〇号、一九一~二一八頁)、昭和四十三年。
[23]遼藤昭「根株腐坊と立地(1) 天然生コメツガ林の根株腐朽と土壌の性質」(『山梨県林業試験場報告』九号、二八~三五頁)、昭和三十五年。
[24]青垣山の会『山梨県県有林造林:その背景と記録』、平成二十四年、「拡大造林との出会い」五四~五五、「奥千丈事業地の森林整備の方向」六一~六二頁。